君 津 地 方 の 歴 史
PartX

(1)峯の薬師について(木更津市)
 
君津中央病院の手前に、「峯薬師」というバス停がある。このバス停前の丘に、「峯の薬師」と呼ばれている薬師堂があるからだ。「峯の薬師」はもちろん通称で、龍東山東光院という真言宗豊山派の寺院である。山門までの石段の横に、今ではふたをされた井戸がある。この井戸には、昭和の初めまできれいな水が湧いていて、この井戸水で目を洗うと目の病気が治るといわれ、多くの参拝者が訪れていたという。この井戸水について地元に伝わる話を、『西かずさ 昔 むかし』によって紹介しよう。話は何と奈良時代にまでさかのぼるのである。
 
 千年いじょうも遠いむかしのことです。この薬師様の上り口には、大きな桜の木が生えていました。
 ある年のこと、この桜の大木が自然にたおれてしまいました。すると、その根もとから、きれいな水がわき出してきたのです。
 たまたま、ここを通りかかった旅のお坊さんがおりました。
 このお坊さんは、行基様という方で、全国各地を回っては病人を助けたり、橋をかけたり、道をこしらえたり、いろいろと世のため人のためにつくした名高いお坊さんです。
 行基様は、このわき水をくんで、そのころ村びとたちの間にはやっていた、「やんめ」をあらってやりました。そうすると、ふじぎなことに人びとの目の病気は、ずんずんよくなりました。
 こうして行基様は、桜の根もとからわき出る水をくんで、多くの人の目をあらって、なおしてやったので、たいへんなひょうばんとなり、いつとはなしに、ここを桜のいど、つまり桜井と言うようになりました。
 行基様は、また、この桜の木から薬師如来と言う仏像をきざみ、薬師堂におさめ御本尊として、おまつりしたと言われています。


      
          「峯薬師」バス停               峯の薬師本堂

 なお、この峯の薬師の本尊「木造薬師如来立像」は鎌倉時代の作で、千葉県指定有形文化財となっている。
 
 ところで、「峯の薬師」のことだが、yahooで検索してみると163件ヒットした。宗派は様々なようだが、「峯の薬師」と呼ばれる薬師堂の多さに驚いた。北は岩手県盛岡市から、西は島根県出雲市、広島県尾道市まで、15の「峯の薬師」が確認できた。中には、木更津の「峯の薬師」と同様に、行基の伝説が伝わっているところもあったり、「峯の薬師」と呼ばれている神社もあった。法隆寺の西円堂の本尊も「峯の薬師」といわれているそうだ。
 病気治癒のため薬師如来を信仰する、「薬師信仰」は、飛鳥時代からはじまる。法隆寺金堂の薬師如来は聖徳太子が父用明天皇の病気平癒のために造ったというし、薬師寺は持統天皇の病気平癒のために建てられたものである。奈良時代以降、「薬師信仰」は民間にも広まった。中世、仏教の民衆化とともに、「薬師信仰」は一層の広がりを見せるようになり、各地に霊験あらたかな薬師様がまつられるようになったという。こうした中で、「峯の薬師」といわれる民間信仰も流行したらしいが、その実態ははっきりしない。時期的に考えれば、ひょっとしたら、法隆寺西円堂に対する信仰が全国に広がったのかもしれないが、現在調査中である。詳しい人がいたら是非教えを!

 おまけの話、最近(2008年1月)、本サイトもお世話になっている『木更CoN』を見ていたら、峯の薬師には、もう一つの伝説があることがわかった。それは、弁慶伝説なのである。かの有名な弁慶が峯の薬師を参拝したことがあるというのである。参拝した弁慶は、7日7晩願をかけたことから、薬師様の縁日は7日なんだそうだ。参拝したときに渡った橋を弁慶橋といい、烏田川にかかる橋だというが、残念ながら筆者はこれまで地図の上で確認できないでいた。しかし偶然、桜井新町の道標を撮影に出かけて発見した(2009年7月)。何と、国道127号線をはさんで、峯の薬師の真ん前にあったのである。

      
            弁慶橋               弁慶橋から峯の薬師をのぞむ

 おまけのおまけの話、最近ケーブルテレビやyahooの動画サイトで『泣きたいときのクスリ』という映画を観た。2009年に公開された日本映画で、オロナイン軟膏55周年記念作品である。映画を観ていて、「あれこの風景見たことがあるぞ」という場面があったので、ネットで調べてみると、峯の薬師が使われていることがわかった。機会があったら、ぜひご覧下さい。

