周 南 の 歴 史
PartV

(1)学童疎開と周南
 『君津地方の歴史』「第二海軍航空廠の疎開について」で、『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠からみた軍国日本の膨張と崩壊』(山庸男著 うらべ書房)
に出ていた学童疎開の話にふれ、周南国民学校、遍照寺、花厳院に東京本所の中和国民学校の5年生が疎開してきたこと、戦局の悪化とともに本土防衛の必要に迫られ、岩手県西磐井郡中里村に再疎開させられたことなどを紹介した。同書には、佐貫地下工場にいた技術中尉の日記が掲載されていた。疎開児童の様子がよくわかる日記なので、孫引きとなってしまうが紹介したい。

 糸を垂らしていると遊んでいた国民学校の生徒が十人程囲はりに集まって来て腰をおろした。竹藪の中のお寺に来ている本所深川方面の疎開児童で、彼等の疎開中に家庭は罹災し、災を免れた者は父兄が来て連れて帰って今は罹災した者のみ残っているのである。ネ、小父さん、小父さん等は何方から来たの?東京だろう、エ、そうだね?私は思わずいじらしくなった。君等も東京かい?僕んちはね此の間の空襲で焼けてしまったのだよ。僕んちだって焼けたんだよ。今居るのは皆焼けた者許り残っているの、日本の家は焼ける様に出来ているんだね。僕んちは一度焼けて引っ越したら又焼けて皆死んでしまって僕独り疎開していたから残ったんだよ。今、日本は戦争しているんだから家が焼けたり家の人が死んだりするのは仕方がないね。求めもしないのに彼等は各々身の上を口々に説明してくれた。彼等は東京空襲后の様子が知りたいのだ。戦局の変転に依り千葉県も戦場化の恐れ多分にありとの基に彼等は山形へ行ってしまったのである。日曜、何日もの様に竿を担いで宮下川に行った。“小父さん”と言う元気な子供等の聲を期待して、然しあの元気な子供等の姿は見られなかった。此の美わしき祖国の山河のために愛すべき同邦のためにどうしても勝たねばならぬと切に切に思はせられる。彼等は何処に居るだろうか。矢張り何時迄もあの元気朗かさを失はないで居るだろうか。いじけないで真直に元気に育って呉、次の日本を擔ふ明るい日本人となってと彼等の多幸を祈る心で一杯である。

     
            宮下川                    遍照寺

 
左上の写真は、佐貫地下工場の技術中尉が釣りをしていた宮下川である。改修が進み当時の姿ではないが、この付近で釣りをしていたと思われる。右上の写真が、中和国民学校の子供たちが疎開していた遍照寺である。技術中尉の方は、「ネ、小父さん、小父さん等は何方から来たの?東京だろう、エ、そうだね?」「僕んちはね此の間の空襲で焼けてしまったのだよ」「僕んちだって焼けたんだよ。今居るのは皆焼けた者許り残っているの、日本の家は焼ける様に出来ているんだね」「僕んちは一度焼けて引っ越したら又焼けて皆死んでしまって僕独り疎開していたから残ったんだよ。今、日本は戦争しているんだから家が焼けたり家の人が死んだりするのは仕方がないね」という子どもたちの言葉を聞いて、「いじらしく」思い、「何としても勝たねばならぬ」と決意をあらたにしているのだが、読者の皆さんはどう思うだろうか。また、中尉の日記の中では、子供たちは「山形」へ行ったとあったが、実際は岩手県西磐井郡中里村に再疎開していた。疎開児童全員が岩手県に行ったのではなく、親族の引き取り手のない児童が岩手県に疎開していったようだ。『すなみふるさと誌 宮下編』に、学童疎開のことが地元の方の思い出として掲載されていたが、岩手県への再疎開は昭和20年の8月10日だったという(『すなみふるさと誌 常代編』にも学童疎開についての記述があった)。ちなみに、千葉県に疎開した8,782人のうち岩手県に再疎開した児童は、引率関係者を含めて2,668人(ホームページ『語り継ぐ学童疎開』の「再疎開」より)で、東京都全体で疎開した人数は、引率関係者も含めて162,856人で、そのうち再疎開したのは、45,076人である(『学童集団疎開史』逸見勝亮著 大月書店)。『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠からみた軍国日本の膨張と崩壊』(山庸男著 うらべ書房)に、ある児童の岩手県での疎開体験も載っていたので紹介する。何ともやりきれない思いがするが、余分なコメントはここではさしひかえたい。

