君 津 市 の 歴 史


(1)大友皇子伝説について
 君津市の小櫃地区には、壬申の乱に敗れた大友皇子が逃れてきたという伝説が残っている。『小櫃村誌』によれば、地元の人々にとってこの伝説は「信仰」に近いそうだ。明治期には、小櫃地区の白山神社古墳を、弘文天皇の墓だと申請した事実が、『君津郡誌』に記されている。何と、小説(『大友の皇子東下り』豊田有恒著 講談社)の題材になっているほど有名な伝説なのである。そういえば、木更津市の「鎌足」は、藤原鎌足が生まれた地だという言い伝えも『君津郡誌』に紹介されている。ちなみに、『大友の皇子東下り』は、1990刊行で古本の域に達していたらしく一般の書店や地元の古本屋にはなかった。最後の手段で、君津市中央図書館に行って相談すると、係員の方が探してくれた。実は、何度か図書館に通い探したのだが、自分では見つけられなかったのだ。それもそのはず、古い本は1階の閲覧書架ではなく2階に置いてあったのである。

 大友皇子とは、いわずと知れた天智天皇の皇子である。彼は、672年に起こった古代史上最大の争乱であった壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子と争い敗れ、滋賀県大津付近の「山前」というところで自害したことになっている(一説には、山城国であったともいうが)。その大友皇子が、蘇我赤兄等とともに小櫃地区に逃げてきたというのである。そもそも、「小櫃」という地名自体が、大友皇子の亡骸をおさめた棺からついた地名だというのだ。
 伝説によれば、大海人皇子に敗れた大友皇子は、海路房総に逃れ小櫃地区俵田に御所を営んだ。しかし、この地まで追ってきた大海人軍によって追い詰められ、ついには自害に追い込まれたというのだ。白山神社の北を流れる小櫃川の支流「御腹川」は、大友皇子が腹を切って自害したところから名づけられたという。白山神社(田原神社ともいう)は、後に、天武天皇となった大海人皇子の命により、大友皇子の霊を鎮めるために建立されたとも伝えられている。小櫃末吉地区にある末吉神社には、大友皇子に従って逃げてきた蘇我赤兄
が祀られている。
  『上総町郷土史』は『君津郡誌』の記述をもとに、以下の伝承を掲載している。( )は筆者の注。また、文中の「弘文天皇」は、大友皇子のことである。明治になって送られた名前である。大友皇子が即位した事実は、『日本書紀』には記されていない。

一、この古墳(白山神社古墳)は弘文天皇を葬った所でこの上に登ると忽ち眼がくら
  んで倒れてしまう。
一、この大古墳の背面に館の峯または王の谷という所がありその南方の中止という
  所に大小の古墳数基がある。これも弘文天皇に関係のあるものである。
一、大古墳の近傍に壬申山という地がある。弘文天皇の元年壬申にちなんで名づ
  けたものである。
一、同村戸崎宇野村に瓢形古墳がある。弘文天皇の母伊賀采女宅子娘の墳墓で
  ある。
一、同村地蔵堂の境内に七人衆の古墳といわれているものがある。これも弘文天
  皇の侍臣の墳墓である。
一、富来田町(現木更津市富来田地区)下郡字石神に瓢形古墳がある。弘文天皇
  の妃耳目刀自を葬ったものである。
一、同下郡の十二所神社は弘文天皇の御所の女官十二人の霊を祀ったものであ
  る。女官を葬った塚は市場台古墳と呼ばれている。
一、小櫃村末吉を流れる川を御腹川といいその他御廐谷・使者谷(『君津郡誌』で
  は「使者穴」となっている)・鑓水・君山等の地名がある。
一、旧久留里町大谷に日出沢・御所塚・王御所台の地名があり同町浦田に王守
  川、叶谷の名がある(大谷は、大友皇子が自害したといわれている場所)。
一、旧松丘村平山に修業坂・宇坪。大戸見に三本松・谷向等の地名があるがみな
  天皇に関する伝説がある(たとえば、「三本松」は大友皇子が松の苗木を三本植
  えたところという)。

