富津市の歴史
PartV


(1)富津市に残る松本ピアノについて
 『君津市周南の歴史』で、現君津市生まれの松本新吉が、我が国のピアノ生産の草創期に、今の「ヤマハ」の前身である「山葉」と並ぶ全国的に有名なメーカーであった「松本楽器」を創業したことを紹介した。その松本新吉の生きざまを綴った、『松本新吉伝』(大場南北著)を読んでいて驚いたことがある。それは、筆者の自宅近くにある旅館「さざ波館」にも松本ピアノがあったのである。しかもそのピアノは、谷崎潤一郎の注文で松本ピアノの外箕輪工場が製作した、潤一郎の娘愛用のピアノだったというのだ。「さざ波館」の当主と親交のあった、新吉の七男剛夫氏の仲介によるもので、外箕輪の工場に預けられていたピアノで、持ち主の谷崎家に許可をとって、「さざ波館」が購入したものであった。
 本を読んだ翌日に早速「さざ波館」を訪ね、大広間の舞台右脇に置かれていたピアノを撮影させてもらった。鍵盤のフタの内側には、お馴染みの「MATSUMOTO & SONS」ではなく、「Richtone」とあり、その文字の下には社章があった。さらに、上部のフタを開けると、そこには「FOUNDER SHINKICHI MATSUMOTO 1865-1941」とあった。富津市で発行した『ふっつ 昔 むかし』の「昭和文壇史を彩どるピアノ」で、「さざ波館」のピアノの由来が、剛夫氏の話として紹介されていた。それによるとこのピアノは、昭和30年頃に谷崎潤一郎の注文で同じものを2台造り、1台は二女恵美子に、もう1台は何と佐藤春夫に贈ったものだという(谷崎と佐藤の関係は、現在で言えば、ワイドショウーが追っかけるような話である)。昭和35年に二女が結婚することになり、松本ピアノが預かり、縁あって「さざ波館」に買われることになったのである。先日、このピアノが、木更津ケーブルテレビの『富津歴史の旅』で、紹介されました。

      
      さざ波館にある「松本ピアノ」            叔父の家のピアノ

 先日、松本ピアノについて、すぐ隣に住んでいる叔父と話をしていると、叔父の家にも、「さざ波館」と同様に、松本剛夫氏の仲介で、昭和46年頃に娘のために購入したピアノがあることがわかった(右上の写真)。「購入後は剛夫氏が毎年調律にきてくれた」と叔母が話してくれた。見せてもらうと、フタの内側には「さざ波館」のピアノと同様に「MATSUMOTO & SONS」ではなく、「DIAPASON」とあった。また、上部には「FOUNDER SHINKICHI MATSUMOTO 1865-1941」との銘はなかった。松本剛夫氏から購入したということから、筆者はずっと、「松本ピアノ」だと信じて疑わなかった。しかし最近、「DIAPASON」について調べてみると、日本楽器から独立した大橋幡岩という人が、昭和22年に起こした浜松楽器製作のピアノのようだ。この浜松楽器は、経営を度外視して、手作りにこだわった結果、昭和33年に河合楽器の系列に入ることになったそうだ。松本新一氏に確認すると、「松本ピアノで、『DIAPASON』を扱ったことはない。『DIAPASON』は、浜松の楽器製造会社のピアノで、叔父が扱っていたようだ」と話してくれた。残念ながら、叔父の家のピアノは、松本ピアノではなかったのである。

 前出の『ふっつ 昔 むかし』には別のページで、市内にある「燭台付きピアノ」が紹介されていた。そのピアノは、明治22・23年頃に製作された「西川ピアノ」だというのだ。剛夫氏が愛蔵していたものを、現在の所有者が懇願して譲り受けたものだという。この話が事実だとすると、この「西川ピアノ」は、大変貴重なものだと言えるだろう。西川虎吉が輸入材料を組み立て、ピアノ製作に挑戦したのが、銀座十字屋のホームページによると明治22年なのである(別の資料では、明治十年代末だとも)。本格的にピアノ生産に取り組むのは明治30年代になってからだ。つまり、この「西川ピアノ」は、初期の段階の「西川ピアノ」だと考えられるからである。