(2)亀山神社と滝と不動明王について(君津市、富津市)
 『君津地方の歴史PartU』の「阿久留王伝説について」で、君津市亀山地区に残る阿久留王伝説を紹介したが、その伝説に関係する神社が亀山神社で、君津市滝原字下滝にある。主となる祭神は、日本武尊である。『君津郡誌』の記述をもとに書かれた「亀山神社沿革」によれば、亀山郷の人々が、鹿野山から亀山の地にやってきて阿久留王軍を成敗した、日本武尊の威徳を仰ぎこの地に祀り、亀山郷の総鎮守と崇めたそうだ。

      
            亀山神社                     泉滝寺

 さて、亀山神社にはもう一つの言い伝えがある。『君津地方の歴史PartU』の「阿久留王伝説について」で紹介した亀山地区の伝説は、敗残兵の怨霊を不動明王が鎮める話であったが、この話には続きがあった。悪霊が去って、亀山の地にも山仕事をする人々が住み始める。しかし、山の中なので穀物が育たず、また、飢え死にする人が出るようになった。そこへ、再び不動明王が出現し人々を救った。その後、炭焼きをしている人が、滝の中から不動明王の塑像を発見し、現在の亀山神社の社地にお堂を建て、蒲生山泉滝寺大聖院と号したというのだ。明治の神仏分離によって、泉滝寺は亀山神社の手前の現在地に移されたそうだ。『君津郡誌』によれば、泉滝寺の本尊は不動明王である。現在、不動明王が見つかった滝(大滝というらしい)は、小櫃川の流路が大きく変わり消滅してしまった。亀山神社の下にある滝原地区湖畔公園の中に、不動明王が見つかったといわれる場所に石碑と歌碑が残っているばかりだ。

      
           旧大滝跡                      歌碑

 ところで、「滝」と「不動明王」は、切っても切れない関係にあるようだ。「千葉県の滝−所在と成因」(ホームページ『千葉県の県立博物館』)によると、当地方には、「不動の滝」あるいは「不動滝」と呼ばれる滝が、6つも存在する。そのうち、富津市にある駒山不動の滝や天神山不動の滝には、滝の近くに不動像が安置されているそうだ。Googleで検索すると、日本全国いたるところに「不動滝」や「不動の滝」が存在していることがわかる。そのうちの幾つかを開いてみると、「滝の水で目を洗ったら目の病気が治った。そのことに感謝して不動明王を安置した」「天災や疫病に悩まされた村で、滝壺のわきに不動明王を祀ったところ、天災や疫病が無くなった」などの逸話とともに、滝の写真が掲載されていた。不動明王には、さまざまな功徳があるようだ。宮崎県国富町にある不動の滝の説明に「六野原台地の東南端の松峯山には、不動明王が祀られた心身の修行鍛練の聖地、霧島大権現の奥の院である不動の滝があります」(『国富町ホームページ』より)とあった。どうも、滝と不動明王を結びつけるキーワードは、修験道のようだ。
 修験道とは、山岳信仰が背景となり神道などの要素も取り入れた宗教で、役行者が始めたとされるものである。真言宗や天台宗が伝わると、修験道は密教と深く結びつくようになった。密教の考え方では、すべての仏は教主である大日如来の化身で、中でも不動明王は大日如来の「教令輪身」として、仏法に従わない者まで力ずくで救う役割を与えられているという。不動明王の利益は、除災招福、戦勝、悪魔退散などさまざまだが、その中には行者守護というのもあるそうだ。こうした不動明王の性格から、不動明王は、修験道にとって最も重要な仏と考えられるようになったのだろう。そして、滝を流れる水は生命の源であり、また、滝そのものが修験道にとって心身を清める修行場でもあった。そんな滝や水に、人々は霊力を感じたのではないだろうか。時には、滝に打たれることが、病気治療の手段にもなっている場合もあった。さらに、清水が堂々と流れ落ちる様は、不動明王の力強いイメージにもつながる。こんなところに、「滝」と「不動明王」の密接な関係が生まれる要因があるとともに、修験道の普及が不動明王に対する信仰を広めたのではないだろうか。
 また、不動明王信仰が普及するきっかけは、二つの大きな戦乱でもあった。一つは、平将門の乱である。平将門の乱を鎮圧するために現在の成田の地に、中央政府が不動明王を勧進し戦勝祈願を行ったことだとされる。二つめは、元寇であった。元寇の時にも、全国各地で不動明王に勝利を祈願し、結果的に元軍を撃退したことも、不動明王に対する信仰を広げることになったそうだ。