 下の写真は、白山神社と、千葉県の指定文化財である白山神社古墳である。白山神社古墳は、全長88mの前方後円墳で(『埋蔵文化財分布地図』には、76mとあった)、4世紀の築造という。大友皇子の時代とは、年代が明らかに合致しない。現在では、この白山神社古墳の奥にある円墳が、大友皇子の墓だと言われている。同円墳は明治31年に発掘されていて、この時に、海獣葡萄鏡、直刀、鉄族などが出土したという。古墳の前には2つの塔が設置されていて、左右の塔の間には穴が開いている。ひょっとしたら、石室に通ずる穴かもしれない。
 白山神社の祭神は、『君津郡誌』に、「大友皇子」と「菊理媛命」とあった。また、神仏習合の考えから、明治初年まで境内に神宮寺が置かれ、「白山大権現」と呼ばれ、毎年正月29日には、氏子より寄進された大般若経を神前で転読したともあった。ここを訪れた時に、社殿の前にお寺の山門のような建築物があり、不思議に思っていたのだが、この疑問は解決した。ちなみに、「菊理媛命」を祀るようになったのは、明治の神仏分離によって「白山大権現」が「白山神社」となった際に、「白山神社なのだから、菊理媛命を祀らなければならない」といった、宮司の単純な発想かららしい。歴史的な由来はまったくないそうだ。

       
          小櫃白山神社                  白山神社古墳

 
『君津郡誌』には、小櫃地区にある末吉神社は、「小櫃村末吉壬申山に鎮座す祭神は保食命なり(中略)社傳に云う本社には弘文天皇の随臣蘇我大炊を祭る」とあった。「蘇我大炊」は、壬申の乱当時左大臣だった蘇我赤兄のことらしい。末吉神社を撮影するために神社の住所をインターネットで調べると、「千葉県君津市末吉746番」と出てきた。地図で確認するとその住所地には「飯縄神社」があり、「末吉神社」の名はなかった。君津市末吉地区のFacebookでも「飯縄神社」と紹介されていた。インターネットでさらに検索すると、飯縄神社は社殿が新しくなったことや、「飯縄神社」の背後の山が、壬申山だということがわかった。「末吉神社」がいつ「飯縄神社」となったのだろうか。もしそうならば、なぜそうなったのか知りたいものだ。

       
         飯縄神社案内板                  飯縄神社

 飯縄神社に行ってきた。左上の案内板にあるように、「飯縄」は、「いづな」と読ませるようだ。車1台がやっと通れる細い道を抜け、案内板のあるところから山道を300mほど登ると、思いのほか立派な社殿が建っていた。平成21年に改築されたと、境内に建っていた『飯縄神社改築碑』にあった。同じく境内には、金比羅様や浅間宮も祀られていた。『飯縄神社改築碑』に、「
飯縄神社は、明治時代に神仏分離令が発せられまでは、飯縄大権現と称し一般的に飯縄様(いづなさま)と呼ばれていた。当社の祭神は保食神であり、これは稲荷の神と同一である。」とあったことから、以前から「飯縄神社」と呼ばれていたようだ。そう言えば、筆者の末吉出身の友人も「昔から飯縄神社」だったと話していた。『君津郡誌』の「末吉神社」と祭神が同じ「保食神」なので、きっと「飯縄神社」が「末吉神社」だと思う。昭和2年刊行の君津郡誌』では、なぜ「末吉神社」と表記されていたのか不明のままである。
 また、前掲の『飯縄神社改築碑』には、蘇我赤兄についての記述は一切なかった。そのかわり、「飯縄(綱)信仰」の説明があったので紹介する。先ほどの引用部分に続いて飯縄神社改築碑』に、「江戸時代までの飯縄権現の名称は、この地域が長野県の飯綱山山頂に鎮座する飯縄神社への信仰が盛んであったことを意味する。飯縄信仰は鎌倉時代以降からで、飯縄権現は天狗の尊容で白狐に乗った形で表現されている。早い時代から茶吉尼天信仰と習合し、一種の狐遣いの邪術として、飯縄法が身分の高い公家や武士の間で中世以降行われた。それは武田信玄や上杉謙信が飯縄権現を軍神として厚く保護したことが知られている。現在そのような信仰はほとんど伝えられておらず、飯縄様という名称のみがその痕跡を示すこととなっている。」とあった。ちなみに、「茶吉尼天」とは、インド由来の神である。結局、飯縄神社に行ってわかったことは、呼び名が「いづなさま」だったこことと、「飯縄(綱)信仰」のみで、大友皇子伝説については何もわからなっかった。

