君 津 地 方 の 歴 史
PartU

(1)阿久留王伝説について
 推理作家 内田康夫は、「中央に侵略される地方」といった構図を歴史的な背景として、幾つかの作品を作っている。最近では、『十三の冥府』(実業之日本社 2004年1月)などもその類である。いわゆる『記紀神話』をベースとした日本の歴史に対し、中央政権が国土を統一する過程で、駆逐されていった地方政権(その多くが「鬼」であったり、「土蜘蛛」であったりするが)の側から、その経過を見るとどうなるのか、まさにそれは「侵略」そのものではないか。内田作品は、名探偵浅見光彦が事件を解決していくおもしろさとともに、そんな視点を読者に与えてくれる。当君津地方にも、同様な言い伝えがあった。それが、阿久留王(「アクルオウ」と読む)の伝説である。
 阿久留王とは、鹿野山を本拠地とする、まさに中央政権にとっては「鬼」にあたる、君津地方を支配する王であった。君津市六手(「むて」と読む。平成17年3月まで、筆者の通勤経路であった)に生まれ、別名六手王と言った。支配地域を拡大する阿久留王に対し、景行天皇の命令でかの有名な日本武尊が征伐のために登場してくるのである。

 日本武尊については、弟橘姫命の悲劇的な話とともに、各地に吾妻神社があったり、木更津をはじめとして、各地の地名の由来となったりと、当地方と深い関係のある神話に登場する人物(神かな)である。木更津市の太田山に下の写真のように、「きみさらずタワー」が建てられているほどだ。

                
                      きみさらずタワー
            弟橘姫の像                日本武尊の像
       
       
 下の写真は、日本武尊伝説の残る、鹿野山白鳥神社とその境内にある弟橘比売神社である。君津市教育委員会の立てた案内板には、以下のような記載があった。

 白鳥神社は、日本武尊・弟橘比売命を祭神とし、厄除開運、家内安全、生業繁栄をはじめ、吉凶禍福のお告げを授ける神として知られています。
 伝説によれば、景行天皇の皇子である日本武尊が、天皇の命により、鹿野山を拠点として猛威をふるっていた阿久留王を征伐するため、東国へ下ったといわれます。
 途中、相模から上総に渡ろうとして、走水(三浦半島浦賀付近)のあたりにさしかかったとき、暴風雨に遭遇し、船は先に進めなくなりました。このとき、妃の弟橘比売命が、波風の平穏を海神に祈りながら海中に身を投じたところ、海は静まり尊は無事上総国にたどり着き、阿久留王を征討して民生の安定をはかったといわれています。
 日本武尊が亡くなったのち、白鳥となって鹿野山に飛翔してきたといわれ、住民がその徳をしのび、白鳥神社を創建したと伝えられています。(後略)


 この白鳥神社は、毎年4月28日に、千葉県の無形文化財「鹿野山のはしご獅子舞」が奉納されていることでも有名である。

       
         鹿野山白鳥神社                 弟橘比売神社

 『千葉県の民話』の「鬼泪山の悪郎塚-君津市-」は、「
むかしむかしのことだ。鹿野山のおく深く、鬼のようにおそれられている大男の悪郎がいた。ほんとの名まえはだれも知らないが、悪路王ともいった。人びとは米や麦をうばわれ、牛や馬までもぬすまれたりしたから、心の底からこの大男をにくんで、ただ『悪郎』とだけ呼んでいた」といった書き出しで始まり、以下、この「悪郎」を「正義の味方」日本武尊が退治する様子や地名の由来を数ページにわたって紹介している。しかし、考えようによっては、日本武尊は侵略者なのである。君津市六手では今でも、阿久留王は「鬼」ではなく、住民のことを思う大変優れた文武両道の豪族であったといい伝えられている。

