君 津 市 の 歴 史 partU

(1)松丘小学校に残る「青い目の人形」
 久留里城址資料館の企画展「戦時下の記憶」(平成17年10月〜12月)に、松丘小学校の「青い目の人形」が展示されていた。「青い目の人形」とは、日米親善のためにアメリカから贈られた人形のことである。
 20年間宣教師として日本に滞在した経験を持ち、大の親日家であったギューリック氏は、アメリカ全土に広がる日本移民排斥運動に心を痛めていた。大正15年(1926)彼は、関係が少しでも良くなればと思い立ち、世界児童親善会をつくり「日本の子どもたちへ人形を贈ろう」というキャンペーンを始めた。その結果、12,739体にのぼる人形が集まり、翌昭和2年、日本に贈られることになった。受け入れには、実業家の渋沢栄一が協力している。横浜の港についた人形たちは、文部省によって各都道府県に配られた。千葉県には、214体の人形が配られたという。当地方で「青い目の人形」が配布された学校は、『学校が兵舎になったとき』の「生き残った『青い目人形-日米親善人形使節のゆくえ』」によれば、
「木更津・木更津幼稚園・真舟・巌根・金田・中郷・真里谷・周西・小櫃・久留里・松丘・青堀・富津・大貫・佐貫・湊・竹岡・環・神納・根形・平岡」の21校である。
 当初は盛大な受け入れ行事が行われ、日本からも58体の市松人形が答礼として贈られている。しかし、時代の変化が人形の運命を変えた。満州事変以来、日米の関係は悪化の一途をたどり、ついには太平洋戦争に突入することになってしまった。かつての日米親善の象徴が、逆に憎悪の対象に変わることとなったのである。各地の「青い目の人形」の多くは、鬼畜米英の人形だとされ、竹やりでつかれたり、焼かれたりと、処分される運命をたどることになってしまった。12,739体あった人形のうち、現存している人形はわずか321体だという(平成17年7月現在 『日本はきもの博物館・日本郷土玩具博物館』のホームページによったが、現在は閉鎖されている)。
 それでも、心ある人々の手によって救われた人形もあった。当地方にも、松丘小学校に残っていたのである。「アンヌ・ノーブル・ラメルサンガール」という名前の人形だ。一時は処分するという意見も出たらしいが、人形には罪はないということで、講堂の奥にある戸棚にしまわれ、生き残ることになったという(旧松丘村の村長の決断だったらしい)。当時としては、マスコミや行政が、人形を利用して敵愾心をあおったこともあって、人形を残すことは非常に勇気のいることで、当地方に配られた21体の人形のうち残ったのは、松丘小学校の人形1体のみであった。何と千葉県全体では、わずか10体しか残っていないそうだ。松丘小学校の人形は、昭和49年(1973)の創立百周年の日から、校長室に飾られるようになったということである。筆者には全く記憶がないのだが、「青い目の人形」が全国で見つかるようになったきっかけは、昭和48年に放映された、NHKの「人形使節メリー」という番組だったという。下の写真は、知り合いの松丘小の先生に頼み込んで撮ってもらった「青い目の人形」である。ご協力に感謝します。

      
                                   
 平成29年10月、久しぶりに「青い目の人形」について、インターネットで検索していると、2015(平成27)年の7月から9月にかけて館山市立博物館で戦後70年企画として「戦時のたてやま」という企画展が開催され、そこに松丘小学校の人形とともに、何と、佐貫小学校の人形も展示されていたことを知った。前にも述べたように、平成17年の時点では、君津地方の「青い目の人形」は松丘小学校の人形しか確認されていなかったはずだ。ということは、佐貫小学校の「青い目の人形」は平成17年以降に公にされたということだろう。残念ながら、佐貫小学校の「青い目の人形」の写真や名前、公になった事情などは、インターネットで検索しても全くわからなかった。そこで、知り合いのつてを頼って、企画展の資料と人形の写真を入手した。感謝である。いただいた資料にあった佐貫小学校の「青い目の人形」の説明書きと、送っていただいた写真は以下の通りである。