       
          下郡 十二所神社            
市川公会堂(神明神社)

 君津市小櫃地区に隣接する木更津市下郡地区には、大友皇子の妃耳面刀自媛(みみものとじひめ)に従っていた12人の女官の伝説があった。下郡の人たちが、大友皇子が大海人軍に敗れたことを知って自刃した耳面刀自媛と12人の女官を石神山稜に葬り、十二所神社(左上の写真)に祀った。そして、妃と女官の遺品を十二所神社の西方に埋めた。そこが市場台の神明神社(右上の写真)だといい、さらに、そこから500メートルほど離れた根岸という場所にある小妻山に、小都摩(こつま)と呼ばれた女官の遺品を埋め、そこに山の神を祀った場所が小妻神社だという。また、下郡地区の小字今間(こんま)にある守公神社(左下の写真)は、妃や女官を守っていた兵士が祀られていると伝えられている。守公神社の右脇に、神社の由来を説明する案内板があった。
 なお、市場台の神明神社は、十二所神社西方にある「市川公会堂」(写真にあるように鳥居があり、公会堂の住所に神明神社が存在することになっている)だと思う。また、小妻神社は、十二所神社北方にある「日枝神社(右下の写真、祭神は山の神である大山咋神である)」ではないかと思っているが、現在調査中である。


       
  
       
下郡 守公神社                根岸 日枝神社

 袖ケ浦市には、小櫃の伝説とはつながりはないそうだが、大友皇子の子どもであった福王が逃れてきたという伝説がある。奈良輪にある福王神社(左下の写真)は、福王を祀るために建立されたという。朝日新聞の記事(平成18年11月17日)によると、壬申の乱の後に、4人の重臣(鳥飼、鈴木、石井、和田)に守られながら、海路上総へ至り、奈良輪高洲付近の海岸に上陸し、集落外れの『おふごの森』と呼ばれる森に住むようになった。逃れてきて数年後に亡くなったが、重臣たちによって亡骸は居住地に葬られ、そこに小さな祠が建てられた。これが福王神社の始まりである。後に、福王神社は現在地に移された(左下の写真)。逃れてきたとされる1月9日が、福王神社の祭礼日である。神社の裏手に広がる住宅地「福王台」は、福王神社から付けられたものだ。『君津郡誌』によれば、福王神社は、「奈良輪神社」とされていて、延宝2年(1674)に現在の場所に移されたとあった。


       
        
袖ケ浦 福王神社               大多喜 筒森神社

 
この他に、市原市にある飯給(「いたぶ」と読む)という地名は、大友皇子と随臣を村人がかくまいご飯を給したという伝説に由来するらしい。さらに、大多喜町筒森地区にも大友皇子伝説が残っているという。この地で、大友皇子とともに逃れ、難産のために亡くなった大友皇子の正妃十市皇女が、当地の筒森神社(右上の写真)に祀られているという。十市皇女は、父が天武天皇、母が額田王である。『日本書紀』には、678年に亡くなり大和の赤穂の地に葬られたとあるそうだ。

 市原市の飯給駅(左下の写真)に行ってみようと地図を見ていると、駅の西側に白山神社(右下の写真)を見つけた。これは何かいわれがあるのではないかと、『神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識』で調べてみると、大友皇子に関わる話があった。
 大友皇子が逃亡途中、3人の子どもを村人に預けた。村人は追っ手から守るため子どもたちの顔にススを塗って変装させたが見つかってしまい、3人の子どもは、現在の白山神社の場所で処刑されてしまった。翌日から、その場所に3羽の鳩が現れるようになった。村人がそこにお宮を建てると鳩の姿は見えなくなった。子どもを預けた大友皇子は、子どもたちのその後の運命を知るよしもなく、お供の者とともに、現在の市原市万田野地区を越えていったという話だ。万田野地区を越えると、そこは君津市の小櫃地区である。飯給の白山神社の祭神も、大友皇子だそうだ。