 話を戻そう。阿久留王と日本武尊軍との戦いは、最終的には日本武尊軍の勝利に終わるが、その戦いの跡が各地に地名となって残っている。いや、実際はその逆で、地名を伝説になぞらえているのかもしれない。袖ケ浦市吉野田を流れる小櫃川の支流である「鑓水川」は、日本武尊軍が血に染まった鑓を洗い流した川であるというし、また、同じく吉野田の「鬼塚」は、阿久留王軍の兵士を葬った場所であるという。富津市の「鬼泪山」は、阿久留王が涙を流し命乞いをした場所で、近くを流れる「染川」はもとは「血草川」あるいは「血染川」といい、阿久留王の流した血で真っ赤にそまったことから付けられたという話が伝わっている。富津市の「千種新田」の海辺は、もとは「血臭浦」といったらしいのだが、これは、戦いの後にこの海辺から血のにおいが立ち上ったからだという云い伝えによる。同じように、君津市周南地区の「皿引」は、もとは「血引」といい、傷ついた阿久留王が、血を流しながら通り、まるで血を引きずっているように見えたことから名づけられたという。
 右下の写真は、神野寺から君津市福岡へ下る途中にある、阿久留王の胴体が葬られたといわれる「阿久留王塚」である。神野寺が管理していて、毎月十三日に法要が行われていると説明書きがあった。以前は気づかなかったのだが、道路沿いに左下の写真のように表示板があり、塚まで小道が整備されていた。二段目の右の写真は、阿久留王の頭部が葬られたといわれる「お八つが塚」のある鹿島台遺跡の写真である。ここは、現在館山道の下になってしまったのだが。阿久留王の墓がいくつもあるのは、日本武尊との戦いに敗れた阿久留王は、六手の地で八つ裂きにされたと言い伝えられているからである。二段目左の写真は、神野寺山門から下る坂で、「アクル坂」というらしい。

       
          阿久留王塚表示            鹿野山にある阿久留王の墓

       
            アクル坂              お八つが塚のある鹿島台遺跡

 上総町(現君津市の亀山、松丘、久留里地区)の教育委員会編集の『上総町の民話』(昭和45年発行)にも、阿久留王伝説に絡んだ話が載っていた。それによると、日本武尊に追われた阿久留王の落武者が亀山地区の山中に逃げてきて、当時沢山いた亀を食い尽くしてしまい、あげくのはてに一人残らず飢え死にしてしまった。その悪霊が谷や山にこもって鬼神となり、亀山の地を不毛の地にしてしまった。そこで、不動明王が現れ、この悪霊を退治するという話である。この話は、『滝原不動尊縁起』に出てくるのだそうだ。なんとかわいそうなことに、阿久留王の兵士たちは、死んだ後も「悪霊」にされてしまっているのである(『君津地方の歴史PartX』「亀山神社と滝と不動明王について」にも関連する記事がある)。また、松丘地区にも阿久留王の敗残兵が逃れてきて、三本松の高台で鹿野山を見ながら自刃したという伝説があった。この地では、村人が哀れんで丁重に葬ったという。大戸見、見付にある「あざみ塚」(「えびず塚」とも)がその墓だといい、その地先には「えぞ掘り」(現在は「えごぼり」)という地名が残っているともいう。

 鹿野山麓の鬼泪山(きなだやま)には、「阿久留王伝説」とは別の「九頭龍伝説」が存在しているという。それは、鬼泪山に全長10mで九つの頭と尾を持つ大蛇が棲みつき村人を襲っていた。その大蛇を日本武尊が3日かかって退治した。この時、退治された大蛇が流した血で染まった川が、血染川(今の染川)であるという伝説である。何とも、阿久留王伝説と酷似している話である。きっと、「阿久留王」と「大蛇」は、中央政権にとっては敵対する地方の豪族で、ひよっとしたら同じ豪族であったのかもしれない。こうした中央政権と敵対したか、あるいは戦争を通じて服属した、地方豪族が当地方の「国造」になったのかもしれない。

 君津市六手には、阿久留王伝説が生まれる背景となった遺跡が存在しているのである。『周南の歴史PartU』で紹介する鹿島台遺跡である(右上の写真)。同遺跡は、筆者も発掘中に見学させてもらったが、標高40〜70mの地点に存在し、縄文から古墳時代にかけての複合遺跡である。縄文時代の住居址、弥生時代から古墳時代にかけての住居址、弥生時代の環濠、各時代の遺物などが多数出土している。とりわけ注目されるのは、弥生時代の環濠であろう。まさに、「戦争」から集落を守るための施設なのである。古墳時代に入りこの地は生活の場でなく、墓地のみの場所になったというが、この「戦争」の記憶が阿久留王伝説の下地になったと考えているのだが、どうなのだろうか。今でも君津市六手地区では、「鹿島台は六手地区の発祥の地」だと信じられていることを付け加えておく。