A佐貫小学校の人形


   名前 不明
   
  
所蔵 富津市立佐貫小学校
   
  
学校の記録によれば、昭和2年4月26日に同校に到
   
着しました。専用の木箱は翌3年に製作されたもので
  
アメリカへ答礼人形を贈るために児童から集められ
  
た寄付金の残金が使われました。現在は校長室に飾
  
られています。

 
 この人形は、佐貫小学校ではなく佐貫中学校で「発見」されと聞いた。人形の名前も「発見」に至る経緯もわからないが、佐貫中学校は、昭和22年5月1日に佐貫小学校の校舎(現在の中学校がある場所)の一部を借用して開校していることから、佐貫小学校に贈られた人形が佐貫中学校で「発見」されたとしてもあり得ない話ではないだろう。発見時期については、ある程度推測することができる。佐貫中学校は昭和23年に新校舎が落成し、昭和29年には現在の校地から少し離れた場所に新築移転している。ここまでは、佐貫中学校と佐貫小学校の沿革を見る限り、小中とも同じ場所にあったようだ。その後、昭和46年に小学校は現在地に新築移転し、中学校は昭和51年に現在地に新築移転している。小学校も中学校も、それぞれ過去数度の引っ越しをしていることがわかる。このいずれかの引っ越しの時に発見された可能性があるのではないだろうか。「青い目の人形」の存在が全国的に知られるようになった直後の昭和51年が、一番の候補だ。しかし、それでは筆者が確認した平成17年の時点で現存する「青い目の人形」が10体であった事実は説明できない。とすれば、人形の存在は前々からわかっていたが、それが「青い目の人形」だとはっきりわかって公にしたのが平成17年以降だったということかもしれない。

 ところで、「青い目の人形」といえば、有名な童謡「青い眼の人形」(野口雨情作詞、本居長世作曲)を連想しないだろうか。連想どころか、無学な筆者は、この童謡は昭和2年に贈られてきた「青い目の人形」そのものを歌ったものだと思っていた。ところが、調べてみると、童謡「青い眼の人形」は、6年も前の大正10年12月に発表されていたのである。童謡が先にあり評判になっていたことから、日本に贈られた「Friendship Doll(友情の人形)」が「青い目の人形」と呼ばれるようになったのだ。何と、童謡「青い眼の人形」のモデルは、日本に贈られた「青い目の人形」ではなかったのである。聞くところによると、野口雨情がイメージしていた人形は、当時アメリカから入ってきて、子どもたちに人気のあったキューピー人形だったらしい。

 なお、大正10年の12月には、野口雨情、本居長世のコンビで、童謡「赤い靴」も発表されている。雨情が後に語ったところによると、「青い眼の人形」と「赤い靴」は、「日本の港へついたとき」、そして、「横浜の埠頭(はとば)から船にのって」という歌詞からわかるように、正反対の気持ちを表そうとして作ったもののようだ。つまり、「青い眼をした人形」と「赤い靴」は、対になる作品なのである。
 しかし、「青い眼の人形」は確かに横浜の港に着いたのだが、「赤い靴」のモデルとなった女の子は、異国へは旅立つことはできなかったのである。「青い眼の人形」のモデルはキューピー人形だと書いたが、「赤い靴」にもモデルとなる女の子がいた。その女の子は、事情があって日本に来ていた宣教師に引き取られて、その宣教師とともにアメリカにわたる時に結核にかかってしまい、長旅に耐えられないだろうということで、東京の孤児院に託される。そして、病によってわずか9歳で命を落としてしまったというのだ。この女の子は、雨情の友人の子供で、その友人から宣教師にもらわれていった事情を聞いたことをもとに、「赤い靴」を作ったというのだが、その後の女の子の消息については、友人も、そして、雨情も知り得なかったのである。知っていたら、また違った作品になっていたかもしれない。
 下の写真は、先日横浜に行った時に撮影した、山下公園にあった「赤い靴をはいていた女の子像」である。

      
      赤い靴はいていた女の子像         アメリカを見てるのかなあ?