(2)富津市と小林一茶(富津地区)
 「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」「やれ打つな 蝿が手をする 足をする」この句を知らない者はいないだろう。いわずと知れた小林一茶の句である。この小林一茶の真筆の掛け軸(双幅)が、金谷の華蔵院にあるという(『ふっつ 昔 むかし』によると、「はつ雪や今行く里の見えてふる」という句が書かれているものと、もう一つは、松の墨絵である)。「なぜ金谷に」という疑問はすぐに解決した。実は、この華蔵院のかっての住職は、富津の一茶と親交のあった織本花嬌の弟だったというのである。花嬌は当時西川村名主の娘で薗といい、後に、富津村の名主織本嘉右衛門(砂明)のもとに嫁いだ人物である。夫婦ともに一茶の俳友であったようだ。一茶はその関係もあって、花嬌の死後も含めて、十数回も上総の地を訪れている。花嬌の俳句の才能は秀でていたようで、一茶の花嬌への思い入れは相当のものであったようである。三回忌にも富津の地を訪れ、花嬌を「ボタン、シャクヤク」にたとえて追悼して、また、花嬌の遺稿集の発刊にも関わっている。その中で、花嬌を紫式部や和泉式部におとらないと評している。その一茶の常宿は富津の大乗寺で、織本花嬌の墓も大乗寺にあり、県の指定文化財になっている。
 なお、ここに出てくる華蔵院には、市の指定史跡である、天明期の旗本白須氏領の金谷村で起こった百姓一揆で犠牲になった太左衛門の墓もある(『各地に残る義民伝説』参照)。

       
           大乗寺本堂                  織本花嬌の墓


(3)富津市と水戸黄門と伊能忠敬
 水戸黄門といえばテレビドラマであまりにも有名である。諸国漫遊はもちろん後世の作り話であるが、1674年の4月28から5月2日にかけて富津市に立ち寄ったことが、光圀の『甲寅紀行』に記されている。鎌倉にある祖母の墓参の途中によったということである。
※『甲寅紀行』より抜粋


 二十八日(前略)午後、館を出てすさい川を渉りこいと川を越え、あいのやの台に至る。海向かいに猿島見ゆ。佐貫村に至る。此より松平山城守重治が領地なり。此所に出船入船の岩あり。ふつ村より、向地の相州等よく見ゆ。此の地の州崎より海の中へ出州あり。上方道二里半ほど出づるなり。それより天神山の湊村に着きて宿す。此の湊、廻船漁舟の津なり。松平山城守重治が領地なる故に、饗応丁寧なり。

 なお富津市中央公民館には、水戸家より阿部家に寄贈された『大日本史』が保管されているという。

 1801年、伊能忠敬が富津市沿岸の測量を行っている。『伊能忠敬沿海日記』によると、6月24日に木更津から君津の沿岸の測量を終え、富津市域に入り、大塚村、青木村 、西川村、新井村、富津村と測量し、その日は富津村の名主喜左衛門宅に宿泊。翌25日は富津村から川名村、篠部村、大和田村、岩瀬村、小久保村、大坪村、八幡村(ここで昼食)、笹毛村、湊村を測量し、五郎右衛門宅に宿泊。26日は百首村、萩生村、金谷村を測量し、名主四郎左衛門宅へ宿泊している。わずが2日あまりで富津市沿岸の測量を終えている。24日の夜には、飯野藩の代官手代が、26日には百首村役人が陣中見舞いにやってくるなど、なかなか忙しい様子がわかる。伊能忠敬について詳しく知りたい方は、『佐原 伊能忠敬記念館』へ。

(4)富津市の地域経済をささえたカギサ醤油(大堀)
 「カギサ醤油(株)」の製品は筆者が子供のころ、我が家でも使われていた。筆者にとっては、キッコーマンやヤマサ醤油と並ぶ代表的な銘柄だったのである。「インディアンソース」という商品もよく使っていた。その「カギサ醤油(株)」が残念ながら、平成15年(2003)で、250年あまりの歴史を閉じてしまった。長い間地域経済をささえ、食生活を彩ってきたことに敬意を表して、「カギサ醤油(株)」について、主に『千葉の中堅120社』(日本経済新聞社編)によって紹介しよう。