 『君津郡誌』によると、この伝説は、桓武天皇の頃の坂上田村麻呂が東夷平定した時に、「賊主悪路王」を「誅斬」したことが、誤って伝えられたのかもしれないとあった。いずれにしても、構図は同じである。中央政権が地方を支配下に置く過程で、生まれた伝説であるという点で。
 最近知ったのだが、岩手県平泉にある坂上田村麻呂が創建したといわれる窟毘沙門堂の縁起に「悪路王」が出てくる。以下、達谷窟毘沙門堂のホームページから縁起の冒頭部分を引用してみる。ここにも中央に反逆する「悪路王」が存在していたことが分かる。

 
一千二百年の昔、悪路王、赤頭、丸等の蝦夷がこの窟に塞を構へ、女子供を掠めるなど暴虐の限りをつくし、国府もこれを制することが出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命ぜられ、蝦夷征伐の勅を下された。對する悪路王等は達谷窟より三千余の族徒を率いて駿河国清見關まで進んだが、大将軍が京を発するの報せを聞くと、武威に恐れをなし窟に引き返し守を固くした。
 延暦廿年(八0一)大将軍は窟に籠もり毒矢を雨らす蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王、赤頭、丸の首を刎ね、遂にこれを平定した。大将軍は戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御禮に京の清水の舞台を模ねて、九間四面の精舎を創建し、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付け、桓帝御願の御寺とした。(以下略)

(2)「ドンドン」について 〜地名考〜
 地形図を見ると、袖ケ浦市の東横田駅の北側に「ドンドン」という地名があることに気づく。東横田駅の南側の小路第二区公会堂の脇には、「ドンドン堰」と呼ばれる堰もある。不思議な地名である。また、「ドンドン堰」の南側には「百目木」という地名もある。百目木公園があることで、地元では結構有名である。
 「百目木」という地名は、ここだけではない。君津市の久留里地区にも、富津市の飯野地区にも存在している。ともに、近くには必ず川が流れている。袖ケ浦や久留里は小櫃川、富津市は小糸川の支流で、その名も百目木川である。さらに、袖ケ浦市の飽富神社から蔵波に向かう道沿いに、「百々目堰(どどめせき)」と呼ばれる堰もあった。この堰から小さな川(境川というらしい)が、東京湾に流れている。ものの本によると、川がどうどうと音をたてて流れる、あるいは流れ落ちる様からついた地名だという。「ドンドン」はそれがストレートに地名となったものだろう。「百目木」の由来は、川が流れる音が「どうどう」、それを漢字で表記すると「十十(とうとう)」となり、さらに、「十」が「十」あって「百」となることからついたようだ。「百々」という地名も存在している。「めき」は、接尾語の「めく」の活用形で「〜のような状態になる」といった意味を表すものだと思う。何ともおもしろい地名の起源だ。「百々目堰」という名も、「百目木」や「ドンドン」と同様の由来を持つ地名だろうと思う。こうした地名が一ヶ所ではなく、あちらこちらにあるのだから、人間の発想はどこでも同じということかなどと考えてしまう。

 ちなみに、「百々目堰」の南東にあたる台地上(住所は袖ケ浦市飯富)には、今から1万5千年前の「百々目木B遺跡」がある。「百々目木」は、「どどめ」と読むそうだ。槍先やナイフ、石器を作った時の破片など、約2500点もの旧石器が出土している遺跡だ(財団法人 君津郡市文化財センター 第4回 『遺跡発掘発表会資料』「発掘されたきみさらづの昔」より)。この「百々目木B遺跡」については、同じ袖ケ浦市久保田にある「美生遺跡群」とともに、現在刊行中の『千葉県の歴史 資料編 考古1』の「旧石器時代の遺跡」でも紹介されている。「美生」は、「びそ」と読む。

