君津地方の空襲の記録

【昭和19年(1944)】
2月16日 ・小型機空襲、飯野村(現富津市)国民学校付近に爆弾破片落下

5月10日 ・中川村横田上空で空中戦あり

7月10日 ・小型機数百機東方洋上より侵入飯野村も空襲、無被害

 ここまでの記事は、『富津市史』によっているが、『青森空襲を記録する会』事務局の中村和彦氏から、「たとえば、昭和19年2月16日の飯野村(現富津市)国民学校付近に爆弾破片落下の記述でございますが、これは明白に昭和20年の誤記と思われます。昭和17年4月18日のドーリットル空襲以後、アメリカ陸海軍機がはじめて関東地方(小笠原諸島を除く)に飛来したのは、昭和19年11月1日のB29東京偵察が初めてで、11月24日に中島飛行機武蔵製作所に爆撃が行われました。海軍は、昭和20年2月17日の第5艦隊艦載機によるものが初めてとなります。アメリカ海軍が再び関東地方を攻撃したのは、7月10日、18日、8月10、13、15日 となります」 という指摘をいただいた。

 また、『君津市史』等によれば、空襲は3期に分けることができるという。第1期は、昭和19年11月24日から昭和20年3月4日までで、攻撃の目標は各地の航空機工場で、攻撃方法は高度1万メートルからの精密爆撃であった。第2期は、昭和20年3月10日から6月15日までの時期で、三大都市圏が攻撃目標となり、焼夷弾による攻撃が実行された。第3期は、昭和20年6月17日から8月15日までで、三大都市圏をのぞく中小59の地方都市に対する焼夷弾による空襲が行われ、小型機による空襲も繰り返された。

 袖ケ浦市の戦争体験集『明日の君たちへ』の証言に、横田駅への空襲(おそらく後述するように昭和20年5月8日だろう)の数日後に「
高射砲で撃たれた友軍機が近所に墜落し、付近は火災で一面火の海、不幸にも東京から疎開していた家族が全員焼死してしまいました」とある。この証言からすると、5月10日の中川村の空中戦は、どうも昭和20年ではないかと思われる。また、後述の1944年12月14日のできごとも、昭和20年5月のできごとだった可能性が高いのではないだろうか。

 中村氏の指摘及び『君津市史』の記述や『明日の君たちへ』の証言を総合してみると、やはり、上記の空襲の記録はどうも昭和20年の間違いであると言えるだろう。さらに、後述の昭和20年6月11日の「・P51艦載機飯野村国民学校附近空襲」も6月10日の可能性が高いだろう。
   
 上記の記事に対して、昭和19年当時木更津中学の1年生だった方から、以下のような体験談が寄せられました。

内房来襲の米艦載機について】
 昭和19年4月から私は大貫、木更津間を汽車通学していまし た。登校途次に警戒警
報が発令されたら登校の要なしとされていました。ある朝、大貫駅で警報発令を聞きそのまま同級生数名と連れ立って帰宅の途につきました。駅を背にして大通りを左折し、海岸沿いに小久保までという道のりです。もう50メートルも歩いて右に曲がれば海岸という辺りまで来たとき、突然、米戦闘機の機銃掃射を受けました。道路いっぱいに広がっていたわれわれ友人たちの中に傷ついた者はいません。道端に一斉に伏せたのか、左右叢の中に跳び込んだのか、その辺の記憶は曖昧ですがしかし、私自身は飛行士と睨み合ったという確かな感覚があります。ゴーグルのような眼鏡、飛行帽を含む顔を視認できました。道の左前方の民家の屋根がトタン葺きだったと思えますが、連射された弾はこれに当たり、パリパリパリっと連続音が聞こえました。あの民家に人がいたのか、いなかったのか、いたとしたら家の中はどうなったのでしょう。飛行機は急昇して南方向飛び去りました。そのとき私は中学1年です。3学期中に遠い田舎に、帰郷の意味もあって転校しました。従って私たちが襲われた上記の日は、昭和20年4月以降ではあり得ません。この「君津地方の空襲の記録」によってその日を特定しようと試みましたが、どうもよく分かりません。昭和19年11月某日金谷へのグラマン来襲はあり得べき日として候補です。11月27日小櫃村は爆弾ですから違います。12月14日友軍機墜落は戦闘して撃ち落とされたのでしょうか。だとしたらこの日も候補です。昭和20年2月5日小櫃村空中戦、これ も候補です。がしかし、中村和彦氏ご指摘の、関東地方へ海軍機来襲初めての日が、昭和20年2月17日とすれば、前節記載のすべての日が該当しなくなります。となると2月17日木更津基地と2月25日が残りますが、25日は雪が散らついたとありますから、これも外れます。私のあの日はぽかぽか陽気の暖かい日でした。で、昭和20年2月17日を私のあの日と特定できるのでしょうか。木更津で一暴れした編隊の中の1機が帰艦の途中、子供の群れへ遊びのようにして襲いかかったのでしょうか。以上体験記を送便します。資料としてお役に立てれば幸いに存じ ます。

