各地に残る義民伝説

(1)義民 岩野平左衛門について(富津市)
 竹岡、松翁院十夜寺の寺門をくぐると、すぐ左側に、市の指定文化財になっている岩野平左衛門の墓がある。平左衛門は、村民のために命を落とした義民である。秋元隼人正が百首村を知行していた時、名主役を務めていたが、隼人正による過酷な税の取り立てを諫めたことで、逆にその怒りにふれて延宝8年(1680)10月30日に処刑されてしまった。その後各所に火災が起こり、平左衛門の祟りであろうといって平左衛門の神霊をまつり、岩平権現と名づけ、火伏の神として尊敬されたと『富津市史』にあるが、写真にある、富津市教育委員会の設置した説明書きには、平左衛門の祟りや火伏せの神として尊敬されたことはふれられていない。なお、岩野平左衛門の事績については「岩平大権現縁起」にあるだけで、本当にあったことだと断定はできないそうだが、松翁院の隣「石洞山不動院」の棟札(延宝6年6月)に森戸村年寄岩野平左衛門と記されているものがあるという。

       
           松翁院十夜寺               岩野平左衛門の墓

(2)義民 諸岡太左衛門について(富津市)
 金谷の華蔵院(金谷小学校の隣)には、義民諸岡太左衛門の墓がある。右下の写真のように、今でも地元の方々の手によって花が供えられ大切に守られ続けている。墓は富津市指定史跡で、横に、平成13年、富津市教育委員会が設置した案内板が立っている。その解説によって、太左衛門が義民として崇められるようになった事情をみてみよう。

 明和7年(1770)以来、金谷村は旗本白須甲斐守政雍の知行地であったが、下役人達に度々重税を課せられていた。特に天明3年(1783)よりは世間一般が困窮下にあったにもかかわらず、同4年に年貢8石増を命じられ、更に同5年3月に至り、「鎌止め」「鉈止め」の布令が出され、従来村民が生活の資としていた薪炭材採取が差止められた。そのため村民は非常に困窮することとなり、名主・村役らがしばしば地頭所役人に嘆願するも容れられなかった。
 やむなく同年3月13日、一村民であった太左衛門や惣兵衛をはじめとして村民一同が江戸麹町の白須邸に願出た。この結果、先の布令は取り止める旨申渡しがあり、村民の生活は回復したが、太左衛門の行為が時の掟に触れるもの(門訴)として、遠島に服する前の天明6年1月7日、45歳で獄死した。同行の惣兵衛は釈放されたという。
 この太左衛門の犠牲的行為を徳として、以後村民は供養を続けている。太左衛門の法名は「梅香了運居士」という。