       
           飯給駅待合室                飯給 白山神社

 飯給駅について触れておく。飯給駅は小湊鉄道の駅で、2015年の一日平均乗車人数は4人だそうだが、駅周辺に桜や菜の花が咲くこともあって、多くの人々が写真撮影に訪れるようだ。いつだったかは忘れたが、千葉県の秘境駅として紹介されていた映像を見た記憶がある。待合室に隣接してなぜかトイレが2つ。1つは女性専用で、何とその広さが半端ではなかった。帰宅して調べてみると、200平方メートルもあった。世界一のトイレだそうだ。観光振興のために建てられたようである。白山神社の撮影を終えて車に戻ろうとしたら、遠くから汽笛のような音が聞こえ、踏切の遮断機が下りた。SLでも来るのかと思っていたら、先頭車両がSLのような形をしたトロッコ列車だった。珍しかったので、思わずシャッターを押した。帰宅後時刻表を調べてみると、1日1往復半しか走っていないことがわかった(2017.9.23)。また、先頭のSLのような車両は、ディーゼル車だった。その昔、小湊鐵道で活躍した、大正12年製のC型コッペル蒸気機関車を再現したそうだ。

       
     白山神社側から撮影した飯給駅            トロッコ列車

 外房の旭市や旧野栄町(現匝瑳市)にも、大友皇子伝説にかかわる言い伝えがあった。大友皇子の妃であった耳面刀自媛が、父の藤原鎌足の出生地鹿島に逃れる途中、野栄町の野手浜に着いたが病に倒れ(この地に向かう途中の船上で病気になったとも)、わずか20歳で亡くなったという伝説である。妃は亡くなった野手浜の地に埋葬されたのだが(内裏塚という)、平安時代の終わりに旭市の大塚原古墳に移されたという。大塚原古墳近くには内裏神社があって、妃の霊が祀られている。この内裏神社では妃の霊を偲び、33年毎に「御神幸」と呼ばれる祭りが盛大に行われているという。

 2017年8月20日放送の『鉄腕ダッシュ』「0円食堂」に、旭市にある「道の駅 季楽里あさひ」が出ていたので、家族で行ってみることになった(2017.8.21)。せっかく行くなら、前々から気になっていた耳面刀自媛ゆかりの場所や旭市にある叔父宅も訪ねてみようということになり、撮ってきた写真が下にある4枚の写真だ。野手の内裏神社は、圃場整備で消滅した内裏塚を偲んで建てられたもので、鳥居の内側に2つの碑があった。大塚原古墳は円墳だそうで、明治の発掘時に人骨や土器とともに「連金子英勝」と彫られた石棺の蓋が出たそうだ。「連金」は、壬申の乱当時右大臣だった、中臣金のことだと思われる。とすると、「連金子英勝」は、「連金」の子ども「英勝」だと考えられる。「連金子英勝」は、耳面刀自媛の従者で亡骸を野手の地に葬った「中臣英勝(なかとみのあかつ)」のことだとして、写真のように墳丘上に墓碑が建てられている。それにしても、野手の内裏神社や大塚原古墳は、土地勘がないと行き着くことが困難な場所にあった。詳細な地図で下調べを十分行うことをおすすめしたい。また、道が狭く駐車場もないので、大きな車では行かない方が良い。

       
      匝瑳市野手にある内裏神社            大塚原古墳(旭市)

       
   大塚原古墳上にある中臣英勝の墓碑      「御神幸」の行われる内裏神社

 千葉県以外にも、愛知県岡崎市や神奈川県伊勢原市にも大友皇子の墓だと言い伝えられる場所があるという。

 ついでではあるが、いすみ市(旧岬町)には、小櫃の地に逃れてきた大友皇子を追ってきた討伐軍の総大将だった、天武天皇の第一子高市皇子が後に、皇位継承にからんだ争いの中で、上総国に逃れてきて、かつての岬町小高で亡くなったという伝説もある。葬られた場所が殿塚といい、近くには高市皇子を祀る小高神社があるそうだ。

 ここまで、君津市を中心に房総に残る大友皇子伝説を紹介してきたが、それらはあくまで伝説であって、史実ではない。『房総・弘文天皇の研究』(千葉大学教育学部の研究紀要 第52巻)によると、君津市小櫃地区に残る伝説については、文献上の初出が、江戸期に記された『久留里記』だという。これでは、とうてい史実とは考えられない。それではなぜ房総の各地に大友皇子伝説が生まれたのだろうか。
 大友皇子政権の時に左大臣だった蘇我赤兄は、乱後一族とともに流刑となった。また、右大臣であった中臣金は処刑され、その一族は流刑となっている。それぞれ流刑先は不明だが、房総だった可能性もあるのではないだろうか。大友皇子関係者が房総各地に流され、それぞれの場所で地元の人々と交流し、時を経る中で大友皇子とその従者の伝説が生まれるようになった、とは考えられないだろうか。旭市の大原塚古墳から、「連金子英勝」と彫られた石棺の蓋が出土したことは、少なくとも中臣金の子英勝が現在の旭市の地に流されたことを示しているのではないかと、筆者は考えているが、読者のみなさんはどう考えるだろうか。