 「カギサ醤油」の創業は、延享3年(1746)である。銚子や野田の醤油生産の開始からほぼ100年後のことである。良質な水と温暖な気候が、醤油醸造に適しているらしい。富津市佐貫で現在でも営業を続けている、宮醤油店のホームページによれば、「醤油生産には、気候が温暖で四季の変化がはっきりしたところが良いようです」「海が近いため湿度が高く、また、良い湧水に恵まれていましたので、古くから酒屋・醤油屋の多いところでもあります」とあった。株式会社としての出発は、大正6年(1917)の11月である。平成11年現在で、資本金は1500万円、従業員数は46人となっていた。
 さて「カギサ醤油」であるが、一度でも味わったことのある方はわかると思うが、コクのある濃厚な味で関東人の舌にあった製品であった。それもそのはず、天然醸造にこだわった製品だったのである。通常、大量生産される製品は、「もろみ」を熟成させるために徹底した温度管理を行い、醸造期間を短縮させて製造されるようだが、「カギサ醤油」は温度管理は自然にまかせ、「もろみ」を1年半から2年かけてじっくり発酵させて造られていた。そのために、当然商品価格は、通常の大量生産品と比べるとどうしても高くなってしまう。このため最近では「健康・安全」を前面に、有機栽培による大豆や小麦を原料にしたり、醤油以外の製品開発にも力を入れてきたが、醤油消費の低迷などの影響も受け、ついには平成15年2月に12億円もの負債をかかえ廃業するにいたったのである。『千葉の中堅120社』で「最近の業績」を見ると、1994年から’99年まで、毎年ほとんど利益が上がっていないことがわかる。時代の変化に対応できなかった結果なのだろうが、地域の経済を考えると、非常に残念なことである。
 ついでではあるが、インターネットで「カギサ醤油」を検索してみると33件ヒットした。眺めていると、「カギサ醤油」の前掛けが、オークションに出品されていることや、「カギサ醤油」の工場跡地(下の写真)が平成15年5月1日付けで売りに出されていたこともわかった。中には、工場などの写真を紹介する、『富津懐古伝』なるサイトも存在していたことを付け加えておく。
 下の写真は、現在のカギサ醤油の跡地で、見てわかる通り、住宅地として生まれ変わり、かっての面影は全くなくなってしまった。

      
     カギサ醤油跡地(平成17年11月)    宅地造成が進む跡地(平成18年9月)


      
                       平成26年8月

(5)関山用水について(佐貫)
 君津市の歴史PartU』で、君津市松丘地区の「平山用水」について紹介したが、富津市の佐貫地区にも近世後期に開かれた用水が存在している。その名を関山用水という。関山用水は、佐貫宝竜寺の関山から、宝竜寺、佐貫、中、大坪を潤す灌漑用水で、文政5年(1822)に完成した用水である。『富津市史』により、この用水が開鑿されるようになった経緯をみてみよう。
 文化年代、もともとこの地域は、鬼泪山水系の水を利用していたのだが、地震や干ばつの影響で用水不足となったため、文化14年(1817)12月に、佐貫の商人金物屋茂兵衛、大坪村名主善六が中心となり3ヶ村9人の連名で、用水建設の願書を作成し、翌15年佐貫藩に提出した。佐貫藩は役人を派遣し調査をしたが、費用がかかりすぎると却下してしまう。その後、文政4年(1821)の2度目の願書も調査の結果却下されている。それでも農民たちはあきらめず代官や役人を説得し、3度目の願書の提出でついに認められ、翌文政5年に着工となったのである。工期はわずか5ヶ月、百姓たちの必死の労務提供で、文政5年5月に、長さ4キロの用水が完成したのである。水平を計ったのは佐貫の重右衛門で、また、箱樋を製作したのは岩瀬村の船大工庄治郎で、長さ40mの箱樋を人足30人で岩瀬村から運んできたという。この用水は何とめずらしいことに、途中佐貫城内を通っているのである。当時の佐貫城主阿部正簡が、「百姓あっての阿部だ。百姓がなければ阿部もない」と言って、城内に用水を通す許可を出したという逸話が残っているらしい。染川を越える箱樋(水橋)や重箱と呼ばれた砂の沈殿池、岩盤トンネルの掘削など、工法にも様々な工夫がされたという。

