(1)君津市八重原地区の歴史について(君津市) 古代、周准郡の役所は、従来地名の「郡(こおり)」から、君津市郡にあったと考えられてきた。ところが、郡付近をいくら調査してもそれらしい遺物が出てこないことから、現在は、九十九坊廃寺跡や4世紀中ごろの古墳と考えられる道祖神裏古墳(前方後方墳)などがある八重原地区に、郡役所があったのではないかと指摘されるようになったらしい。 郡役所がどこにあったかは、今後の学術的な調査を待つしかないが、それにしても、九十九坊は郡司クラスの豪族によって、7世紀末の白鳳時代に建立され、平安時代頃まで存続していたらしい。奈良時代の国分寺、国分尼寺に先立つこと数十年も前に、当地に仏教文化が本格的に流入していたことを思うと、感動すらおぼえる。 九十九坊廃寺 道祖神裏古墳 そういえば、縄文時代の石器作りの跡が発見された練木遺跡、貝塚(『君津地方の歴史 PartV』参照)、平安時代の水田跡や中世から近世にかけての屋敷跡が確認された三直中郷遺跡、中世城郭である三直城跡(『君津市の歴史』参照)も九十九坊廃寺や道祖神裏古墳の近くである。なお、三直中郷遺跡は、現在の館山自動車道君津インターのある場所である。 ところで、道祖神裏古墳の「道祖神」とは、「地域に残る頼朝伝説について」でも紹介しているが、古墳の下にある塞神社のことである。「道祖神」は「塞の神」(「塞」は「さえ」あるいは「さい」と読む)とも言い、一般的に村はずれにあって外から悪霊が入ってくるのを防いだり、旅人を守る役割をしている。また、安産と子供を守る神であったり、場所によっては五穀豊穣を祈る神であったりする。さらに、「道祖神」は、「天宇受売神(あめのうずめのかみ)」と「猿田彦神(さるたひこのかみ)」であるとも、「伊邪那岐神(いざなぎのかみ)」と「伊邪那美神(いざなみのかみ)」だとも言われている。どちらにしても、男女の仲むつまじい2神であることから、2人の脇を通り抜けようとする悪霊は、「邪魔するな」と突き飛ばされてしまうという。安産や子宝の神、ひいては子供の守り神となるのも理解できる。この点で、『久留里歴史散歩』の「浅間山にて」で紹介している「姥神様」は、「道祖神」の変形だとも言われるようだ。さらに、「道祖神」は、猿田彦神との関係で、庚申信仰とも関係があるようだ。なお、道祖神裏古墳は、県の指定史跡となっている。 (2)弁天山古墳について(富津市) 富津市の中央公民館の脇に、国の指定史跡である弁天山古墳(前方後円墳)がある。現在は、形状は鉄道建設などのためにカギアナの形は崩れているが、昭和54年に古墳表面はきれいに整備されている。小糸川河口付近の内裏塚古墳の次代の首長墓とされ、石室が特殊な構造であったことから国指定史跡にされているようだ。 さて、この弁天山古墳であるが、かっては大貫小学校の敷地にあり、校庭の一部だった。子どもたちは、貴重な遺跡であることとはつゆ知らず、斜面を利用してはすべり、石室ではかくれんぼ、石室をおおう木々にロープをかけてターザンごっこ等々、いい遊び場として活用していたのだ。今は、子どもたちに、もっとらしく古墳の由来などを言い聞かせているのだが。 弁天山古墳 弁天山古墳石室 小学校時代に知らなかったことは他にもあった。弁天山古墳は小久保川流域にあるのだが、その小久保川流域には、古墳時代末期の横穴墳が数多く分布している。子どものころは、「原始人の住家か防空壕なのかな」程度の認識でしかなかったのである。富津市小久保字岩井作にある岩井作横穴群の3号横穴や、富津市絹にある絹横穴群(岩瀬川流域)の1号、10号横穴には、壁面に文字が彫られていた事実など知る由もなかった。 右下の写真は、「木」の文字が彫られていた絹の10号横穴である。最近になって(平成18年末)、左下の写真のように、山の木々が切られ遠くからも横穴が眺められるようになったので、久しぶりに見学に行って撮影したものである。写真を見てわかるように、はっきりと「木」と読める。果たして古墳時代のものだろうか。1号横穴には。「許世」「古世」「大同元年」と彫られているというが、残念ながら筆者には確認できなかった。 絹横穴墳 横穴に彫られた文字 (3)地域に残る頼朝伝説について 木更津市の畑沢にある浅間神社に、頼朝が寄進した仏像があったという。伝承によると、頼朝が北上して下総に向かう途中、木更津市畑沢にある浅間神社に武運長久を祈願したと伝えられているが、その後、平家を破り鎌倉に開幕した際に、お礼の意味で建久9年(1198)にこの仏像(観世音菩薩)を浅間神社に寄進したものだという。この仏像、確か『木更津市史』の写真で見た記憶はあるが、実物はどうも行方不明らしいといううわさを聞いたが、事実はどうであろうか。 浅間神社鳥居 地名伝説を伝える橋の欄干 白旗八幡神社 そもそも畑沢の地名自体が頼朝がらみなのだという。それは、この地の農漁民たちが頼朝を歓迎し、畑沢川畔の竹林で竿をつくり一旗をたててこれを援助したということから、この地名が起こったというのである。現に畑沢地区を東西に流れる畑沢川中流の小字「袋下」という所に竹林がしげり、榎の巨木の傍に八幡神社の祠があって、これが竹林の跡といわれている。この八幡神社を白旗八幡といい、頼朝は竹を切った刀を浅間神社に奉納し、この地に旗竿という地名を与え、源氏の守護神を祭ったということだ。ちなみに、「袋下」という地名は、頼朝がここで具足を整えたことから名づけられたという。 白旗八幡に数年ぶりに行くと、建て替えられ、きれいに整備されていた。以前は、確か台風の後だったせいで、槙の巨木が倒れかかっていて、祠をつぶしそうだった。それでなくても、祠自身が今にも朽ちそうな状態だった。頼朝伝説にかかわる神社で、地元にとっては貴重な文化財なのにと、残念に思ったことを覚えている。 