(1)周南地区の遺跡について
周南地区には、『君津市埋蔵文化財分布地図』(1994年 君津市教育委員会発行)によると、60以上の遺跡が存在している。半分以上が古墳時代の遺跡で、土師器や須恵器などが出土していたり、横穴墳、円墳などである。前方後円墳も数基存在している。縄文や弥生時代の遺跡は「包蔵地」となっていて、正式な発掘調査が行われてはいないようだ。しかし、「鹿島台遺跡」や「常代遺跡」など、道路建設などの関係で、きちっと発掘調査され報告書も出されている遺跡もある。なお、『君津市埋蔵文化財分布地図』や各種発掘報告書は、君津市中央図書館で自由に閲覧できるようになっている。ちなみに、本サイトの『お気に入りの風景』の最後のほうに掲載している、「六手地区」の写真の大木の生えているところも、「熊野前古墳」という古墳らしい。
さて、『君津市埋蔵文化財分布地図』で、縄文時代と弥生時代の遺跡分布を確認すると、当時の人々の生活や、日本全体の歴史をかいま見ることができる。縄文時代の遺跡は、小糸川の支流である宮下川や馬登川の中流から上流の山の麓、標高30m前後の微高地に存在している。弥生時代の遺跡は、主に、宮下川が小糸川に合流する、標高15m前後の低地に分布していることがわかる。もちろん、縄文時代の生活の糧は狩り、漁や自然採集だったこと、弥生時代は稲作が行われていたことから、こうした遺跡分布の差が生まれたのであろう。小糸川沿いの常代遺跡では、稲作にかかわる多くの木製品や堰の跡も見つかっている。
ところが、六手地区にある鹿島台遺跡は、縄文から古墳時代にかけての複合遺跡であった。弥生時代の住居址も多数出土している。水田から離れた標高50m前後の高所に、弥生時代の生活の跡があるのである。それはなぜか、鹿島台遺跡の発掘結果に答えはあった。集落の周囲に、環濠が発見されたのである。環濠は、集落の防衛のために造られたものである。有名な吉野ヶ里遺跡には、三重の濠が存在している。弥生時代も中期を過ぎると、水や田をめぐって大きな争いが起こる。魏志倭人伝に云う、いわゆる卑弥呼が擁立されるにいたった「倭国の大乱」、つまり戦争である。それまで水田の近くに居住していた弥生人たちは、戦争から集落を防衛するために、高地に移り濠をめぐらしたものと考えられる。周南地区の遺跡分布は、こうした日本全体の大きな歴史の動きを反映していると考えられるのである。なお、鹿島台に生活していた人々は、古墳時代に入ると低地に住居を移し、鹿島台そのものは墓地として利用されたという。今でも六手地区では、「鹿島台は六手の発祥の地である」と言い伝えられているらしい。
周南地区の縄文、弥生時代の遺跡
【縄文時代】
宮下遺跡(君津市宮下)、鹿島台遺跡(君津市六手)、泉遺跡(君津市泉)
羽黒下遺跡(君津市尾車)、姥田遺跡(君津市六手)、小山野遺跡(君津市小山野)
【弥生時代】
郡条里遺跡(君津市郡、常代)、常代遺跡(君津市常代)南宮下遺跡(君津市宮下)
小山野遺跡(君津市小山野)、関ノ谷遺跡(君津市浜子)、鹿島台遺跡(君津市六手)
※鹿島台遺跡については、千葉県文化財センターにつながるようになっている。君津地
方の環濠集落遺跡は、9ヶ所確認されている。袖ヶ浦市の「滝ノ口向台遺跡」「根形台
遺跡」「美生遺跡」「西原遺跡」、木更津市の「鹿島塚A遺跡」「千束台遺跡」「中尾東谷
遺跡」、君津市の「鹿島台遺跡」「畝山遺跡」である。
(『千葉県の歴史 資料編 考古4』より)
※常代遺跡では、方形周溝墓が165基ほど検出されている。これは、東日本最古のも
のらしい。また、堰の跡や木製の農具なども出土している。旧石器時代の痕跡や、縄
文時代の遺物もあったようだ。郡条里遺跡でも、縄文時代の遺物が検出されていると
いう。なお、常代遺跡出土の木製品は、18年3月に県指定有形文化財に指定されて
いる。詳しくは君津市のホームページで。
※姥田遺跡は、1994年版の『君津市埋蔵文化財地図』では、縄文時代の遺跡として紹
介されていたが、2000年版の『分布地図』では、古墳時代から平安時代の遺跡であ
ると紹介されている。1994年の時点では「包蔵地」となっていたことから、縄文土器の
欠片が出土していたのであろう。その後、正式な発掘調査がなされ、古墳時代の住居
址や水田跡、奈良や平安時代の遺物が検出されたものであろう。
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