富津市の歴史

(1)富津市域及び周辺の百姓一揆、打ちこわし
 富津市周辺では、近世前期の一揆はあまり確認されてない。中期以降に年貢・諸役の増徴など新たな賦課に反対する一揆が目立ってくる。君津地方は、旗本領や幕領が錯綜しており、村という村落共同体全体でまとまりにくい環境にあった。百姓一揆が少なかった原因の一つではないかと考えている。例えば、小久保村(現富津市小久保)は1400石の大きな村であったが、多い時で5人の旗本の相給の時代があった。以下、君津地方の百姓一揆について、平凡社『千葉県の地名』や、山川出版『千葉県の歴史』などから紹介する。

 佐貫藩では、享保12年(1727)頃に、郡奉行杉浦氏を中心に年貢増徴のための検地を実施しようとしたが、天羽郡内の藩領の惣百姓が藩主や家老に願出て止めさせ、郡奉行は欠落された。

 寛保元年(1741)は凶作で虫害も発生したため、佐貫藩領の村々一同で領内の役所に救済を願い出たが、逆に中心の者が手鎖を命じられたため、惣百姓らが江戸へ出て藩の屋敷などへ直訴した結果、村々には米500俵が与えられ、治世の責任をとらされた城代は永之暇、郡奉行2名が解任された。

 寛保2年には、佐貫村周辺の鬼泪山付き12村の百姓419名が、山稼が極端に制限されたとして老中本多忠良に駕籠訴を決行した。評定所で吟味の結果強訴とみなされ、名主らを中心に遠島1名・追放10名などの処罰が命じられたが、山稼への制限は緩和された。『富津市史』によれば、駕籠訴は寛保2年の12月、結論がでたのが翌年の4月で、吟味で4ヶ月もかかっている。この間、農民側で病死したものが2名でている。また、遠島処分になった名主は後に許され、名主に復帰しているという。

※山間地域では大量の薪竹木などが刈り出され、また炭の生産もみられ、これらは藩によ
  る専売制や江戸の商人などの請負制をとることもあったが、いずれにせよ薪木の伐採、
  炭薪木の川岸までの陸路運搬によって得られる賃銭は田畑に恵まれない山間村落にと
  って重要な稼ぎであった。

 天明5年(1785)3月、金谷村百姓一同が、御用金負担が多い上に山稼ぎが差留られたことで、地頭白須甲斐守政擁(旗本2050石)へ直訴。村役人がしばしば地頭所役人へ願い出たが進展しなかった結果の行動である。2名が田畑・持林・家屋敷・家財没収、百姓代 3名が手鎖、門訴に加わった80人が過料10貫文を科せられている。門訴の中心人物 で、獄中で亡くなった諸岡太左衛門の墓は金谷華蔵院の境内にあり、「梅香了運居士」と墓石に刻まれている。市の指定史跡である。

 天明期にはさらに、凶作や飢饉を契機とする米価の高騰で貧農層らを中心に打ちこわしが発生した。天明7年木更津村では30軒ほどの商家が打ちこわされ、富津村でも14軒、川名村では4軒が打ちこわされた。

 近世後期には、窮乏化した領主財政の打開のためのさまざまな施策に反対する運動が、各地で多様なかたちで展開された。
天保13年(1842)、望陀郡の山間部に位置する川越藩上総領(高水村など数十か村)では、年貢増徴や薪炭の藩による専売制・酒・葛藤・菜種の特定商人による請負制などに抗議して一揆が起こった。一揆勢は門訴のため江戸に向かい、市原郡姉崎村まできたところで、同村の村役人に説得されて帰村したが、吟味の結果田畑欠所・永牢1名、追い払い1名、田畑欠所・追放2名、追放5名、計9名の処罰者を出したものの、村々の要求は一定の前進をみたようだ。
 後、村々より処分者容赦の嘆願書が出され、嘉永3年(1850)になって首謀者とされた高水村長兵衛をはじめ8名が永牢・追放を許された。長兵衛は解放されたが、村への立ち入りは禁じられた。また、長兵衛の家族は親戚に預けられた後、家作一軒前の百姓として取り立てられたという。

 慶応2年(1866)、長州戦争などのため米価が高騰し、貧農層や賃稼のものたちによる打ちこわしが全国的に拡大したが、木更津村でも米屋などが打ちこわされ、近隣の長須賀・祇園、奈良輪・神納などの諸村にも不穏な動きが広がった。