 上記の体験談の日時を、特定できればと考えています。

 最近(2017年9月)、過去の天気図が閲覧できるサービスがあることを知った。そこで、「房総線各所で列車銃撃された」1945年の2月17日の天気図を調べてみると、関東地方は高気圧に覆われていて等圧線も間隔が広く、天気は穏やかな晴れだったと思われる。上記の方の体験談「ぽかぽか陽気の暖かい日」と合致する。このことから、上記の方の体験は1945年2月17日の可能性がかなり高いのではないだろうか。

『デジタル台風:100年天気図データベース・過去の天気図アーカイブと日本の気象観測の歴史』参照

11月 ・金谷砲台へグラマン機空襲、急降下、22ミリ機関砲弾浜金谷駅屋
 根貫通

 
11月27日 ・小櫃村爆撃

※『小櫃村誌』によれば、西原地区に5発の爆弾が投下され、辻堂が全
 壊した。


12月14日 ・平川町永地(旧平岡村)の民家に日本軍の戦闘機が墜落し、住民4人と
 搭乗員2人が死亡している。また、隣の民家も全焼した。(『平川町史』)


【昭和20年(1945)】
2月15日 ・小櫃村上空で空中戦、小櫃小学校玄関付近に流弾。(『小櫃村誌』)
※『図説 木更津のあゆみ』によれば、この日の空襲により木更津で4名
 の重軽傷者が出ている。

2月17日 ・木更津基地付近銃撃、房総線各所で列車銃撃される。(『君津市史』)
※『図説 木更津のあゆみ』によれば、この空襲により木更津で2名が亡
 くなっている。
2月19日  ・木更津航空隊に爆弾1発着弾。(『図説 木更津のあゆみ』 より)

2月25日 ・清和村植畑空襲、一戸全焼、四人死亡

※『清和村誌』『小糸町史』によれば、小糸、清和地区全体が襲われ、亡
 くなった方々は、清和村で3人、小糸村大野台で1人だったという。小糸
 村の被害者は12歳小学生で、この日は風邪で学校を休み寝ていたと
 ころ、家に飛び込んできた銃弾に打ち抜かれたという(後述)。また、少
 女のお母さんも右足に大けがをしている。この時、現在の墨田区からの
 疎開児童が宿舎にしていた長谷寺が全焼しているが、幸い疎開児童に
 は被害はなかったという。

※久留里城址資料館の企画展資料によると、上記の被害の他に、小糸
 村の大井戸で家屋が1軒焼失し、また、少女が1人亡くなっていた。『君
 津市史』の年表に「児童2人死亡」とあった理由がわかった。全国疎開
 学童連絡協議会の機関誌『かけはし』第33号には、疎開児童の遊び仲
 間の14歳の姉が、機銃掃射にやられ、防空壕で亡くなったとあった。

※清和村の空襲については、当時10歳だった方の以下のような証言が
 ある。


  昭和20年2月25日、雪がちらつく寒い朝、九十九里の方からグラマ
 ンが低空飛行をしながら、いきなり機銃掃射。植畑では1軒の住宅が全
 焼。亡くなったのは、女の人が消防団の詰め所にいてやられている。当
 時、消防団の詰め所は避難所になっていたのに、そこに いてやられて
 しまった。清和市場では、土間で脚絆をはいている時にやられた人がい
 た。その他、B29が爆弾を落としていった話は、あちこちにいっぱいあ
 る。家の下の 川の淵に大きな一枚岩がある。そこに直径5mぐらいの
 穴があいているが、それがB29の爆弾の跡だ。諏訪神社には、落とさ
 れた爆弾が今でも飾ってある。


 清和市場の被害については、『清和村誌』にも詳しく載っている。『富津
 市史』の「一戸全焼、4人死亡」という記述では、空襲による火災で4人
 死亡したように読み取れるが、そうではなかったことが、上記の証言や『
 清和村誌』でわかる。実際に亡くなったのは、4人ではなく5人だったの
 だが。

 2月25日の植畑の空襲で家を焼かれた方の体験談が、君津市遺族会が平成8年に発刊した『終戦五十年記念誌』に載っていたので紹介する。

  「空襲警報」、あれは昭和二十年二月二十五日、大雪のある朝の出来事だった。「危
 ないから外に出るな」と父の声、暫くして川沿いに敵機来襲。その時艦載機の音と同時
 にハバリバリッと何とも鈍い音。父はいつの間にか外廻りを点検した様子・・・・・・。普段
 は静かな父の甲高い声で「火事だ。皆んな外に出ろ。」カヤブキ屋根に爆撃を受けたの
 だった。
  後で知った事だが、機銃掃射の恐ろしさは、三百メートル程離れた先の場所にあった
 消防の詰所まで飛び、三・四人は詰めていたそうですが、その銃砲に当たり女の方が戦
 死したそうです。
  十才の私の目の前出来事はあまりにも強烈だった事は言うまでもない。カヤブキ屋根
 が火柱と共に焼け落ちる様は、いつまでも脳裏にやきついて離れない。
  私共の家では、父母、祖母、姉、弟二人と私の七人だが、九死に一生とでも申します
 か、命拾いをしました。戦災では家は丸焼けとなり大人の方の誘導のもと一時は木小屋
 に避難し、姉十二才と私は母方である日渡根に世話になり、幼い弟達と祖母は、父母の
 もと終戦まで半年、この間東京大空襲など次々と空襲があり、近親者並び皆様の助け
 をいただきました。父母達の苦労を見るにつけ、ゼロからの出発はいかばかりだったか
 と・・・・・・。
  又もこの地で生涯を暮らす事になるとは夢にも考えなかったことでした。この家の長男
 も戦死され影ながら見守って下さっていると、深く感謝しているところです。
  山あり谷ありの三十余年でしたが、戦後五十年感慨深いものがあります。二度と戦争
 のない平和な国であってほしいと願わずにはいられない私です。