海中山善光寺 善光寺の鐘楼 木更津市永井作1−1−1は、木更津第三中学校である。その脇に善光寺という寺がある(左上の写真が本堂、右上の写真が鐘楼)。山号を海中山という。この山号がまた、頼朝伝説なのである。石橋山の合戦に敗れ房総に逃れてきた頼朝が、浦賀水道で、ある梵鐘の音を聞き、先祖や一族の冥福を祈った。その後、千葉氏を頼って房総半島を北上する途中、その梵鐘が善光寺のものだと聞いて参詣したことから、山号が海中山になったというのである。現在の鐘は戦後のものだそうだ。木更津市にはこの他に、八剣神社、草敷、請西、畳ヶ池、長須賀等に伝説が残っている(『木更津市史』)。 木更津のみならず富津市や君津市には、まだまだ多くの頼朝にかかわる伝説が存在する。「(1)君津市八重原地区の歴史について」でもふれた、道祖神裏古墳の「道祖神」は、古墳の隣りにある塞神社のことで、頼朝伝説のある神社なのである。頼朝が北上の途上、この神社でやはり武運長久を祈り、記念として松を植樹し、平家を滅ぼし幕府を開いた後に、「道祖神」と書いた額を奉納したとの言い伝えが残っている。この他に富津市では、高宕山の観音堂、吾妻神社、君津市では、久留里神社、八雲神社、人見神社などでは、武運長久を祈願したり、幣帛や刀を奉納したという伝説がある。 下の写真にある富津市上岩入の伝説とは、頼朝がこの地で食事をした後、使った箸を指したら、根がつき木として成長したという話だ。この手の伝説は,房総のあちらこちらにあるらしい。 塞神社 八雲神社 吾妻神社 頼朝伝説のある富津市上岩入の木 君津地方にはこの他に、「五十騎坂」「百騎坂」「百坂」「数馬」「神妻」「三百坂」「三百騎坂」「千騎坂」「万騎坂」などの地名があるが、それぞれの場所は、頼朝が通ったか、あるいは頼朝のもとへ房総各地から馳せ参ずる武士団の通ったルートではないかと考えられる。頼朝が実際に通過した道筋は確定できないが、こうしたルートにそって、さまざまな頼朝伝説が残ることになったと推察できるだろう。 つい最近(2017.10月)、『房総の頼朝伝説』(笹生 浩樹著 冬花社)という本を読んだ。そこには、これまで紹介してきた頼朝伝説以外の当地方に関わるものもあった。また、先にふれた「千騎坂」などの場所も図示されていた上に写真も掲載されていた。以下、『房総の頼朝伝説』を頼りに撮影してきた写真を紹介する。 「百坂」の写真は、富津市上岩入の百坂の入り口付近で撮影したものだ。山を越えて上地区に入りしばらく行くと江戸時代の道標があるT字路に出る(道標の写真は『富津市の歴史 PartX』「亀沢から上まで房総往還を歩く」を参照のこと)。そこを道標の「加のう山道」という案内に従って右に進むと上の「三百坂」入り口で、山を越えると君津市小山野へぬける。「千騎坂」は君津市大井から木更津市の草敷にぬける山道で、坂道を登り切ると木更津市に入りアカデミアパークとなる。 百坂(富津市上岩入) 三百坂(富津市上) 三百坂(君津市小山野) 千騎坂 今年(2017年)に国指定史跡となった、山野貝塚を見学に行ったついでに、袖ケ浦市川原井の万騎坂を撮影してきた(左下の写真)。写真の場所は、鎌倉街道を市原方面に向かって右折した場所である。この道を北上し鎌倉街道を左折すると、右下の御所覧塚が右手に見えてくる。伝説によれば、一万騎となった軍勢を閲兵するために、頼朝が造らせたものだという。塚の前の碑は「天羽田土地改良区 構造改善記念碑」で、頼朝伝説とは全く関係がないものだ。なお、万騎坂のことを地元では「万坂」と呼ぶそうだ。袖ケ浦市に残る鎌倉街道については、『君津地方の歴史 PartW』「袖ケ浦公園で思ったこと」を参照のこと。 万騎坂(袖ケ浦市川原井) 御所覧塚(市原市深城) (4)義民平左衛門と梅乃家(富津市) 『各地に残る義民伝説』でふれた義民岩野平左衛門の墓のある松翁院十夜寺は、館山道の竹岡ICへ入る交差点近くにある。道路は狭いが駐車場があるので、車で訪れても大丈夫だ。寺門をくぐってすぐ左側に地蔵菩薩立像ある。それが、岩野平左衛門の墓だ。村民の窮状を見かねて、領主に抗議し、逆に処刑された平左衛門は、岩平大権現として地元民に崇められたという。このできごとが事実であったかどうかは不明であるが、富津市域では、寛保2年(1742)に佐貫藩領で、天明5年(1785)に旗本白須氏支配の金谷村で、強訴あるいは門訴というかたちの百姓一揆が起こり、中心人物が遠島や追放の処分を受けている例がある。地元では、平左衛門同様、義民として語り継がれているのではないだろうか。調べてみる必要がありそうである。 ところでこの松翁院には、万治元年(1658)に作られた釈迦涅槃図が伝えられている。何でも下絵をかの有名な菱川師宣が描き、その父菱川吉左衛門が作ったものだという。毎年、釈迦の命日にあたる2月15日に、開帳されるらしい。 富津市竹岡 松翁院十夜寺 平左衛門の墓 松翁院の隣りに、テレビで有名になったラーメンの梅乃家がある。いつだったか、4チャンネルの「途中下車の旅」で紹介されているのを見たことがある。あの時のレポーターは確か”つのだひろ”だったと思う。せまい店内は、地元の人と観光客らしい人でいっぱいだった。さて、お味はというと、これは食べてからのお楽しみということにしておきましょう。それにしても、その時に、義民平左衛門や釈迦涅槃図についてもレポートしてくれれば、番組もまた違った味をだせたのにと思った。 (5)若宮八幡とおぼりと天狗の手形(富津市) 富津市小久保の上町区に若宮八幡がある。毎年7月の神明神社の例大祭の日には、ここから、上町区のおぼりが出発する。