久留里歴史散歩

(1)変わった狛犬
 御屋敷の神明神社には、変わった狛犬がいる。その姿が、全く普通の犬なのである。久留里城址資料館の方によると、この狛犬は高野山産出の石で彫られたもので、高野山関係の争いごとを黒田氏が仲介した御礼にもらった石で彫ったものだという。なお、狛犬とは広辞苑によると、「(高麗犬の意)神社の社頭や社殿の前に据え置かれる一対の獅子に似た獣の像。魔よけのためといい、昔は宮中の門扉・几帳(きちょう)・屏風などの動揺するのをとめるためにも用いた」とある。
 狛犬の原形は古代オリエント、インドにおけるライオン像で、それが中国大陸、朝鮮半島をへて渡来したといわれる。沖縄のシーサーと似ているが、魔よけという点でも共通している。
 神明神社は、以前まではどこから入ればいいのか、地元の人にしかわからなかったが、最近ここを訪れると、案内板(右下の写真)が設置されていた(前にもあったのに、気づかなかったのかもしれないが)。それによると、神明神社は、黒田直純が久留里城築城中の延享2年(1745)に、鬼門に当たる場所に建立したとあった。祭神は天照大神、丹生明神(「にうみょうじん」あるいは「たんじょうみょうじん」)他3神だという。丹生明神は高野山


御屋敷神明神社狛犬

案内板
犬飼明神を祖神とし、狛犬は日本犬だということである。これは、次のような説話にもとづいているらしい。

 空海が霊地を求めて大和国宇智郡まで来たとき、南山の犬飼なる大男にあう。その大男の協力で大小2匹の黒犬が案内し、紀伊との境の川辺で1泊した。すると1人の山男が現れ空海を山へ導いた。山の王、丹生明神・天野宮の神であった。この宮の託宣により丹生明神は自分の神領を空海に献じた
                            (ホームページ『丹生都比売伝承』による)

 なお、前出の『丹生都比売伝承』の管理人の方によると、「一般的には高野明神(犬飼明神)は丹生明神の神裔(神の子孫)とされている」ということである。また、この神明神社の狛犬のことが、『町田さんの千葉狛ページ』『狛犬の社☆別館』で紹介されている。興味のある方はご覧下さい。

(2)怒田地区にある大日堂とおろち伝説と横穴
 JR久留里駅から南東に直線距離にして約3kmの地点に、怒田と呼ばれる地区がある。この地には、君津市指定文化財である、18世紀初頭に造られたといわれる大日堂がある。ここに、写真にあるように大蛇のつくりものがある。それは、この地におろち伝説があるからだ。伝説とは、『小櫃川流域のかたりべ』によれば以下の通りである。
 
 昔この地に沼があり、そこに大蛇がすんでいた。たびたび農民を食い殺し、人々を悩ましていたが、ある時鎌倉からえらい坊さんがやってきて、寺を建て大日様を祭り、大蛇を封じ込める護摩を焚いたところ、大蛇は竜神として祭られ悪さをしなくなった。それどころでなく、毎年豊作が続くようになった。ところが百年後、新しい代官が、新田を拓くために沼の水を流しだすと、大蛇が怒り再び人々を襲うようになってしまった。困った村人は、爆薬を仕掛けたわら人形を大蛇に食べさせふっ飛ばしてしまった。すると、大蛇の体内から小鮒が飛び散って沼の中に消えていった。その後、水のひい


大日堂

おろち
た沼を水田として耕作したので、地名が怒泥田(ぬかるだ)というようになり、その後怒田というようになったという。この付近では、今でも鮒は大蛇の化身だということで食べないという。

 さて、大日堂の右手のさらに一段高いところに、怒田神社がある。『君津市史 民俗編』に記述がなく、祭神や縁起などは不明であるが、地名がそのまま神社の名称になっていることから考えると、おろち伝説や水に関係している、竜神などを祀る神社ではないかと思うのだが。知っている人がいたら教えてほしい。この神社のわきの斜面には横穴が掘られていて、そこから大日堂横にある水道の蛇口のついたタンクにビニール製のパイプが通っていた。この横穴は井戸の役割をしているようだ。真勝寺の境内にも、同様の横穴がある。話に聞くと、小糸地区にもこうした横穴が多いという。
 