※『重城保日記』慶応2年(1866)5月から抜粋

 17日 晴。  
  ・米価追々騰貴。木更津周辺少々騒敷様子ニ 相聞。
 18日 陰。  
  ・木更津村昨夜小前乱妨穀屋共江 押掛り騒動致し候よし。
  ・存外之 乱妨ニ而処々目もあてられぬ事也。
 20日 陰。  
  ・今日者 乱妨人共御呼立ニ 成。手鎖、縄手張等三人出来。
  ・木更津之 騒動よりして長須賀、祇園、奈良輪村神納辺宛動揺いたし候よし如
   何。東海道筋も藤沢、川崎辺動揺之よし。
 21日 雨降。
  ・木更津村乱妨人とも縄手鎖等沢山出来。


※君津地方では、山川出版『千葉県の歴史』によると、以下の「百姓一揆・打ちこわし」が
  紹介されている。
○慶長14(1609)年に、望陀郡田川村(幕領)で、代官の年貢増徴・検地に反対して越訴。
  結果は、年貢は軽減されたが、名主は死罪となった。『各地に残る義民伝説』で、詳しく
  紹介している。
○延宝年間に、望陀郡新田村(旗本太田氏領)で、増賦課に反対し越訴。成功したが頭
  取は遠島。『君津郡誌』によれば、遠島になった人物は「藤右衛門」という。『各地に残
  る義民伝説』参照。時期についてははっきりしない。
○享保年間に、周准郡貞元村(旗本玉虫氏領)で、用人の苛政が原因で越訴。成功した
  が、頭取は死罪。(『君津市史』には、周准郡郡村のこととして、名主中山新左衛門が領
  主旗本玉虫氏に直訴し罰せられ、義民として祀られたという伝承を載せている。郡の
  「別孝塚」は新左衛門の供養のために建てられたという。『君津郡誌』で確認すると、郡
  村の領主が「玉虫氏」とあったので、『千葉県の歴史』の間違いだと思う)。詳しくは、
  『各地に残る義民伝説』の「義民 中山新左衛門について」参照。
○文化年間に、天羽郡金谷村(旗本白須氏領)で、重税に反対して越訴。成功するが、頭
  取は牢死。(上記の天明期のことではないかと思うが)
○弘化2(1845)年に、市原郡磯ヶ谷村(上総佐貫藩領)で越訴?入牢・手鎖など処罰者多
  数。
○嘉永2(1849)年に、望陀郡上三ツ作村、下三ツ作村(旗本高木氏領)で、領主・村役人に
  反対して老中へ駕籠訴。詳しくは、『各地に残る義民伝説』参照。

(2)富津市の中世城郭
 久留里城址資料館企画展資料『君津地方の中世城郭』や『富津市史』から、富津市に残る中世城郭を紹介する。

佐貫城跡
 富津市佐貫字城山、標高69mの南北に伸びる丘陵上にある。久留里と共に里見氏の西上総経営の拠点として、主に義堯の子、義弘が在城していた。もとは武田氏の築城と伝えられる。永禄初期には北条氏の勢力が及び、千葉氏が将兵を佐貫へ集結させているが、中期以降は義弘が在城するようになり、同10年(1567)の三舟山合戦などでも重要拠点としてクローズアップされてくる。『富津市史』によれば、戦国期の佐貫城と近世の佐貫城とは、必ずしも一致しないらしい。『房総の名城と名家名門を探る』では、現在の岩富寺付近が、真里谷武田氏築城の初期佐貫城ではないかと指摘している。下の写真は、近世の佐貫城跡である。案内表示がしっかりしていて、大変見学しやすかった。
       
          佐貫城跡遠景                 佐貫城跡登り口

峰上城跡
 湊川中流域の富津市上後字要害、標高130mの丘陵上に位置する。湊川流域の谷を押さえる要の城である。この城も真里谷武田氏の築城と伝えられ、周辺の神社には真里谷全芳の奉納した鰐口が残されている。天文6年(1537)の武田氏内訌の際には、北条氏の支援を受けた真里谷信隆が、この城に籠り里見義堯の囲みを受けている。この頃からすでに親北条氏の立場にあったのかもしれない。天文22年に金谷城を焼き、2年後には久留里包囲まで拡大した房州逆乱といわれる事態を引き起こした張本人、吉原玄蕃助と22人衆は、峰上城の曲輪に小屋を建てて在蕃したと言われている。彼らは北条氏から虎印判状を受け、里見に従属することを嫌ったのである。右下の写真は、本丸の最上部にあった環神社である。環神社の祭神は、『富津市史』によれば、「摩利支天」と「天満天神」であるという。