 不動明王信仰が広がっていくと、滝だけでなく水そのものと不動明王信仰もつながるようになったのではないだろうか。富津市の田原地区には、「滝の不動尊」と呼ばれる湧き水がある。これまで、どんなに日照りがあっても全く涸れたことがない湧き水だという。名前の通り、湧き水の隣の小高い丘に不動明王が祀られている。地域にとって貴重な水源に、不動明王を祀る習慣も生まれるようになったのだろう。また、もう少し奥に行くと、同じ水室山を水源とする稲子沢不動から引いている「志駒不動の霊水」も存在する。同様な例が、県内各地に、そして、全国各地に存在するのではないだろうか。調べてみる価値がありそうだ。

      
        湧き水「滝の不動尊」                 不動尊

 千葉県の湧き水の一覧を掲載しているサイト『千葉の大地 千葉の湧き水』によると、先に紹介した「滝の不動尊」も含めて7ヶ所の湧き水があった。いずれも、「不動」が名前についていたり、近くに不動明王を祀ってあったりする湧き水である。以下、湧き水の名前と所在地をあげてみる。滝が湧き水としてあげられているのは、滝の上に湧水池があったり、湧水を引いて人工的な滝を作ったからである。いずれにしても、清水と不動明王信仰が、千葉県中に存在することを表しているといえよう。

 
・野呂清水 不動尊湧泉(千葉市若葉区)  ・名尊様(銚子市高神東町)
 ・清水不動尊(香取市佐原地区)
       ・滝の不動尊(富津市田原地区)
 ・滝不動(香取市長岡)
              ・岩井滝不動(旭市岩井)
 ・南玉 不動の滝(大網白里町南玉)

 
ついでに、Wikipediaによれば、日本に不動明王の図像を持ち込んだのは空海で、不動明王信仰はアジア仏教圏の中でも、日本が一番だそうだ。また、先にふれた「教令輪身」は、密教では三輪身の一つとされる。三輪身とは、一つの仏が「自性輪身」「正法輪身」「教令輪身」という三つの姿で現れることで、「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを指し、「正法輪身」(菩薩)は、説法する姿を指し、「教令輪身」は仏法に従わない者を教化し、仏敵を退散させる、実践的な働きを指すそうだ。

(3)富津市の道標について(富津市、袖ケ浦市、木更津市、君津市)
 『君津地方の歴史PartW』で鎌倉街道についてふれ、「今後、君津地方に残る『鎌倉街道』を探索しなければと思った」と結んだ。しかし、この課題は長い間そのままになっていた。富津市ホームページの指定文化財一覧に、富津市に残る道標が住所とともに紹介されていたので、印刷した地図を持って、冬のある日曜日に道標の撮影に出かけてみた。以下、その記録である。なお、道標に彫られている文字については筆者に読めない字があったので、それらについては『富津市史 史料集二』を参考にした。

【佐貫から本郷までの道標】

 左下の写真は、富津市亀沢の北上神社鳥居わきに建つ庚申塔である。左側面には「東 かのふみち 二里」、右側面には「北 きさらず道 四里」とあった(ひょっとしたら「四里」は、筆者の読み違いかもしれない)。この道標は、宝暦6年(1756)のもので、富津市で一番古いものである。
 右下の道標は、富津市上村369にあった道標である。近くには、「ログハウスTARO」の案内板があった。指の形を彫り込み方向を示しているのが、なかなかおもしろい。正面右に「
加のう山道 三り半」、左には「さ怒き 半り」、右側面に「此方 きさら津江 三り半」とあり、左側面には、「安政四丁巳十二月」と刻まれていた。安政4年は、西暦1857年である。