 真勝寺とは、後に出てくる円覚寺と同じ曹洞宗の寺院である。伝えられているところによると、天文9年(1540)9月、勝真勝(真里谷武田氏の一族) が開いたという。お寺の南東の丘陵は通称「うえんじょう」と言われていて、初期の久留里城が築かれた場所と考えられているらしい。境内には、慶応2年(1866)に9代目の久留里城主となり、明治維新を迎えた黒田直養の墓がある。また、戊辰戦争のさなか久留里藩が勤皇か佐幕で揺れていた時期に、官軍に一人斬り込もうとして父に討たれた杉木良太郎の墓もある(『君津地方の歴史』「杉木良太郎のこと」参照)。また、明治11年から数年間、久留里小学校を合併した市場小学校がおかれていた。この真勝寺境内の山の斜面に、嘉永4年(1851)、久留里黒田家7代目直静の時、上町の有志が90mの横穴を掘り、清水を集め竹管で上町に給水したという。この横穴は、怒田の横穴と同じように、今でも残っている。




怒田神社

怒田神社 横穴

真勝寺
(3)久留里地区の遺跡について
 道路建設にともなう発掘調査の結果発行された、『富田遺跡群発掘報告書』の遺跡分布図に出てくる遺跡は、ほとんどが小櫃地区の遺跡であるが、地域が久留里と隣接していることから、久留里地区でも、今後道路建設等で開発が進んだ場合、新たな遺跡が出てくる可能性を示唆している。調査報告書の図からは、久留里地区に、富田横穴群、日陰山横穴群、向郷横穴群、上野台古墳群、上野台遺跡、御陣屋古墳群、松葉古墳、御陣屋遺跡、後押遺跡、愛宕遺跡、愛宕鶴場遺跡愛宕谷遺跡、向郷遺跡、愛宕前遺跡等の遺跡が存在していることがわかる。また、


御陣屋古墳群
『君津市埋蔵文化財分布地図』(1994年版 君津市教育委員会発行)には、久留里地区全域にわたる遺跡が紹介されている。驚いたことに、上野台古墳群や上野台遺跡、御陣屋古墳群や御陣屋遺跡、松葉古墳は、通勤経路(平成17年3月まで)のすぐ脇にあった。久留里地区の歴史は、久留里城とともに語られることが多く、まさか縄文時代や弥生時代の遺跡や古墳が、これほど数多く確認されているとは思っていなかった。ただ、古墳についてはある程度調査されているようだが、遺跡については、「包蔵地」となっていることから、正確な調査がされたわけではなく、土器片が出たといった程度のようである。
 さて、久留里地区の遺跡であるが、あらためてその分布を見ると、縄文・古墳時代の遺跡が多く、弥生時代の遺跡は「大門遺跡」1箇所しかなかった。これはいったいどういうことなのだろうか。小櫃地区には、10箇所近くも弥生時代の遺跡があるのにである。久留里地区を流れる小櫃川は川床が低く、稲作に必要な水が得にくかったのではないだろうか。稲作の伝来とともに、人々は稲作に適した小櫃地区に移っていったのではないかと思うのだが、どうであろうか。しかしこれでは、久留里地区に古墳が多いことに対する説明が十分できない。現時点では、「倭国の大乱」時代に入り、高地に集落が移り古墳時代につながったか、古墳時代に入り、急速に稲作技術が進み、久留里地区でも稲作が行われるようになったか、どちらかではと思っている。君津市六手の「鹿島台遺跡」の「環濠」を考えると、前者の可能性が高いのではないかとは思っているのだが。