       
          金谷 華蔵院                 諸岡太左衛門の墓

(3)木更津市田川地区の義民 池田三郎左衛門について(木更津市)
 木更津市(旧富来田町)田川地区の神明神社の境内の片隅に、明治19年(1886)に建てられた池田三郎左衛門の碑がひっそりと立っている。また、通称田川のお堂(十王堂)には、三郎左衛門の木造が安置され、地元の人々は「おびんずるさま」と呼んでいるそうだ。
 池田三郎左衛門とは若くして田川村の名主になった人物である。測量をする縄を短くして年貢増徴を図った代官に、再三農民の負担を減らすように懇願したが聞き入れられず、最終的には江戸に出て訴え、その責任を問われ慶長16年(1611)11月15日に若干22歳で処刑された人物である。3年にわたる三郎左衛門の命をかけた行動によりついに幕府の調査が行われ、不正が発覚した代官は流罪となり、農民の負担は軽減されるようになった。何でも、幕府の赦免の決定を知らせる早馬が到着したのは、処刑直後であったという。
 十王堂は村人が建てたもので、そこに安置されている木造は、三郎左衛門の死を悼んで彼の母が彫らせたものだという。今でも毎年8月5日には祭事が執り行われているという。また、地区の子どもたちは、「池田さまの田では、小便をしてはならない」といわれているともいう。
 休日を利用して、神明神社の碑や十王堂の撮影に出かけた。地図を持ってくればよかったと思ったが、運良く親切な地元の方に話を聞くことができ、迷うことなく神明神社や十王堂を探すことができ、無事撮影することができた。神明神社の祭神は、「天照大神」と「猿田彦大神」のようだ。十王堂には、三郎左衛門の子孫にあたる方の句碑もあった。また、『木更津市史 富来田編』のコピーが掲示してあった。
 当初は神明神社と十王堂の撮影が目的だったのだが、地元の方(話をしているうちに高校の2年先輩であることがわかった)の案内で、三郎左衛門が処刑されたという場所まで確認することができた。その刑場は、今では県有林の中で杉の木がうっそうとしている、十王堂の裏手にあたる山中であった。お話を伺った地元の方が小学校時代に通学で使っていた道の脇だというし、また、近くには道標や馬頭観音があり、かつての街道筋にあたっているようだ。言い伝えによると、再吟味の結果、三郎左衛門は死罪にあたらないということになり、それを知らせるためにやってきた幕府の使者が、処刑場に向かって叫んだというから、かつては山の麓から見えたのかもしれない。幕府の役人が大声をあげた橋を、後に「遠声橋」と言うようになったらしい。三郎左衛門の亡き骸は、神明神社の碑によると「下部多山」に葬られたというが、刑場と墓地が同じなのかは今のところはっきりしない。しかし、刑場に建てられた碑には、三郎左衛門の法号が刻まれていた。

        
         三郎左衛門の碑                 田川神明神社
       
          田川十王堂                   おびんずるさま
       
       三郎左衛門処刑地遠景              三郎左衛門処刑地

 それにしても、十王堂の写真を見てもわかるが、400年たった今でも、池田三郎左衛門は田川の人々にとってかけがえのない存在であることが大変よくわかる。富津市の義民岩野平左衛門の墓が市の指定文化財になり、教育委員会の説明文が掲げられていたが、木更津市も同様の措置をすべきだと思った。
 なお、はじめ平凡社『千葉県の地名』などによって「三郎左衛門」を「三郎右衛門」としていたが、神明神社の碑や『木更津市史 富来田編』には「三郎左衛門」となっていたのでそれにならった。
 今まであまり気にしていなかったのだが、「おびんずるさま」って不思議な名前である。この「木更津市田川地区の義民 池田三郎左衛門について」は何年も前に書いたのに確認もしてなっかった。そこでちょっと調べてみたら、「おびんずるさま」は釈迦の弟子の「ビンドラ・バラダージャ」のことだった。その名を音訳した漢字が「賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)」で、それを略したものが「賓頭盧(びんずる)」である。ビンドラ・バラダージャは、第一の弟子とされていて神通力が強かった。しかし、いたずらにその力を使ったことから、釈迦に叱責された上に涅槃(ねはん:仏教で理想とする、仏の悟りを得た境地のこと)を許されず、釈迦の死後も衆生を救い続ける事になったそうだ。十六羅漢の一人である。日本では、お堂の前に「おびんずる様」の座像を置き、その像をなでると病気が治るという信仰が広まっている。東大寺大仏殿、善光寺本堂、立石寺等の「おびんずる様」が有名だそうだ。写真で見ると、善光寺の「賓頭盧尊者」の像は、顔かたちもはっきりしないほど撫でられているようだ。命をかけて村人のために立ち上がった池田三郎左右衛門の像を、人々が「おびんずるさま」と言う気持ちが理解できるだろう。