      
         佐貫 亀沢の道標              吉野地区 上の道標    

 左下の道標は、富津市近藤71−1にあった道標である。天保9年(1838)に建てられたものである。上村にあった道標から道なりに東へ200mぐらい来た場所にある。電柱の向こうに見える白い建物は、介護老人保健施設の「わかくさ」である。道標には、正面右に「
右 きさらつ 三り」、左に「左 さぬき 一り」とあり、下の部分には「上村」とあった。ちょうどこの地点は、絹、近藤、上村の境目に当たる場所で、かつては上村側に建っていたのかもしれない。左側面には、「天保九年六月」と刻印されていた。
 右下の道標は、富津市絹499にある道標で、近藤にある道標の右わきの道路を直進して突き当たった場所にある。正面に「
南 さぬきみち 一里右側面に「北 きさらづ道 三里」、左側面に「ふっつみち 一里」と刻銘されている。寛政8年(1796)とあり、年代の分かる富津市道標のなかでも二番目に古いものである。

      
         近藤に建つ道標                富津市絹の道標

 左下の道標は、富津市障子谷595にある道標である。正面に「
此方 きさらつみち 三り」、右側面に「此方 さぬき道 一り八丁」、左側面に「此方 こいとみち」と刻銘されている。残念ながら、建てた年代は不明である。
 右下の写真は、富津市相野谷832にあった道標で、文化13年(1816)のものである。正面上に「
」とあり、右には「かのふ山道 三り」、左には「さぬき道 一り」とあった。そして、右側面に「此方 きさらつ道 三リ」、左側面に「此方 ふっつ道 一リ半」とあった。今回撮影にいってみると写真でわかるように、針金が巻いてあった。ヒビでも入ってしまったのだろうか。ここから街道は、三舟山の山麓を北上するルートとなり、富津市本郷に通じている。残念ながら、崖崩れの危険があるということで、立ち入り禁止のロープがはられていて、それ以上は進めなくなっていた。

      
        富津市障子谷の道標             富津市相野谷の道標

 左下の仏像塔は、富津市本郷702−1にある道標である。以前に訪れた時は確かワゴン車で子どもを連れて行った記憶があるが、今回は軽トラックで出かけたにもかかわらず、車で行くには相当の悪路で、胃がひっくり返る思いをした。おまけに、道の傍らには粗大ゴミが捨てられていて、何ともやりきれない思いがした。話をもどして、道標の正面には、右に「
きさらつみち 二り半」、左に「さぬ起みち 一り半」と彫られていた。上(かみ)の道標と同様に、指のレリーフが面白い。左側面に、「弘化三年 ほんこうさと道」とあった。弘化3年は、西暦1846年である。右の写真は、道標のある場所から君津市上湯江方面を撮影したもので、江戸の道がそのまま残っている貴重な道だ。この道は、上湯江から釜神、高坂、木更津市畑沢をぬけ、烏田へ通じている。

      
          富津市本郷の道標         富津市本郷から君津市上湯江への道

 写真の道標を順にたどると、富津市吉野地区を北上することになる。地図の上で道標の位置を確認していくと、昔の街道がはっきりと浮かび上がってくるようで、なかなか楽しい作業であった。これらの道標は、いずれも江戸中期から後期にかけて建てられたものであり、江戸時代の人々が日常に歩いていた道で、通称「房総往還」と呼ばれている。この「房総往還」が、必ずしも「鎌倉街道」だったとはいえないだろうが、大筋はあまり変わらなかったものと、筆者は思っている。佐貫亀沢にある庚申塔の道標と吉野上の道標の間には、頼朝伝説に由来する「百坂」という地名があるし、また、絹の道標と障子谷の道標の間にも、同じく頼朝伝説に由来する「神妻」という地名が存在しているのである。『富津市の歴史 PartX』に、亀沢から相野谷までの「房総往還」を実際に歩いてみた記録を載せたので、ぜひご覧下さい。また、自分の足で歩いてみるのも面白いですよ。