(4)上野台古墳見学記

 『君津市埋蔵文化財分布図』にあった通り、丘の一番端にあった9号墳上には神社があり、住宅地図には「天神様」とあった。久留里神社の宮司が管轄しているという。神社の敷地はまさに墳丘を削り取ったように円形をしていて、そこがかつて円墳であったことを想像するのに十分であった。さらに杉林を奥へ入ってみると、古墳らしき土盛りもいくつかあった。 さらに、分布図上で確認すると、小櫃川流域の標高50〜70m位の丘の上に古墳が多いことに気づく。これは、小糸川流域でも同様である。中でも、久留里地区に隣接する岩出にある飯籠塚古墳や、俵田にある白山神社古墳は、平凡社版『千葉県の地名』によると、「墳形から前期古墳と考えられる」という貴重なものだ。2つの古墳とも前方後円墳である。墳丘は90mから100mの大型で、小櫃川中流域の首長墓と考えられている。小櫃川や小糸川下流域に存在する、祇園大塚山古墳や金鈴塚、内裏塚古墳群を造った国造一族とは、どのような関係だったのだろうか。また、古墳時代後期の円墳が多い、久留里地区の古墳との関係はどうだったのだろうか、興味の尽きない問題である。


上野台古墳9号墳

上野台天神様
 さらに、日陰山(岩室山ともいうらしい)古墳群には、1基前方後円墳が存在している。地形の上から考えると、ひょっとしたら、飯籠塚古墳や白山神社古墳と同じ時期の古墳かもしれない。日陰山には、前方後円墳以外に、数基の円墳や32基の横穴群が存在している。また、戦国期の砦跡や里見氏との戦いで放置された、北条方の死者を祭った岩室観音もあるなど、遺跡が集中して存在する。いずれにしても、ここ上野台周辺には縄文土器なども散見したというから、原始古代より人々の営みがあったということになる。
 『君津市埋蔵文化財分布図』を見ると、上野台古墳と道路をはさんで南側に、今では水田になっているが、向郷陣屋跡があったことがわかる。向郷陣屋とは、前掲の『千葉県の地名』によれば、上野国前橋藩主酒井氏の陣屋であった。酒井氏から川越藩主松平氏に領主が変わり、文政10年(1827)に、陣屋が松丘三本松に移るまで向郷陣屋は存在したという。また、酒井氏は土屋氏が改易になった後に、安住の地にも陣屋を構えた。その安住陣屋は、黒田氏入封後も引き継がれ、久留里城再興後は廃止され久留里城下の木戸として使われていたという。
 久留里地区はすべて久留里藩領だと単純に考えていたが、向


日陰山横穴墳
郷村、大和田村、栗坪村、芋窪村は、そうではなかった。『千葉県の地名』や『君津市史』によると、寛文4年(1664)には久留里藩領(領主は土屋氏)であったが、延宝7年(1694)には幕領、そして延宝8年に上野前橋藩領となり、寛政5年(1793)の上総国村高帳では、川越藩領。天保11年(1840)の望陀郡戸口録によると同じく川越藩領で、『旧高旧領取調帳』では前橋藩領となっていて、向郷村周辺は江戸時代の中頃より久留里藩領ではなかったことがわかる。川越藩上総領(亀山地区)では天保13年(1842)に、年貢増徴等の藩の支配に対して大きな一揆が起こっているが、この時一揆勢が姉が崎の村役人に説得され、引き上げてきた場所が向郷であったらしい。           

(5)岩室観音見学記

 『君津市埋蔵文化財分布図』によれば、岩室山を日陰山といい、富田横穴3基、日陰山横穴29基、日陰山古墳群円墳4基、前方後円墳1基、おそらく中世城郭であったと思われる日陰山砦跡があることがわかる。地形図から見ると、この地は小櫃川の河岸段丘の一番高所で、四方が見渡せる場所にあたり、ここに古墳や砦跡があったのもわかるような気がする。見学に行くと、岩室観音の周辺の横穴は、数基はっきりと確認することができた。おそらく、岩室観音は横穴の一つを再利用したものであろう。他の横穴は、保存状態は必ずしもいいとは言えない。確認した横穴も、土砂が入り込み内部構造を調べることはできなかった。時間の関係で、山頂近くの円墳や前方後円墳の存在を確かめることはできなかった。機会があれば改めて調査したい。
  ところで、岩室観音とは、パンフレット『久留里城と生きた水の里』によると、箕輪入定寺(天台宗)の僧天海によって祀られたものだという。天文23年(1554)の里見氏と北条氏の合戦で、置き去りにされた北条方の死者を葬って、その供養に観音を刻んで岩室に安置したらしい。『久留里城誌』によれば、僧天海とは、