       
          峰上城跡遠景                 本丸跡の環神社

造海城
 富津市竹岡に位置し、別名を百首城といい、東京湾の波打ち際にそそりたつ海城である。真里谷武田氏が、当時安房にいた里見氏に対抗する目的で築いたとされるが、その後、里見氏の守城となってからは、対岸の北条氏の侵略に備えている。また、ここを拠点として里見水軍が活躍したという。戦国末には、里見氏の重臣正木淡路守が居城し、城下の百首湊が海関として機能している。近世後期の文化7年(1810)、松平定信(白河藩)によって城跡に砲台が築かれている
(次の項「富津市と海防」参照) 。

              
                       造海城跡全景

金谷城跡
 富津市金谷にある、標高118mの海城である。安房と上総の国境にあり、鋸山山系の西の丘陵端にあたる。西は東京湾に接した急崖で、北に金谷港を擁する里見水軍の重要拠点である。

天神山城跡
 
富津市海良にある。標高は100m前後の山城で、手前は湊川である。『君津郡誌』によると、文明年間の築城らしい。初めは真里谷氏が在城、後に里見氏の武将戸崎玄蕃頭勝久の居城となったという。『富津市史』では、城域に天神社があることや、近くに妙見社があることから、千葉市一族の天羽氏が築城した可能性を指摘している。

             
                        天神山城跡

※他に、常城砦跡(関尻字常城)、東大和田城山砦跡(東大和田字堀切)、服部館跡(相川字柳糸、『富津市史』では「正木館」としている)、天羽城跡(相川字天羽城)、鳥海館跡(梨沢字小向)、君ヶ谷城跡(竹岡字二又山)、城山砦跡(金谷字大久保)、岩富城跡(亀沢字岩富山)、北上砦跡(亀沢字座房)、旗本山砦跡(相野谷字辻畑)、虚空蔵山城砦跡(障子谷字堀ノ内)、梨沢常代城跡(梨沢字常代越・相川字古屋敷)、不入斗常代城跡(不入斗字常代)があり、合計で18ヶ所確認されているが、湊川流域や佐貫、三舟山周辺に集中している。同地域が、安房里見氏と真里谷武田氏、後に北条氏による攻防の境界であったことを示しているといえよう。なお、上記の旗本山砦は、『君津市の歴史』「小糸川流域の中世城郭」では、「八幡の森」としてその写真を掲載している。「旗本山」は、「八幡の森」ともいうらしい。
 先日(2016.2.21)、富津市相川にお住まいの方から、天羽城跡の小字は、「天羽越」ではなく「天羽城」だとの指摘があった。『君津郡誌』で確認したところ、相川の小字に「天羽城」があったので、さっそく訂正した。ご指摘に感謝である。

(3)富津市と海防
 富津市は東京湾の入り口にあたり、外国船が通商を求めて度々やってくるようになると、海防上非常に重要な地点の一つとなった。そのため、富津市域の海岸線に砲台が築かれたり、譜代の雄藩が警備のため配置されたりと、幕末には緊張した状態であった。嘉永6年(1853)ペリー来航は、日本の政治を大混乱に陥らせることになったが、この時の人々の動揺ぶりを、佐貫藩医であった三枝俊徳が『黒船渡来日記』として後に紹介している(『黒船渡来日記』から見る海防や庶民の様子については、次ページ『富津市の歴史PartU』で扱っている)。以下、富津市に関わる海防関係のできごとをあげてみる。

文化 7年 (1810) ・白河藩主松平定信房総の沿岸防備を命じられる。
・竹ヶ岡砲台、竹ヶ岡陣屋がこの頃造られる。
    8年 (1811) ・富津砲台が造られる。
文政 4年 (1821) ・富津陣屋が造られる。
    5年 (1822) ・州崎砲台を富津に移す。
    6年 (1823) ・佐倉藩、久留里藩が非常時の警備を任じられる。
天保13年 (1842) ・佐貫藩、大坪山に砲台を築く。
・忍藩松平正堯沿岸防備を命じられる。
弘化 4年 (1847) ・忍藩、会津藩が沿岸防備を命じられる。
嘉永 3年 (1850) ・この頃、会津藩が、小久保七曲に大砲6門をすえつける。
・金谷嶋戸倉にもこの頃砲台が築かれる。
    6年 (1853) ・備前藩、柳川藩沿岸防備を命じられる。
安政 2年 (1855) ・梵鐘をこわし、大砲を造る命令が出される。寺院の反対で、実施されず。
    5年 (1858) ・富津台場以外の砲台廃止。
・柳川藩は二本松藩と、備前藩は幕府代官と交代する。
慶応 3年 (1867) ・前橋藩主が二本松藩主に代わり、富津砲台警備を命じられる。