【富津市のその他の道標】
      
      佐貫 花香谷青年館庭の道標      大堀 神明神社駐車場隅にある道標

 左上の写真は、佐貫地区花香谷の花香谷青年館庭にある道標である。庭といっても、鳥居をくぐってすぐ左側の藪ツバキの下で、探さないと見つからない場所にあった。実は、訪問2度目でやっと見つけたのである。表には「
右さぬき 左せき」とあり、表真ん中下に「」と彫られていた。建てられた年代は、残念ながらわからない。『富津市史 史料編二』によると、道標のある場所は、浅間山旧道にあたるらしい。同じく浅間山旧道の鶴岡にあった道標が、浅間山開発のために撤去され、昭和46年から富津市教育委員会が保管していると『富津市史 史料編二』にあった。後述の『房総の石造文化財』には、その写真が掲載されていた。ひょっとしたら、鶴岡→花香谷→亀沢、そして、吉野地区と房総往還の一つが通っていたのかもしれない。「せき 道」は、富津市関を通って鴨川に抜ける道のことだと思う。
 右上の写真は、富津市大堀1616(神明神社駐車場の片隅)にある道標で、『富津市史』によれば、三界万霊塔というらしい。道標正面に地蔵が浮き彫りされ、その下に「
三界万霊皆応供養 大堀邑 念仏講中」とあった。右側面右には「ふうつ 一り」 、右側面左に「きさらづ 二り」、右側面真ん中下に「寛政十一年三月」と彫られている。左側面右には「中道 さぬき 二り」、左側面左に「かのうさん」と彫られている。寛政11年は、西暦1799年である。『富津市史』によれば、この道標は元は旧道にあったものが、現在地に移されたものだという。

       
     小久保 大貫中学校正門前の道標          本郷の道標

 左上の写真は、小久保地区の道標で、大貫中学校正門右わきにある。年代は不詳であるが、正面に「
西 小久保□□」、右側面に「南 さぬき道」、左側面に「北 ふつみち」、裏側には仏像の浮き彫りがあり、下に「東 □□」とあった。□□は、判読不可能な文字を示す。『房総の石造文化財』には「道標」とあったが、実際には「仏像塔」であった。ところで、なぜ中学校の正門脇に道標があるのか、不思議に思われた読者の方も多いのではないだろうか。実はかつて、中学校の校舎(現在の野球場)とグラウンドの間に市道が通っていたのだ。その道が、校舎の建て替えとともに廃されたのである。現在の校舎は、昭和61年に落成している。
 右上の写真は、本郷区集会場裏に集められた石造物の中にあった道標(仏像塔)で、先日(平成20年4月)、木更津ケーブルテレビの「富津歴史の旅」で紹介されていたので撮影してきたものだ。『富津市史』や『房総の石造文化財』にはなかった道標である。元は別の場所にあったようだ。正面に「
弘化四丁未年 此方 人見村」、右側面に「此方 ふう津 さぬき」などの文字が読み取れる。弘化4年は、西暦1847年である。先に紹介した本郷の道標とほぼ同じ頃に建てられたものだ。

【袖ヶ浦市、木更津市、君津市で一番古い道標】
 ところで、この記事を掲載してから富津市の道標についてインターネットで検索したら、『房総の石造文化財』というサイトを発見した。訪問してみると、何と筆者が探していた道標がすべて地図までつけて紹介されていた。それだけでなく、君津市、木更津市、袖ヶ浦市の道標も含めて、千葉県中のほとんどの道標が網羅されていた(現在は、印西市、成田市の道標を調査中とのこと)。さっそく『房総の石造文化財』で、君津地方の富津市をのぞく3市それぞれで一番古い道標を確認して、撮影に出かけた。ちなみに、『房総の石造文化財』で確認すると、君津地方4市で年代の分かる道標は122基で、そのうち庚申塔が8基、ただの道標が18基であった。残りは、六地蔵や馬頭観音、または他の仏像塔の道標であった。

 左下の庚申塔(写真中央)は、木更津市の吾妻神社境内にあるもので、延宝8年(1680)に建てられた、君津地方で一番古い道標である。千葉県で二番目に古いものだそうだ。正面の右上に「
従是東者 里村 江戸かいどう」と彫ってあるというが、筆者には「従是東者」までしか読み取れなかった。
 右下の六地蔵は、君津市で一番古い道標である。元禄2年(1689)に建てられている(案内板には元禄2年とあったが、この道標は君津市のホームページでも紹介されていたが、そこには寛文5年(1665)に建てられたと説明されている。たぶん、君津市のホームページの誤りだと思う)。正面に「
此よ里北は 江戸おか道なり」、左側に「是れより西は江戸ふな道なり」と記されている。道標わきにある案内板によると、「おか道」とは久留里藩主の参勤交代の道であり、「ふな道」とは小櫃川を経て木更津へと向かう道のことである。
 一番下の六地蔵は、袖ケ浦市で一番古い道標である。大曽根公民館の敷地内にあり、宝永元年(1704)に建てられたものである。「
北 ちば道 六里 南 くるりみち 四里十二丁 西なるしまみち」と記されているそうだが、筆者は確認できなかった。この大曽根地区の北側には、袖ケ浦から市原へと続く「鎌倉街道」が残っているそうだ。