日陰山(岩室山)

岩室観音
北条方に組みし、里見義堯に処分されたとあるが、『小櫃村誌』には、天海は天文23年の戦いの際に、無許可で北条方の死者のために大法要を営み、里見義堯に蟄居閉門という処分を受けていた。その後、別件で謹慎中の須田将監の誘いにのり、寺内に北条方の兵を隠し置いたらしい(この時の北条方の兵は、戦没者の供養料を納めにきただけだという説もある)。結局、里見氏の知るところとなり、天海をはじめ関係者は処刑され、入定寺とその末寺も取りつぶされたとある。岩室観音もこの時に破壊されたらしいが、文禄3年(1594)に大須賀氏によって、岩室に如意輪観音が安置された。現在の岩室観音は出世観音として信仰を集めているという(『小櫃川流域のかたりべ』)。なお、この日陰山を地元の人は、「羊かん山」と呼んでいるという。なんでも、成田にある羊かんで有名な米屋の社長が所有しているかららしい。
 なお、久留里地区の小市部にある円如寺は、入定寺の末寺の1つで天海事件の時に廃寺の危機にあったが、事件には関係がないということで廃寺は免れ、後に天台宗から真言宗に改宗している(『君津郡誌』及び『円如寺ホームページ』参照)。 
      

(6)上総掘りについて

 上総掘りについて資料を調べると、完成された時期(明治時代中頃)はでてくるが、完成した人物を明確に特定したものは見つからず、場所については上総としかでてこないことが多かった。自分たちの身近にある上総掘り、しかも、今からたった百年前のできごとのはずなのに、なぜはっきりしないのか不思議に思っていたが、『ふるさと西上総』を読んでみてなるほどと思った。つまり、小櫃地区の大村安之助や小糸地区池田徳蔵、沢田金次郎、石井峰次郎など複数の人々が開発に携わり、競争をしながら完成したということになるのだろう。角川の日本史辞典が創始者として、池田久蔵の名をあげているが、これは、『君津郡誌』によったものである。また同様に『君津郡誌』をもとに、昭和37年に旧小糸町教育委員会が、現君津市中島の地(春日神社鳥居前)に上総掘り発祥の地として記念碑を建立している(『君津市の歴史』に写真を掲載している)。しかし、上総掘りをどうとらえるかによると思うが、彼は単に江戸時代の文化年間に鑿井業を始め、自噴井戸を掘りあてたということにすぎないのではないだろうか。ただ、このことがきっかけとなって、その後年月を経て、上総掘りが生まれることになったのは事実である。いずれにしても、上総に生まれたこの井戸掘りの技術は、従来の方法より安価で容易な井戸掘り技術として各地に広がり、上総地方の田畑を潤し、久留里を銘水の里にしてくれたのだ。



上総掘井戸

久留里城址資料館の
上総掘りの設備
 なお、久留里市場周辺には、180前後の井戸があるというが、筆者が確認しているのは、現在通りに面している17ほどの井戸でしかない。

 Yahoo!ニュースを見ていたら、「上総掘り:村に井戸を ジャロさんが帰国へ--袖ケ浦で壮行会」(平成19年1月21日 毎日新聞)という見出しが目に入ってきた。上総掘りの理解に役立つと思うとともに、記事の内容にも感動したので、記事を全文紹介する。ジャロさんたちの成功を祈りながら。