      
       佐貫城跡前を通る用水             関山用水改修記念碑

      
      今は使われていない用水            宝竜寺を流れる用水

 この用水は現在でも使われていて、関山用水水利組合という組織がつくられ、春先には人々が協力して溝さらいを行っていたと『富津市史』にはあった。佐貫の宝竜寺の道沿いには、昭和4年の大改修の際に「関山水利記念碑」が建てられていて、その撮影に行った時に、犬の散歩をしていた地元の方に伺うと、水源から記念碑までの用水路はすでに使われなくなっていて、現在は水源からパイプで水を途中の水路まで引いているとのことであった。左上の写真は、その使われていない用水で、その先にはトンネルもあると教えてくれた。また、地域総出で溝さらいをすることはできなくなったとも話してくれた。
 ネットで「関山用水」を検索してみると、成田山仏教図書館蔵書目録の中に、「佐貫関山用水書類」があった。『富津市史 資料編』には、用水関係の史料が載っていなかったので、是非閲覧しなくてはと思ったが、しかし、なぜ成田山に残っていたのだろうか、不思議なことである。慶応12年(1867)年に、富津市(富津地区川名)出身の原口照輪が、成田山新勝寺の貫首(住職)になっているのだが、このこととの関係はあるのだろうか。それとも、成田講が関係しているのだろうか。我が家では昭和40年代まで、通称「ナイダコ」という行事が行われていた。数軒の家で成田講を作って、毎月持ち回りで不動明王の掛け軸を拝み、終わった後は煮物やいなり寿司を食べながら談笑する行事であったと記憶している。おばあちゃんたちが、「バータララアテンランマー カズサータートハ マクサンマンダー」ととなえていたのを覚えている。ひょっとしたら、佐貫の宝竜寺にもそんな成田講が存在していて、用水の完成を記念して、その資料を成田山に奉納したのかもしれない。何とか調べなくては、と思っている。

      
          白雲山寶龍寺                 白山神社本殿

                
                          大杉

 宝竜寺には、おそらく地名の由来となった寶龍寺があり、その隣にはかつての村社白山神社が祀られている。白山神社の祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、菊理媛命の三神である。境内には、樹齢千年を越える大杉があって、富津市の天然記念物に指定されている。写真でもわかると思うが、とにかく大きな杉の木である。富津市教育委員会が設置した案内板には、「根回り約7メートル、目通り幹回り約6メートル、樹高約35メートル」とあった。『君津郡誌』には、「創建年月詳ならず老杉の樹齢より推測すれば其創建の王朝時代に遡るべきを知るに足る」と紹介されている。境内は樹木に覆われ、猿田彦を祀る祠や浅間神社も祀られていて、歴史を感じさせる雰囲気であった。

(6)真福寺の筆子塚と絹本著色清涼殿八宗論図(小久保)

      
             真福寺                    筆子塚

 平成18年9月22日に富津市小久保の真福寺(左上の写真が、真福寺本堂)にある筆子塚が市の指定文化財となったことを、『広報ふっつ』の2月号で知った。真福寺は真言宗智山派の寺院である。それまで、真福寺に筆子塚があることは知っていたが、どれが筆子塚なのかわからなかった。今回の広報の記事と写真で初めてわかったので、さっそく撮影に出かけた。右上の写真がその時に撮ったものである。写真中央が筆子塚で、後背に「宥慶」の文字が読めた。「宥慶」とは、寛文元年(1661)に亡くなった18代目の真福寺の住職である。
 『富津市史』で確認すると、富津市域には95の寺子屋が存在していた。その数は、調査すればもっと増えるともあった。ついでだが、青年の教育機関を「私塾」というそうだが、「私塾」も市域には数多く存在していたようである。ところで、寺子屋とは庶民の教育機関のことで、起源は中世にさかのぼれるらしい。江戸中期以降、特に天保年間に急増している。師匠(=先生)は、僧、神官、医者、浪人、書家などで、「読み・書き・そろばん」を基礎に、生活に必要な総合的な知識を教えていたといわれ、明治の学制発布まで続いてる。さて、筆子塚であるが、寺子屋の寺子(=筆子)たちが、師匠が亡くなった時に、感謝の気持ちを込めて造ったもので、この真福寺の筆子塚は、全国的にも古いものだという。真福寺の寺子屋は、少なくとも寛文年間以前にはすでに存在していたと考えられ、僧と一般の子どもを一緒に教えていたようだ。筆子塚の台石に、「為報師恩僧俗弟子等謹令刻」と刻まれている。ちなみに、筆子塚は全国で数万基、房総半島では3,350基以上も確認されているという(Wikipedia『寺子屋』)。真福寺の寺子屋は明治初年まで続いたようで、学制施行後は小学校になり、現在の大貫小学校へとつながっているのである。