      
    木更津市 吾妻神社境内にある道標         君津市 俵田の道標

                 
                袖ヶ浦市 大曽根公民館敷地にある道標

 ここまで江戸時代の道標を調べてきて気づいたことだが、古い道標は、六地蔵や庚申塔が多く、江戸時代後期以降は道標そのものが建てられるようになっているようだ。それだけ人々の往来が多くなってきたということかもしれない。
 
   
(4)本多作左衛門重次について(君津市、袖ケ浦市)
 本多作左衛門と聞いて、誰だかすぐに思い当たる人は少ないと思うが、「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という文句を知らない人はいないだろう。本多作左衛門こそ、この手紙の作者なのである。「火の用心」という言葉を、歴史上初めて使った人物だといわれる。この本多作左衛門が、君津地方と関係があったのだ。調べてみると、なかなか面白い人物なので、経歴とともに君津地方との関係を紹介しよう。
 本多作左衛門は、享禄2年(1529)に三河国大平村(現岡崎市宮地町)に生まれ、7歳の時に徳川家康の祖父清康の小姓になってから、68歳で亡くなるまで、広忠、家康と徳川家三代に仕えた。この間、数々の有名な合戦に参加し、多くの戦功をあげている。また、行政能力にも長けていたようで、37歳の時に、高力清長、天野景康とともに三河国の奉行に取り立てられ、厳格な政治を行ったことから、「鬼作左」といわれるようになったという。「鬼作左」と呼ばれた要因は他にもあった。もともと作左衛門は一向宗門戸だったが、三河の一向一揆との戦いにあたって改宗し、一揆勢を徹底的に殲滅したことから、「鬼作左」といわれるようになったとも伝えられている。「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という手紙は、長篠の戦いの陣中から家族に宛てた手紙だそうだ。「お仙」とは、作左衛門の長男仙千代のことで、作左衛門が44歳の時の子どもで、後に、福井丸岡城主となった成重のことである。ついでながら、丸岡町では成重にちなみ、「日本一短い手紙コンクール」を開催し、全国的に有名になったのは読者もご存じであろう。なお、丸岡町は、2006年3月に周辺の町と合併し、坂井市となっている。
 さて、作左衛門は、秀吉に徹底的に嫌われるようになった。理由は3つ。1つめは、家康の二男であった秀康が秀吉の養子となって大阪城に入った時に、作左衛門の子ども仙千代も秀康に従ったのだが、母親が病気だとウソをついて呼び戻して替え玉として従兄弟富正を送ったこと。2つめは、家康上洛の代わりとして、秀吉の母親と姉が岡崎城に入った時に、城の周囲に薪を積み上げ、家康に万が一のことがあったら火を付けると脅したことが、秀吉の怒りをかったそうだ。最後が、小田原城攻略の時に、秀吉が岡崎城に寄った。その時に、城代の作左衛門は出迎えもせず、さらに、秀吉の再三の呼び出しにもかかわらず、顔も見せなかったことがあった。ここに至って、秀吉の怒りは絶頂に達したようで、家康に作左衛門を家臣から外すように申し付けた。家康もさずがに断れずに、天正18年(1590)に上総国小井戸(古井戸、上総国北原、小多喜とも)に3000石を与え蟄居させた。後に、蟄居地が下総国相馬郡井野、青柳、和田の地に移され、その地で慶長元年(1596)に没した。作左衛門の墓は、現在の取手市青柳にある本願寺にあり、茨城県の指定史跡になっている。本願寺には、作左衛門が身に付けていた甲冑などが残されているようだ。