(2)君津市の中世城郭
 『君津市史』などをもとに、君津市に残る中世城郭を紹介する。君津市の中世城郭は、小糸川と小櫃川にそって分布し、いずれも、街道や川筋を見下ろす丘陵上に存在している。久留里城については、『君津地方の歴史』でふれているのでここには載せていない。また、『君津市埋蔵文化財分布地図』に、14の「城跡」「砦跡」「館跡」が紹介されているが、外見から判断した形状や伝承に基づいていることや、発掘調査の結果明確な遺構が確認されなかったものがあることなどからここでは割愛した(「日隠山城跡=岩室城跡」は紹介している)。

【小糸川流域の中世城郭】
小山野城跡
 君津市と富津市の境界となる丘陵上にある。一番高い地点は110m。東側が君津市小山野、西側が富津市上にあたり、現在、堀切や曲輪が確認されている。近くには、頼朝伝説の残る「三百坂」がある。確実な史料がなく在城した武将は不明だが、里見氏の家臣であった「茂手木與九郎」の居城という地図が存在したと『君津町誌』にあるという。現在小山野には、茂木姓が存在してはいるが、真偽のほどははっきりしないらしい。左下の写真は、城跡南側の末端部分にあたる。この城跡の地下には、戦争中、旧木更津第二海軍航空廠の佐貫地下工場が造られ、現在でも地下トンネルが残っている(詳しくは、当サイトの『富津市の歴史』参照)。

       
         小山野城跡付近                三舟山砦跡付近

三舟山砦跡
 富津市吉野地区と君津市貞元地区の境界にある山が三舟山である。標高は130m前後で、その三舟山の南側に三舟砦跡があったらしい。永禄10年(1567)に、北条と里見の合戦があり、北条氏が砦を築いたと言われる。はっきりした遺構は確認できないが、付近には、「陳場(じんば)」や「陳所(じんしょ)」という小字が残っている。また、この三舟山の山麓西側には、房総往還が通っていて、旧「鎌倉道」ではないかと言われている。右上の写真は、富津市相野谷側から撮影したものである。

       
         三舟山陣跡案内板          三舟山ハイキングコース案内板

 5月(平成18年)の連休を利用して三舟山のハイキングコースを訪れた。君津市によって、駐車場が整備され、そこには写真のような案内板も設置されていた。1周すると45分ほどのコースで、野鳥の声を聞きながらのんびりと森林浴が楽しめ、足元に目をやると野草のかわいい花も観察でき、展望台からは君津市街が一望できるようになっていた。そのコースの途中に「三舟山陣跡」の表示と案内板が立てられていて、そこには以下のような説明が書かれていた。
  
 
永禄十年(1567)北条氏は、西上総を支配すべく、里見氏と三舟山付近を舞台に合戦を行ったといわれ、北条氏側は北条氏政が合戦の指揮をとり、武蔵の国付城(埼玉県岩槻市)の城主太田源五郎氏資らをこの地にむけ現在のマテバシイの林一帯の小字「陳場」、「陳所」の地に陣をかまえ、里見氏側は三舟山と対峙する富津市障子谷の「虚空蔵山」、同市相野谷の「八幡の森」に陣を敷いたといわれている。
 合戦は、北条氏側が敗北し、元亀年間の終わりごろまで里見氏が勢力を挽回する契機となったといわれている。