 ついでに、「青い眼の人形」と「赤い靴」が対の作品であるということをモチーフに、推理作家の内田康夫は、『横浜殺人事件』を著していることを付け加えておく。ただし、同書では、2つの歌が対の関係にある事実から、主人公の浅見光彦が「人身売買、報復」を連想し、後悔するという設定になっているのだが(光文社文庫『横浜殺人事件』106頁)。

参考にしたサイトは、下記の通りである。
 『埼玉県平和資料館』
 『銀の櫂』

 
『川越原人のホームページ』
 
ああ 我が心の童謡〜ぶらり歌碑巡り』(まぼろし探偵団
 
『有鄰』第451号 『「青い眼の人形」と「赤い靴」』
 『“青い目の人形”通信』(日本はきもの博物館・日本郷土玩具博物館)

(2)平山用水のこと
 小櫃川上流から中流域には、近世に作られた用水が多い。幕府領や旗本領が錯綜する当地方には珍しく、久留里藩や川越藩が広い範囲を支配していたからだ。久留里藩領では、戦国期に武田氏によって御腹川に大上堰が造られており、近世初期の寛永9年(1632)土屋氏によって長谷川堰が造られた。この2つの堰を合わせて御腹川用水という。この用水による灌漑面積は、270町にも及ぶ。川越藩領では、近世後期に4つの用水が造られた。その先がけとなったのが、君津市の亀山地区から松丘の平山地区に引かれた、「平山用水」である。以下、『君津市史』や『上総町郷土史』をもとに、「平山用水」の概略について記してみる。
 平山村(現君津市平山)を流れる小櫃川は、川床が大変低く、田畑の灌漑には利用できなかった。天保3年(1832)の農地は、田が10町余、畑地が39町余と圧倒的に畑地が多く、村は大変貧しかったようだ。天保3年三本松陣屋に提出された「弁書」によると、総戸数71軒のうち「極貧の者20軒、難儀の者30軒」とあり、また、畑作物の収入30両に対し、飯米の購入費用が50両という状況だった。昔は「松丘には、嫁にやるな」と言われていたともいう。こうした状況を目の当たりにして、隣りの宇坪村に住む和算家、鈴木三郎左衛門は用水建設を思い立ち、文政2年(1819)川越藩に嘆願書を出したが却下されてしまった。改めて天保3年に、今度は、鈴木三郎左衛門とともに、名主長兵衛はじめ村中連名で嘆願書を提出すると、翌年許可が下りた。実に、鈴木三郎左衛門単独の嘆願から15年後のことである。
 工事を請け負った、夷隅郡小苗村(現大多喜町)の五右衛門の記録によると、工事期間は計画では10ヶ月の予定だったようだが、実際は3年4ヶ月かかっている(完成は天保7年8月)。また、経費については、995両2分の見積もりであったが、実際には1615両(藩金)かかっている。工事には、のべ39094人もの人々が参加している。亀山郷52ヶ村の助郷でまかなわれた。小櫃川上流の取水口、坂畑村の稲ヶ崎から総延長約20kmに及び、工事は大変な難工事だったようだ。工期がそれを示している。
 ところで、この平山用水は、地域の人々の生活をどう変えたのだろうか。田の面積は用水建設前の3倍強になったのだから、平山村の人々の生活は当然以前よりよくなったと考えるだろう。長い目で見れば、確かにそうだと思う。明治21年には、顕彰碑が建っているのだから。ところが、江戸時代に限って言えば、そうではないのだ。もともと川越藩は、収奪のきついことで有名で、亀山地区では、天保13年に大きな百姓一揆が起こっているほどだ(『富津市の歴史』参照)。どうも、田の増加に対して、年貢を重くしたようで、この後、度々生活困窮を訴える嘆願書が、平山村や亀山郷一円の村から川越藩に出されているのである。江戸時代に限って言えば、用水の完成は、平山村の人々の生活を向上させるどころか、より一層の収奪の強化を生んだのである。