【小糸の里の青い空】より
 『Web学童疎開を語り継ぐ会』の山田氏から送っていただいた、『学童疎開の記録』(全国疎開学童連絡協議会編集 大空社)の第2巻にある『小糸の里の青い空』(谷村公司著)のコピーにも、昭和20年2月25日の空襲被害が載っていたので、その一部を紹介したい。本所区(現在の墨田区)中和国民学校4年生の谷村さんは、小糸の長谷寺に疎開していた。その疎開体験は悲惨なものではなく、里の人々の温かい思いに包まれたもので、まるで童話のような話であった。それが突然米軍機に襲われ、打ち砕かれることになるのだ。疎開していた子供たちは何とか助かったが、宿泊先の長谷寺は焼失し、翌日、近所の特別に仲のよかった少女の死を知らされることになったのである。


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (前略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  だがこの日が最後だった。幸せは再び来ることはなかった。二月二十五日の朝七時
 半、雪の舞い落ちる朝、小糸村は二機のグラマンに襲われた。隣の秋元村では四名が
 殺された(注 実際は3人)。私達は朝食の最中で一人私だけが便所へ行っていた。早
 く戻って食べようと長い廊下を急いで歩いて来た時、ふとはるか右上方の遠い所でアブ
 の羽音のような音が聞こえて来るのに気が付いた。何だろう?足を止めて見上げると黒
 い点が見え、それがぐんぐん大きくなって来る。すごい音になった。あっグラマンだ。アメ
 リカ人だ。青い目をした赤ら顔が見える。やられる逃げなきゃ。それらの事がとっさにか
 けめぐり私は走った。あと五メートル位で部屋に入るという所でバーンという大きな音と
 ともに視界一杯に閃光がきらめき、目がくらみぼうっとして何も分からなくなった。気がつ
 いた時は皆と共におぜんの下に潜っていた。後で聞いた話では長いおぜんに皆が差し
 向かいで食べている中央を機銃弾がピューピシーと通って行きおぜんの上に弾のかけ
 らがころがり、奥のついたてにブスブスと弾がささったとの事である。食器もガラガラと落
 ち皆にフトンをかぶせようと寮母さんは押入れに走り何人かにかぶせつつおぜんの上
 の弾のかけらを手にとって見たとのことである。死者がでなかったことは奇跡としか言い
 様のない事態であった(注 このすぐ後に、屋根に突き刺さった弾が火を噴き、長谷寺
 は炎上した)。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 翌日の朝、新しく引取られた家に英子ちゃん死亡の知らせが来た。私は心臓にナイフが
 突き刺された思いがした。
  呆然となり足がふらついてコタツに倒れ伏した。目の前の三つのミカンが滝のようにあ
 ふれ出る涙でぼんやりとかすんで見えなくなった。内臓が勝手に動いて体中がふるえ洪
 水のように涙がとめどなく出て来た。殺したアメリカ人の顔がまざまざと浮かんで来た。
 真正面から見たあの顔は笑っていた。英子ちゃんを殺したすぐ後で私も殺そうとしたの
 だ。これだったら私も死んだ方が良かった。キスをすると英子ちゃんのおっぱいの匂い
 がした。可愛かった肌は滑らかでやわらかく私のお嫁さんになりたいとも言ってくれたの
 に.....。何時までも泣き続ける私を若いお嫁さんが抱きしめてくれた。
 「英子ちゃんと仲良しだったのは、あんただったのね。お葬式は明日だそうよ。一緒に行
 きましょうねっ」

  背中をさすってくれる胸の中で私は涙が涸れるまで泣いた。その時、その日、英子ち
 ゃんは風邪を引いて学校を休み奥の六畳間で布団に寝ている所を撃たれたのだとい
 う。
 姉の和子さんが朝御飯には英子ちゃんが大好きな鉄砲巻きを食べさせてやろうと思い
 台所でいそいそと立ち働いていた。そばには、光ちゃんが、はしゃいでまとわりついてい
 た。母のたかさんは十二畳の間でこたつの火をおこしていた。兄の誠さんは土間で牛の
 餌を煮ていた。和子さんが鰹節を混ぜ海苔を巻こうとした時に、ざあーっと台風の三倍
 もあろうかと思われるような音がして屋根がまくりあげられるようなバリバリという音が
 した。後を振り返ると何本もの閃光が英子ちゃんの部屋に向かって斜めに走るのが見
 えた。部屋から「お母ちゃん」と英子ちゃんの叫び声がした。炬燵の火をおこしていた
 お母ちゃんも右足の前のももをえぐられ血まみれになったが、英子ちゃんの声に無我
 夢中、奥の部屋へととびこんだ。同時にとんできた和子さんが布団をめくると真赤な猫
 が胸の上に乗っているのかと思えた程、胸が血まみれ、むくむくとうごめいていたとい
 う。