        
      袖ヶ浦市の百目木付近               袖ケ浦市百目木公園

        
     富津市飯野の百目木付近           君津市久留里の百目木付近

 先日『ゼンリン住宅地図 富津市』を見ていて、富津市の佐貫地区にある、海水浴場新舞子海岸に面した場所(住所でいえば、富津市八幡である)にも、「ドンドン」という地名を発見した。ここは、袖ヶ浦のように川に面している訳ではないが、海岸に打ち寄せる波の音が地名の起源なのだろうか。それとも、近くを流れる染川(河口は、もう少し北にある)が、かつてはこの近辺を流れていたのであろうか。染川も小櫃川と同じように、かなり蛇行している川ではある。あるいは、後でもふれる長崎の「ドンドン坂」は、雨水が滝のように「ドンドン」流れることから名づけられたというが、佐貫の「ドンドン」も、写真でもわかるように坂道である。長崎の「ドンドン坂」と同じ地名の由来を持つのかもしれない。写真撮影に行くと、何とそこには、「お食事処 新舞子 どんどん」という店があった。夏場だけの営業なのか店は閉まっていて、残念ながら話を聞くことはできなかった。知っている方は情報を。2013年1月末に、久しぶりに新舞子を訪れてみたのだが、「お食事処 新舞子 どんどん」という看板は見当たらなかった。
 ホームページ『千葉県の県立博物館』のデジタルミュージアム内にある「千葉県の滝−所在と成因」によると、湊川上流の富津市田倉には、「ドンドン滝」という滝があるという。滝が音をたてて落ちる様が想像されるようだ。

       
      富津市佐貫ドンドン付近              お食事処 どんどん

 亀山ダムのダム湖から笹川に変わる、流れが大きく蛇行している地点にも地名とは違うようであるが、「どんどん」と呼ばれるところがあった。地元の方に話を聞くと、かつて川の水を取り入れ何らかの事業を行う施設があり、そこを流れる水の勢いからその施設が「どんどん」と呼ばれたというが、現在のところ又聞きであるため詳細ははっきりしない。

 千葉県文化財センターのホームページで、君津地方の遺跡の検索をしていたところ、市川市には、「道免き谷津遺跡」という遺跡が存在していた。「道免き」は、やはり「どうめき」と読むらしい。遺跡の名称は小字を使うことが多いので、「道免き谷津」という地名があったのだろう。

 YAHOOによって「百目木」で検索をかけると、2748件の項目があると出てくる(平成16年12月現在)。そのうちいくつかを開いてみると、君津地方には「百目木」あるいは「百々目」などの地名が15ヶ所あるという。千葉県内には、岬町や鴨川市、丸山町にも存在しているらしい。丸山町については、国土地理院の2万5千分の1の地形図で検索すると、「百目鬼(どおめき)」と表記され、「温石川」という川の流域であることが確認できた。また、福島県安達郡岩代町や宮城県加美郡中新田町というところに、「百目木」という地名があるという。岩代町には百目木小学校まで存在していた。他にも、東北地方のあちこちにも存在しているようだ。

 同様に「ドンドン」についても調べてみたが、こちらもあちらこちらに存在しているようだ。長崎県の五島列島には、「ドンドン」という海蝕洞穴や「ドンドン渕」という滝があるというし、長崎市内には「ドンドン坂」と呼ばれる坂がグラバー邸の近くにあった。また、倉敷には「ドンドン」というバス停もあるらしい。「ドンドン川」という名前の川が近くを流れていることからのネーミングだそうだ。

 2012年の1月に長崎に行った。そして、念願の「ドンドン坂」を撮ってきた(下の写真)。長崎駅から「二十六聖人殉教地」「眼鏡橋」「出島」「オランダ坂」「グラバー邸」と徒歩で廻った後だったので、坂にたどり着いた時には「これを下ってまた登るのか」と考えてしまうほどのまっすぐな急な坂だった。「ドンドン」と雨水が流れる音が聞こえてくるようだ。それにしても長崎は、坂道だらけの町である。「ドンドン坂」の後は「大浦天主堂」に行ったのだが、足にマメがいくつもできてしまった。