 下の写真は、国道沿いの用水と分岐点、明治時代に建てられた「平山開墾碑」である。また、市の指定文化財である「平山用水開墾絵馬」が保存されていた大原神社である。絵馬は、現在、久留里城址資料館に保管されている。昭和62年には大原神社の鳥居の脇に、新しい「取水記念碑」も建てられている。この記念碑の後ろに広がっている場所が大原台といい、平山用水によって水田ができるようになったところの1つである。
 なお、大原神社は、小櫃の白山神社や久留里の久留里神社と同格のかつての「郷社」で、境内には、写真のように立派な「神楽殿」なども残されている。祭神は、『君津郡誌』によれば、「天兒屋命」と「天太玉命」である(『本サイトに登場する神々』参照)。
 
      
           平山用水                     分岐点 

      
           平山開墾碑                   大原神社

      
           取水記念碑                  大原神社神楽殿

(3)近江屋甚兵衛のこと 〜「上総海苔の誕生」〜
 2月6日は「海苔の日」だそうだ。何でも、大宝律令に徴収する「調」として8種類の海藻があげられ、海苔もその1つとして表記されている。その大宝律令が制定されたのが大宝2年(701)の1月1日で、西暦にすると2月6日にあたることからだそうだ。海苔の歴史は古く、奈良時代には平城京の市場で売られていたそうだし、平安時代の『宇津保物語』には、「甘海苔」や「紫海苔」などの名が登場するという。鎌倉時代には、精進料理の食材として珍重されたらしい。しかし、庶民の食卓にのぼるようになったのは、江戸時代からである。海苔が好物の徳川家康に献上するために、大森や品川で海苔養殖が始まったといわれている。海苔巻きが流行るのも江戸時代である。現在のファーストフードのような、海苔巻きを売る屋台寿司と呼ばれる店舗もあったそうだ。
 近江屋甚兵衛は、その江戸で明和3年(1766)に生まれ、四谷で海苔商人をやっていた。海苔の養殖方法の研究をし、甚兵衛54歳の時に、新たな産地開拓のために千葉県にやってきた。江戸川河口の浦安、養老川河口の五井、小櫃川河口の木更津の村々を回り、海苔養殖を訴えたが、漁場が荒れると心配する漁民にすべて断られてしまう。ちょうどその時に、「貧しい村に、何とか現金収入を」と考えていた人見村の名主八郎右衛門の協力で、海苔ひびを立てさせてもらうことができた。初めは失敗したが、文政5年(1822)2度目の挑戦で海苔が着き、ここに「上総海苔」が誕生することになったのである。その後、海苔養殖は、大堀村、青木村、西川村、新井村、坂田村へと広がり、明治になって木更津の海岸部でも行われるようになった。近江屋甚兵衛が千葉で海苔養殖を成功させた文政年間には、海苔商人森田屋彦之丞によって浜名湖で(文政3年)、同じく海苔の仲買商であった田中孫七によって駿河湾岸の三保村で(文政8年)海苔養殖に成功している。それだけ江戸時代後期には、海苔の需要が増大してきたということだろうと思う。現在海苔生産の40%を占める、九州の有明海沿岸で養殖が始まったのは、明治時代に入ってからである(参考にしたサイト 『懐かしデータで見る昭和ライフ』、『海苔JAPAN』)。
 ちなみに、平成14年度(14年7月〜15年6月)の千葉県の海苔の生産量は全国第9位で、平成13年度の千葉県魚種別生産金額では、アジやイワシ漁をはるかにしのいで第1位となっている(いずれも『千葉県庁ホームページ』にあった。しかし、残念ながら現在-平成18年-の統計では、魚種別には示されていない)。
 近江屋甚兵衛は、弘化元年(1844)の9月12日に79歳で亡くなった。墓は君津市人見の青蓮寺(明治43年に地元の方の手によって薬師堂墓地から移された)にあり、千葉県の指定史跡となっている。また、墓の前には、彼の功績をたたえる胸像も建てられている。海苔養殖について詳しく知りたい方は、青蓮寺近くにある君津市漁業資料館を見学することをおすすめする。
 ついでに、青蓮寺の隣りにある山の山頂には、千葉6妙見のひとつで、日本武伝説や頼朝伝説の残るかつての郷社人見神社が鎮座している。この人見神社は、明治初年までは、妙見社とか妙見堂、あるいは妙見宮といわれていて、妙見菩薩が祀られていた。『君津郡誌』によると祭神は、「天御中主神」「神皇産霊神」「高皇産霊神」「大山咋命」の4神となっている(『本サイトに登場する神々』参照)。明治の神仏分離の結果である。祭礼は7月22日で、350年以上も続く「神馬(おめし)」が有名である。なお、参拝には相当の体力が必要であることを付け加えておく。何しろ、急な階段が300段以上続くのである。