 
内戦で故郷を追われた両親が住む村に井戸を作りたいー。4年間、袖ケ浦市で井戸掘りの「上総掘り」の技術を学んでいたアフリカの青年、モハメド・ジャロさん(44)=東京都小平市=の壮行会が20日、同市の市民会館で行われた。31日に支援者2人とともにギニアに帰国するジャロさん。夢の実現に向け、「千葉で習った技術を生かし、24時間水が出る井戸を村人にプレゼントしたい」と決意を新たに語った。
 ジャロさんは西アフリカのシエラレオネ出身。在日10年3ヶ月で、日本茶製造会社に勤めている。香港の会社で働いていた93年、シエラレオネで内戦が始まり、家族はギニアに亡命した。
 02年6月ギニアに帰った時、両親がいた人口約500人のイラヤ村には井戸がないことが分かった。乾燥期にもなると川も枯れ、女性と子どもが約6キロ離れたところまで毎日4、5時間かけて水くみに行く姿にショックを受けた。
 日本に戻ったジャロさんは、人力だけで数百メートルもの深井戸を掘る「上総掘り」を知り、4年前から上総掘り技術伝承研究会(鶴岡正幸会長、会員40人)の会員になった。毎週土曜日、袖ケ浦市立郷土博物館で井戸の原理を勉強したり、君津市や市川市の民家で100メートル以上の井戸掘りも体験。ジャロさんの人柄と熱意に賛同した会員の会社員、中村和利さん(58)=君津市泉=と2年前に会社を定年退職した向井守さん(65)=柏市藤心=が協力、3人でギニアで井戸掘りすることになった。
 約250万円かかる費用は、ジャロさんが集めた寄付金70万円以外、中村さんと向井さんが負担。昨年12月、3セット分の資材と4WDの車2台を送った。
 3人は31日に成田を出発し、1カ月半、首都コクナリから約330キロ離れたイラヤ村の民家に滞在する予定。村人5人を雇って、井戸掘りの技術を伝承しながら2本の井戸を掘る。中村さんらは「水不足で悩んでいるアフリカの人たちが上総掘りの技術を習い、各地で井戸を掘ってほしい」と期待している。


 ジャロさんの井戸掘り、その後どうなったか気になっていたところ、偶然目にした新日鐵君津の発行した広報誌『きみつ』に載っていたので紹介したい。記事を書いていたのは、上記の新聞記事に出てくる中村さんであった。『きみつ』によれば中村さんは、新日鐵の厚板工場のOBで、現在は日鐵運輸(株)に勤めているようだ。

 (前略)しかし、ギニアの国内混乱による出発の遅延や途中広州での足止めなどのアクシデントが続き、私たちがギニアの首都・コナクリに到着したのは予定より1ヵ月後のことでした。
 このため、当初予定していたコナクリから約330キロ離れたイラヤ村での井戸掘りは断念せざるを得ず、急きょ、帰国を2週間延ばして、コナクリのジャロさんの家の庭で井戸掘りを開始しました。結局、今回は完成には至らず、あとの作業をジャロさんに託し帰国しました。
 今回は残念ながら、水を出すことはできませんでしたが、現地で井戸の大切さを再認識しました。定年後に再びギニアに行って、24時間、水が出る井戸をプレゼントし、上総掘りの技術を伝えたいと思っています。


 ジャロさん、中村さん頑張れ!影ながら応援します。ところで、上総掘りの技術は、昨年(平成19年)4月に国の重要無形民俗文化財に指定されている。民俗技術の分野では、日本で最初の指定だそうだ。また、ニュースの中に出て来た袖ケ浦市の『上総掘り技術伝承研究会』をはじめ、上総掘りの技術を伝える活動をしている団体も複数あるという。そう言えば、3月8日(土)に日本テレビの『ぶらり途中下車の旅』の中で、旅人の小倉久寛さんが上総掘りを体験していたことを思い出した。八千代市にも、『上総掘り伝承の会』という会が存在していたのだ。その他にも、千葉市『子どもの森上総掘り研究会』、大多喜町、佐倉市、船橋市などにも同じような組織があるという(『ちば民報』5月4日号)。上総掘りは、それだけすごい技術だということだ。インターネットで「上総掘り」を検索していたら、『上総掘り伝承の会』の活動を紹介するページを見つけた。上総掘りの手順を写真入りで紹介してあり、大変わかりやすかった。残念ながら、現在はつながらなくなってしまいました。