      

 ついでに、「ドンドン堰」で検索をかけてみると、岡山県高梁市、広島県賀茂郡黒瀬町、東京都赤坂、佐賀県鹿島市など、あちこちに「ドンドン」があることがわかった(広島県賀茂郡黒瀬町の場合は、「ドンドンバチ」という)。共通点は「堰」だ。いずれの場所も、川が堰き止められ、その段差を流れ落ちる音から、「ドンドン」と呼ばれるようになったのである。東京の場合は溜池自体は、明治時代に埋め立てられてしまい、その場所の呼び名が「赤坂のドンドン」として残っているようだ。

 袖ケ浦市横田にある「ドンドン」という地名が、筆者にとってはあまりにも珍しかったので、調べ始めたのであるが、当君津地方のみならず、日本全国に「ドンドン」や「百目木」(あるいは音は「どうめき」かそれに近い音で、漢字による表記の仕方が多少違う)といった地名や名称の何と多いことか、ただただ驚くばかりである。最後に、筆者がここまで調べてきた感触では、「ドンドン」という地名は関東から西に多く、「百目木」という地名は関東から東の地方に多い気がする。地名の由来は同じなのに、不思議なことである。

(3)上総国と東北地方
 平安時代の初めに、桓武天皇の頃にあたるが、陸奥国亘理郡(現在の宮城県)に望多郷が、胆沢郡(現在の岩手県)に上総郷が成立したという。上総郷という地名は今でも残っているそうだ。これは、古代の中央政府が東北地方(蝦夷)を支配下に置くために、上総国をはじめ関東地方全体を、人馬の供給地として利用していたことによっている。古くは推古朝の国造誕生も、東北地方平定のために、千葉県の豪族の力を利用しようとしたものだという。以後、奈良から平安時代にかけて、占領した地域に上総国の人々を移住させたり、逆に、東北地方で捕らえた人々を千葉県に移住させたりしたのだ。9世紀には、移住させられた人々が上総国で、度々反乱を起こしたという記録がある。なお、国土地理院発行の2万五千分の1の地形図で、「上総郷」を探してみたが残念ながら見つからなかった。

 神護景雲3年(769)桃生城、伊冶城の地が肥沃であるとして、坂東8ヶ国の百姓を募っ
              て移住を奨励している。
 延暦15年(796)  上総など8ヶ国の住民9000人が、伊冶城に移住させられている。
              胆沢城が造られた延暦21年にも、上総国の浪人たちが移住させ
              られている。
 嘉祥 元年(848)  上総国で俘囚丸子廻毛らが反乱を起こしている。
 貞観17年(875)  下総国で俘囚が反乱を起こしている。元慶7年(883)には、上総
              国市原郡で俘囚が反乱を起こしている。

(4)富津に丸姓が多いのは?(富津市)
 富津市には、丸という姓が多い。電話帳で軒数を確認すると、79軒ほど存在している。平野姓609軒、鈴木姓の549軒には遠く及ばないが、それでも富津市の姓の中では多いといえるだろう。
 丸姓が富津市に登場するのは、戦国時代から江戸時代の初めだそうだ。もともとは、現在の丸山町の丸本郷あたりを拠点としていた、中世武士団であった。それがなぜ、富津市に移り住むようになったか、実はその辺の事情は史実の上で、明確に確認することはできていない。ちなみに、丸山町の電話帳には丸姓は数軒しか載っていなかった。また、茂原市にも丸姓の多いことが、電話帳からわかるのだが。
 中世武士団としての丸氏の起源は、丸御厨にある。丸御厨とは、平安時代末期に成立した、源氏ゆかりの荘園である。現在の丸山町丸本郷周辺にあったと考えられている。前九年の役の功績によって、源頼義が朝廷から贈られ、後に源義朝が子頼朝の昇進を願って、伊勢神宮に寄進した荘園で、実質的な経営権は、開発領主である丸氏にあったと思われる。「丸太郎」という人物が、保元の乱に参加し負傷している記録があるらしい。また、丸氏は房総の武士団とともに源頼朝の旗揚げに呼応しているが、吾妻鏡に、頼朝の案内役として「丸五郎信俊」の名が見え、頼朝は丸城に一泊したことになっている。この「丸五郎信俊」は、『義経記』(巻三 頼朝謀反の事)にも「丸太郎」として登場している。『義経記』には、「つくしうみ」「枝濱」「磯が崎」「篠部」「いかいしり」「周准川」といった当地方の地名も出てくる。「周准川」は、現在の小糸川である。
  