 真福寺には、昭和55年に千葉県の指定有形文化財になった「絹本著色清涼殿八宗論
図(けんぽんちゃくしょくせいりょうでんはっしゅうろんず)」が保存されている。昭和62年に千葉県と富津市教育委員会が建てた案内板には、「
大同年間弘法大師が唐から帰朝し真言宗を布教、その盛大になるに従って、他宗から非難攻撃が盛んになった。時の嵯峨天皇は大師を清涼殿に召し、他宗の僧達と宗論をたたかわせたところ、その時大師は大日如来に変身して密教の奥義を実証したと言う、その有様を図にしたのがこれである。高野山善集院にも同様の画がある。筆者は室町時代の画家、土佐光信(?〜1525頃)と伝えている。それについての確証はないが、その頃に描かれた作品と考えられる」とあった。残念ながら、案内板の写真は消えてしまっていたが、『富津市史』で確認できる。

(7)富津市と学童疎開(環地区)
 久留里地区に学童疎開があったことは、久留里小学校の百周年記念誌で知ってはいたが、つい最近まで学童疎開は他市のことだと思っていた。ところが、『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠からみた軍国日本の膨張と崩壊』(山庸男著 うらべ書房)に、第二海軍佐貫地下工場に関連して周南地区に学童疎開があったこと、また、その疎開児童と佐貫地下工場の技術中尉のふれあいの中で、疎開児童が東京大空襲を遠い周南から見ていたという事実があったことから、君津地方全体の学童疎開について調べてみると、富津市にも学童疎開があったことがわかった。『東京都の学童疎開』によると、現在の墨田区、当時は本所区の中和国民学校の6年生男子(環国民学校、千手院)、6年生女子(興源寺)が疎開していたのだ。平成17年墨田区教育委員会発行の『語りつごう平和への願い〜学童疎開墨田体験記録集〜』に、体験談が載っていたので、以下、その一部を紹介する。
 
 昭和16年に始まった太平洋戦争も、しだいに負け始め昭和19年ごろには、とうとう東京も空襲の少ない地方に疎開が始まり、中和国民学校も三年生以上六年生までの558名の生徒が、千葉県君津郡に集団疎開しました。

 疎開の当日、先生に引率された六年の男子は、汽車とバスを乗り継いで環村小学校の体育館に居候を始めた。当時は朝六時起床、就寝は九時だった。広い板の間に、自分の家から持ってきた布団をそれぞれが並べて敷き、すき間風の入ってくる床の上でその日その日の生活を始めた。はじめのうちは宮城礼拝、体操、散歩などもあったが、出されてくる食事は茶碗一杯のご飯と、朝はみそ汁、漬物、昼は野菜の煮付け、夜は、野菜の煮付け、まれには魚が出たときもあったが。
 
 環村の方々は、私たちを温かく迎え入れてくださった。
食事の賄いも良かった。東京では、水分が多くかきまぜると御飯が浮いてくる雑炊しか食べられないのに、麦が入っている白米が食べられた(千手院に引っこすと、順番で、お代わりもできたという)。たくさんのおかずはないが、しぼりたての牛乳を、毎朝飲ませてくださる。どんぶりに牛乳を注ぐと表面に薄皮が張る。東京では口にすることができないものだった。うれしかった。


 一般的に、疎開児童の生活は、現在では想像もできないほど大変であった。食事は粗末で、「いじめ」も日常茶飯事であったといわれる(こうした疎開児童の苦労は、お世話になっているサイト『語り継ぐ学童疎開』で詳しく紹介されている)。しかし、体験談を読むかぎり、環村に疎開した児童の待遇は、他の地域に疎開した児童よりも少しは良かったように感じる。それでも、育ち盛りの子どもたちには絶対的に足りなかった。

 今これを読んでおられる皆さんの食事と比べてほしい。茶わん一膳のご飯も、盛り方はふわふわ、すかすかの底が見えるような盛り方。これで育ち盛りの子供たちの満足は得られるわけがない。私を含めて同級生たちが走っていったのは乾物屋と薬屋だった。買えるものは青海苔、コショウ、などわずか、そして当時のわかもと、わかまつ(胃腸薬)、ユベラ(女性ホルモン)など口に入るものは片っ端から小遣いで買ってきて口に詰め込んだ。

 他の地域に疎開していた中和国民学校の5年生は、近くの畑でサツマイモや大根を盗んで食べたり、渋柿を食べたりして、農家から苦情をもらい先生に厳しくしかられた体験を語っている。
 疎開していた6年生は、その多くが卒業や入試のために東京に帰ったのだが、中には疎開先に残っていた学童もいた。