 
3月9日、君津から東京の夜空が赤く染まっているのが見えました。その光景が今でも私の目に焼きついています。その日から私は天涯孤独になったのかと思いましたが、姉が一人助かりましたが、姉弟で一緒にいられる場所はなく離れ離れに生きて行くことになりました。私たちの再疎開先は岩手県西磐井郡中里村の川辺学寮です。一関駅の次の山ノ目駅で下車し、小学校の分校みたいな建物でした。とにかく食べるものが無く、皆空腹を抱えていました。3度の食事もご飯や汁の半分は上級生に取られ、毎日空腹を抱えて寝る状態でした。冬はガラス窓から雪が舞い込み。朝起きると頭と布団の上は雪で真っ白でした。また、農家の子供から餅を一つ、自分の鉛筆や消しゴムと交換したりしました。学寮には暴力先生がいて、いつも鞭を手に叩き、時には10数名横列にしてスリッパでひっぱたき、その先生が一時東京に帰るとほっとしました。戦争が終わり、21年3月、山ノ目駅から大雪の中を、ガラスも無いベニア板の列車に乗って岩手を後にしました。その後、福島県の農家にお世話になり、中学を卒業し2年間のお礼奉公を終え、就職先も東京に決まりました。背中にお握り1個、50円を持ち、夢と希望、不安を乗せて生まれ故郷東京に向かいました。

 
全国疎開学童連絡協議会機関誌『かけはし』第33号に、上記の方の体験談が掲載されている。それによると、この方は、中和国民学校の4年生の男子で、小糸村に疎開中の昭和20年2月25日に米軍機の空襲を受け、疎開先の長谷寺が焼失という経験を持ち、さらに東京大空襲で姉以外の家族を失った。長谷寺焼失後は、親戚にたらい回しに預けられた後に、中和国民学校の先生が迎えに来て岩手県に再疎開した。再疎開先を引き上げた後にも、親戚中をたらい回しにされ、やっと福島県の農家に落ちついたという。

(2)周南地区の忠霊塔について
 周南小学校と農協の間にある小高い丘の上に忠霊塔がある。日清・日露戦争からアジア太平洋戦争に出征して、戦病死した兵士の霊を弔うためのものだ。最初は、昭和28年の12月に建設され、その後改修されたもののようだ。碑の文字は、徳富蘇峰によるとあった。その忠霊塔の右脇に、平成12年12月に、遺族会によって建てられた「忠霊塔合祀戦没者英霊之碑」があり、地区ごとに亡くなった兵士の名前が刻まれている。それによると、宮下8人、小山野10人、常代13人、浜子1人、六手11人、皿引12人、尾車5人、草牛2人、馬登11人、大山野15人、山高原7人、合計95人であった。年齢別にみると、40代が3人、30代が26人、20代が66人で、何と全体の約7割が20代である。あらためて、戦争の悲惨さを感じた。

 このうちアジア太平洋戦争で戦病死した方の場所を『すなみふるさと誌』(巻十 小山野の巻)で確認すると、5人の方の亡くなった場所がわかった。以下、その場所をあげると、「昭和17年7月13日 中国湖南省醴県大石塘」「昭和18年1月2日 ガダルカナル島エスペランス岬」「昭和19年6月17日 比島沖方面」「昭和20年5月20日 沖縄本島羽地」「昭和20年6月12日 比島ルソン島リザール州」である。中には、「昭和23年3月4日 自宅に於いて死亡」という方もいた。おそらく、戦地で受けた傷や病気がもとで亡くなったのではないかと思われる。
 同じように『すなみ部落誌 大山野編』で確認してみると、15人のうち11人の方の没年月日と場所が確認できる。昭和18年に亡くなった方は4人で、亡くなった場所は南洋諸島や中国、同19年が2人で、亡くなった場所はニューギニア東部と中国湖南省、同20年が5人で、亡くなった場所は比島や沖縄周辺であった。