(7)雨城庵で
 雨城庵に行くと、必ず水を汲みに来ている人たちがいる。それも、観光のついでというわけではなく、水汲みが目的なのだ。普段着姿でペットボトルに水を汲んでいる人に話を聞くと、地元の方もいるのだが、「船橋から水を汲みに来ました」「千葉市の美浜区から来ました」「ご飯を炊くとおいしいよ」などの答えが返ってくる。先日は平日にもかかわらず、足立ナンバーのワゴン車が止まっていたので話を聞いてみると、やはり観光目的ではなく、「水を汲むためにわざわざ東京からやってきた」とのことだった。


雨城庵井戸
千葉県内のみならず、結構遠来の人々が多いことに驚く。それだけ「銘水の里」としての久留里の知名度は高いということだろう。

 なお、雨城庵とは、江戸時代最後の領主黒田直養の茶室跡であり、晩年、東京から戻りここで生活していたという。現在は傍らに農産物の直売場があって、近在の人々ばかりでなく、遠くから来た人も多い。直養の墓は、近くの真勝寺にある。真勝寺については、「怒田地区にある大日堂とおろち伝説と横穴」を参照のこと。この他に、国道沿いの高澤家前の井戸でも、観光客らしい姿をよく見かける。地元の方の話によると、かつて高澤家の井戸は門内にあったのだが、水を汲みに多くの人が訪れるようになったので、門外の現在の道路わきに移したとのことである。

(8)庶民信仰の山 浅間山にて

 久留里中学校の裏に、浅間山と呼ばれる山がある。
 浅間山には『君津市史』民俗編によると、5つの神様が祀られていることになっているが、実際に見学にいってみると社は、姥神社、金比羅神社、三峰神社、二十三夜の4つしかなかった。浅間様の社は探してもどこにもなかった。しかし、三峰神社と二十三夜の間にこんもりとした茂みがあり、そこに碑が建てられており、地形の上から見るとこの地点が山の頂点らしいことから、ここが浅間様のようである。このように社のない浅間様は他地域にも多く見られるという。碑には「木花之佐久夜毘賣命」とあり、「このはなのさくやびめのみこと」と読む。日本神話に出てくる天照大神の兄大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、海幸彦と山幸彦の母のことである。浅間神社の祭神である。碑の裏に、



浅間様
「明治9年5月焼失、明治17年6月再建」とあるから、かつては社があったのではないか。それとも木造の碑であったのかもしれない。この他に、この浅間山には、八幡大神も祀られているという。所在ははっきりしないが、姥神社の左隣に朽ちた小さな社があるので、どうもこれが八幡大神ではないかと思われる。平成16年の1月7日、お参りに行くと、その朽ちた社に正月飾りが供えてあった。

  この浅間様から小学校の体育館に向かって一直線に急な参道が通っていたようで、現在でも狭い小さな石段が確認される。姥神社と金比羅神社の前から、それぞれ1列ずつ小さな階段が下へ向かっている。その先の2段目3段目の階段からは1列になり、浅間様から下りてきた階段に合流するようになっていた。2つ合わさった参道は、途中で切れ崖になっている。現在の小学校の体育館建設にあたり、参道はなくなってしまったらしい。ひよっとしたら、現在の中学校の裏門近くの階段は参道の一部で、近辺に鳥居でもあったのかもしれない。
  2段目の階段の左わきには、享保の年号の読みとれる不動明王が立っている。「大山不動尊」とあったことから考えると、神奈川県丹沢の大山に対する信仰があるのではないだろうか。不動尊の前に新しい榊が供えられていたことから、今でも信仰は続いているようだ。『君津市史』民俗編によれば、大山講は石尊講ともいわれ、大山の山頂に祀られる阿夫利神社(明治の神仏分離前は、大山寺といい、成田不動、高幡不動とともに関東三不動の一つである。祭神は前出の大山祇神である)を崇め代参する講である。山頂の本社の御神体が巨大な自然石であることから、江戸時代には石尊大権現と称したという。この信仰は、小櫃川流域でも久留里や平山をはじめ各所にかつて雨乞いの神としてまつられた石尊様の石宮として残っているという。
大山不動尊

