(1)君津地方の遺跡について 最近刊行された『千葉県の歴史 資料編 考古4』の巻頭に載っている、君津地方の遺跡を紹介しよう。いずれも、千葉県を代表するような遺跡であるが、現在は道路建設や宅地造成の関係で見ることはできない。ただ、考え方を変えると、そのおかげで遺跡の存在が確認されたのではあるが。『千葉県の歴史』では、富津市の内裏塚古墳群や弁天山古墳も紹介されているのだが、『富津市の歴史PartU』『君津地方の歴史』でふれているので、ここでは割愛した。 ○『三直貝塚』について(君津市) 三直貝塚の発見は昭和3年(1928)と古く、当初は旧村名をとって「八重原貝塚」と呼ばれた。「三直貝塚」と呼ばれるようになったのは、昭和34年の『日本貝塚地名表』からだそうだ。館山自動車道建設にともない、平成11年7月より本格的な発掘調査が行われ、竪穴住居40軒、土抗60基、多数のビット、貝層1ヶ所、土器捨て場2ヶ所などが確認された。 次にあげる二つの点で、この遺跡は注目される。一点目は、この貝塚が存在する場所である。海から7kmも離れた標高99mの高所に貝塚が形成されていることである。筆者も見学に行ったが、近くを流れる畑沢川に下りるのに相当苦労したのではないかと感じた。二点目は、大規模な土木工事が行われていることである。山頂部を削り取り平坦部をつくるとともに、それによって出た土砂をその周囲の斜面に押し出し、平坦部を広げているのである。金属器のなかった時代である、ほとんど手作業でこうした土木工事を行ったことになる。縄文人の知恵と努力に驚きを感じる。この土木工事の跡は「環状盛土遺構」というらしいが、専門家ではないので詳しいことはわからない。ただただ、今から数千年も前にこうした土木工事が行われたということに驚くばかりである。この貝塚から出土した土偶が、『房総の文化財』で紹介されている。 なお、ホームページ『千葉市の遺跡を歩く会』の「小櫃川流域の貝塚−豊かな海の記憶」で、「三直貝塚」周辺の航空写真を見ることができる。参考までに。 ○『常代遺跡』と『向神納里遺跡』について(君津市、袖ケ浦市) 常代遺跡は君津市に、向神納里遺跡は袖ケ浦市に存在する。二つの遺跡とも、弥生時代の方形周溝墓が確認された。常代遺跡は、出土した土器から東日本で最古の方形周溝墓であることがわかった(弥生時代中期中葉)。向神納里遺跡では、方形周溝墓が160基検出されている。常代遺跡でも同じ数の方形周溝墓が見つかっているが、この数は、東日本で最も多いそうだ。方形周溝墓とは、方形に囲んだ溝の内側に低い墳丘を盛って、中央に木棺を安置するもので、弥生時代前期に近畿地方で生まれ、東海地方をへて関東に広まったものだ。 なお、常代遺跡では水田跡や住居跡は未検出であるが、木製の農具も多数出土し、堰の跡も検出されていることから、弥生時代中期(今から約2,100年前)には、君津地方でも稲作が行われていたことが確認できる。この常代遺跡出土の木製品は、平成18年3月に県指定有形文化財に指定された。久留里城址資料館の企画展で木製品を見たが、杵や臼、鋤や鍬、弓や斧の柄、田下駄や梯子など、保存処理の施された木製品は、今でも使えそうだった。弥生土器や籠などの生活道具なども多数発掘され、また、炭化した籾の付いた米のかたまりなども出ていて、当時の人々の生活が偲ばれる。 ○『高部古墳群』(木更津市)について(木更津市) 市原市の神門古墳群は、東日本の出現期古墳を代表する前方後円墳であるが、木更津市請西の高部古墳群はそれに次ぐ高塚古墳である。高塚古墳とは、畿内型の大型前方後円墳に先立って築造された定式外の古墳のことである。高部古墳群には、出現期、中期、後期、終末期の古墳が存在しているが、そのうち、出現期の古墳には、前方後方墳2基、方墳2基がある。方墳は前方後方墳に対し従属的な古墳であるとされている。2基の前方後方墳いずれの古墳からも、中国三国時代初期の鏡と鉄槍が副葬品として出土している。また、墳頂部の埋葬施設や周溝内の埋葬施設周辺では、祭祀に用いられたとみられる土器が出土している。 高部古墳群の30号墳(前方後方墳、先にあげた前期古墳の一つ)の下層から、比較的規模の小さな家庭菜園のような畑の跡と考えられる遺構も検出されている。時代的には、弥生時代後期から古墳時代前期にあたる(「千束台遺跡」という)。 |