      
          竹ヶ岡砲台跡           富津大乗寺にある柳河藩士の墓

      
           金谷神社               金谷神社 備前焼の狛犬

 『富津市の歴史PartX』の「富津市と会津藩」で、富津市の沿岸防備にあたっていた会津藩のことも紹介しているので、参照されたい。
 左上の写真は、松平定信が設置した砲台跡の写真である。正面の土盛りがその名残らしい。右上の写真は、富津地区の大乗寺にある、嘉永6年から沿岸防備にあたっていた柳河藩士の墓である。大乗寺には、写真の墓の他、無縁仏の中にも数基の柳河藩士の墓石があった。備前焼の狛犬が金谷神社にあるのは、上の年表でわかるとおり、柳河藩と同様に嘉永6年から備前藩も沿岸防備を担当していたからであろう。この狛犬は、安政4年に設置されている。備前焼の狛犬は全国に30ほどあるそうだが、千葉県には金谷神社だけだと、『町田さんの千葉狛ページ』にあった。

(4)明治になって成立した小久保藩

 藩といえば江戸時代である。しかし、富津市にあった小久保藩は、明治元年9月に成立している。明治4年7月には廃藩置県が行われるので、藩が存続したのはわずか2年10ヶ月ということになる。藩主は、かの有名な田沼意次の子孫であった田沼意尊である。意尊は、水戸の天狗党の乱が起こった時に若年寄で、その追討使に任命された人物である。領地は、遠江国相良(現静岡県榛原郡相良町)にあった。富津市に移封されたのは、徳川家達が70万石で駿府に移されたからで、まさに、トコロテン式に富津市に移封されたといえる。小久保藩と同様に、駿河や遠江などから房総に移された藩は、松尾藩、菊間藩、鶴舞藩、櫻井藩、花房藩、長尾藩の6藩である。
 藩主意尊は、明治2年に東京に入り、同年6月に版籍を奉還し藩知事となって7月に初めて領地となった小久保の地に入ったが、同年12月に52歳で亡くなっている。廃藩置県の時は2代目の意斉であった。陣屋は、現富津市小久保字弁天の地にあり、その跡地には、碑が建立されている。小久保藩の石高は1万1千270石で、領地は上総国周准、天羽両郡に存在した。明治3年12月に、藩校盈進館を設立・運営している。盈進館は、学制発布後の明治6年11月に、現大貫小学校の前身である小久保小学校となっている。左下の写真は、弁天山古墳の脇にある「小久保陣屋跡」の碑、右下の写真は、富津市中央公民館前にある「大貫小学校発祥之地」の碑である。

       
       「小久保藩陣屋跡」の碑           「大貫小学校発祥之地」の碑

(5)富津市と自由民権運動と訶具都智神社
 明治14年(1881)高柳村に重城巌・鈴木栄を中心に興村会が設立され、12月には望陀郡21ヶ村の有志によって、地方の改進を目的とする共成会が設立された。
 同年天羽郡湊村の東明寺で湊村の菱田近義、一川村の新藤佐吉らを中心に協心社が結成された。協心社は、新聞の縦覧、解読を目的としていた。天羽郡峰上では東大和田校教員・学務委員や近隣の教員らで構成される庶陽社が設立された。また天羽郡佐貫校では天羽連合学術演説会の開会式が行われ、翌15年1月に会頭に三枝迂、副会頭に田丸伝之助を選出しているが、前年県下唯一の民権派新聞社の総房共立新聞社が呼びかけた総房連合演説会結成に応じたもの。同じ頃天羽郡豊岡村に田丸伝之助・見本藤太郎らを中心に三省社が設立され、7月には朝野新聞社の社員2名(2名のうち一人は、堀口昇という記者で、この当時では著名な雄弁家の一人だった)を招いて豊岡村東光院で演説会を開催、安房からの参加者を含め聴衆は200人を越え、堀口昇は「
房州より来たりし人あり佐貫或は八幡より臨みし人あり、其遠き者は五里に及ぶ実に政治思想の山間僻村までも勃興したるは紅塵迷離の中に在て時勢を洞視する能はざる者の意想外に在りと謂うべし」と記している。
 三省社はその規約に「人々の智識を開発し見聞を博め、処世の道を研究するには、吾人の思想を交換して討論演説をなし、及び新聞雑誌を展読するに若くものはなし」と定め、社員は一会合ごとに3銭ずつ出し合い、各種新聞、雑誌を購入し、日曜日ごとに無償で公開している。
 『千葉県のあゆみ』によると、川原井に明治15年1月に保全社、久留里に明治14年4月に嚶鳴社支社、中島に明治14年11月に尚風会が結成されていることがわかる。