 金比羅様
は海神で、航海の安全を守る神として船人が尊崇する神である。香川県琴平町の金比羅様が有名である。かつて、小櫃川の川船が盛んだった頃の名残だと考えられる。金毘羅神社の創建は、宝永3年(1706)だという。讃岐の金刀比羅宮の祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)で、天照大神の弟、須佐之男神(すさのおのかみ)の6世の孫大国主神と同一人物ともいい、大和の三輪山をご神体とする神で、農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎なご利益を持つ神だという。

 三峰神社は、火伏せの神である。実は明治31年まで、火伏せの神としては、真勝寺の隣りにある秋葉神社を信仰していたのだが、この年の大火で焼けてしまったことから、人々は三峰神社を火伏せの神として信仰するようになったという。例年5月10日に山掃除を行い、その後講の人たちが秩父に代参者を出すことになっているという。秩父の三峰神社の祭神はイザナギノ命とイザナミノ命で、ヤマトタケルがこの地を訪れた時に祀ったという言い伝えがある。

 姥神様は鵜羽大神ともいい、祭神は「志那都比古命」で「しなつひこのみこと」と読む。風の神である。前出の大山祇神の兄にあたる。姥神様は、子どもの守り神や風邪の神様として信仰されていた。子どもが風邪をひくと願をかけ、治るとお礼に竹筒に甘酒を入れて供えたという。一般的には、姥神様(地方によっては姥石様)は、咳を治す神として信仰され、喘息や百日咳で苦しむ人々が願をかけた神様だという。またかつては、姥神様や姥石様は村はずれにあることが多いことや、「咳」は「関」に通じ、「関」はせき止めるという意味があることから、道祖神と同じように禍が村に入らないように祀ったともいわれる。

 「二十三夜」を広辞苑で調べると、「陰暦23日の夜。この夜、月待ちをする」とある。「月待」の項には、「月の13日・17日・23日などの夜に、月の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすること。講の組織になっていることが多い」とある。『君津市史』民俗編には久留里地区に二十三夜講があったことが記されていることから考えると、二十三夜の社内か前で月待行事が行われていたのではないだろうか。先日(平成16年6月某日)君津市中央図書館で、千葉県立房総のむらが発行した『町並みに関する調査報告書 第三集 君津市久留里の歴史と民俗』(平成9年3月31日発行)という報告書を見つけた。そこに、「二十三夜講」のことが少し出ていたので、以下紹介する。


金毘羅神社


三峰神社



姥神社





二十三夜

 地元では「三夜講」という。祭神は木花之作久夜売命で三夜様ともいった。みそぎ堂(おこもり堂ともいう)で毎月三夜講が行われ、おばあさんたちがオコモリをしていた。提灯をつけて山に上り、午前一時ころに拝んでいた。みそぎ堂は市場のおばあさんたちの集会場のようなものだった。
 春と秋には、祭りがあったというが、詳細はわからない。 

(9)十二社大権現と浮戸社

 久留里市場の上町地区には、十二社大権現が祀られている。これは松丘千本城の「オクマンサマ」を移したものといわれている。「オクマンサマ」とは熊野神社のことで、熊野三山のうちの熊野速玉大社(新宮)のことを十二社大権現ということから、熊野速玉大社を勧進したものであろう。また、広辞苑には「十二社」の項に、「963年7月(一説、1370年)の制で祈雨の神社、即ち竜穴・火雷・水主・木鳴・乙訓・平岡・恩智・広田・生田・長田・坐摩・垂水をいう」とある。水源としての真勝寺の横穴、久留里の大井戸、大山信仰等を考えあわせると、「銘水の里」久留里も、かつては水をいかに確保するかが大きな課題であったことが想像される。なお、「権現」とは広辞苑で引いてみると、「@仏・菩薩が衆生を救うために種々の身や物を権に現すこと。権化。本地垂迹説では、仏が化身して我が国の神として現れること。またその神の身。熊野三所権現・山王権現の類。A仏・菩薩に擬して用いた神の尊号。東照権現の類」とある。
 十二社大権現は、藤平酒造が管理する藤平家の神社である。