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(2)君津地方の旧石器時代の遺跡 当地方の旧石器時代の遺跡としては、富津市の天王台遺跡が前々から知られている。天王台遺跡は、現在の天羽中学校建設にともなって発掘された遺跡で、標高30mほどの台地上に存在する。校庭の西端付近から黒曜石製の打製石器が1点、また、校庭の北端部からチャート製のナイフ型の打製石器が発見されている。『君津地方の歴史PartU』の「ドンドンについて」で紹介している「百々目木B遺跡」や「美生遺跡群」のように、近年の調査によって、いや、開発の進展によって、天王台遺跡以外の旧石器時代の痕跡が数多く発見されるようになった。以下、『千葉県埋蔵文化財分布地図』(平成12年 千葉県教育委員会発行)などによって、君津地方4市の旧石器が出土した遺跡を紹介しよう。なお、房総半島に人々が生活をはじめたのは、今から約3万年前だといわれる。 【袖ケ浦市】・・・・・30ヶ所 上大城遺跡(久保田)、美生遺跡群(久保田)、坂下遺跡(久保田)、 笠上D遺跡(久保田)、八重門田遺跡(久保田) 上笠上谷遺跡(代宿)、清水川台遺跡(代宿) 豆作台遺跡(代宿)、鼻欠遺跡(神納)、清水沢遺跡(神納)、神納山野遺跡(神納) 台山遺跡(野田)、鎌倉街道A遺跡(野田)、山谷遺跡(野田) 百々目木B遺跡(飯富)、三箇遺跡(三箇)、荒久遺跡(三箇) 中六遺跡(蔵波)、堂庭山B遺跡(蔵波)、雷塚遺跡(蔵波)、根崎遺跡(蔵波) 伊丹山遺跡(蔵波)、寺ノ上遺跡(蔵波)、永吉台遺跡(永吉)、小谷遺跡(永吉) 根形台遺跡群(下新田)、滝ノ口向台遺跡(滝ノ口) 文脇遺跡(上泉)、打越岱遺跡(上泉)、樋爪遺跡(川原井) 【木更津市】・・・・・24ヶ所 俵ヶ谷遺跡(大久保)、中越遺跡(大久保)、マミヤク遺跡(小浜)、西谷古墳群(桜井) 千束台遺跡(請西)、大畑台遺跡(請西)、小谷遺跡(請西)、大山台遺跡(請西) 堀ノ内台遺跡(下烏田)、山神遺跡(下烏田)、金ニ矢台遺跡(烏田) 天神前遺跡(矢那)、蓮華寺遺跡(矢那)、二重山遺跡(矢那)、中尾百谷遺跡(中尾) 東谷遺跡(中尾)、中台A遺跡(笹子)、石仏遺跡(伊豆島)、赤坂台遺跡(下宮田) 林遺跡(下郡)、藪台遺跡(真里谷)、宮脇遺跡(田川) 野洞遺跡(犬成)、下野洞遺跡(犬成) 【君津市】・・・・・・・・7ヶ所 星谷上古墳(内箕輪)、常代遺跡(常代)、金ヶ谷遺跡(糸川)、糸川上ノ台遺跡(糸川) 大井戸八木遺跡(大井戸)、藤林遺跡(藤林 「藤林遺跡」は、「寺ノ代遺跡」とも) 向郷菩提遺跡(向郷) 【富津市】・・・・・・・・4ヶ所 東天王台遺跡(岩坂)…はじめに紹介した「天王台遺跡」を含んでいる。 岩坂大台遺跡(岩坂)、富士見台遺跡(湊)、前三舟台遺跡(前久保) ※( )内は、所在地の大字を示す。遺跡の名称は小字であることが多い。 ※袖ケ浦市の遺跡については、一部だが、袖ケ浦市郷土博物館のホームページ でその概要が調べられる。それによると、清水川台遺跡は、君津地方ではじめ て本格的に旧石器時代の調査が行われた遺跡だということがわかる。 ※君津市の大井戸八木遺跡、袖ケ浦市の文脇遺跡、木更津市の中越遺跡では、 それぞれ土壙墓から小銅鐸が出土している。千葉県では8例、全国的にも46 例しかないそうだ。