       
           虚空蔵山                    八幡の森

 左上の写真は、里見義弘が陣をしいたといわれる「虚空蔵山」で、右上の写真は里見側の正木大膳が陣をしいたといわれる「八幡の森」(「旗本山」ともいう)である。いずれも三舟山の南側、富津市域に存在する。『富津市史』には、三舟山合戦の詳細とともに、合戦のたびに泣かされる農民の声が「
永禄十年の兵乱にて乱村となり、村民離散のところ云々」(相野谷小佐原家文書)と紹介されている。里見軍は北条方を、八幡山と虚空蔵山の間にある湿田に誘い込んだといわれている。また『富津市史』には、君津市小香にある十三塚は北条氏側の戦没者を葬ったと伝えられていること、ハイキングコースの終点にある観音堂にある宝篋塔や五輪塔は、北条氏側の戦没者のための供養塔だと考えられるともあった。

三直城跡
 君津市文化ホール近くの高速バスのバスターミナルの北側、標高36mの台地の先端部分にある。久留里城址資料館の学芸員の方に案内してもらい筆者も見学したが、堀切に仕切られた5ヶ所の曲輪や、虎口部分に土塁がはっきりと確認できる。天保7年(1836)の『三直村差出帳』に「忍足治部少輔居城之由申伝候」とある。「忍足治部少輔」は、里見義頼の家臣らしく、里見氏が上総領を没収された天正18年(1590)の後に、安房郡富山町市部に土着したらしい。ちなみに、左下の写真のお宅の屋号は、「シロヤマ」だそうだ。また、写真の左側に、バスターミナルがある。

       
          三直城跡付近                 常代城跡付近

常代城跡
 君津市常代の、標高50mの丘陵先端にある。右上の写真は、城跡を西側から撮影したものである。この地は、通称「城山」という。土塁や曲輪、堀切が確認できる。史料の上では築城あるいは在城の武将は不明であるが、近世前期の人々が「城跡」であることを認識していたという。城域の北端(右上の写真の左側奥にあたる)に、常代神社が鎮座している。常代神社は「常世神」といい、元慶元年(877)に、「従五位下」が授けられている、歴史の古い神社である。祭神は、「豊受姫大神」である(『君津市史 民俗編』)。ちなみに、この常代城跡は、筆者の通勤経路に面している(平成17年3月まで)。常代城跡から東に700m行ったところに、狐山砦跡(右下の写真)がある。常代城や、次に紹介している周東城の附属施設ではないかと、勝手に考えているのだが。『君津市埋蔵文化財分布地図』によると、この狐山砦跡のある場所は前方後円墳となっている。また、阿来留王の墓だと伝えられているともいう(『すなみふるさと誌 総括編』「アクル王とヤマトタケル」)。

       
            常代神社                   狐山砦跡

周東城跡
 周東城跡は、君津市立中小学校の南東にあたる、標高68mの丘陵先端部にある。右上の写真は、西側から撮影したものである。『君津郡誌』によれば、「周東景久」の居城だとしているが、堀切が確認できないことや土塁が低いことなどから、城だったのかどうか疑わしいという。『君津市史』では、この城跡の北に位置する春日神社(左下の写真)近くに、「東堀ノ内」「西堀ノ内」「南堀ノ内」「堀合」という小字の残る地が、「周東景久」の館跡ではないかとしている。春日神社には、応永25年(1418)3月に「藤原朝臣周東左衛門景久」の寄進した懸仏(「かけぼとけ」と読む)が所蔵されているという。なお、春日神社の駐車場のわきに、小糸町教育委員会が建てた「上総掘発祥地碑」があった(右下の写真)。文化文政年間に、この地で池田久蔵なる人物が、自噴井戸を掘り当てたという(「上総掘り」については、『久留里歴史散歩』を参照)。

       
          周東城跡付近                   春日神社

                 
                       上総掘発祥地碑

秋元城跡
 君津市清和市場の小糸川上流、鹿野山の山麓の丘陵上にある。標高は108mである。近世に描かれた秋元城の絵図が残されている。「小糸城」ともいう。右下の写真は、「小糸城々址」と銘のある碑である。さらに、別名を「青鬼城」ともいうらしい。右下の「根小屋」奥に「青鬼大神」と表記のある石碑があった。永正5年(1508)に、里見義豊の家臣「秋元兵部少輔義正」が築城し、元亀中(1570〜73)に落城したと、『上総国町邨誌』にある。築城の時期は『君津市史』では、16世紀後半だという。落城の時期についてもはっきりしないらしい。『関八州城之覚』には、「こいとの城 里見弾正少弼居城」とある。現在地元では、秋元城の発掘を町おこしにつなげようと、様々な取り組みがなされている。案内表示(左下の写真)もあり、道路をはさんで反対側には駐車場もあった。なお、この秋元城の南100mの地点、標高90mの丘陵上に粟倉砦跡がある。どうも、秋元城より古いらしい。