 本題の本多作左衛門と君津地方の関係であるが、『君津郡誌』では、本多作左衛門の蟄居地を、新井白石の『藩翰譜』を引用しながら、「北原」は「小糸」の誤りだとして、北条氏が守護していた秋元城のあった小糸の地だとしている。しかし、現在のところ全く確証がなく、蟄居地はどこだったか、また、どれくらいの期間君津に居たのかも不明である。久留里城址資料館の方にも伺ったが、在地の史料が残されていないので分からないとのことだった。『君津市史』P.313「第1章 江戸幕府の成立と支配 中・下級家臣団の配置」の項でも、以下のように記述されている。

 
なお、家康の重臣本多重次が上総古井戸に三000石の知行地を与えられた(『新訂寛政重修諸家譜』第十一)というが、その所領などについては不明である。

 また、『君津郡誌』には、君津郡長浦村蔵波(現袖ケ浦市蔵波)に、作左衛門の墳墓だと伝えられている場所があるとも出ていた。インターネットで検索すると、『袖ケ浦市史研究』第2号に「鬼作左とお仙」という論文が載っていることが分かったので、袖ケ浦市中央図書館に行って調べてみると、現在、作左衛門の墓は区画整理でなくなり、作左衛門の墓石だとされる石像物の一部(左下の写真)が、長浦駅近くの密蔵院の境内に移されたと出ていた。

   
   
        本多作左衛門の墓石?       密蔵院境内の蔵波尋常小学校跡の碑

 この項を書くに当たっては、『「一筆啓上」本多作左衛門・成重父子 小辞典』というサイトを参考にさせてもらった。感謝である。また、本多作左衛門について筆者が興味を持ったのは、友人のO氏が、作左衛門と君津市の関係を調べていることを知ったことによる。O氏の研究の成果を期待したい。
 右上の写真は、「蔵波尋常小学校跡」の碑である。作左衛門の墓を撮影に行くと、密蔵院の境内に建っていたので掲載した。
 

(5)請西藩について(木更津市)
 『君津地方の歴史』「杉木良太郎のこと(君津地方の戊辰戦争)」で、戊辰戦争の結果全国で唯一改易された請西藩についてふれたが、その陣屋跡に建つ碑(左下の写真)を紹介する。場所は、木更津中央霊園の前である。若干20才で家督を継いだ請西藩主林忠崇は、遊撃隊人見勝太郎、伊庭八郎の呼びかけに呼応して、旧幕府側に加わり戦う決意をし、自ら脱藩、真武根陣屋を焼き払い、各地で新政府軍と戦った。最後は仙台で降伏した。降伏後は、経済的に困窮した生活を送った時期もあったそうだが、昭和16年(94才)まで生存し「最後の大名」といわれている。

   
   
           真武根陣屋跡                木更津県史蹟

 右上の写真は、11代将軍家斉の時に林忠英が大名に列せられ、陣屋を構えた場所に建てられている碑である。場所が貝渕であることから、貝渕陣屋と呼ばれ、藩名も貝渕藩といった。林家は三河譜代の旗本で、忠英は家斉のお気に入りで、小姓から若年寄にまで上りつめた。文政8年(1825)若年寄になった時に、3000石加増され大名になっている。その後も加増が続き最大で1万8000石までになった。しかし、家斉の死後、天保の改革で有名な水野忠邦が政治の実権を握ると、忠英は、8000石を没収され若年寄も罷免されてしまい、ついには隠居の身となってしまった。請西藩と呼ばれるようになったのは、2代目の林忠旭が、嘉永3年(1850)に先にふれた真武根陣屋を建てたからである。

 明治になって駿河国から移封されてきた桜井藩(藩主は瀧脇氏で、もとは君津市南子安にあって、金ヶ崎藩といった)も、貝渕陣屋を利用した。この貝渕陣屋は、廃藩置県後桜井県庁(1871年4〜11月)、木更津県庁(1871年11月〜1873年6月)となった。初代木更津県権令は柴原和で、木更津市中央の選擇寺を官舎として、馬に乗って県庁に通ったそうである。柴原和は、初代千葉県令にもなっている。詳しい廃藩置県の経過については、『君津市の歴史 PartU』「君津市と廃藩置県をめぐって」を参照のこと。

 ところで、右上の写真のわきに、木更津市の教育委員会が立てた案内板があり、そこには「
貝渕藩主林肥後守忠英は、文政10年(1828)貝渕陣屋を築きました」とあったが、文政10年は西暦1827年である。インターネットで調べてみると、貝渕陣屋は天保10年(1839)に建てられたとするサイトがあった。果たして真実は?