      
         小糸 長谷寺跡地            平成10年に建てられた碑

             
                  長谷寺跡から見た小糸の青い空

 平成19年10月、長谷寺のあった場所を訪れてみた。そこには、平成10年に建てられた「長谷寺跡 昭和二十四年 神宮寺ニ合併」と記された碑があった。長谷寺は、空襲で焼けた後に、復興されることなく廃寺になっていたのだ。それにしても、なぜ?こんなのどかな農村が襲われなければならなかったのか、あらためて戦争の理不尽さを呪わずにはいられない。

 空襲の被害の数だけ、上記のような悲劇があったということを、私たちは絶対忘れてはならない。谷村さん自身は、直後の東京大空襲で一家(両親と兄4人)を亡くし、いわゆる戦災孤児となった。その後の人生は、筆舌に尽くしがたいものだったはずだ。戦争孤児を記録する会の『焼け跡の子どもたち』に、谷村さんの体験の一部が記録されている。また、平成17年に墨田区教育委員会が発行した『語りつごう平和への願い〜学童疎開墨田体験記録集〜』の中にも、別の方の体験談が載っていた。なお、君津地方の学童疎開については、『君津地方の歴史』の「君津市域の学童疎開」や『周南の歴史 PartV』の「学童疎開と周南」、『富津市の歴史 PartV』「富津市と学童疎開」を参照のこと。

4月15日 ・午前10時、B29小櫃駅附近に墜落

※『富津市史』や『君津市史』は、午前10 時としているが、『小櫃村誌』や
 『緑輝く丘の学び舎』、『小糸町史』では、午後10時あるいは晩だったと
 している。

月16日 ・木更津航空隊付近が空襲される。(『図説 木更津のあゆみ』 より)
5月 2日 ・小糸村から小櫃村上空で空中戦、日本機が小糸と小櫃の境となる山中
 に撃墜されている。(『小糸町史』)

5月 8日 ・P51艦載機、東京湾より低空侵入、君津、青堀、飯野、佐貫を銃
 撃、岩富寺全焼


※この時の空襲で、第二海軍航空廠佐貫地下工場近くの小山野で、農
 作業を終え帰宅途中の一家4人が襲われ、2人死亡、2 人重傷という
 被害をだしている。なお、この空襲で重症を負った少女は半身不随とな
 り、この時のけががもとで、10年後に君津中央病院で亡くなっている。
      (『すなみふるさと誌 小山野編』)「周南の歴史PartV」参照。

※長浦村でもこの日、機銃掃射で2名の死傷者が出ている。亡くなったの
 は、67歳のお年寄りで、耳が不自由で爆音が聞こえなかったという。
                                  (『袖ヶ浦町史』)

※『平川町史』によると、この日の午前10時半から11時頃にかけて、横
 田駅や 吉野田小学校など平川町一帯が艦載機に空襲され、死者が2
 人、けが人が1人でている。時間を見ると、袖ヶ浦の空襲が始まりで、
 以下南へその被害が広がったようだ。

※『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠から
 みた軍国日本の膨張と崩壊』(山庸男著 うらべ書房)によると、全焼
 した岩富寺では、ちょうど5月8日が第二海軍航空廠の貫通式の日で、
 そこで働いていた朝鮮の人たちが祝宴を開いていたという。幸い人的な
 被害はなかったようだが。

 『貞元地域誌』に「貞元小学校銃撃」と題し、上記の5月8日の空襲で襲われた様子が記されていたので、以下に引用してみる。

  昭和20年3月頃には、東京をはじめ主要都市が空襲にみまわれた。この地域も空襲
 警報が 発令されることがあった。八重原航空廠も攻撃の目標になることもあった。貞
 元小学校の講堂もガラスが白く塗られ、飛行機の部品工場として使われていた。
  今の上湯江保育園の南側に木の枠の上に土を盛った防空壕があり、空襲警報が出
 されると学童はそこに避難した。
  貞元小学校が機銃掃射を受けたのは私が1年生の5月であった。警戒警報が出され
 学童は地区ごとに上級生の班長の指示にしたがって「防空頭巾」をかぶり走って下校し
 たが、上湯江の原の途中まで行くと水道山をすれすれに飛行機が飛んでくるのが見え
 た。後ろで上級生が「溝に伏せろ」と叫ぶのが聞こえた。学校ではいろいろな避難訓練
 を受けていたので、水の流れている「みぞ」に全員が躊躇なく伏すことができたが、伏す
 と同時に、上空を轟音をたてて敵機が過ぎ去っていった。私達は、貞福寺の森に向かっ
 夢中で走った。そこにはお寺で飛行機部品を作っている兵隊さんも避難していた。その
 時の艦載機は上湯江の付近を超低空で飛行し、竹やぶが風圧で倒れパイロットの顔が
 地上から確認できたと子供を途中まで迎えにきた父親が言っていた。敵機は三舟山の
 上空で旋回し、再び姿を現わし貞元小学校や八重原航空廠を銃撃して飛び去っていっ
 た。
  翌日登校すると1年生の教室の南側壁に穴があき、机を貫通していた。隣の部屋の職
 員室も銃弾がぬけていた。
  下湯江・中富・釜神の学童は市場団地が麦畑であったので麦のなかに、貞元・八幡・
 郡方面は、三沢屋さんの近くの橋の下に避難した。万一、下校が遅れていれば犠牲者
 がでたに違いなかった。
  幸い貞元地区では人的な被害はなかったが、周南の小山野地先で農作業を終え昼食
 に帰宅途中、牛を引いた家族が銃撃を受け、母親と長女が即死、父親(祖父のこと)が
 腹部を、次女が頭部をうたれ重傷、牛も即死するという悲惨な出来事があった。また、こ
 のとき岩富寺の本堂も全焼してしまった。