                      
       
            東光院                   訶具都智神社砲弾  

 戸面原ダム周辺で実施された、富津市民ハイキングに参加した(平成15年11月)。上の写真は、その時撮ったものだ。左の写真は、明治15年7月、今から約120年前に、境内で自由民権の演説会が開催されたという東光院である。
 右の写真は、戸面原ダム近くの愛宕山(標高283m)の山頂付近にある訶具都智神社の前に、狛犬の代わりに置かれていた砲弾である。地元の方に聞くと、何でも日露戦争の頃の砲弾だという。訶具都智神社は、「かぐつちじんじゃ」と読むのだそうだ。祭神は馬に乗っていると教えてくれた。馬に乗っていることや砲弾があったことから、祭神はきっと、戦いの神に違いないとその時は思った。しかし、『富津市史』の資料編によると、祭神は「火産霊命」(ほむすびのみこと)となっていた。「火産霊命」とは、イザナギノ命とイザナミノ命との間に生まれた最後の子どもである。イザナミノ命が死ぬ原因となり、そのためにイザナギノ命に殺されてしまった神である。「火之迦具土神」(ほのかぐつちのかみ)ともいい、火防の神として信仰を集めているという。通常、火産霊命を祭神とする神社は、秋葉神社や愛宕神社だというが、訶具都智神社の「訶具都智」は「かぐつち」と読み、「迦具土」と音が同じで、愛宕山山頂に祀られていることから、訶具都智神社も火防の神だと考えられる。大砲は火器なので、火と無関係ではない。きっと、日露戦争の戦勝祈願にでも設置されたのであろう。社殿内には「五穀豊穣」の文字が掲示してあった。なお、訶具都智神社は、志駒にもあると『富津市史』には出ていたが、入手できるあらゆる地図を調べてみたがついに見つけることはできなかった。しかし、環南小学校の西、志駒川をわたった先の山に愛宕神社があるので、ひょっとしたら、その愛宕神社が『富津市史』でいうところの「訶具都智神社」なのかもしれないと思い、「もみじフェスタin志駒」に参加したついでに地元の方に聞いてみたら、やはり、愛宕神社が訶具都智神社なのだそうだ。何でも、豊岡の神社と兄弟関係にあると云い伝えられているとも教えてくれた。

             
                     志駒の愛宕神社

(6)関東大震災と富津市
 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、東京を中心に未曾有の被害を出した。千葉県でも、安房や君津地方で多くの被害を出している。『富津市史』によると君津地方では、死者88人、負傷者288人を数え、全半壊した家屋は3,900に達した。また、38の学校が全壊した。中でも、富津市の被害は大きく、死者は52人に及び、全半壊家屋は学校等も含めて1,848にものぼった。金谷村の石切り場では、昼休みで昼寝をしていた作業員7、8人が生き埋めになるという悲劇も起こった。また、「木更津方面へ不逞人200人程船から上陸」といったデマ情報によって、撲殺事件が起こったことが、当時の飯野村長の手記『大震災手記第一号』に記録されているという。ただし、この撲殺事件については、どこで起こったものなのかはっきりしない。おそらく、県北で起きた事件のうわさが流れてきたものと思われる。
 道路交通網は各地で寸断され、通信連絡網も壊滅状態といった状況であった。鋸山のトンネルや湊川にかかる鉄橋が崩壊し、現在の内房線が復旧するようになるのは、9月3日に千葉〜五井間、5日に木更津まで、6日に大貫まで、11日に佐貫まで、14日に上総湊までとなっているが、上総湊〜保田間が開通するのは10月11日である。実に震災から1ヶ月と10日後であった。湊川の鉄橋架け替え工事に時間がかかったことが、その原因であったという。今考えれば、1ヶ月と10日で鉄橋を復旧させたということは、驚異的なことではないかと思う。