 
※『義経記』より
  安房國住人丸太郎、あんないの太夫、これら二人大將として五百餘騎馳せ來り
  源氏に屬く。源氏八百餘騎になり、いとゞ力付きて、鞭をあげて打つ程に、安房
  と上總の堺なるつくしうみの渡をして、上總國讃岐の枝濱を馳せ急がせ給ひて、
  磯が崎を打通りて、篠部、いかひしりと云ところに著き給ふ。上總國の住人伊
  北、伊南、廳北、廳南、うさ、山邊、あひか、くわのかみの勢、都合一千餘騎周
  准川というところに馳せ來つて、源氏に加はる。


 ついでではあるが、当地方には、頼朝に従って終結する武士団の数が、頼朝の北上とともに次第に増えていったことのわかる、地名が各地に残されていることを付け加えておく。「百坂」「三百坂」「三百騎坂」「千騎坂」「万騎坂」などである。『丸山町史』によれば、鎌倉時代の丸氏は、地頭職にあったと考えられているという(丸山町は、現在南房総市の一部である)。
 戦国期には、丸氏、安西氏、東条氏、神余氏の4氏が安房地域で覇権を争っていたが、その争いに加わってきた里見氏が、後に安房国を支配する戦国大名に成長していくことになる。この過程で、丸氏は里見氏の家臣団として編入されたグループと、帰農するグループに分かれた可能性がある。『富津市史』では、この時に「
国境をこえて上総地方に落ちのび、わが富津地方に定着して帰農したものであり、市内では佐貫、宝竜寺、小久保方面にその一族の子孫といわれる人びとの分布がみられる」としている。しかし、この時点では、丸氏が富津市域に移り住むことは考えられないのではないか。この時点では、富津市と丸氏を結びつける歴史的な関係はなかったと考えられるからである。それでは、いったいいつ頃丸氏は富津市に移ってきたのだろうか。
 時を経て里見氏は、安房のみならず上総の地を支配し、北条氏と対峙する戦国大名に成長したが、豊臣秀吉が北条氏を倒し全国を統一した後、上総の領地が取り上げられることになってしまう。その時に、家臣団の一部が帰農したというから、この時点でかつて支配していた富津市に定着するようになった一族がいたのではないだろうか。さらに江戸時代に入り、外様大名であった里見氏は、慶長19年(1614)に、9万石から3万石に減封されて伯耆国に移されることになるのだが、この時、里見氏の家臣として残った丸氏は、里見氏と運命をともにするグループとそうではないグループに分かれ、一部が以前に富津市に移り帰農した一族を頼って、再び富津市に移り住むようになったのではないだろうか。慶長15年(1610)の時点で、里見氏の家臣に丸姓を名乗る人物が存在していたことは、史料で確認できるようだ。
 いずれにしても、富津市に丸氏が移ってきた背景には、戦国大名里見氏の興亡の歴史が影響をしていたのは確かである。

 下の写真は、丸氏の出た現在の丸山町丸本郷付近、丸氏の菩提寺であった安楽寺山門と本堂、安楽寺の裏山にあるヤグラ(鎌倉時代の丸氏の墓)の写真である。安楽寺の裏山に、かつて丸城があり、現在は、吾妻鏡に登場する「丸五郎信俊」を祀る祠が建っているという。撮影をしていると、寺のお坊さんが参考にと、『丸氏歴史的考察』という小冊子を持ってきてくれた。その冊子では、富津市の丸氏についてはふれられていないが、成田市大袋に移り住んだ丸氏一族についての記述があった。それによれば、里見氏の上総進出にともない、丸五郎信行なる人物が上総土気に移った。その後その子孫が、下総の中尾村を経て下総国印旛郡公津村(現成田市大袋)に移り住み現在に至っているそうだ。とすれば、富津市への丸氏の移住も、里見氏の上総進出と関連付けて考えてもいいのではないかと思うがどうだろう。