5月29日 ・午前9時15分、B29 517機、P51百機横浜市空襲、帰還途中の
 B29一機木更津市烏田へ墜落


※烏田に墜落したB29について、毎日新聞が取り上げた記事を後ほど
 紹介しているので、参照のこと。

※『君津市史』によれば、詳細は不明だと しているが、この日、B29が蔵
 玉地区に も1機墜落している。『図説 木更津のあゆみ』には、19日の
 ことだとあった。

※前出『青森空襲を記録する会』の「本土空襲墜落B29調査」によると、

 この他に、5月24日に木更津市太田山でB29が墜落し6名が亡くなっ
 ている。5月25日か26日に馬来田村(現木更津市)にも墜落している。
 8月2日には木更津市金田村に墜落し、搭乗員の10名が捕縛されてい
 るという。


6月10日 ・『上総町郷土史』や『雨城を望む学舎』によれば、久留里町愛宕地区が
 爆撃され、死者6人、負傷者2人の被害がでている。この被害者のうち
 死者3人は、東京から疎開していた一家であったという。なお、詳細は
 『久留里の歴史散歩PartU』の「戦争と久留里」参照。

※同日、清和村でも農作業中に、B29の投下した爆弾によって、お年寄
 りが1人亡くなっている。(『清和村誌』)

6月11日 ・P51艦載機飯野村国民学校附近空襲
7月 ・梨沢(現富津市)川名武方長屋門空襲により焼失
※9日、17日に木更津上空に艦載機来襲。
                 (『図説 木更津のあゆみ』 より)

8月10日 ・小型機により、久留里町市場に爆弾投下及び機銃掃射され、家屋8
 棟、物置3棟が焼け、死者が1人でている(『上総町郷土史』)。

※この時の空襲を体験された、当時16歳の方の話によると、亡くなった
 人は、縁側で傘の修理をされていた方で、隣にあった旅館を貫通して
 きた銃弾にやられたそうだ。また、空襲の直接の被害ではないが、空
 襲のショックから心臓麻痺で亡くなった老人の方もいたという。

※『上総町郷土史』にはこの他に、日時はわからないが、久留里上空で
 空中戦があり、日本軍機が浦田に墜落したことや、銃弾が久留里小学
 校に飛び込んだこと、また、落下傘によって降りる敵兵を捕虜として久
 留里小学校や警察に収容したことなどが記されている。

※上記の記録(太字)は、特に注のないものは『富津市史』によっている。昭和19年の記
 録は誤りである可能性がかなり高い(11月27日の小櫃村西原地区爆撃は事実であ
 る)が、空襲の記録を調べはじめるきっかけが『富津市史』だったので、あえて掲載して
 いる。体験談等があれば、情報をお寄せ下さい。

※『君津市史』によれば詳細は不明だが、8月13、15日にも木更津市周辺が空襲され
 たようだ。『日本都市戦災地図』には、4月16日、8月13日、8月15日に被弾した地域
 が図示されている。それによると、襲われた地域は、いずれも、木更津航空隊周辺、4
 月16日は江川から中里付近、8月13日は吾妻から中央付近、8月15日は中央から
 富士見付近が被害にあっているようだ。

※日時は特定できないが、この他に、海軍航空廠のあった周西小学校周辺でも度々空
 襲があったようで、下校途中の児童までも襲われ、命からがら民家に逃げ込んだという
 こともあったという。同様に日時は特定できないが、『貞元地域誌』に、海軍航空廠に関
 連して貞元小学校でも飛行機部品を製作していたようで、校舎や児童が襲われた事実
 が記されている。『君津地方の歴史』「第二海軍航空廠の疎開について」でふれている
 が、周辺の学校は空襲を避けるために、工場にあった機械の疎開先として活用されて
 いたのだ。

※『袖ヶ浦町史』によると、昭和20年1月〜7月10日の間に長浦村では、多い時で1日
 に3回、合計30回も空襲警報が発令されていることがわかる。夜間は記録がないとの
 ことで、実際はもっと発令回数は多かったと考えられる。また、木更津高校の百年史に
 も、空襲警報の発令の様子を示す当時の教務日誌が掲載されている。

※木更津市内の空襲の被害については、『日本の空襲』によると「経済安定本部企画部
 調査」として、死者3人、重傷者1人、全焼家屋 5棟としているが、『日本都市戦災地図』
 では、死者7人、負傷者14人、全焼・全壊家屋7棟、罹災者52人となっている。さら
 に、 『郷土千葉の歴史』(ぎょうせい)には、死者が19人とでていた。なお同書によれ
 ば、富津市の死者は6人とあった。