大井戸八木遺跡の小銅鐸の写真は、確か、久留里城址資 料館に展示してあった記憶がある。 ※君津地方の縄文・弥生時代の遺跡の数については、『富津市の歴史について PartU』「富津市の縄文・弥生時代の遺跡」の最後に記している。 前掲の『千葉県埋蔵文化財分布地図』では、60ヶ所、旧石器が出土した遺跡が確認できる。「八重門田遺跡」(「八重門田」は「やえむた」と読む)は、平成17年1月に発行された『八重門田遺跡発掘報告書』による。「野洞遺跡」(「野洞」は「のぼり」と読む)「下野洞遺跡」「糸川上ノ台遺跡」は、君津郡市文化財センターの「年報」(平成15、16年版)による。君津市の「向郷菩提遺跡」は、『千葉県の歴史 通史編 原始・古代1』792頁の旧石器時代の遺跡分布図にあった。これらを加えるとと、合計65となる。いずれも、宅地造成や道路建設などの関係で発掘調査され、発見されたものである。開発の進み具合の関係から、袖ケ浦市や木更津市に多く、君津市や富津市は少ない。それにしても、この数の多さには驚いた。昭和58年(1983)発行の『千葉県のあゆみ』には、先にふれた「天王台遺跡」しか図示されていなかったことを考えると、この20年間に、館山道やアクアライン取り付け道路の建設、また、請西や伊豆島をはじめとした大規模な宅地造成など、当地方の開発がかなり進んだということだ。 「65」という数字は、平成19年12月4日現在で、筆者が確認した遺跡の数である。中には、発掘報告書に目を通しても旧石器の説明がなく、主たる遺跡は縄文や弥生などで、遺物の中に偶然旧石器があったと考えざるをえない遺跡も存在している。例えば、君津市の常代遺跡の発掘報告書では、旧石器については全く記述がない。しかし、平成12年度版の『千葉県埋蔵文化財分布地図』には「旧石器」との記述があったのである(昭和62年発行の『千葉県埋蔵文化財分布地図』では、常代遺跡は「古墳」と紹介されていた)。 開発の進展以外に、もうひとつ旧石器時代の痕跡が発見される遺跡が増える原因が考えられる。それは、旧石器時代の遺物そのものを目的とする調査が行われるようになったことだ。地層の上から考えれば、旧石器時代の遺跡は、当然最下層に位置しているはずである。偶然発見されることもあるとは思うが、発掘しようという意図がなければ、普通は調査されないのである。たとえば、木更津市の「千束台遺跡」は、「高部古墳群」の下層から発見された遺跡である。古墳の調査のみで終わっていれば、発見されなかった遺跡だ。君津市の「星谷上古墳」でも、旧石器が見つかっている。旧石器の存在を想定していなければ、発見されなかったと思う(発掘報告書を確認していないので、ひょっとしたら偶然発見された可能性は否定できないが)。また、発掘するための予算や期間も問題となってくる。こうして考えてみると、残念なことだが、調査もされずに消えていった旧石器時代の遺跡もあったのではないだろうか。多くの場合、発掘調査が終われば遺跡は消滅し、遺跡の上に建物や道路ができてしまうからだ。 次に、『千葉県の歴史』の資料を一部修正した(君津市の「大井戸八木遺跡」「金ヶ谷遺跡」「糸川上ノ台遺跡」「藤林遺跡」の位置を、分布図上に落としてみた)、遺跡分布図を載せる。黄土色にぬられたところは台地で、関東ローム層の武蔵野ローム層を示すらしい。周辺に一部立川ローム層の場所もあるようだが。黄緑色の部分は丘陵地を示す。赤い点の位置が、旧石器時代の遺跡である。袖ケ浦市や木更津市で最近発見された遺跡はここには載せていないが、それでも、旧石器時代の遺跡分布の全体的な特徴はわかると思う。 なお、旧石器時代の海岸線は、現在とは全く違っていたことをおさえておかなければならないだろう。今から1万5千年前には東京湾は存在せず、「古東京川」が流れる陸地であった。小櫃川、小糸川、湊川はその支流で、その後、徐々に東京湾が形成されるようになったのである。逆に、今から5、6千年前には現在の海岸線よりも後退していて、現在の低地はほとんど海の底だったようで、小櫃川、小糸川、湊川の流れもかなり違っていたと思われるのである。 |