       
     道路わきの秋元城跡案内表示            「小糸城々址」碑

       
          秋元城跡付近               秋元城跡「根小屋」付近

辻森要害城跡
 小糸川上流の辻森地区の標高129mの丘陵上にあり、近くには清和自然休暇村がある。「穴原城」ともいう。土塁が確認できるらしい。しかし、この城に関する史料や伝説等はまったく存在していないという。

奥畑壘址
 「壘」は「とりで」と読む。『君津郡誌』に紹介されている「壘跡」である。豊英ダムの西側にあたる、君津市豊英地区奥畑にある。現在の国道410号線にそっていると思うが、君津市松丘地区から鴨川市主基に抜けるルートに面した丘陵上にある。里見氏の警兵が置かれていたという伝承が残っているという。

【小櫃川流域の中世城郭】
山本湯名城跡
 小櫃川中流域君津市山本、久留里線下郡駅東側の標高60mの丘陵先端部にある。城域は、木更津市と君津市の境界上に広がる。曲輪や堀切が確認されている。里見氏家臣山本由那之丞の居城であった。一時北条氏家臣笠原筑後守が守備をしていたという。山本由那之丞は、天正18年(1590)ころには、久留里城に在蕃している。左下の写真は、南側の国道沿いから撮影した写真である。

       
          山本湯名城跡              戸崎城跡(丘陵先端部)

戸崎城跡
 君津市戸崎、小櫃川中流域の段丘先端部にある。標高は50mである。周辺には戸崎古墳群がある。字が「城山(じょうやま)」といい、南西部には「ジョウヤマ」という屋号のお宅がある。この城跡を含む一帯には、総数100基をこえる「戸崎古墳群」が存在している。曲輪、堀、虎口、土塁などが確認されている。上総に侵攻してきた北条氏が築城したらしい。右上の写真は、俵田側から撮影した写真である。『君津市埋蔵文化財分布地図』には、この戸崎城跡の南には岩出城跡があるが、昭和57年に行われた部分的な発掘調査や周辺の聞き取り調査によって、その存在を証明できなかったという。

岩室城跡
 君津市向郷字岩室にある。久留里城から見て西北西の方角にあり、小櫃川をはさんでちょうど久留里城と対峙する位置にあたる。主郭最高部は標高80mの丘陵上にあり、北から東側にかけて一望できる位置にある。このことから、『君津地方の中世城郭』(平成9年久留里城址資料館企画展資料)では、里見氏と対立し合戦を繰り広げてきた北条方が築いた可能性を指摘している。残念ながら、文献資料や伝承などが残っていないとのことであるが、『久留里歴史散歩』「岩室観音見学記」で紹介しているが、丘陵の南側には、里見氏との戦いで戦死した北条方の兵を供養するために建てられたという岩室観音があることから、十分にありえる話である。なお、『君津市埋蔵文化財分布地図』では、「日隠山城跡」となっている。左下の写真は、南側から撮影した写真である。それにしても、撮影に行くと(平成19年1月)、岩室城跡付近を通る道路が広く新しくなっていたことに驚いた。「なぜ、こんなところが?」という疑問が残ったが、ひょっとしたら、全体的な道路建設計画を知らないだけで、将来的には、地域経済を担う道路の一部なのかも知れないとも思ったが、「果たして真実は如何に」といったところである。

       
           岩室城跡                  川谷根小屋城跡

川谷根小屋城跡
 久留里城から見て北東にあたる君津市川谷にある。標高100mの丘陵先端部にあり、東側に御腹川が流れている。曲輪、虎口、土塁などが確認されている。この川谷根小屋城跡の南西部、標高195mの地点に川谷砦がある。築城、居城していた武将などは、史料や伝承がまったくないので不明である。右上の写真は、「川谷根小屋城跡」の北側から撮影した写真である。