※空襲の被害ではないが、『平川町史』によると、昭和19年10月11日には、旧平川町
 域 から勤労動員としてかりだされ、木更津航空隊で滑走路の整備にあたっていた人々
 の中に、事故機が突っ込み10人死亡、20人以上がけがをするという大きな事故も起
 こっている。

                                                                    
 君津地方の空襲について  
 君津地方の空襲の記録を見ると、軍関係の施設をねらった空襲もあったようだが、多くは明らかな攻撃目標があっての空襲というよりは、東京や横浜方面の空襲の帰りに、余った爆弾を投下し、銃弾をばらまいていったといった印象がある。銃弾をばらまくだけでなく、同時に、多くの悲劇をもばらまいていったことを忘れてはならない。各市町村史や戦争体験集に目を通すと、戦争の悲惨さや本質が見えてくる。ただし、昭和20年5月8日については、空襲の被害が袖ケ浦市から富津市に及ぶとともに、第二海軍航空廠八重原工場及び佐貫地下工場周辺がねらわれていることから、君津地方が攻撃対象になっていたように感じる。前掲の『青森空襲を記録する会』の「アメリカ陸軍航空隊日誌」1945年5月8日の記事に、「〇第7戦闘機集団 硫黄島のP−51は木更津飛行場に対する攻撃に94ソーティー」とあった。「佐貫地下工場」については、『富津市の歴史』の「戦争と富津市」を参照されたい。

 1944年から翌45年にかけて、現在筆者が『市史』などで確認している君津地方の被害は、戦闘機の搭乗員をのぞいて死者30人、負傷者が24人にのぼる。なお、山川出版『千葉県の百年』に、「警察署管内別空襲被害状況」(昭和20年10月現在の調査資料)が出ていた。その一覧表によると、木更津警察署管内で死者20人傷者21人、湊警察署管内で死者9人傷者12人、久留里警察署管内で死者6人傷者8人となっていた。しかし、各警察署の管轄範囲が果たして現在の君津地方にぴったり一致するかどうか手持ちの資料ではわからないことや、『上総町郷土史』と久留里地域の死者数が一致しないことなどを考えると、この「警察署別空襲被害状況」が正確なのかどうかは検討が必要である。正確であるとすると、特に、木更津市や富津市の空襲について、その詳細を明らかにする必要は急務であろう。

 『君津市史』の通史には、米軍の作戦行動との関係で、君津市の空襲が紹介されている。また、袖ケ浦市は市民の戦争体験を、『明日の君たちへ』という本にまとめている。しかし、君津地方の空襲の全貌を明らかにするには、今後も地域の証言を、丹念に調査していく必要があるだろう。特に、木更津市や富津市の空襲の実態については市をあげて調査をする必要を感じる。今年(平成17年)は、敗戦からちょうど60年目、節目の年にあたる。地域からの戦争体験を募ったり、戦争関連の資料を収集・展示するなど、行政の積極的な取り組みを期待したい。

 平成17年10月18日から12月4日まで、君津市立久留里城址資料館で、企画展「戦時下の記憶」が開催された。展示されていた、空襲の記録、千人針、木更津高女の女学生たちが描いた「絵日記」、そして、松丘小学校に保存されていた「青い目の人形」は、当時の世相を知るうえで大変興味深いものであった。「絵日記」は、先日(平成20年6月)資料館を訪れたときに、そのコピーが残されていた。資料館の方に申し出れば、閲覧させてくれると思う。さらに、展示に触発されて「青い目の人形」について調べた結果を、『君津市の歴史PartU』に「松丘小学校に残る青い目の人形」として掲載しているので、ぜひご覧下さい。

 小櫃小学校創立百周年記念誌『緑輝く丘の学び舎』や『小櫃村誌』、『小糸町史』でも、昭和20年4月15日のB29の墜落にふれているが、午後10時のできごとで、B29がまるで大きな火の化物のように見え、今にも頭上に落ちてきそうで恐怖を感じたという記述がある。その時、アメリカ兵は5人死亡し、その遺体は俵田の共有林に埋葬され、終戦後アメリカ軍が回収していったという。『小櫃村誌』には、墜落したB29の乗員には生存者がいて、数日後に発見されたことも記されている。『君津市史』には、この時の生存者は6人いて、そのうち5人が不幸にも東京の刑務所の火災で亡くなったとある。

 また、空襲のことではないが、
周西小学校創立百周年記念誌『学窓に風光る』や『坂田郷土史』には、君津町誕生の秘話が書かれていた。君津町は、海軍航空廠を建設する都合で生まれたというのである。君津町は、周西村と八重原村が合併して生まれたのだが、建設予定の海軍航空廠は、その両村にまたがっており、合併した方が建設にも、また、その後の工場稼動にも好都合だったのだ。工場建設計画が昭和17年の4月に村長らに知らされ、その10日後に工場建設が始まった。翌18年4月1日には合併が成立している。形式的には、地元の議員や区長、有力者が賛成して実現しているのだが、当時の世情を考えると有無を言わせずという状況だったようである(『君津市の歴史PartU』に、『君津市史 資料編』から引用した、合併の経緯のわかる史料「町村ノ廃置ニ関スル上申書」を掲載している)。すべての人と物が戦争に動員された状況が、よくわかる事実の一つである。そうした意味では、八重原の海軍航空廠や佐貫の地下工場建設に、強制的に連行されてきた朝鮮の人々や、小学生までが動員されていることも見落としてはならない事実であろう(『学校が兵舎になったとき』『君津市史』)。