(4)義民 中山新左衛門について(君津市)
 『富津市の歴史について』の「富津市域、周辺の百姓一揆、打ちこわしについて」で、山川版『千葉県の歴史』や『君津市史』、『君津郡誌』をもとに、上総国周准郡郡村の百姓一揆の概略を紹介しているが、『貞元地域誌』に詳細が載っていたので紹介する。富津市の「岩野平左衛門」や木更津市の「池田三郎左衛門」と同様に、義民として崇められた「中山新左衛門」の話である。この話は、あくまで伝承に基づくもので、確実な史料はないそうだ。
 享保12年(1727)、郡村を所領とする旗本玉虫八左衛門の用人、松平重兵衛が私腹を肥やすために領民からたびたび御用金を取り立てた。百姓は困り果て再三地頭所に嘆願したが、聞き入られることはなかった。そこで立ち上がったのが、名主の中山新左衛門だった。ある日、意を決して自ら直訴状を持って、領主玉虫氏に直接訴えるべく江戸へ向かった。そして、領主の外出の機会をとらえ、直訴状を手渡すことに成功するのである。玉虫八左衛門は帰宅後、直訴状を読み、松平重兵衛に事実を確認したが否定したので、郡村へ他の用人を派遣し調査させた。調査の結果、直訴状が真実であることがわかり、百姓の負担は元通りになったのである。しかし、村民の助命嘆願の訴えもむなしく、新左衛門は法を犯した罪で処刑されてしまったのである。

 村民たちは、新左衛門の死を嘆き、亡骸を引き取り手あつく葬り、享保12年12月に「別孝塚」を作り墓標を建て、傍らに松を植えた。その松を「義松」と称したという。50年後の安永6年(1777)10月に、供養のために新たに「地蔵尊」を建立し、改めて新左衛門の威徳を偲んでいる。 地元の方に話を聞くと、「別孝塚」は基盤整備で無くなってしまったという。その際に調査をしたらしいのだが、何も出てこなかったそうだ。「地蔵尊」は、右下の写真のように、今でも大切に守られていた。左下の写真中央奥が郡ダムで、「地蔵尊」は道路の右側にある。
 ところで、『貞元地域誌』では、過酷な取立てをした「松平重兵衛」がその後どうなったのかはふれていない。他の例から考えると、「松平重兵衛」の行為が玉虫氏の命令でなければ、用人も当然処分されているはずなのだが。
 
      
          君津市郡地区                    地蔵尊

(5)義民 藤右衛門について(袖ケ浦市)
 
山川出版『千葉県の歴史』に紹介されている百姓一揆(『富津市の歴史について』参照)の主人公の一人は、現在の袖ケ浦市根形地区、江戸時代は新田村の百姓「籐右衛門」である。これはおそらく『君津郡誌』の記述がもとになっていると思われる。その『君津郡誌』によって、概略をまとめてみると以下の通りである。

 『君津郡誌』には、籐右衛門は「里正」とあるので、新田村の名主であったと思われる。性格は剛直で、延宝年間に、隣村(飯富村)との用水の問題を解決するなど、常に村の人々のことを考えていたという。旗本太田八十郎が領主の時代に、年貢の取立てが厳しくなっただけでなく、年貢の取り方を改めて更なる増徴が図られたことがあった。この時に敢然と立ち上がったのが、籐右衛門だったのである。籐右衛門はただでさえ貧しい村民のことを思い、度々領主である太田氏に村民の窮状とその理のないことを訴えた。その結果、年貢増徴の計画は撤回されたのだが、籐右衛門は越訴の罪を問われ、遠島、家屋敷、田畑没収の処分を受け、最後には流された地で病死してしまったのである。その後、村人たちは籐右衛門の業績を偲び、八幡神社境内に「土神宮」として祀り、遠島処分のために出発した4月7日を命日として、毎年この日に祭りを行うようになったということだ。
 