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(3)雷塚遺跡について(袖ケ浦市) 先日、大阪にお住まいの方から、雷塚遺跡について問い合わせがあった。筆者としても、旧石器時代の遺跡の一つとして紹介していることもあって、君津市の図書館で報告書を借りて調べてみたので、ここで概要を紹介してみたい。 雷塚遺跡の所在地は、袖ケ浦市神納である。清水建設の研究所建設にともなって、平成3〜4年にかけて発掘調査が行われ、報告書は平成11年に発行されている。報告書を作成した君津郡市文化財センターは、現在は解散している。調査地は、かつての三育学園があった場所で、先に問い合わせのあった方も、そこで学んでいた方であった。 さて、報告書によると、雷塚遺跡は、旧石器時代から奈良・平安時代にかけての複合遺跡であった。ナイフ型石器など旧石器、縄文時代の落とし穴や炉穴、弥生〜古墳時代の住居跡(弥生時代7軒、古墳時代103軒)、弥生時代の方形周溝墓2基、古墳時代後期の方墳2基、井戸跡1基、その他多数の土器片やガラス玉など、多くの遺物や遺跡が見つかっている。中でも筆者が注目したのは、墨書土器(24点出土)や皇朝十二銭のひとつ「神功開寶」が見つかったことである。多くの遺物や住居跡などから、この地には、8〜9世紀に集落が営まれていたようだ。また、平安時代の火葬墓からは、買地券と思われる板状の鉄製品が発見されている(袖ケ浦市郷土博物館ホームページ)。なお、買地券とは、古代中国の思想にもとづくもので、あの世の神様から墓地を買い取ったことを示すもので、本来は鉄の板に文字が書かれていたと考えられている。非常にめずらしいものらしい。 |
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(4)新日鐵と地域の変化〜木更津市畑沢地区を例に〜(木更津市) 先日、君津市中央図書館で調べものをしている時に、畑沢地区の歴史を調べにやってきた小学生に会った。以前に、畑沢地区の歴史を多少調べたことがあったので、その小学生と司書の方の会話に割り込んだのはいいが、図書館に適当な資料がなかったこともあって、十分なアドバイスを送ることはできなかった。その時のことを反省しつつ、手持ちの資料をもとに、近年の畑沢地区の歴史の一端を紹介してみる。
上の表は、見ての通り、1958年から1992年までの木更津市畑沢地区の人口の変化を示している。減少傾向にあった人口が、1968年から1973年の間に急激に増加していることがわかる。人口増加は、八幡製鉄所の君津進出に関係するということは、誰でも予想できるだろう。かつては、カブトムシの捕れる山だった畑沢地区が、現在のように住宅地に変貌した経緯を、新日鐵進出との関連でみてみよう。 八幡製鉄は、1961年に君津地区進出を、1963年に木更津地区進出を決めた。君津地区の遠浅の海岸は埋め立てられ、冷延工場の操業が1965年に始まった。翌1966年に畑沢地区の埋め立てが許可され、1967年に畑沢漁業協同組合、小浜漁業協同組合が相次いで漁業権を放棄している。漁業権放棄については、その記念碑が、畑沢漁業組合は浅間神社鳥居脇に、小浜漁業協同組合は水神社境内に、それぞれ建立されている。海で生きてきた漁師たちが、漁業権を放棄する過程では、様々な葛藤があったと思うが、県の政策に従って工業開発に協力した旨が記されている(杉浦明著『房総の夜明け 新日鐵君津物語』を読むと、埋め立てをめぐる地域の人々の動向がある程度わかる。