 1945年5月29日のB29の墜落について、毎日新聞(2013年1月22日)が取り上げていたので、やや長くなるが紹介したい。

千葉・あの日あのころ:1945年5月29日 米軍爆撃機「B29」木更津に墜落 /千葉

 
東京湾アクアラインなど交通網の整備が進み、活気あふれる木更津市郊外を取材していたところ、君津市境近くの丘陵地帯に、終戦直前の1945年5月、日本軍に撃墜された大型爆撃機「B29」の搭乗員の慰霊のため、戦後まもなく、墓が建てられたと聞いた。同様の撃墜は全国的には珍しくないが、その3日前、30キロほど離れた県内の農村へのB29の墜落では、生き残った米軍搭乗員1人が斬首される痛ましい事件も起きている。敵国を「鬼畜米英」と呼び、憎悪と敵意をつのらせていた時代に、何があったのか。68年目の現地を訪ね歩いた。
 墓は墜落現場の同市畑沢の山林に、ひっそりとたたずんでいる。北方にはアクアラインの値下げ効果と割安な価格で人口が増えている同市羽鳥野の真新しい住宅地が広る。墓石は高さ80センチほどで、側面には「B29搭乗員之墓」「昭和二十年五月二十九日」と刻まれ、墜落6年後の51年、近くで農業を営む影山金次さんが自身の土地に建てた。
 墓は時の経過とともに、山林に埋もれていたが、設置から半世紀後、館山道の建設工事に伴って墓石の周辺に人が入りやすくなり、山菜採りの市民が墓石を「発見」。06年8月には、地元住民らが中心となり、在日米大使館の関係者も招いて慰霊祭が開かれた。
 B29は、第二次世界大戦中に開発された。日本軍の戦闘機も到達しにくい高い高度を飛行できる性能を持ち、軍事関連施設だけでなく、日本の各都市への空襲にも多用され、広島・長崎への原爆投下にも使われた。
 木更津に墜落したB29は、45年5月29日に実行された対岸の横浜市周辺への空襲(横浜大空襲)で使用されたものだ。B29が約500機、護衛の戦闘機「P51」は約100機。火災を引き起こす薬剤を装填(そうてん)した焼夷弾(しょういだん)などによる空襲を午前9時ごろから約1時間にわたって続け、横浜の市街地全域が壊滅。3789人が死亡、31万人余りが焼け出されたとされるが、死者は8000人とも言われる。
 空襲を終えたB29は編隊を組み、爆音を立てながら木更津の上空を通過した。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が作成した文書やアメリカ戦略爆撃調査団報告書などによると、撃墜されたのはサイパン島を出撃した「マミー・ヨーカン号」と呼ばれた機体で、日本軍の高射砲に撃たれ、片翼が火炎に包まれたまま木更津上空で爆発し、墜落。乗員12人が死亡した。同様の対空砲火で君津市などへ別の2機が落ちたという。
   ■    ■
 「ものすごい音だった。話し声なんて聞こえない」。編隊を組みながら房総半島の上空を次々と通過するB29の様子を目撃した青木重夫さん(79)は振り返る。
 当時、12歳の小学6年生だった青木さんは墜落現場から西南西に3キロほど離れた君津市南子安に住んでいた。この日はあまりのすさまじい音に、4歳下の妹の手を引き防空壕(ごう)から飛び出し、B29の機体数を数えた。250機ほど数えたころ、三角形に編隊を組む機体の1機に高射砲の弾が命中した。
 飛び散った機体の外壁が5〜6枚ほど太陽の光を反射させながら宙に舞った。本体も左側に傾いたままで、山に向かって行くのが見えた。山あいから煙がまっすぐ空に立ち上った。
 青木さんは、近所の友達と墜落した場所を見に行った。「もしパラシュートで脱出した米兵が生存していたらどうしよう」と考え、トゲの付いた植物を片手に田園地帯を墜落現場へ走った。
 機体はバラバラになって、木々に囲まれた沢に散乱していた。操縦席付近とみられる残骸の周辺には、地面に埋まったままの米兵の数体の遺体があった。
 目を沢の対岸に転じると、100メートルほど離れた場所に、比較的損傷が少ない機体後部があり、近寄ると、金髪の若い搭乗員が倒れていた。
 兵士はすでに、死亡していたが、薄着の作業着姿を、駆けつけた住民らは「アメリカは物資不足で、衣料品まで不足している証拠」と誤解した。「大人たちは『勝利まであと、ひとがんばりだ』と言いあっていたが、実際は寒いはずの高い高度を飛ぶ機内でも、薄着でいられる飛行機を作れるほどアメリカは技術的にけた違いだったのをみんな知らなかった」。青木さんはそう振り返る。
 青木さんが強く記憶している光景がもう一つある。白髪の高齢の女性が木のつえで米兵の遺体を何度もたたいていた。「お前らが息子を殺したのか」。多くの一般市民も犠牲となる長い戦いの日々は、人々の心を疲弊させていた。汗で顔にへばりつく髪の毛を気にも留めず、女性はつえをうち下ろした。
 撃墜から2カ月半ほどで終戦。遺体は近くの山林に埋められていたが、その後、占領軍が引き取っていった。現場から1キロほど離れた民家に電話と電気を引いて拠点とし、遺骨の回収にあたっている光景を記憶している住民もいる。
   ■    ■
 木更津への墜落の3日前にあたる45年5月26日未明、東京を空襲して帰還途中のB29が現在の長柄町内の長栄寺近くに落ちた。11人の搭乗員のうち5人が連行され、瀕死(ひんし)の重傷を負った米軍の26歳の少尉の扱いは地元の駐屯部隊に任された。
 ところが、「楽にしてやれ」という中隊長の命令を受けた下士官が、助かる見込みがないと判断し、兵士の首をはねる。遺体は墜落時に死亡した5人とともに、埋葬されたが、戦後、捕虜らへの犯罪を裁く横浜裁判で、中隊長は死刑となった。
 憎しみが憎しみを生む戦争の悲劇が続くなかで、影山さんはなぜ、墓を建てたのか。
 影山さんの三女、鶴岡キクへさん(77)は墓の存在について知ってはいたが、「無口で話をしない」という父は墓への思いを語らないまま、83年に83歳で世を去った。
 終戦前後、影山さんは木材を伐採して薪を売って生計を立てていた。「収入はたいしてなかったはずなのに、石のお墓を建てるなんて不思議なこと。父は(激戦地の)硫黄島に向かった弟が戦死しており、敵国の兵士も供養してあげなければいけないと考えたのかもしれません」。キクヘさんは亡き父の思いをそう代弁した。
 木更津市などの郷土史を調査してきた木更津東高の栗原克栄教諭(62)は、空襲で一般市民の死傷者も増えていた戦争末期、各地で同様の悲劇が繰り返された時代背景について言及した上で「終戦直後に敵軍の兵士を供養することは、“非国民”と呼ばれかねず勇気が必要だったはず。相手国の兵士への友愛の気持ちからだったのだろうか」と話す。
 いま、墓石周辺は草木が多く茂り、人々の記憶からも薄れつつあるように思えたが、歴史の表舞台に立つことのない庶民のひそやかな行為を今後も、語り継いでいってほしいと願った。