千本城跡
 君津市広岡の小櫃川上流、標高120〜150mの丘陵上にある。もっとも標高が高い地点に、北野神社が鎮座している。曲輪、堀切、土塁などが確認され、鉄塔建設にともなう発掘調査では、中国製の青磁皿、瀬戸美濃焼天目茶碗のかけらなどが出土している。里見氏家臣の東平氏が居城していたが、天正年間の里見義頼と梅王丸派の抗争の中で落城している。なお、君津市久留里地区で酒造業を営む、藤平氏は「東平氏」の子孫であるという。左下の写真は、松丘駅前から撮影した写真である。

       
    JR松丘駅前より千本城跡を望む             大戸城跡

大戸城跡
 君津市大戸見の小櫃川に面した、標高102mの丘陵上にある。松丘駅から亀山方面に向かいトンネルを4つ越えて、すぐ右側にある。『君津郡誌』などでは「登城」としていたが、現在では「大戸城」と表記するのが正しいとされている。主郭部分を通称「二条ノ台」、そこより9mほど低い北側の地点を「登城ノ台」という。ともに土塁が確認されている。天文年間に、二條若狭守が築城したといわれる。『久留里城誌』では、里見義実によって15世紀後半に築かれたとしている。天正18年(1590)当時は大野駿河守が居城していた。右上の写真は、大戸城跡脇の細い道路を右折し城域を過ぎたあたり(南側)から撮影した写真である。

居柄城跡
 君津市亀山地区の折木沢、標高185mの丘陵先端部にある。「いがら」と読む。「荏柄城(えがらじょう)」ともいう。戦国期後半のような複数の曲輪配置は認められず、堀切にはさまれた主郭のみである。「居柄中将」という武将が戦に敗れ、この地の「鴇田助七」を頼り、城を構えたという。鴇田氏は里見氏の家臣である。また、鎌倉幕府の執権北条義時と対立し滅ぼされた、和田義盛の子、朝比奈三郎義秀が当地に逃れ城を築いたが、最後には北条軍に攻められ敗れ、居柄城も廃城になってしまったともいう(『久留里城誌』)。

蔵玉砦跡
 君津市亀山地区の蔵玉、標高118mの独立した丘陵部にある。平成元年に発掘調査が行われ、4つの曲輪、堀が確認されるとともに、各曲輪から掘立柱建物の柱穴が見つかった。また、遺物として、瀬戸美濃焼灰釉縁折皿が1皿、常滑焼の甕の破片が出土している。この砦が亀山城だとすると、城主は「本吉三郎兵衛」である。彼は、天文7年(1579)に北条氏に内通したとして追討されている。その後の城主は、里見氏家臣の「岡本兵部少輔」のようである。

※『君津郡誌』によると、小櫃川流域の木更津市や袖ケ浦市域に、以下の「城跡」や「砦跡」が存在しているという。笹子砦址(木更津市笹子字笹子谷)、中尾砦址(木更津市中尾字西谷)、有吉砦址(木更津市有吉字古積)、眞里谷城址(木更津市真里谷字市野々)、御所台城(木更津市茅野字御所台)、上根岸砦址(木更津市上根岸)、大竹砦址(袖ケ浦市大竹字北畠))、打越砦址(袖ケ浦市打越)。この他に、『房総の名城と名家名門を探る』では、要害城・天神台城(木更津市真里谷字宿)、大金城(木更津市下郡字大鐘)横田城(袖ケ浦市横田字小路)が、『君津地方の中世城郭』では、久保田城跡(袖ケ浦市代宿)が紹介されている。
 『袖ケ浦市史』には、小櫃川流域の中世城郭が12ヶ所紹介されていた。そのうち、川原井城跡(袖ケ浦市川原井字城山)と高谷堀ノ内城跡(袖ケ浦市高谷字堀ノ内)は、戦国時代後期の城で、他の10ヶ所は戦国時代前期のもので、後期にはその機能はなくなったとあった。
 こうした袖ケ浦市の城跡も含めて、いずれも、千葉一族や房総武田氏(眞里谷氏)に関係している城・砦が多いようだ。眞里谷氏の西上総の拠点は、眞里谷城である。城主の変遷を調べていくと、戦国時代の世情が理解できる。千葉氏一族が支配していた上総に、康正2年(1456)武田氏の侵攻があり、さらに、戦国大名に成長した北条と里見の抗争の中で、千葉氏や武田氏も翻弄され、最後は滅亡していくことになる。そして、その運命は、北条や里見にも同じようにやってくるのである。