ただ、筆者が当時君津町の総務課長という立場で、開発行政にたずさわっていた側であったことは、念頭に置いて読む必要はあるが)。 小浜 漁業権放棄の碑 畑沢漁業協同組合解散記念碑 小浜漁業協同組合の漁業権放棄の碑が建立された1968年には、君津製鉄所第1号高炉が稼動し始めている。2号高炉は、1969年にスタートした。いよいよ本格的な製鉄所として動き出したことになる。ついでであるが、この1969年は、現在の内房線(かつては房総西線といった)が君津駅まで電化された年でもある。製鉄所の本格的な稼動とその規模の拡大にともなって、そこで働く人々の住宅開発も始まった。畑沢地区では、1969年から日鉄不動産によって、主として畑沢川の北側の宅地造成が始まる(君津市域では、すでに、1964年から団地の建設が始まっている)。この頃できた団地や独身寮は、現在使用されていない。独身寮は解体され、今では新たな住宅地となっている。団地の建物はまだ残っていたが、立ち入り禁止の札が立っていた。 1970年になると、八幡製鉄が富士製鉄と合併し、新日本製鐵となった。この年、房総西線が君津駅まで複線となった。君津高等学校が開校する、翌1971年に「畑沢土地区画整理組合」が、そして、1972年には「畑沢第二土地区画整理組合」が発足し、畑沢川の南側の宅地造成が本格化するのである。区画整理は徐々に進み1977年に終わり、最終的には1983年に「畑沢第二土地区画整理組合」の解散総会が開かれている。左下の写真はこの時に、畑沢集会所に建設された記念碑である。この間の1978年に畑沢小学校が、1980年には畑沢中学校が開校している。地域全体の人口が増加するとともに、子供の数が増えたからである。 以上のことからわかるように、1968年〜'73年の急激な人口増加は、製鉄所の進出にともなう1969年からの宅地造成の結果である。以後も、区画整理の進展に比例して、人口が増えている。その間にバブルの時期をはさんで、現在では、畑沢地区のみならず、畑沢地区の北側に隣接する小浜地区でも区画整理が行われ住宅が少しずつ増えたり、新日鐵の独身寮が解体され住宅地が広がったり、高層の社員住宅が閉鎖されたりした(「畑沢埴輪窯跡」は、かって社員住宅の水道を供給する施設の周辺に存在していた)。その一角に高速道路も通るなど、地域の変貌はさらに進んでいる。 土地区画整理組合記念碑 畑沢南5丁目付近 なお、開発の前と後の地形図や航空写真を見比べると、地域の変化が一目でわかる。公民館や学校などに掲示してあるのではないかと思う。さらに、畑沢地区は歴史の宝庫であることを付け加えておく。明治時代に調査された「葭ケ作貝塚」が、隣接する大久保地区にある。これは、木更津市内で初めて調査された遺跡である。また、上総博物館(現在の木更津市郷土資料館 金のすず)にディスプレイが展示されていた「畑沢埴輪窯址」も、かつての団地の端、今では住宅地の真っ只中になってしまったが、古墳時代に形象埴輪が焼かれた跡である。このような遺跡は、千葉県内では2ヶ所しか見つかっていないそうだが、「畑沢埴輪窯址」は関東地方最古のものだという。ここで焼かれた埴輪は、富津市にある内裏塚古墳に供給されたそうである。畑沢中学校体育館の裏山には、古墳時代末期の「二十歩横穴群」が残っている。頼朝伝説の残る、「浅間神社」や「白旗八幡」もある。「白旗八幡」があった場所は、畑沢の地名の起源となる「旗竿」を切ったとの言い伝えがあるし、波岡寺には、「旗竿村」と刻印された石碑(下の写真)が存在している。隣りの小浜地区には、前項で紹介した、旧石器の出た「マミヤク遺跡」や「俵ヶ谷遺跡」も存在する。 残念なことがある。それは、開発の結果、住所表示が機械的なものとなり、古い「小字」が消えてしまったことだ。『君津郡誌』には、かつての「小字」が記録されているが、該当する場所はわからないものが多い。「袋下」など、歴史的な「小字」の所在については、今のうちに地図に落とすなどの作業が必要であろう。 波岡寺 石碑 畑沢埴輪窯跡付近 マミヤク遺跡のあった場所 俵ヶ谷遺跡のあった場所 |