 この記事を読んで墓の場所を見に行ったが、山林の中らしく残念ながら発見できなかった。関係者の方を探し聞いてみるしかないようだ。先日(2013年4月初旬)、母を病院に送っていく時、偶然、このB29の墜落のことが話題になった。何と、母も墜落現場に見学に行ったそうだ。先生に連れられて行ったというから、学校をあげて行ったということだろうか。ちなみに母は、君津市の鎌滝生まれで、当時は14歳であった。
                      
 参考にした資料
   『富津市史』

   『君津市史』
   『千葉県君津郡君津町誌』 『上総町郷土史』 『小糸町史』
   『小櫃村誌』『清和村誌』
   『すなみふるさと誌』 『坂田郷土史』 『貞元地域誌』
   『終戦五十年記念誌』(君津市遺族会 平成8年発刊)
   『図説 木更津のあゆみ』

   『雨城を望む学舎』(久留里小学校百周年記念誌)
   『緑輝く丘の学び舎』(小櫃小学校百周年記念誌)
   『学窓に風光る』(周西小学校百周年記念誌)

   『袖ヶ浦町史』『平川町史』
   『明日の君たちへ』(袖ケ浦市民戦争体験集)
   
   『木高百年』(木更津高等学校百周年記念誌)
   『日本の空襲』 『千葉県の百年』 『学校が兵舎になったとき』
   『日本都市戦災地図』(袖ケ浦市中央図書館にあります)

   『戦時下の記憶』(久留里城址資料館 企画展資料)

   『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠からみた軍国
    日本の膨張と崩壊』(山庸男著 うらべ書房)


   『焼け跡の子どもたち』「開拓の日々」谷村公司著 クリエイティブ21
   『学童疎開の記録』(全国疎開学童連絡協議会編集 大空社)の第2巻の『小糸
    の里の青い空』(谷村公司著)

   『かけはし 第33号』(全国疎開学童連絡協議会機関誌)
   『語りつごう平和への願い〜学童疎開墨田体験記録集〜』「母の残した教え」
                                     (墨田区教育委員会発行)

  
※このページは、上記の文献を総合してまとめてありますが、まだまだ中途半端だと思っ
 ています。君津市の空襲については、合併前の『町史』や『村誌』によって空襲の被害
 の全体像が理解しやすいのですが、これまで見てきたように、他の市の実態は必ずし
 も明らかになっているとはいえない状況だと思います。ぜひ、空襲についての情報をお
 寄せ下さい。特に、木更津や富津市の方々体験談をお待ちしています。今年は戦争に
 負けて60周年。改めて「不戦」の誓いを確認するためにも、ぜひ!(2005年12月筆)

 

空襲 地図