      
      近江屋甚兵衛の墓遠景               甚兵衛の墓

      
          甚兵衛胸像                   人見神社

(4)君津市と廃藩置県をめぐって
 明治4年(1871)に「廃藩置県」が行われたことは、よく知られたできごとであろう。しかし、地域における実態は、意外と知らないことが多いのではないだろうか。6月15日は、「千葉県民の日」である。明治6年に千葉県が誕生したことに由来している。しかし、それ以前に、実は多くの県が存在していたのである。
 君津市の「廃藩置県」の様子を、『君津市史』を参考にみてみよう。「廃藩置県」は、次の四段階で行われた。第一段階は、ただ単に、存在していた「藩」を「県」に置き換えることだった。明治4年7月のことである。この時、君津市域を支配していた藩は、久留里藩、桜井藩、飯野藩、小久保藩、花房藩、伊勢長島藩、三河西端藩の7藩であった。このうち、伊勢長島藩と三河西端藩は、飛地を君津市域に与えられていただけであり、飯野藩や小久保藩は富津市に、花房藩は鴨川市に陣屋を構えていた藩であった。また、桜井藩は慶応4年改封当時は、南子安村金ヶ崎(現在の八重原公民館あたり)に陣屋を構え、金ヶ崎藩と呼ばれていたのだが、翌年3月に木更津市に陣屋を移し、桜井藩となっていた。したがって、「廃藩置県」実施当時、君津市域に本拠を置いていた藩は、久留里藩のみであった。第一段階では、これらの「藩」が「県」になるのである。全国で3府302県、現在の千葉県域には26の県が成立している。
 ここで、周南地区を例にみてみる。廃藩置県直前(明治元年後半〜2年初頭)に周南地区を支配していた藩とその支配地域を、『旧高旧領取調帳』によって確認してみると、大山野村、小山野村、山高原村、常代村、宮下村、浜子村、皿引村は小久保藩が、六手村、草牛村、尾車村、馬登村は伊勢長島藩が支配していた。その後、明治3年10月より、作木、六手、馬登、尾車は小久保藩支配に変更になっている(『君津郡誌』『君津市史』より)。おそらく、廃藩置県の準備であろう。つまり、周南地区は、廃藩置県の第一段階では、小久保県となったことになる。『富津市史』によれば、草牛は、飯野県に属していたようである。『旧高旧領取調帳』では、山高原村の一部は桜井藩領となっていたが、廃藩置県ではどうなったのだろうか。
 第二段階が4年の11月である。つまり、小さな「県」が整理されて、「木更津県」「印旛県」「新治県」の3つに統合されたのである。「木更津県」は、上総・安房地域の16の県が統合され成立した。当然君津市は、「木更津県」となる。県庁は、現在の木更津市貝渕に置かれた。初代の県令は、柴原和である。県庁跡には、木更津市によって「木更津県史蹟」の大きな碑が建てられている。第一段階で設置された県の運命は、わずか4ヶ月であった。この間にも『富津市史』によれば、長尾県では商法規則を定めたり、また、飯野県では戸籍調査のため行政区画を定めたりしている。そして、第三段階が明治6年6月15日で、「木更津県」と「印旛県」が統合されて、現在の「千葉県」が誕生するのである。「千葉県民の日」は、これを記念して制定されたものだ。
 第四段階が、明治8年5月7日である。「新治県」の一部であった香取郡・匝瑳郡・海上郡が「千葉県」に編入され、逆に、結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡と葛飾・相馬郡の一部の町村が茨城県に編入された。さらに、明治32年4月1日に、香取郡の利根川以北が茨城県に編入され、現在の「千葉県」の姿が確定したのである。
 しかし、旗本領や幕府領の多かった君津市域が、なぜ、上記の7つの藩の支配に置かれたのであろうか。それは、徳川氏の駿河移封にともない、もともと遠江や相良を支配していた大名がトコロテン式に押し出され、当君津地方にも配置されたことによる。『富津市の歴史』の「明治になって成立した小久保藩」でもふれているが、結果的に移封されてきた「藩」が存在したのはわずか数年であった。新しい地で、新たな政治を始めるにあたっては、相当な苦労があったことが想像できる。また、それを迎える現地の人々の困惑ははかり知れないものがあったのではないだろいうか。『君津市史』には、金ヶ崎藩を例に、移封決定後、先発隊が駿河から南子安にやってくるのにかかった日数や行程、そして、彼らが宿泊したのは、金ヶ崎周辺の農家であったことなどが書かれている。