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(5)道標とかまくら道について(木更津市) 職場が木更津市に変わったこともあって、平成21年6月のある日曜日に前々から訪ねてみたいと思っていた道標を、『房総の石造文化財』を頼りに探しに出かけた。その道標は、木更津、君津、富津の3市に残る道標にはない「かまくら道」と彫られた道標である。筆者も以前に使ったことのある、烏田から真舟に抜ける道沿いだと安易に考えて出かけたのだが、区画整理事業や道路事情の関係だろうが、十数年前とはかってが違い、「発見」するのに時間がかかってしまった。「発見」した道標の写真が、左下の写真である。見てわかる通り仏像塔である。正面の右側には「右ハ加らす田道」、中央には「北かまくら道」、左には「左ハ高くら道」と彫られているそうだが、筆者は読めない部分があった。年代は不明であるが、江戸時代の後期ではないかと推測される。この道標は三叉路の中央に立っていたそうだが、道標に従って北(正確には北西の方角)の尾根道にそって進むと、右下の道標に行き当たるようだ。右下の道標の正面には、「北 きさらす」「東 たかくら」「西 かのふ山」「南 古いと」と彫られていた。立てられたのは、文政7年(1824)である。この道標も宅地開発のために動かされたようだ。元は、造成地の下現在は拓大紅陵高校のテニス場近くの交差点にあったという。 「かまくら道」と彫られた道標 紅陵高校近くの道標 この後、『君津地方の歴史 PartX』、『周南の歴史 PartV』、『富津市の歴史 PartX』でもふれるが、現在に残る道標は江戸時代の終わりに立てられたものが多く、信仰と物流のためのものだった。もちろん、それよりも古い道をそのまま活用していた道もあったとは思うが、それを証明するものがない道ばかりである。しかし、上記の2つの道標を結ぶルートは、「かまくら道」という刻印が物語っているように、鎌倉時代の道がそのまま残されている可能性が高いと考えている。古道は高低の少ない尾根道を進むことや、このルートの先にある貝渕地区に「渡海面」という地名が残されていることが、それを示しているのではないだろうか。中世の房総には今の神奈川県にあった称名寺というお寺の領地が数多く存在し、その年貢を房総の港から送ったという記録も残っているそうだ。この辺の事情は、郷土史家の先達小熊吉蔵氏の『西上総に於ける古街道の研究と国府郡家所在地との関係』で論述されているらしいというが、残念ながら筆者は目にしたことはない。小熊吉蔵氏は、『君津郡誌』にも関わった、教育者でもあり郷土史家でもあった人物である。 長楽寺の道標 桜井新町の道標 『房総の石造文化財』を頼りに、請西、桜井近辺を歩いて道標を撮影に出かけた(2009.7月)。最初に撮影した道標(左上の写真)は、長楽寺入り口の道標である。写真を見てわかる通り地蔵塔である。文政10年(1827)の刻銘があり、正面には「此方 木更津」、右側面には「此方 かのふ山道」、左側面には「此方 高くらみち」とあった。右上の道標は、桜井新町にある道標である。これぞ道標という立派なもので、文政13年(1830)の刻銘があった。正面には写真でも読めるように、「(右側)此方 かのうふさん道 三リ半 (左側)此方 木更津道 弐拾町」、左側面には「(右側)みねのやくし 一丁 (左側)多可くらみち 弐里」とあった。 |
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