十二社大権現

浮戸神社
君津市の歴史』「小櫃川流域の中世城郭 千本城」でも、紹介したように、藤平家はかつて、千本城の城主だったのである。
 下町地区にある浮戸神社は、かつては正福院延命寺といい、不動明王を本尊としていたが、火災による消失と、廃仏毀釈によって、現在の浮戸神社となり、通称「お不動様」といって地域の人々に親しまれている神社である。書道教室などにも使われているようだ。祭神は日本武尊である。なお、この神社には、狛犬はいるが鳥居がなく、狛犬の左脇には数体の地蔵が安置されている。十二社大権現をはじめ、新町と御屋敷地区にある2つの神明神社、浮戸神社では、それぞれ子ども祭りが行われている。仲町の正源寺でも子ども祭りが行われていたらしいが、現在ではなくなっているようだ。

(10)新井白石宅について

 久留里小学校の正門脇に新井白石の宅地跡の表示があるが、久留里城址資料館の方の話によると、白石の住居ははっきりとそこにあったというわけではなく、どうもこの辺にあったらしいという程度のものだという。白石が友人の伴氏に宛てた手紙の写しが、久留里城址資料館に展示されている。また、その他に、久留里城址資料館には白石像が設置されている。なお『久留里城誌』には、白石の著書「折りたく柴の木」の中にある土屋氏に関わる記述が紹介されている。
 白石は、16ー21歳まで久留里に居住していたという。もし、三
 代頼直の時に藩政が混乱し、土屋氏が改易にならなければ、 



白石邸表示
白石はそのまま土屋氏に仕え、将軍の参与として「正徳の治」と呼ばれるほど、幕政の上での実績はなかったかもしれない。縁は異なものである。

(11)久留里地区忠霊塔について

 久留里小学校の校庭の脇山の斜面に、西南戦争から太平洋戦争までの、久留里地域から出征し命を落とした兵士たちのために忠霊塔が建てられている。地域の人も忠霊塔があることは知っているのだが、それが何のために、いつ建てられたのかあまりよくわかっていないのが現状だ。あらためて見学すると、西南戦争で1人、日清・日露戦争で3人、太平洋戦争で169人、他に3人、合計で176人が合祀されていることがわかる。この忠霊塔は昭和29年に建立されたもので、久留里小創立百周年記念誌『雨城を望む学び舎』でも、卒業生が思い出のひとつとして、こ



忠霊塔
の忠霊塔のことにふれていた。他に、久留里神社の境内などにも忠魂碑が建っている。次のページ『久留里歴史散歩PartU』の「戦争と久留里」には、久留里地区の空襲の被害を掲載している。是非ご覧ください。

(12)子守っ子教育について

 日本の小学校の就学率は、1900年代にほぼ90%を超えるようになった。しかし、子供たちは農家にとって貴重な労働力で、子守等で欠席する児童が多かったようで、久留里小学校に、町の中心から離れた山間部に出張授業を行った記録が残っているという。この出張授業を、当時子守っ子教育といって、久留里地区だけでなく、千葉県全体の大きな課題だったらしい。『千葉県教育百年史』にもその記述があるという。子守っ子教育については、久留里小学校の創立百周年記念誌『雨城を望む学び舎』にもふれられている。それによると、子守っ子教育のための出 



八坂神社
張授業は、毎週木曜と金曜日の午後1時から3時まで行われたと記録されているという(『君津市史』史料集近代UP.610にも掲載されている)。八坂神社の見学に行き、地元の方にお話を伺うと、授業は社の中で行われたということだ。


久留里周遊マップ