おぼりとは、約260cmの真竹2本を麻縄でしばり、中心にセイゴやタイなどの出世魚一対をつるしたもので、五穀豊穣や大漁、町内の安全を願って、担いだり、肩で押し合うものである。祭りというと、すぐ神輿を連想するが、おぼりは神輿と違って派手さはない。しかし、これはこれでなかなか面白いもので、おぼりは軽い分、どこに行くのかわからない暴れ方をする。神輿とはまた違った味わいがある。 さて、話は変わるが、この八幡様の境内に、天狗の手形といわれるものがある。一説によると、天狗のげんこつ石ともいうらしいが、私が記憶しているのは、「手形」である。ひょっとしたら天狗の「足跡」だったかもしれない。記憶はあてにならないものだ。昔と比べると、形があいまいになったような気がする。水滴等による浸食作用の偶然の結果であろうが、平らな石に紅葉のような穴があいている様子は、確かに不思議ではある。その不思議さが、神通力を持ち空を飛ぶという天狗と直につながって、言い伝えとなったのだろう。しかし、子どもの頃は、神社の裏から天狗が出てきそうな気配を、本当に感じていたものである。近くの磯根崎には天狗が住んでいたという伝説があるそうで、もっとよく調べると、まとまった昔話があるのかも知れない。 若宮八幡 天狗の手形 伝説は確かに存在した。それも、天狗の手形にまつわる話だ。地元でも実はあまり知られていない話である。中嶋清一著『富津市の民話と民謡』(金鈴文庫)にあった話を要約すると、以下の通りである。 その昔、若宮様に村の若い衆が集まり力くらべを行った。その後、そこで勝った若者と外からやってきた若者が力くらべをすることになった。村の若者は失敗し大怪我をしたが、外からやってきた若者は硬い大きな石にげんこつの跡をつけ、いつの間にか姿を消してしまう。忽然と姿を消した若者のことを、村人は天狗に違いないと言い、彼のつけたげんこつの跡がついた石を、天狗のげんこつ石と言うようになったというそうだ。 なお、若宮八幡は、平成12年版の上総・安房地区の『埋蔵文化財分布地図』によれば、古墳があることになっているが、意外と知られていない。おそらく、神社があることや私有地であることもあって、本格的な調査は行われていないのであろう。 ところで、八幡様を祀る神社は、神社本庁の統計によると、全国に14805社もあるという。名もない小さな神社(若宮八幡もそのうちの一つだろう)もカウントすると、なんと4万6百余社もあるという。全国に11万社あるという神社の中で、一番多いだろうと言われているとか。祭神は、応神天皇、神功皇后、比売大神の三神で、仲哀天皇や仁徳天皇を合わせることもあるようだ(詳しくは『畝源三郎のホームページ』の『能登の社・寺・祠』「八幡様について」をぜひご覧下さい。勉強になります)。 (6)小櫃川流域に熊野神社が多いのは?(君津市) 小櫃川流域には、熊野神社が多い。熊野神社とは、もちろん和歌山県にある熊野三山と深いかかわりがある。熊野三山とは、熊野坐神社(本宮)、熊野速玉大社(新宮)、熊野夫須美大社(那智)三社の総称で、平安前期、密教の修験者、修行僧の道場として聖地化された。その信仰は、院政時代から中世を通じ皇室、貴族をはじめ武士、庶民に普及し全国的に盛行した。 『小櫃川流域のかたりべ』によれば、天延元年(973)源頼光が上総国の国司に任命され、熊野三山を小櫃地区の箕輪に勧進し、小櫃川流域の地を熊野領に寄進した。その結果、小櫃川流域の村々に熊野神社の分社が建てられるようになったという。源頼光とは、武勇にすぐれた人物で、上総の大盗賊五郎丸を退治した話が伝わっている。家臣に足柄山の金時もいたという。また、藤原道長の土御門新邸造築の際に家具のいっさいを贈った人物で有名である。熊野神社の祭神は、イザナギノ命、イザナミノ命である。 源頼光が箕輪の熊野神社を勧進したという説について『君津市史』では、箕輪の『熊野神社縁起』によったもので、熊野三山が成立する以前のことだということで、その信憑性を疑っている。また、源頼光が上総国司になったのは、天延2年のことだとしている。しかし、現在、小櫃川流域には多くの熊野神社が存在していることは事実である。『吾妻鏡』文治2年(1186)の6月11日の条に、「上総国畦蒜庄は熊野別当が知行するなり」という記述があることから、おそくとも鎌倉時代の初めには、小櫃川中流域は熊野領であったことがわかる。時期はともかく、小櫃川流域が熊野領であったことから、小櫃川流域には多くの熊野神社が建立されたのである。 なお、熊野地方には、良質の船材と良港に恵まれ、早くから水軍が発達し、源平の合戦では、源氏方の水軍の中心勢力であったというから、源氏とのつながりは深かったようである。 川谷熊野神社 川谷熊野神社社殿 写真にある久留里地区川谷の熊野神社社殿の前には、2個のまるい石が鎮座している。2個とも直径50cmぐらいの楕円形をしている石であった。宮司さんに話を聞くと力石であるという。特に伝説等は残っていないとのことであるが、きっと何かいわくがあるのではないかと密かに思っているのだが、今後、調査が必要である。そういえば、相撲の48手の基本を定め、初代横綱となった明石志賀之助は、市場町出身だという伝説がある。 (7)杉木良太郎のこと(君津地方の戊辰戦争) 久留里の真勝寺に、法号に『勇猛院』と刻まれている、杉木良太郎の墓がある。彼は悲劇の人物である。時は慶応4年(1868)4月、江戸を脱出し真里谷に駐屯していた福田撤兵隊の要請に対して、久留里藩では一時藩論が佐幕に傾いた。しかし、官軍が小櫃地区の山本に迫り撤兵隊が逃走したことから、久留里藩も官軍に帰順することになった。杉木良太郎はこの決定に憤慨し、単身で官軍に斬り込もうとした。それを知った父良蔵が、藩を守るために泣く泣く息子良太郎を斬ることになってしまったのである。