 大山野地区の方が亡くなったニューギニア島では、昭和17年(1942)3月7日、ラバウル防衛と米濠遮断のために連合国の拠点であったポートモレスビー(現在のパプアニューギニアの首都)攻略をねらった「MO作戦」開始から、昭和20年8月15日の敗戦まで戦いが続けられた。実際にニューギニアの日本軍が降伏したのは、9月13日だった。この間に動員された日本の兵力は、軍属や民間人もふくめて約20万人、生還者はわずかに2万人という悲惨な戦いだったそうだ。飢餓と感染症で亡くなった兵士も多数にのぼったようである。信じられないが、「人肉食」で処刑された兵士も存在している。武装解除後に収容されたムッシュ島で、復員船を待っていて亡くなった人が1148人もいた。大山野の方が亡くなった昭和19年には、すでに戦いの趨勢は決していて日本軍は防戦一方となり、「転進」と「玉砕」の連続であった。

 ガダルカナル島とは、ソロモン諸島にある島である。アジア太平洋戦争の中で日本軍は、オーストラリアを攻略する目的で、ガダルカナル島に航空基地を建設する計画を立てた。そのガダルカナル島をめぐって、日本軍とアメリカ軍の戦闘が、昭和17年8月から翌18年2月、日本軍が「転進」するまで続いた。この戦闘で、日本軍の被害は、投入された31,404人の兵士のうち、戦死者約5,000人、餓死・戦病死者は、約15,000人だったといわれる(アメリカ軍の戦死者は1,598人、戦傷者は4,709人)。このガダルカナル島の戦いの敗北は、ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争の攻守の転換点であった。兵士の消耗というだけでなく、航空機の損失はミッドウェー海戦の3倍、そして、大量の輸送船や駆逐艦を失ったことは、以後の戦局に大きな影響を与えている。ところで、小山野出身の兵士が亡くなった1月には、すでに、12月末の御前会議で「転進」が決定されていたのである。しかし、実際に「転進」が行われたのは2月に入ってからだった。「転進」とは、「撤退」のことである。

 ガダルカナル島の攻防戦やニューギニア島での戦闘の趨勢が決した後、戦局の焦点はフィリピンに移ることになる。フィリピンの戦闘では、周辺の海戦も含めて、約52万人の戦死者を出している。重巡洋艦鳥海の乗組員だった筆者の叔父も、昭和19年6月にフィリピン沖で戦死したそうだ。フィリピンのルソン島で亡くなった大山野地区の方は、昭和20年の8月30日に亡くなっている。敗戦の2週間後である。その間の事情はどうだったのか、何ともやりきれない気持ちがする。そして、沖縄である。沖縄は、日本で唯一地上戦の行われた場所だ。昭和20年4月はじめにアメリカ軍が上陸し、6月23日に日本軍が降伏するまで続いた。兵士だけでなく、多くの民間人がその犠牲になっている。その数は20万人を超えるそうだ。筆者もかつて、小学校5年生で沖縄戦を経験した方の話を聞いたことがあるが、耳を覆いたくなるような体験談であった。そういえば、最近のニュース(平成20年11月)で、沖縄戦での「集団自決」が裁判で争われ、判決で軍の関与が指摘されたばかりである。決して忘れてはならない事実の一つである。

      
          周南地区忠霊塔            忠霊塔建設記(昭和28年12月)

 戦争で命を落としたのは、兵士ばかりではない。昭和20年5月8日には、君津地方一帯が空襲を受け、多くの死傷者を出している。小山野では、農作業を終えた家族が襲われた。以下に紹介するのは、「戦争犠牲の思い出」(『すなみふるさと誌』巻十 小山野の巻)と題する、空襲で家族を失った方の悲しい体験記である。