(5)柳 敬助について
 大正12年9月1日、銀座三越で柳敬助の展覧会が開かれていた。柳敬助は、君津市泉の出身で、「日本のロダン」と呼ばれた荻原守衛や、『智恵子抄』で有名な高村光太郎と親交のあった画家であった。数年前に、荻原守衛の出身地にある「碌山美術館」を訪れたことがあるが、その時は、歴史の教科書にも載っている「女」や、高村光太郎の「手」という彫刻に感動したが、そこに柳敬助の作品が展示してあることは全く気づかなかった。知っていれば、また違った感動が味わえたのに、本当に残念に思っている。『小糸川倶楽部』によれば、常設で展示しているわけではなく、企画展らしいが(平成18年10月14日から11月26日まで、「高村光太郎と柳 敬助」と題した企画展がある)。
 「碌山美術館」のホームページにある「柳 敬助 略年表」で、柳敬助の経歴を細かく追うと以下のようになる。
 明治14年 5月5日、山田文安の次男として生まれる。
 明治19年 親戚の柳家を継ぐ。
 明治28年 県立千葉中学校入学。
 明治34年 東京美術学校西洋画科に入学。
 明治36年 12月渡米、この時黒田清輝も餞別を出している。
 明治39年 2月、高村光太郎と出会い、その後光太郎を荻原守衛に紹介する。
 明治42年 渡欧。同年9月帰国、故郷に落ち着く。この時荻原守衛の肖像を描く。
         また、お世話になった人や知人の肖像を描く。
 明治43年 荻原守衛に、新宿中村屋近くにアトリエ建設を任せる。完成から2日後、
         守衛は息を引き取る。
 明治44年 橋本八重と結婚。高村光太郎と智恵子を引き合わせたのは、八重婦人
         だったという。
 明治45年 青木繁遺作展に出品。雑司ヶ谷にアトリエ完成。

   この間に、「文展」や「帝展」に、多くの作品を出品。

 大正12年 5月16日、43歳で亡くなる。雑司ヶ谷の墓地に葬られる。
 大正12年 9月1日から、銀座三越にて友人たちにより、追悼展覧会開催。

 読者はすでに気づいていると思うが、大正12年9月1日といえば関東大震災のあったその日である。展覧会の開始後2時間足らずで震災にあったのである。30点以上の柳敬助の作品、そして、友人たちの60点以上の作品が一瞬のうちに灰と化してしまったのだ。地元君津に数点残っている肖像画を所有する方の話を聞くと、「曾祖父の肖像画なのだが、あまりにも上手に描けていて、子供心に怖かった記憶がある」と話してくれた。それだけ柳敬助の描写力はすごかったということだろう。なんとも惜しい話である。

(6)史料紹介
 君津地方の空襲の記録』で、周西村と八重原村の合併によって、第1次君津町が誕生した事情を紹介した。君津町は、第二海軍航空廠八重原工場を建設する都合で生まれたのだが、その辺の事情を裏付ける史料が、『君津市史 資料編』にあったので、それを紹介する。

 第五一四号
   昭和十八年二月十一日
                               君津郡周西村長 保坂亀次郎
    千葉県知事 川村秀文 殿
    