『小櫃村誌』には、古老から聞いた話として、杉木良太郎は、すでに久留里に駐屯していた官軍の一兵卒が「久留里の腰抜侍」と言ったのを耳にして怒り、家に刀を取りに帰ったとあったのだが。 杉木良太郎の墓 君津地方で戊辰戦争と言えば、最も有名なのは請西藩主林忠崇であろう。遊撃隊人見勝太郎、伊庭八郎の呼びかけに応え、徳川家を守るために藩主自ら脱藩して、富津陣屋を襲い武器、軍資金、食料を確保し、また、佐貫藩からも資金と若干の武器を調達し館山に向かった。以後、箱根、平、会津、米沢、仙台と転戦したが、明治元年(1868)10月3日に降伏している。請西藩はこの結果全国で唯一廃藩になっている。林忠崇の生涯について知りたい方は、『脱藩大名の戊辰戦争』(中村彰彦著 中公新書)をお読みいただきたい。請西藩については、『君津地方の歴史 PartX』「請西藩について」参照のこと。 請西藩以外の諸藩は新政府軍に帰順したため、戊辰戦争に関係した大きな戦闘は、君津地方ではなかった。しかし、杉木親子のような悲劇はいくつか存在する。松丘や亀山、久留里地区の向郷も領地としていた前橋藩は、この時富津台場の守備についていたが、幕府脱走兵や請西藩に協力せざるを得ない状況になり、家老の小河原左宮が切腹、また、後に藩主への追及をのがれるために、一切の責任をかぶり白井宣左衛門が切腹をしている。左下の写真は、「富津陣屋跡」の碑(右)・「白井宣左衛門自刃之地」の碑(中)・「小河原左宮自刃之地」の碑(左)である。富津市富津の仲区公民館の隣の児童公園脇の道路を、左に50mほど入った茂みの中にあった。残念ながら銘などは彫られていなかったので、いつ建てられたかは不明である。前橋藩同様に、勝山藩でも2名が切腹している(右下の写真が、佐貫勝骼宸ノある勝山藩士の墓)。 富津陣屋跡の碑 勝山藩士の墓 実は上記の富津陣屋跡の碑を探し当てるのは大変だった。何度も出かけてみたのだが、茂みの奥にあって「発見」できなかったからだ。見つけた時は、思わず「あった!」と叫んでしまったほどだ。2014年3月、久しぶりにそこを訪ねてみると、なんとそこには、2013年5月31日付けで富津市教育委員会によって案内板が建てられていた。下草もきれいに刈り込まれていた。ただ、そこまで行くには細い路地のような道路を行かなければならないので、途中の道案内も必要だと思ったが、車で行ったので途中に道案内の表示があったのかまでは確認できなかった。以下、富津陣屋跡にあった案内板の内容を紹介する。 富津陣屋跡 富津陣屋は当初、旗本小笠原氏の居所として天正18年(1590)に建設されたが、その後旗本の江戸常住に伴って廃止となった。 江戸後期に至り、文化7年(1810)に白河藩主松平定信が幕府から江戸湾の房総沿岸防備を命じられると、文政5年(1822)館山波佐間から陣屋が移設され、新たな富津陣屋ができた。以後富津村の領主は幕府代官、武蔵忍藩、陸奥会津藩、筑後柳河藩、陸奥二本松藩、上野前橋藩と引き継がれ、藩領内の行政や海防の拠点として、また駐留藩士の居所として使用された。現在陣屋の跡は宅地化されているが、平成9年(1997)に一部が発掘調査され、建物跡や白州跡とともに、大量の陶磁器類が検出されている。 幕末の慶応4年(1868)閏4月、旧幕府勢力の請西藩主林忠崇らが挙兵し、富津陣屋を包囲した。前橋藩では反乱軍に陣屋を明け渡し、兵士・武器・食料を与えた。その責任を負って家老の小河原左宮、陣屋総括者の白井宣左衛門は自刃した。同年10月前橋藩は上野へ領地替えとなり、富津陣屋は廃止、富津村は飯野藩領となった。 平成25年(2013)5月31日 富津市教育委員会 飯野藩でも、請西藩の協力要請にしたがって20人の藩士を参加させた責任をとって、次席家老の樋口盛秀、林軍に加わり箱根で戦った野間銀次郎(講談社初代社長野間清治の伯父にあたる)の2名が処分されている。樋口盛秀・野間銀治郎の墓は、富津市青木の浄信寺にあるというが筆者には確認できなかった。(左下の写真は浄信寺にある顕彰碑である)。 なお、飯野藩は会津藩と姻戚関係にあり、千葉周作門下で四天王と言われた飯野藩の剣術師範、森要蔵をはじめ28人の藩士が脱藩して会津藩に向かっている。森要蔵は、板垣退助率いる官軍と戦い、白河で息子とともに亡くなっている。 戊辰戦争と言えば、会津藩と飯野藩の関係で忘れてはならないことがある。それは、鶴ヶ城落城後、新政府から会津藩への伝達・命令はほとんどすべて飯野藩主保科正益を通して行われたこと、また、会津反逆の首謀者として家老萱野権兵衛が処刑されたのは、飯野藩の下屋敷であったという事実である。この両藩は、『富津市の歴史 PartX』「富津市と会津藩」でふれているが、飯野藩成立の事情から深い関係があったのである。 樋口と野間の碑 相場助右衛門の墓 佐貫藩では、幕府脱走兵を援助することに反対した、家老相場助右衛門が佐幕派の藩士に襲われ亡くなっている。その上相場家は、断絶、一家追放の処分となった。加害者の31人は何の咎もなかったという。このときの藩論は佐幕派が優勢で、幕府脱走兵を援助することでまとまっていたからだろう。翌月には官軍が佐貫に入り、佐貫藩は、富津陣屋襲撃に佐貫藩士が加わっていたこと、また、官軍が佐貫を攻撃するという情報で藩主以下家臣が城を抜け出し、周辺の寺院等に避難したことによって、官軍から処分を受けていることを考えると、何ともいえない悲劇である。相場助右衛門の亡骸は、家族の手で安楽寺に葬られた。右上の写真は、安楽寺にある相場助右衛門の墓と、その後ろに最近建てられた慰霊碑である。安楽寺入り口には、「隠れた勤皇家 佐貫藩家老 相場助右衛門」と題する立派な案内板が設置してある。そこには、「相場助右衛門は文武両道の達人と言われ文学は、大槻磐渓に学び武道は斉藤弥九郎の門下で神道無念流の免許皆伝であった。