 また、今思い起こしたことに印象に残っているのは、三月一〇日の東京大空襲の時のことです。もちろん一〇〇キロ以上離れた所ですから、町が炎につつまれている様子など伺い知ることは不可能ですが、学校から北の方角(東京方面)の小高い山の上空が、一面真っ赤に夜空を染めている光景が、今でも鮮明に脳裏に焼きついています。しばらくすると灰がやたらに降ってくるではありませんか。私は子供心に「これは大変なことになってしまった」と直感しました。

 上記の薬局で薬を買い空腹をいやした体験を語った方は、東京大空襲で両親を失っている。その後の苦労は、きっと想像を絶するものがあったと思われる。

 次に紹介する体験談は、君津市鎌滝の天南寺に疎開していた児童のものである(天南寺は、全くの偶然であるが、筆者の母親の実家近くであった。現在は、参道もきれいに整備されている立派な寺院であるが、当時はうっそうと茂る木々の中にあったという。母は当時15歳だったが、疎開児童の記憶は全くないと話している)。

 
翌年(昭和二〇年)三月一〇日、疎開先のお寺の境内に大量の燃えかすが飛んできました。私たちは外に出てあとからあとから降ってくる大量のもえかすを何も分からないまま眺めていました。一週間ほど過ぎたころ「東京の本所、深川が空襲に遭ったらしい」そんな声が噂のように流れてきました。しばらくすると焼け出された家族が生徒を引き取りに来たのです。そこで初めて、東京、本所の大惨事を知り、あの日大量に降ってきたのは東京大空襲の燃えかすだったと分かりました。
 その日から一人、二人と疎開の仲間たちが迎えを受けて引き取られていきます。両親そろって迎えに来た生徒は一人もいません。

 
上記の児童は、東京大空襲で両親を失い、母方の郷里に引き取られ、その後、父方の郷里に移され、隣村の叔父の家に世話になったが、その叔父の家を逃げ出し、父方の祖母宅に落ち着くことができたようだ。
 中和国民学校の疎開先や、学童疎開全般にかかわる情報については、『君津地方の歴史』で紹介している。また、君津市の周南地区に疎開していた、中和国民学校5年生の様子は、『周南の歴史 PartV』で紹介している。参照されたい。

 先日休日を利用して、中和国民学校の6年生が疎開していた環地区を訪ねた。興源寺では地元の方が、草刈りをしていて、ちょうど休憩中で、お茶をごちそうになりながらお話を伺うことができた。疎開児童が、風呂を借りに来たことや、現在でも、疎開していた方や引率の先生の親族の方と交流があること、また、千手院は廃寺になってしまい、今は竹藪になっていることなどを聞くことができた。左下の写真が興源寺である。お寺の方に伺うと、中和国民学校の児童が生活していた本堂は、雨漏りがひどくなったということで、写真のように建て替えられていた。右下の写真は、現在の環小学校で、グラウンドでは少年野球の練習が行われていた。廃寺になった千手院は、おそらく、寺尾の六所大明神の隣にあったと思われる。地図には、今でも寺院マークが残っている。写真の建物の奥は、竹藪となっていた。ついでではあるが、この千手院は、官軍がやってきた慶応4年閏4月に、佐貫藩の殿様と奥方が佐貫城を出て謹慎していた寺院であった。数日後、勝骼宸ノ移っているが。

     
          興源寺本堂                 現在の環小学校

              
                    廃寺になった千手院

 興源寺は、応永年間(1394〜1428)に創建された歴史のある、真言宗智山派の寺院である。境内には、正長年間の紀年銘のある板碑(右下の写真)があり、富津市によって有形文化財に指定されている。正長と言えば、元年に近江で起こった、徳政を要求する土一揆が有名であるが、それと同年代の板碑なのである。また、山門の階段下には、千葉県指定の天然記念物、環の大樟(左下の写真)がある。筆者が訪れた時に、ちょうど地元の方が巻き尺で測っていたのだが、根回りで13m16cmもあった。板碑は、以前には、大樟の幹の空洞にあったと、富津市教育委員会の案内板に記されていた。また、山門の手前には、なぜか狛犬が置かれていたのが、印象的であった。

     
           環の大樟               正長年間の板碑(左側)