 ここまでは『君津郡誌』の記述をまとめたものだが、『袖ヶ浦町史』によると多少事情が違っている。飯富村との用水問題が訴訟に発展し、新田村に不利な形勢になったことから、領主である旗本太田又右衛門が、籐右衛門を江戸から連れてきて、新田村の名主にすえたという。その籐右衛門の活躍で、新田村の主張どおり用水問題は解決することになった。村ではその後用水堀の大改修をすることになった。名主であった山田籐右衛門は、年貢の減免を領主太田又右衛門に懇願したが受け入れられず、罪に問われるのを覚悟して妻子を離縁し、領主を訴えたというのである。その結果、年貢の減免は認められたが、籐右衛門は家財没収の上八丈島に遠島になった。八丈島への出発は寛文13年(1673)4月だったという。そして、籐右衛門を恨む領主太田氏によって毒殺されてしまったらしい。籐右衛門の死後用水堀は完成し、50町歩の田畑を潤すことになった。籐右衛門の墓は、新田村字白旗の共同墓地内にあって、貞享元年(1684)4月5日に建立されている。また、八幡宮の境内にある土神宮(「ちじんぐう」と読む)の建立は、天明8年(1788)の4月5日である。土神宮の碑文には、「土神為郷土安全」と刻まれている。村人のために一身を投げ打った籐右衛門の業績をたたえてのことである。

 さらに、草土文化社の『千葉歴史散歩50コース』では、領主は太田又左衛門であり、百姓たちが年貢減免申請をすることになった事情や老中への越訴の様子、籐右衛門亡き後の領主の対応、土神宮を建てるにいたった事情などが詳しく出ている。それによると、用水堀のために籐右衛門は私財を投じ、村民も土地を質に入れるなどした。さらに、年貢減免要請に対し領主は逆に年貢を厳しく取り立てたので、名主である籐右衛門は妻子を離縁し老中へ越訴した。その時に、老中は訴えを取り下げるようにはたらきかけた。籐右衛門は越訴の罪を問われ遠島となったが、その船中で太田氏の息のかかった役人の手で毒殺された。その後、領主である太田氏は、籐右衛門の墓を建てることを禁じるとともに、籐右衛門の妻子を村から追い出した。年月がたち人々の籐右衛門に対する記憶が薄れたころ、村に疫病が流行った。易者にみてもらうと、「恩人を祀らず、供養もしないから疫病が流行る。このままでは、村人は死に絶えてしまう」という。そこで、八幡宮の境内に土神宮を祀るようになったということだ。

 以上のように、『君津郡誌』、『袖ヶ浦町史』、『千葉歴史散歩50コース』は、領主の名前をはじめ細かい点でかなり違っているのだが、籐右衛門の業績については、地元の方の言い伝え以外に資料が存在していないようで、今のところ確かめようがない。しかし、細かい事実はどうあれ、村民のために命を落とし、村民によって「土神宮」と崇められた「籐右衛門」の存在は否定できないだろう。

       
        下新田 八幡宮               八幡宮境内の土神宮

 ところで、新田村の隣り上三ツ作、下三ツ作の両村でも、嘉永2年(1849)12月、総勢38名の小前百姓による老中への駕籠訴が行われていることが、『千葉県の歴史』(山川出版)や『袖ヶ浦町史』に載っている。両村は、旗本高木氏と太田氏の知行であるが、大半は高木氏が支配していた。なお、太田氏とは、新田村の領主であった太田氏である。
 事件の発端は、同年正月、高木氏の新任の用人による年貢増徴の企てにあった。検地を実施し、隠田に対しても年貢をかけるというもので、百姓たちは、名主や村内にある寺院を通して交渉したが、用人は当初の方針を撤回しなかった。これに、名主や仲介に立った寺院に対する、小前百姓たちの不信感も加わって、大きな騒動に発展したのである。老中への駕籠訴に至る前に、領主である高木氏の上司御書院番組頭籐懸出羽守に直訴した時に、首謀者2人が手鎖となったが、不思議なことに、老中への駕籠訴では1人の処罰者もでなかった。訴えは奉行所へまわされ、嘉永4年4月には、最終的に内済(内々で事を済ませること)となり、小前百姓は訴えを取り下げた。そのかわり、隠田の年貢は支払うことになったという。
 詳しいことはわからないが、越訴の結果処罰された者がいないということは、余程旗本側に大きな落ち度があったとしか考えられない。よく時代劇で悪徳商人と組んで、庶民や百姓をいじめる旗本がいるが、高木氏はそれだったのかもしれない。