       
       現在の湊川に架かる鉄橋           今も残るかつての橋脚
 
 旧富津町の『大震災日誌』によると、町長自らが食料確保に奔走するなど、震災の被害の大きさと震災後の混乱の様子が手に取るようにわかる。それによると、小学校は、各区の青年館を借りて17日になってやっと授業が再開できるようになり、また、10月に入ってもまだ、海岸に死体が漂着するなどの事実も記録されていた。
 上記の震災被害は、『吉野村絹区震災記』の数字を引用したと『富津市史』に載っていた。しかし、『富津市史』でも随所に引用している『君津郡誌』(昭和2年発行だが、震災関係の原稿は大正15年に完成している)にも、君津地方の被害状況が掲載してあった。それによると、死者103人(富津市の死者は、61人で、そのうち1人は安房郡の人だった)、行方不明5人、負傷219人とあり、死傷者、行方不明者全員の住所と名前が紹介されていた。行方不明の5人は、金谷村の石切り場で生き埋めになった人たちであろう。しかも、筆者が確認したところダブリはなかった。なぜ、この『君津郡誌』の資料を使わなかったのか不思議に思っている。『富津市史』は、「以下の統計数字は調査によって多少の違いがある」とした上で、被害状況を紹介してはいるのだが。『君津郡誌』の数字には、何か問題があったのだろうか。調べてみる必要があるだろう。
 ところで、『君津郡誌』の負傷者一覧の中に、筆者が現在住んでいる住所と全く同じ住所で、打撲を負った人の名が出ていた。亡くなった祖母に、震災で蔵の土壁が崩れ落ちた話や、近所の人たちが竹やぶに避難してきたという話は聞いたことがあったのだが、負傷者が出たという話は聞いたことがなかったので、不思議に思い大正生まれの父に話を聞くと、「昔にあった長屋に住んでいた人が確か怪我をしたということを聞いた」ということだった。我が家の歴史に関しては、『君津郡誌』は間違いがなかったのである。


(7)戦争と富津市
 東京湾に突き出している富津岬は、県立の公園として整備されている。春から秋にかけては、休日ともなると、潮干狩り、キャンプ等多くの観光客が訪れる。しかし、江戸時代の後期には砲台が築かれていたように、かつては、首都防衛の最前線であった。
 明治17年に富津岬の基部に元洲砲台が完成した。大正4年には旧式となり機能を停止し、付近は大砲の試射場となったという(公園内の松林の中に、コンクリート製の監視所が残っている)。房総西線から引込み線が引かれ、大砲等が運ばれていたという(富津市埋立記念館の敷地内に軍用用鉄道境界標柱が残されている)。また、岬の先端の海中に島を築き、その上に砲台を置く第1海堡が9年余をかけて明治23年に、第2海堡が25年かけて大正3年に完成した。第2海堡と横須賀の中間に第3海堡を30年近くを費やして同10年に完成させたが、関東大震災で3分の1が水没したため機能を停止、急遽建設された金谷砲台などに移された。この第3海堡は現在、浦賀水道を航行する船舶の安全のために撤去された。撤去された建造物が、東京湾口航路事務所に展示されている。また、東京湾口航路事務所ホームページには、第2、第3海堡建設にあたって6人の人夫が犠牲となったこと、そのため、明治34年に富津の大乗寺に「遭難者追悼之碑」が建立されたことも、写真とともに紹介されている。大乗寺には、第1海堡建設にあたって亡くなった工事関係者を慰霊する「溺死者之碑」も建立されている。富津市の海岸地域は明治32年制定の要塞地帯法により東京湾要塞地帯に指定され、軍の機密を守るため測量・撮影・模写・築営物の増改築などは要塞司令部の許可が必要とされ、防御造営物から約455メートル以内には一般人の出入りは禁止され衛兵が監視し、近くを通る列車の窓にはブラインドがおろされ海岸を見ることはできなくされた。