藩主阿部正身、正恒の二代に仕え特に正身の信任が厚かった。藩主正恒が大阪城御加番を命じられた時御用人の資格で随行し在阪中に天下の大勢を知った。藩主正恒は京都の情勢に通ずる助右衛門の意見を容れて尊皇に傾くが慶應四年四月二十八日佐貫城大手門にて佐幕派同志三十一名の襲撃をうけ悲運の最後を遂げた(後略)」とあった。 『小櫃村誌』には、「維新哀話三題」として、先にあげた杉木親子の話とともに、貫義隊の話が載っていた。福田撤兵隊が木更津方面から姿を消した頃、浅野作造と数人の侍が木更津にやってきて、貫義隊と名乗り官軍に降った飯野藩の守る祥雲寺を襲撃したり、佐貫城の城門を襲ったりした。潜伏先は横田村(現袖ヶ浦市横田)であったが、最後には差し向けられた川越藩の追っ手に取り囲まれ、首領の浅野作造は銃撃され死亡した。浅野の首は、木更津の吾妻神社にさらされた。地元の方によって、殺された場所とさらされた吾妻神社の近くに、墓が造られた(『君津地方の歴史PartU』「平等院にて」参照)。また、貫義隊が横田村にいた時に、官軍のスパイだとして、松丘地区の高水出身の仁呑喜平次が捕縛され殺されている。 『富津市史』には、貫義隊が祥雲寺や佐貫城を襲った時のもう一つの悲劇が載っていた。襲撃された時に祥雲寺には、請西藩領の管理のために飯野藩が駐屯していたが、17歳の少年剣士三宅茂之助をはじめ4名の死者を出している。佐貫城襲撃時には、先にふれた理由で城主以下家臣達は謹慎中で、取り締まりのために佐倉藩が佐貫城に在城していた。この襲撃によって、佐倉藩士2名が戦死、3名が負傷しているのである。戦死した小谷金十郎と三浦蔵司 2名の墓は、勝骼宸ノある(左下の写真)。 佐倉藩士の墓 招魂之碑(鹿野山) 最近(2017年9月)になって、『To KAZUSA』というサイトを閲覧して分かったことだが、前述の林軍に加わって切腹させられた勝山藩士2名の墓も勝骼宸ノあった(前掲)。同サイトによると、現在の勝骼宸フ前身である三宝寺に新政府軍の屯所が置かれていて、捕らえられた勝山藩士19名のうち、福井小左衛門と楯石作之丞という人物が首謀者として勝骼宸ナ切腹させられたという(慶応4年6月)。『To KAZUSA』というサイトで新たに判明したことがもう一つあった。それは、戊辰戦争で藩主に従って亡くなった請西藩士の冥福を祈るために、明治30年(1897)4月に、鹿野山で慰霊祭が行われ、招魂之碑(右上の写真)が建立されたというのである。地図で場所を確認して訪れてみた。招魂之碑の碑文は榎本武揚の書のようだ。 ところで、戊辰戦争と言えば、会津の白虎隊の悲劇はあまりにも有名である。筆者も白虎隊が自刃した飯盛山には、何度か訪れたことがある。なぜ、こんな話が突然出るのかと疑問に思う読者もいるだろうが、実は、飯盛山で自刃した隊士の一人石山虎之助は、富津市の竹ヶ岡で生まれたというのだ。その事実が、平凡社新書『白虎隊と会津武士道』(星亮一著)という本に紹介されていたのである。その後インターネットで検索すると、うかつなことに、意外とよく知られている話のようであった。もちろん富津市出身というわけではないが、現在の東京湾の沿岸防備に会津藩も動員されていて(会津藩士の墓が、富津市西川の正珊寺や、富津市竹岡の松翁院などにある)、虎之助は、竹ヶ岡砲台に配置されていた会津藩士井深数馬の二男として生まれ、後に同じく会津藩士の石山弥右衛門の養子とな った。嘉永5年(1852)ベリー来航の1年前に生まれ、飯盛山で自刃したのは17歳であった(前出の著書では、「嘉永6年に生まれた」とあったが、いろいろと調べてみると、どうも嘉永5年生まれが正しいようだ。他に、虎之助が生まれた地は「君津市」とあったが、「富津市」の誤りである)。当初、自刃した隊士は16名だったとされていて、石山虎之助はその数には数えられてはいなかったのだが、郷土史家の調査により自刃したことがわかり、17回目の法要の時から自刃した隊士に加えられたという(「幕末列伝・白虎隊」『幕末Web 世に棲む日々』より)。 下の写真は、2年前に会津を訪れた時に撮った鶴ヶ城と石山虎之助の写真である。右下の写真は、日新館で学ぶ白虎隊の少年たちの日常を人形を使って伝える展示だ。何枚か撮影した中に、石山虎之助がいたのである。 鶴ヶ城 石山虎之助 (8)久留里城あれこれ(君津市) 現在の久留里城天守閣は、昭和53年に再建された(久留里城址資料館は昭和54年開館)。初めて、この再建された久留里城を見学したのは、平成12年の2月である。その時の久留里城についての知識は、里見氏の居城であったという程度のものだった。したがって、近世の久留里城も城山の上にあり、殿様もそこにいたと思っていた。ところが、近世の久留里城は、初期の領主土屋氏が三代で絶えた後廃墟と化していたのである。 その後、寛保2年(1742)に入封した黒田直純が、5千両を幕府から拝領し久留里城を再建した。この時は、実際の殿様の居住地は城山の麓に移っていて、天守閣は久留里藩の象徴として建てられたようで、城としての機能はなかったと言ってよいだろう。考えてみれば、久留里城は山城である。戦国の世でこそその立地が生きるのだが、近世にあっては逆に不便なものとなったということだろう。 ところで、久留里城を別名雨城という。有名な話だが、一言。伝説上の久留里城は、平将門の三男、東少輔頼胤(とうのしょうゆうよりたね)が創建したと伝えられている。何でも、現在の久留里神社を参詣した折り、夢の中で「この地に城を建て、名前を久留里としなさい」というお告げがあったとかなかったとか。そして、久留里城建設時に3日に一度雨が降ることが21度に及んだことから、雨城と呼ぶようになったということだ。 