 私は昭和十七年十二月十日第二回目の召集を受け、東部七部隊(近衛歩兵第四聯隊)、応召なし召集兵の教育をして戦地に送出し戦死された遺骨を受領に行き聯隊葬行で郷里に返す等、又皇居並び大宮御所及び大本営の衛兵に服務す。折しも昭和十九年戦局は次第に不利となり皇軍は本土決戦を決意して決戦部隊を編成なし千葉県九十九里海岸一帯の防備に当たる。自分も其の一員に加わる我が隊は山武郡松尾町に着任、日夜陣地を構築中敵機の来襲は日増に加わり、重要都市の空襲情報は次々とあり時恰も昭和二十年五月八日午后六時私に取りて一生忘れる事が出来ない。隊長よりすぐ来いとの連絡あり早速行って見れば、隊長は何も言わず周南村長松本小八郎発信の公電を渡された。見れば、「サイミツヨシスシラススナミソンチョウ」との電文で有った。自分が先に死す覚悟で出征して居るのに銃後で先に死すとは何事か「ショック」で其の夜は一睡も出来ず明日休暇が出て帰郷して見れば、実に悲惨なり。五月八日午前十一時五十分に父と妻子供二人は牛車にて猪尻の田圃より帰る途中、米軍機の来襲に依り鎌田地先に於て機銃掃射を受け、父は腹部裂傷で重傷、妻きいは左胸部銃創で即死、長女美津代は右頸部貫銃創で即死、二女春代は左頭骨管銃創で重傷なり。牛も即死なす、車も大破す。情報によれば敵機は小山野地下航空廠を察して来襲したものと思う。同時に岩富寺の本堂も銃撃にて全焼した。然し非戦斗員を銃撃するとは、自分も何時かは戦死の身、只々敵に対する怨念のみだった。
銃後の皆様に家族が多大なるお世話になった事は一生忘れません。二人の葬儀を終わり帰隊したけれど父と二女の一日も早く回復するのを祈る日々であった。
そして八月十五日終戦で九月復員帰郷しました。皆様のお陰を持ちまして父は回復したけれど、二女は回復したものの右神経を破られ右半身不随となる。毎日その姿を見る度に想出す妻及び長女を殺生され二女まで、正常な身体で生まれて来たのに戦争の為に犠牲になり、此の様な片輪者で昭和二十二年四月に周南小学校へ入学し、以来小学校及中学校は無事卒業したけれど、三十年八月頭の盲管銃創が再発し君津中央病院に入院したけれど九月二日短い人生を終った。死の直前に戦争さえなければと怨みを呑んで行った。今後此の様な悲惨な戦争は絶対に起こさぬ様念願する者であります。特に近年叫ばれて居る「核」戦争こそ無き様、平和な国際社会を祈念するものであります。

(3)高間伝兵衛について
 大岡越前というと、テレビドラマの主人公として今や時代劇になくてはならない存在だ。もちろん、名奉行としての大岡越前は、水戸黄門や遠山の金さんと同じように、後世の作り物であるが、8代将軍吉宗の下で、江戸町奉行として活躍していたのは事実なのである。実は彼が町奉行として一番苦労したのは、江戸の米価の安定であった。その大岡越前と密接な関係にあった米商人が、君津市の周南地区出身の高間伝兵衛という米穀商だったのである。高間伝兵衛はおそらく、当君津地方の米穀を引き受け江戸で商うことで財をなし、後に上方からの米穀を独占的に取り扱う米穀商の一人となった。日本橋伊勢町に米蔵48棟とともに店を構え、隣接する本船町に「高間河岸」を設けていた。町奉行の大岡越前と連携して米価を左右するほどの影響力を持っていた大商人で、享保18年(1733)には、江戸庶民1700人による打ちこわしの対象になったほどであったという(江戸で起こった最初の打ちこわしで、『高間騒動』と呼ばれている)。この時は偶然妻子とともに周南の自宅に戻っていて、当人や家族には被害がなかったらしい。この打ちこわしにあったことから、高間伝兵衛は悪徳商人の代表として時代劇に登場することがある。『学研まんが 人物日本史 徳川吉宗』の中でも、庶民をいじめる悪役として扱われていた。
 『西上総の史話』(菱田忠義著)によると、「伝兵衛」という名は代々世襲されたものだそうで、元禄と文化年代の米売り渡しの文書にその名が見えるという。先にふれた「伝兵衛」は享保期の高間伝兵衛のことで、彼は、町人でありながら幕府の「米方役」(寛延2年11月に辞退)という役職について、町奉行大岡忠相のブレーンとして江戸の米価の安定のために努力したのである。たとえば、享保18年米価が高騰した時には、打ちこわしにあいながら、幕府に願い出て手持ちの米2万石を、米の等級にかかわらず「五升安」で放出したり、また、享保20年米価が下落した時には、江戸の米商人の中で最高額(5000石)の「買置き」をしている。延享4年(1747)には、播州明石藩の蔵米を扱い、天保から嘉永期には、川越藩の御用商人として20人扶持をあてがわれていた。
 「私の聞いた高間傳兵衛の伝記」(鈴木善治著 『すなみふるさと誌』巻九 常代の巻)によると、高間伝兵衛は米穀商ではなく、大名相手の金融業者であった(三代位までは町人を相手にしていた)。返済を年貢米で受け取っていたのである。また、日本橋にあった米蔵は実際は24棟だったともあった。この高間家は享保期がピークだったらしく、以後少しずつ衰退傾向に入って、幕末から維新にかけての社会の大変動の中で没落して行ったようだ。諸大名の蔵米を扱い、さらに大名貸しを行ってきたことが、没落の大きな要因となったようだ。現代の用語で言えば、諸大名に対する貸付が不良債権となってしまったということだろう。
 先日、木更津ケーブルテレビの『君津市の歴史たんぽう』で周南地区の歴史を扱っていたが、周南中学校近くの宮下川に架かる「高間橋」は、高間伝兵衛にちなんで名づけられたと紹介されていた。その近くに、かつての高間伝兵衛の屋敷があったことから名づけられたものだという。地元の伝承などによると、高間伝兵衛の所有地は、屋敷と田畑も含めて12町歩もあり、敷地内には4反歩もの池があったという。この屋敷跡は、平成4年に、区画整理の関係で発掘調査され、報告書も出ている(『常代遺跡群』)。報告書によると、高間屋敷の長屋門は「平治門」と呼ばれていて、大正3年頃に周南大山野地区の渡辺家に売却され、移築されて現在に至っているという。