 また、富津市には、君津市との境目の山中に、まるでアミダクジのように掘られた地下工場があった。木更津第二海軍航空廠八重原工場の疎開のための施設で、サイパン陥落により空襲の危険が高まって、昭和19年7月「全国の軍需工場を地下に移す」との閣議決定がなされたからである。佐貫地下工場の工事は、同年の秋には始まったらしい。土木工事には日本人だけでなく、多くの朝鮮人が動員された。八重原工場とともに、朝鮮の人たちの中には強制連行によって連れてこられ人もいたらしい。総延長9kmにおよぶ地下工場である。相当な難工事であったに違いない。落盤や発破の事故で多くの犠牲者が出たようだ(『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠からみた軍国日本の膨張と崩壊』 山庸男著 うらべ書房)。この建設工事の事務所は、当時の佐貫国民学校(現在の佐貫中学校)にあったという。現在でも、地下工場の入り口はいくつか確認できる(ただし、私有地のためかってには入れない)。この地下工場では、勤労動員された人々とともに、学徒動員された木更津中学(現木更津高校)や木更津高女(現木更津東高校)、周准農(現上総高校)などの学生が約2千人も働いていたといわれる。田宮壽美子著『回想(動員女学生の記録)』は、当時の絵日記とともに、岩根工場、そして佐貫工場と、海軍航空廠の動員学徒の様子を生々しく語っている。こうした地下工場は、全国に5千以上建設されたという。現在(平成19年)、この地下工場があった場所では、ゴルフ場の建設が行われている。戦争遺跡として地域にとって貴重な存在だと思うので、何らかのかたちで、記憶に残すように配慮すべきだと思うのだが。
 上記の絵日記は、当時の木更津高女の学生たちが、終戦の直後の冬休みの宿題で描いたもので、その一部が、久留里城址資料館の企画展(平成17年10月18日〜12月4日まで開催)に展示してあった。筆者も見たが、敗戦とともに、絵日記のトーンが急に明るくなった印象があって、大変興味深かった。

 昭和20年5月8日、君津地方一帯が米軍機に襲われた。佐貫地下工場周辺もねらわれ、富津市の岩富寺は全焼し、隣接する君津市の小山野地区では、4名の死傷者がでている(詳細は、『君津地方の空襲の記録』『周南の歴史 PartV』参照)。この時岩富寺には、地下工場の建設にあたっていた朝鮮の人たちが祝宴を開いていて、命からがら逃げ出したとの証言がある。この5月8日は、地下工場の貫通式典が行われた日だった。トンネル前で神主が御祓いをし、八幡で式典が行われたようだ(『増補版 21世紀の君たちへ伝えておきたいこと 第二海軍航空廠からみた軍国日本の膨張と崩壊』 山庸男著 うらべ書房)。

 昭和20年8月30日敗戦後連合国軍は富津岬からも上陸し、第1海堡・第2海堡を爆破した。富津公園内に、入水した弟橘姫の布が漂着したことを示す碑の隣の案内板に、米軍が8月30日に上陸した場所だという説明書きがあった。ところで、現在の陸上自衛隊木更津駐屯地は、米軍基地である事実はあまり知られていない。何と、自衛隊がアメリカ軍から借りている形になっているというのである。そういえば、いつの間にかなくなってしまったが、「UNITED STATES NAVAL AUIXLARYLANDING FIELD KISARAZU 米海軍木更津補助基地」という看板が立っていたと思う。アメリカ軍から返還されたのだろうか。

      
         元州砲台跡頂上              元州砲台北側斜面
       
      
            第1海堡              大乗寺にある「溺死者之碑」
                   
      
     大乗寺にある遭難者追悼之碑       弟橘姫の布が漂着したとの碑

      
         地下工場跡付近               封鎖されたトンネル

 昨年(平成19年)、佐貫地下工場跡で工事が始まった。何の工事かと思っていたら、地元の方からゴルフ場建設工事だと聞いた。左上の写真の場所は、全くすがたを変えてしまったのである。地下工場跡が消えてしまってはと思ったが、切り通しの上に橋が渡され、右上の写真の場所はそのまま残されるようだ。今となっては、何らかの方法で、この地に地下工場があった証拠は残してほしいと願うのみである。2度と戦争は起こさないという願いをこめて。

             
              ゴルフ場造成工事の進むかつての地下工場跡


 ※平凡社『千葉県の地名』、『富津市史』、山川版『千葉県の歴史』、『重城保日記』より
   作成した。富津市の歴史に関しては、『各地に残る義民伝説』や『君津地方の歴史』、
   『君津市の歴史』にも情報を掲載している。