伝説といえばもう一つ。真勝寺の東南の山を「うえんじょう」というそうだ。戦国時代初期の久留里城は、武田氏によってこの地に造られたと言われている。真勝寺の山門は、初期久留里城の城門であったというのだが。 (9)第二海軍航空廠の疎開について 昭和16年(1941)、第二海軍航空廠が岩根村に、昭和17年には、周西村と八重原村にまたがる八重原分工場が建設された。現在の南子安小学校や君津中学校は、第二海軍航空廠八重原分工場の敷地の一部であった。工場建設にともなう両村の合併については、『君津市の歴史PartU』「史料紹介」でふれているので参照されたい。また、空襲が激しくなって、佐貫地下工場が建設されたことは、『富津市の歴史』で紹介している。ここでは、『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠からみた軍国日本の膨張と崩壊』(山庸男著 うらべ書房)から、第二海軍航空廠の疎開先について紹介する。 昭和19年夏、本土空襲は避けられないものとなり、航空機工場の疎開が全国的に始まることになった。第二海軍航空廠でも、昭和19年末から疎開が始まっている。疎開先は、下記の一覧でわかるように、空き工場や倉庫、そして学校などであった。昭和19年2月に『決戦非常措置要綱』が策定され、それに基づき4月28日には、『決戦非常措置要綱ニ基ク学校工場化実施ニ関スル件』が出された。この中では特に、「女子ノ学校ニ付テハ可及的工場化ヲ促進スル様特ニ斡旋スルコト」と強調していることは、戦争の本質を象徴しているのではないだろうか。学校が疎開先に利用されたのは、国家の方針だったのである。そして、分散していた工場は、最終的に佐貫地下工場に集められることになるのである。 【学 校】 (袖ケ浦市) ・昭和国民学校 (木更津市) ・巌根国民学校 ・木更津高等女学校 ・木更津中学校 ・中郷国民学校 ・東清国民学校 ・波岡国民学校 (君津市) ・周西国民学校 ・貞元国民学校 ・八重原国民学校 ・中村国民学校 (富津市) ・青堀国民学校 ・大貫海浜学園 ・大貫第二国民学校 ・佐貫国民学校 【その他】 (木更津市) ・祇園、清川山中の横穴工場 ・請西祥雲禅寺付近の建物 (君津市) ・八重原工場内防空壕 ・坂田疎開工場 ・貞元澱粉工場 ・法巌寺 ・貞福寺 ・松本ピアノ工場 ・小糸タバコ集荷場 (富津市) ・カギサ醤油工場 ・青堀避病院 ・大貫駅前分院 ・佐貫二見旅館 ・JR佐貫トンネル付近の横穴 ・佐貫鋳物工場 ・佐貫山本醤油工場 多くの学校が軍需工場となったばかりでなく、子どもたちも様々な形で動員された。主として国民学校の高等科の児童は、工員の見習いとして作業に従事し、低学年の児童は、食糧増産のためにサツマイモを育てたり、小山野の地下工場から出た土砂を隠すために、土砂に芝生を植えるなどの作業にあったている。それぞれの疎開工場での作業の様子については、前掲書に作業にあたった方々の証言によって詳しく掲載されている。参照されたい。なお、八重原工場や小山野の地下工場近くの周南国民学校が工場の疎開先にならなかったのは、学校の講堂に、東京本所の中和国民学校の5年生男子が疎開していたからであるということも前掲書に記されていた。昭和19年8月から講堂での疎開生活が始まり、後に宮下の遍照寺や常代の華蔵院(現在の花厳院ではないかと思う)に移った。また、この中和国民学校の児童は、周南地区の他に、小糸地区の萬福寺、天南寺、長谷寺などにも疎開していた。このうち、長谷寺は、昭和20年2月25日の空襲で全焼している(『君津地方の空襲の記録』参照)。戦局の悪化とともに、そして、本土決戦のために、中和国民学校の児童は、岩手県西磐井郡中里村に再疎開している。『周南の歴史 PartV』「学童疎開と周南」に、疎開していた子供たちの様子や岩手に再疎開した方の体験談を載せているので、読んでみて下さい。 (10)君津市域の学童疎開 前項で参考にした『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠からみた軍国日本の膨張と崩壊』に、中和国民学校の5年生が疎開していたお寺の一つが常代の華蔵院とあったが、おそらく現在の花厳院のことだと思う。知り合いに疎開児童のことを聞くと、花厳院にいたと教えてくれたこと、また、気になって『君津市史』で調べると、「華厳院」とあったからである。『すなみふるさと誌 常代編』にも学童疎開のことが載っていたが、そこにも「華厳院」とあった。 本所区国民学校児童の疎開について調べてみると、疎開してきた児童は3年生以上で総計7,714人(引率してきた先生方などを含めると8,479人)、疎開先は千葉県全域にわたっていた。君津地方は、1,974人で一番多かった。以下、『君津市史』をもとに、君津市域に疎開してきた国民学校と疎開先をあげる。中和国民学校の6年生の疎開先は、後述する『東京都の学童疎開』により追加した。なお、引率の人数の中には、寮母として疎開児童の世話をしていた地元の方の数も入っている。また、( )内は、当時の地名である。 【中和国民学校】児童総計485人、引率46人 ・5年男子83人、引率8人 華厳院(周南村常代)-42人、遍照寺(周南村宮下)-41人 ・4年男子68人、引率6人 長谷寺(小糸村大野台)-31人 東田寺(秋元村西猪原)-37人 ※『東京都の学童疎開』には、長谷寺は「小糸村字大井戸」とあったが、実際の 所在地は「大野台」だったので、訂正した。なお、この長谷寺は今は存在してい ない。長谷寺の跡地の写真は『君津地方の空襲の記録』に、体験談とともに 掲載している。ぜひ、ご覧いただきたい。 ・4年女子51人、引率5人 自性院(秋元村西猪原) ・3年男女121人、引率12人 天南寺(小糸村鎌滝)-43人、高照院(同鎌滝)-41人、 東光寺(同大野台)-37人 ※天南寺の児童の一部が後に、大井戸の万福寺に移っている。この万福寺に は、長谷寺の児童も焼失後合流したらしい。ついでであるが、万福寺の本尊 「木造阿弥陀如来坐像」は市の指定文化財となっている。平安時代末期の作 らしい。 鎌滝 天南寺 鎌滝 高照院 大井戸 万福寺 ・6年男子81人、引率10人 環分教場(環村上後)-50人、千手院(環村寺尾)-31人 ※千手院も現在存在しない。 ・6年女子81人、引率5人 興源寺(環村東大和田)-81人 ※6年の疎開先については、『東京都の学童疎開』によって追加した。富津市の 疎開児童の様子については、『富津市の歴史PartV』「富津市と学童疎開」参 照のこと。 【横川国民学校】児童総計306人、引率28人 ・6年男子23人、引率3人 ・6年男子41人、引率3人 油屋旅館(富岡村根岸) 広部別宅(富岡村根岸) ※以上は『東京都の学童疎開』により追加。 ・6年女子42人、引率4人 薬王院(小櫃村西原) ・5年女子34人、引率3人 ・5年男子42人、引率4人 大島屋(久留里町市場) 万福寺(小櫃村戸崎) ・4年女子48人、引率5人 ・4年男子46人、引率4人 円如寺(久留里町小市部) 円覚寺(久留里町小市部) ・3年女子48人、引率4人 ・3年男子46人、引率4人 真勝寺(久留里町市場) 正源寺(久留里町市場) 久留里 円如寺 久留里 正源寺 【小梅国民学校】児童総計540人、引率55人 ・6年男子81人、引率10人 幸田寺(松丘村広岡)-40人、吉祥寺(同大戸見)-41人 ・6年女子84人、引率9人 蔵福寺(亀山村草川原)-45人、亀山旅館(同台田)-39人 ・5年男子59人、引率6人 泉瀧寺(亀山村滝原)-28人、明覚院(亀山村笹)-31人 ・4年男子56人、引率6人 宝蔵寺(松丘村平山)-28人、円盛院(亀山村蔵玉)-28人 ・4年女子75人、引率7人 織本旅館(亀山村折木沢) ・3年男子65人、5年女子59人、引率9人 岩田寺(松丘村大阪) ・3年男子29人、引率3人 公会堂(亀山村折木沢) ・3年女子61人、引率5人 川越旅館(松丘村大戸見)-27人、松本旅館(松丘村広岡)-34人 小梅国民学校の5年生男子が疎開していた亀山村滝原の泉瀧寺は、『君津地方の歴史 PartX』「亀山神社と滝と不動明王について」に写真を掲載している。また、4年生男子が疎開していた亀山村蔵玉の円盛院は『君津地方の力石』の「君津市の力石」で紹介している熊野神社の隣にあった。別の目的で訪れた場所だったが、数十年前に親元を離れ寂しい思いをしていた疎開児童のことを思うと何ともやりきれない思いがした。 君津地方には上記の3校の国民学校以外に、日進国民学校(児童96人、関係者10人)、言問国民学校(児童307人、関係者31人)が疎開していたという(『君津市史』)。なお、『雨城を望む学舎』(久留里小学校百周年記念誌)に、横川国民学校の疎開体験が確か掲載されていた記憶がある。日進国民学校と言問国民学校の疎開先については、現在調査中である。情報をお寄せ下さい。 日進国民学校は東京大空襲で焼失し、焼失をまぬがれた隣接する国民学校に合併されていることが、墨田区立緑小学校ホームページの「沿革」でわかった。さらに、言問国民学校の疎開先の一つは、現在の木更津市茅野(戦中は馬来田村)の曹洞宗の寺院善雄寺であったことが、インターネットの検索で判明した。再疎開先は、岩手県の正法寺である(現在の奥州市水沢地区)。ついでではあるが、言問国民学校の再疎開先である正法寺は、国の重要文化財に指定されるほどの由緒のある曹洞宗の寺院であったこともわかった。 学童疎開は本土空襲の危険が高まり、昭和19年3月に「一般疎開促進要項」が決定され、まず縁故疎開が始まった。同年6月には「帝都学童集団疎開実施要領」が制定され、8月から強制的に集団疎開が実施されたものである。学童疎開についてインターネットで検索すると数多くのサイトが存在していたが、『語り継ぐ学童疎開』(Web学童疎開を語り継ぐ会)というサイトが多角的に学童疎開の実態を扱っていて参考になった。そこで、日進国民学校と言問国民学校の疎開先について問い合わせたところ、資料をコピーして送っていただいた。ほんとうにありがとうございました。その資料でわかった疎開先は、以下の通りである。送っていただいた資料『東京都の学童疎開』一覧には、6年生の疎開先は削除を示す縦線が入っていた。多くの6年生が卒業や中学受験のために、疎開先から東京へ帰ったことを示すものだと考えられる。そして、東京大空襲に.....。疎開先に残った児童も数多くいた。帰った児童も、そして、残った児童も地獄を味わうことになったのである。 【日進国民学校】 ・妙泉寺(馬来田村真里谷)-3年男子33人、女子20人、5年男子22人、女子21人 引率10人 ・本所健康学園(千葉市登戸)-4年男子34人、4年女子25人 5年男子15人、5年女子19人 6年男子41人、6年女子30人、引率14人 【言問国民学校】 ・善雄寺(馬来田村茅野)-4年男子42人、4年女子20人、引率6人 ・藤本旅館(中川村横田)-3年男子34人、引率2人 ・善福寺(中川村横田)-3年女子28人、引率4人 ・光福寺(平岡村三箇)-5年女子42人、引率5人 ・延命寺(平岡村高谷)-5年男子42人、引率5人 ・徳蔵寺(鎌足村矢那)-6年男子55人、引率5人 ・栖安寺(鎌足村矢那)-6年女子44人、引率4人 君津地方に疎開していた国民学校は、これまでに紹介した5校であるが、それ以外に、東京都が国に先立って昭和19年に実験的に始めた「戦時疎開学園」が、竹岡村(現富津市竹岡 5月 豊島区)と富津町(現富津市富津 6月 杉並区)に設置されていたことも判明した。