      
           高間橋                 高間伝兵衛屋敷跡付近

(4)「五ヶ村用水」と周南中学校
 高間橋や高間伝兵衛屋敷跡の近く、現在の周南中学校の裏手に、コンクリート製の堰がある。コンクリートの内側には、江戸時代の木製の杭のようなものも残っている。『君津市史』によれば、元禄13年(1700)には番水の取り決めがされていたというから、それ以前に造られた結構古い用水のための堰である。ここから引かれた用水は、旧高間屋敷の前を通って、常代村、郡村、杉谷村、貞元村、八幡村の5つの村に用水を供給したことから、「常代五ヶ村用水」と呼ぶそうだ。灌漑面積は、150町に及んだという。旗本領が錯綜する小糸川流域ではめずらしく、数ヶ村を結ぶ用水である。高間橋の近くに、記念碑が建てられている(右下の写真 平成12年建立)。「五ヶ村用水」は、最近まで使われていたが、「
昭和50年周南中学校の校舎移転が計画され、校庭の拡幅工事の為、大小ニつの堰止め施設を壊さざるを得なく、永い間利用していた水利権も放棄せざるを得なくなった」(記念碑の碑文より抜粋)ということで、現在は記念碑と一つの堰を残すのみである。

      
        常代五ヶ村用水堰                五ヶ村用水の碑

 ここで、周南中学校の歴史についてふれておく。周南中学校は、昭和22年4月の開校以来現在の周南小学校に隣接し、運動場などは共有であったという。新日鐵の君津進出にともなって生徒数が増えたのであろう、昭和46年7月に現在の地に移転している。全校生徒で、机や椅子を持って引越しをしたと聞いた。筆者も大貫小学校の移転で、同じ事を経験したことを思い出し、なつかしさをおぼえた(中学校移転の年の9月に、君津と富津は市制をしいている)。そして、昭和50年、移転してきた中学校の運動場を拡張するため、五ヶ村用水のための堰が取り壊されることになったのである。運動場の埋め立て改修工事は、9月に完了している。かっての宮下川の流路は、現在の中学校の運動場の一部にかかっていたらしい。運動場の拡張のために、宮下川の流路は現在のように改修されたのである。
 最近気づいたのだが、本サイトでもたびたび引用している、平成6年(1994)発行の『君津市埋蔵文化財分布地図』で使用されている地形図はかなり古いもので、何とそこには河川改修前の宮下川の流路が出ていたのである。それによると、現在は南から北へ直線的に流れる宮下川は、かつては周南中学校のグラウンド側に大きく蛇行していたのである。どうでもいい小さな発見なのかもしれないが、筆者にとっては大変意義のある発見であった。おかげで、河川改修の様子がイメージできるようになったからだ。