       町村ノ廃置ニ関スル上申書
 昭和十七年四月海軍航空廠ノ本村及八重原村ノ両村ニ跨リ設置セラルルヤ、従
 来両村ハ土地平坦ニシテ相隣接シ人情風俗同一ナリシニ加ヘ右工場ノ設置ニ依リ
 早クモ両村合併ノ機運蘊壌シ、本年一月木更津海軍航空廠長岩本少将ノ斡旋ニ
 依リ両村ニ於テ委員ヲ挙ゲ満場一致合併スルニ決シタルヲ以テ、此十一日本村会
 ニ於テ満場一致別紙ノ通リ周西村、八重原村ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ、君津町設置
 ノ上申ニ関スル議決ヲ了シ候条、町村制第三条ノ手続相成度此段及上申候也


以下、(別紙)として9項目の要綱が示されている。その後に『君津市史 資料編』では、昭和18年4月1日から君津町を置くとする、千葉県の官報をあげている。合併のきっかけは、まさに「木更津海軍航空廠長岩本少将ノ斡旋」であったことがわかる。
 第二海軍航空廠八重原工場は、木更津航空隊に隣接する海軍航空廠の分工場として建設された。昭和17年(1942)4月から工場用地の強制収用が始められ、同年10月から建設工事が始められている。工場建設にあたって、多くの強制連行された朝鮮の人々が動員された事実は、記憶にとどめておかなければなならいだろう。ちなみに、現在の南子安小学校や君津中学校は、広大な第二海軍航空廠八重原工場の敷地のほんの一部であることを付け加えておく。

(7)君津市小櫃地区の製糸場について
 先日、木更津ケーブルテレビの『君津市の歴史たんぽう』で、小櫃地区の製糸場について紹介していた。製糸場というと、群馬県の富岡製糸場(数年前に知り合いのツテで見学させてもらったことがあったが、当時のまま残っていることに感動したことを覚えている)や長野県諏訪市の製糸場しかイメージできない筆者にとって、ある意味驚きであった。小櫃地区に製糸場が最初に建てられたのは、明治22年(1889)だったと紹介していた。富岡製糸場が操業をはじめてから、17年後のことである。生産した生糸は、横浜の業者を通じて輸出されたともあった。世界恐慌に巻き込まれるまで、日本の外貨獲得の花形産業は製糸業であった。小櫃地区もその一翼をになっていたのである。
 『君津市史』で君津市域の製糸場を確認してみると、明治22年に操業された工場は、「田尻製糸場」といった。翌23年には、亀山地区に「蔵玉製糸場」が設立されている(しかし、明治41年の時点ではなくなっているそうだ)。明治28年には小櫃寺沢地区に「総蚕社」、明治32年には小櫃俵田地区に「安藤製糸場」、小櫃岩出地区に「南総製糸場」、明治34年には小櫃寺沢地区に「真崎製糸場」がそれぞれ設立されている。最初に設立された「田尻製糸場」は、「南総製糸場」になったようだ(『久留里城誌』)。明治期に君津市域にあった5つの製糸場のうち、4つが小櫃地区にあったことがわかる。さらに、明治41年(1908)の君津郡域の生糸の産額をみると、全体で3,343貫、そのうち2,881貫が君津市域で、小櫃地区は2,855貫(君津郡域の85%)を占めている。この数字を見ると、小櫃地区が、君津郡の製糸業の中心地だったことがわかるだろう。参考までに、『君津市史』に「安藤製糸場」「南総製糸場」、『目で見る木更津・君津・富津・袖ケ浦の100年(郷土出版社)』に「真崎製糸場」の写真が載っている。
 『久留里城誌』によれば、4つの製糸場の中で最も規模が大きかった南総製糸場は5ヶ所の工場を持っていた。そのうち4ヶ所は小櫃地区岩出にあったが、第三工場は富岡村(現木更津市富来田地区)にあった。動力は明治41年から「汽力」(蒸気機関)で、原料の繭は県内のみならず山梨や岩手からも買い入れ、働いていた女工は、100人を越えていた。
 しかし、生糸の輸出先がほとんどアメリカだったことから、世界恐慌の影響をまともにかぶり、昭和10年(1935)の時点では真崎製糸場と、繭の納入先に困った農民たちが昭和3年に設立した「君原社」だけとなってしまった。その「君原社」も、戦争の足音とともに、昭和14年に解散している。