「戦時疎開学園」はそのまま国の施策に引き継がれたという。上記の日進国民学校の「健康学園」も「戦時疎開学園」で、昭和19年の4月から行われている。なお前にもふれたが、環村(現富津市上後)の疎開児童の体験談については、『富津市の歴史 PartV』「富津市と学童疎開」に掲載しているので、関心のある方は参照されたい。 さて、学童疎開について調べていくと、卒業期に帰京した6年生が東京大空襲の被害にあったり、沖縄の疎開船対馬丸がアメリカの潜水艦に沈められたり、東京を離れ疎開した児童たちが東北地方に再疎開させられたりと、戦争に引き込まれた子どもたちの苦難に満ちた体験と出会う。「疎開はいじめの温床」(『語り継ぐ学童疎開』「いじめ」)だったという、実に悲しい体験談も数多い。その中でも、戦後生まれの筆者にとって意外だったのは、東京都の集団疎開がすべて完了するのは、昭和24年の5月28日だったという事実であった。疎開児童たちの戦争は昭和20年8月以降も続いていたのだ。また、『周南の歴史 PartV』「周南と学童疎開」の体験談にもつながることだが、戦争によって両親を失ったいわゆる戦災孤児の何と多いことか。前掲のサイト『語り継ぐ学童疎開』の「学童疎開と戦災孤児」に、「1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で大きな被害を受けた東京下町では、浅草区富士国民学校で66名、深川区深川国民学校で60名、本所区中和国民学校で80名と、三校のみでも206名もの戦災孤児が出ている」との記述があった。なお、未だに、卒業のために東京へ帰り東京大空襲で被害にあった6年生や、戦災孤児となった児童の正確な数字はわからないままだという。墨田区横網の東京都慰霊堂には、今でも引き取り手のない遺骨が、105,400体も安置されていて、そのうち、名前もわからないものが約8万体もあるという(『あゝ三月十日』東京都慰霊協会発行冊子)。 学童疎開は、親に相当な経済的負担をかけていたことも驚きであった。非常時に、国策で行ったのだから、費用はかからないと思い込んでいたのだが、前出の『語り継ぐ学童疎開』「月10円では済まなかった親の負担!」に、「当時の所得水準は大工の1日当りの手間賃が3円90銭、巡査の初任給が45円、公務員の初任給が75円程度の時代であり、子ども一人につき月10円の支出はかなり負担であった」とあった。月10円の経費は、「帝都学童集団疎開実施要領」で定められていた親の経費負担である。その上に、後援会や父兄会等が組織されその会費も徴収されていたり、引率する教員に餞別を贈ったりして、実際は月10円では済まなかったようである。 また、全国疎開学童連絡協議会機関誌『かけはし』第33号には、疎開体験とともに、疎開を受け入れた側の岩手県水沢市(現奥州市水沢)の方の文章も掲載されていた。それによると、昭和20年4月から、盛岡市内4校の児童が集団疎開させられている(地方独自の学童集団疎開は、政府が禁止していたのだが)。5月には岩手県でも空襲に備えて、中小都市を中心に建物・人員疎開が進められている。東京大空襲と同じ日に盛岡市も襲われているからだ。東京から盛岡市に再疎開した児童たちは、何と再々疎開させられていたのである。戦争が終わった後も岩手県に残り、現在まで農業を続けてきた方もいるという。 「疎開」とは軍事用語で、「疎ら(まばら)に展開し敵を攻撃する」ことで、元々の意味には、「避難」という意味はなかったのだ。学童疎開というと、子供たちを空襲から避難させると思いがちであるが、国家の方針としては「帝都学童の戦闘配置」、つまり、戦争遂行のためにじゃまになる子供たちを首都から遠ざける措置だったのである。 なお、東京都慰霊堂とは、昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、その霊を祀る「震災記念堂」として横網町公園に建設された施設である。昭和23年(1948)からは、東京大空襲の身元不明の遺骨も納めるようになった。現在の東京都慰霊堂となったのは、昭和26年(1951)である。横網町公園は旧陸軍の被服廠跡地だったところで、当時は公園予定地として更地となっており、関東大震災の罹災者の避難場所になっていたのだが、周囲からの火が罹災者の家具等に燃え移り、犠牲者が約38,000人もでた場所である。 学童疎開を調べていて、東京都慰霊堂に1度は行ってみたいと思っていたが、やっと実現した。3月末の花冷えのする日曜日(平成22年)に、横網町公園を訪れてみた。午後に、「慰霊と平和への祈りの集い」が予定されていて、講堂内はその準備の関係者が行ったり来たりしていた。落ち着かない中で、震災と空襲の被害者に手を合わせた。隣の復興記念館には、空襲で焼けた日用雑貨品や当時の様子を描いた油絵、空襲被害を示す資料などが展示してあった。東京都慰霊堂は、山形県米沢市出身の建築家、伊東忠太の手によるものである。伊東忠太は、建築界で初の文化勲章受章者で、明治神宮や築地本願寺などを手がけている建築家である。生まれた年が、江戸時代最後の年、慶応3年(1867)である。 横網町公園 東京都慰霊堂 復興記念館 東京スカイツリー 右上の写真は、墨田区亀沢から見えた東京スカイツリーである。現在は、300mを越えているということだ。横網町公園から建設中のスカイツリーの頭だけ見えたので、全体が見える場所はないかと、錦糸町方面に歩いて撮った写真だ。 |
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