(5)周南地区の道標について
 房総の石造文化財』には、周南地区の道標が5つでていた。休日の午後を利用して、撮影に出かけた。彫られている文字は読めないものもあったので、『房総の石造文化財』を参考にした。

 左下の道標は、周南公民館の北側宮下字石畑にあった六地蔵である。「
右 かのう道 左 きさらず道」と彫られている。安永8年(1779)の刻銘がある。
 右下の道標は、周南公民館から東に300mほど行った館山道の近く、大山野字山田谷にある地蔵塔である。宝暦4年(1754)の刻銘がある。「
右 かのふ道 雪飛山 左 ふつ津道」と彫られている。

      

 左下の道標は、大山野の若鍋商店前にある供養塔である。近くには、「ほうとう様」と呼ばれている大きな仏像塔がある。地元の方の話では、元刑場だったということだが。明和5年(1768)の刻銘があり、「
南 さぬき道 西 よし乃ミち 北 きさら津道 東 中しま」と彫られているというが、筆者にはほとんど読めなかった。
 右下の写真は尾車字曲松にある道標で、『房総の石造文化財』によれば、馬頭観音だという。しかし、風化が激しく、文字はほとんど確認できなかった。したがって、いつ建てられたのかは不明である。ただ、写真を見てわかるように、方向を示す手の浮き彫りは確認できる。「
かのう山道 きさらず道」と彫ってあったそうである。

      

 左下の写真は、附属寺の入り口に当たる六手字前畑にあった道標である。正面に「是ヨリ大師道」と大きく彫られていて、左側面に「左 かのうざん とおりぬけ」とあった。実は、附属寺や八幡神社を何度も訪れていたが、『房総の石造文化財』を見るまでこの道標には気づかなかった。いや、石造物があったのは知っていたが、附属寺の入り口を示す石造物だと思っていたのだ。建てられたのは、天保13年(1842)である。それにしても、「とおりぬけ」とはどんな意味なのだろう。不思議な表現である。
 右下の写真は、草牛との境目近くにあった馬登地区の道標である。見てわかるように仏像塔で、『房総の石造文化財』には載っていなかった道標である。正面の浮き彫りの仏像の下、右側に「
鹿野道 二十丁」、左側に「木更津三里半」とあった。この道標が建てられている道は、草牛や馬登から鹿野山へと向かう道で、細い山道なのだが、今でも他県ナンバーの車も通る道である。撮影中にもわきを車が抜けていった。年代の刻銘がなかったので、建てられた年代は不詳であるが、表記の文字や隣りに大正4年に建てられた村境標(倒れていたが)があったことを考え合わせると、どうも、江戸時代のものではない可能性もある。

      

      

 左上の鳥居は、春日神社の鳥居で、鹿野山測地観測所入り口わきにある。その斜め前に、道標があった(右上の写真)。今まで何度もこのわきを車で通っていたのだが、全く気付かなかった。『房総の石造文化財』の君津市の道標の1番最初に出ていたので、鹿野山へ行ったついでに撮影してみた。周南地区の道標ではないが、周南地区の道標に従って登ってくるルートの一つにあたるので掲載してみた。見ての通り仏像塔である。年号は「明和」と読めるが正確なところはわからなかった。正面には写真でも読めると思うが、「
きよすみ 大山ミち なこてら」の文字が読めた。その他の面にも文字が書いてあったが、読み取っている時間がなかったので、再度確かめなければと思っている。正面の文字から察すると、鹿野山道は、神野寺への参道であるとともに、久留里や安房地方へ「通り抜ける」街道であったことが想像される。

 周南地区は鹿野山の登り口にあたることから、鹿野山道に関する道標が多い。興味深いのは、周南公民館近くの2つの道標である。道標があるということは、昔の幹線道路であったはずだ。しかし、今では、いずれも地元の人しか通らないような道沿いにあって、探す目的でもなければとうてい見つけられない、そんな場所にひっそりと立っているのである。かつての幹線道路も、直線的な現代の道路からはずれ、今では道標としての役割を終え、地蔵塔として信仰の対象のみに役割が限定されてしまったのだ。