        
       丸山町丸本郷付近               丸氏菩提寺 安楽寺

        
        安楽寺本堂                   安楽寺裏山ヤグラ

 前掲の『丸氏歴史的考察』の冒頭には、万葉集の防人の歌の中にある、「上総国朝夷郡 上丁 丸子連大歳(まろこのむらじおおとし)」が家族や故郷を偲んで歌った、次のような歌が紹介されていた。ひょっとしたら、丸氏の先祖なのかもしれない。

 家風は 日に日に吹けど 我妹子が 家言持ちて 来る人もなし
                              (20ー4353 『古典文学全集』小学館)
(現代語訳)
 家風は 日に日に吹くが いとしい妻の便りを持って 来る人もいない

 ここで「朝夷郡は、安房国じゃないか」と思った読者がいるのではないだろうか。実は、安房国は718年に上総国から分離されたが、741年に上総国に編入され、757年再び設置されたのである。「君津地方の歴史PartW」の(6)「君津地方の『防人の歌』と『東歌』」でもふれているが、防人の歌は755年に集められているので、この時にはまだ、朝夷郡は上総国だったのである。

(5)平等院にて(木更津市)
 平等院といっても、京都府宇治市の平等院のことではない。木更津市にも平等院というお寺が存在しているのだ。木更津市の吾妻にある、真言宗豊山派海上山極楽寺平等院である。『君津郡誌』によれば、このお寺は、明治40年(1907)に、知福山能満寺と海上山東光院が合併してできたそうだ。本尊は、虚空蔵菩薩と阿弥陀如来だとあった。
 
   
    
           平等院本堂                  浅野作造の墓

   
    
          道標(観音塔)                 小原庄助の墓

 この平等院には、木更津市の歴史を伝える面白い石像物が存在する。1つめが、浅野作造の墓である(右上一段目の写真)。浅野作造については、『君津市の歴史』「杉木良太郎のこと(君津地方の戊辰戦争)」の項でふれているが、貫義隊を名乗り佐貫城や祥雲寺を襲った人物で、袖ケ浦市の横田で猟銃で撃たれ、最後は割腹自殺し、吾妻の地でさらされている。
 2つめが、左下の道標(観音塔)である。後背右側に、「
さんふきよう 西光寺右 是より八丁」と彫られている。平等院から右の方角へ「八丁」進むと現在の木更津駅当たりにたどり着く。そう、木更津駅がある場所は、元は西光寺というお寺だったのだ。後背の左側には、「是よりひ可し江戸みちならわまで二リ」とある。この道標は、享保6年(1721)の道標である。浅野作造の墓と享保の道標は、本堂右側にあったので、すぐに発見できた。
 きわめつけは、3つめのオハラ庄助の墓であろう。あの民謡「会津磐梯山」で謡われている、オハラ庄助さんだというのだ。かなり以前に木更津ケーブルテレビで放送されたビデオで確認すると、この庄助さんは油絞りの職人さんで、今の愛知県出身、技術指導に当地に迎えられて、この地で亡くなったという。お墓を見てください。酒徳利の上にお猪口がのっていて、いかにも「会津磐梯山」の庄助さんにぴったりだ。墓石の正面には「
法雲法子位」とあり、裏面には「生国尾州春日辺郡安加津村 俗名庄助 九十一歳」とある。左側には「世の中の酒は諸白、みは徳利、焼酎そばをはなれますまい」と彫られていた。『きさらづ民話の会編 続♪きさらづの民話』には、「庄助は愛知県瀬戸市赤津に生まれ、二十二歳で父と死別、油絞り職人となり、諸国を渡り歩いたので、越後や会津にも立ち寄ったものと思われます。その後、この平等院の前にあった、油問屋鈴木市郎右衛門方に、油絞り職人として住みつき、生涯を終わりこの平等院の一角に葬られたということです」とあった。