富津市の歴史
PartX


(1)亀沢から上まで房総往還を歩く(亀沢、岩入、上)
 宝暦6年(1756)に建てられた庚申塔の立つ亀沢から、安政4年(1857)に建てられた上の道標の間の道を歩いてみた。相野谷から君津市上湯江までの道は比較的有名なのだが、今回歩いた道も、江戸時代の様子をそのまま残しているような気がする道である。

     

 スタートは、亀沢の北上神社(左上の写真)である。近くには、セブンイレブン(平成20年3月で無くなった)がある。鳥居の左下に見える庚申塔が、富津市で一番古い道標である。右側面に「
西 きさらず道」とある。方位に従うと、左側に進むことになる。神社の前にある道を西へ進むと、国道127号線と吉野地区を結ぶ広い通りにぶつかる。出光興産が進出してくるというのでできた道路だ(景気の低迷で、中止になったが)。そこを右折する。ゆるい坂道を300mほど登っていくと、旧道が左に見えてくる。そこを左折する。右上の写真の辺りが、亀沢と上岩入の境目だ。旧道を300mほど進むと、またさっき歩いた新しい道にぶつかる。その新しい道を150mほど行くと、今度は右に旧道が見えてくる(左下の写真)。
     

 右折し旧道に入り200mほど進むと山道だ(右上の写真、左下の写真)。そういえば、小久保神明神社の例大祭でお世話になる方のお宅があるので、この山道は途中まで登ったことがあった。山道の頂点左側に、秋葉神社の灯籠が見えてきた。140段あまりの階段を登ると、左下のような社が建っていた。そこが、山頂のようだ。社には「秋葉山」の額がかかっていた。この峠が上岩入と上の境目である。

     

     

 急なしかも幅の狭い階段を恐る恐る降りて、今度は軽トラックが十分通れる山道を下る(右上の写真)。ふと気がつくと、右の方からどこかで工事をする音が聞こえてきた。きっと、ゴルフ場の造成工事の音だろうと思いながら、坂道を下りきると左下の写真のような景色が見えてきた。上の百坂地区である。最後に、里道を900mほど道なりに進むと、上の道標(右下の写真)の立つ交差点に着いた。着いた時に、「なるほど」と思った。道行く人の目につくように、しっかりと道標が建てられていたのである。

     

 上岩入から百坂を抜ける道は、先に書いたように、江戸の道の雰囲気を残している道だと思った。特に、秋葉神社がある山道は、江戸時代のままではないだろうか。この道を歩きながら、江戸時代の人々が往来する姿を想像してみるのもなかなか面白いものだ。弥次さんと喜多さんにも歩いてもらいたい道である。気軽に歩ける道なので、ぜひ、読者の皆さんもご体験を!
 
(2)上から相野谷まで房総往還を歩く(上、近藤、絹、障子谷、相野谷)
 冬のある日曜日に、上の道標から相野谷の道標までを歩いてみた。スタートは、上の道標のある地点である。上の道標を見ながら左へ200mほど行くと、近藤の道標(左下の写真)で、そこから北西に200m進むとT字路で、突き当たりに絹の道標(右下の写真)がある。道標の左の崖には、不動明王や地蔵が安置されていた。

     

 現在では、この絹の道標の位置から障子谷に抜ける道は、T字路を左折して、500mほど進み右折するのだが、絹の道標の右側面に、「
北 きさらづ道」とあるので、道標に従って北東に進んでみる。つまりT字路を右折するのである。道路の右側には、特別養護老人ホーム「わかくさ」がある。50mほど進むと交差点があり左折すると、新しい神妻の集会場が見えてくる。「神妻」は「かずま」といって、湊の「数馬」と同じように、頼朝伝説にまつわる地名である。その手前に、左下の写真のように、山道があった。きっとこの道だろうと思い歩いてみた。途中、崖が崩れている場所があったが、普段農作業に使っている道なのだろう、きれいに整備されていたので、歩きやすい道であった。

     

 山道は、200m位であった。山の反対側に出ると、みかん畑があり、そのみかん畑を左に見ながら道なりに進むと、現在の広い舗装道路に出た。

     

 突き当たった舗装道路を右折して、道なりに進む。途中で上り坂が下り坂になった。坂道の頂点近くに、「ロッキー工業」の看板があった。舗装道路を600mほど進むと、左下の写真のような交差点が見えてくる。そこを右折して70m進むと、障子谷の道標がある(右下の写真)。

     

 障子谷の道標を右に見ながら左折して、30m進むと先ほどの舗装道路に出る交差点だ。途中、チャボが道をふさいでいたが、無事やり過ごす。交差点を右折して100mほど行くと、十字路である。右に行くと郡ダム、左に行くと西大和田である。その十字路から左前方の田圃の中に、小さな赤い鳥居が見えた。気になったが、その鳥居に行く道路がわからなかったので、また後で確認しなければと思いつつそのまま進んだ。この十字路を直進、150mほど進むと切り通しにさしかかる。切り通しに入ってすぐ右側に、地蔵尊があった(左下の写真)。この地蔵尊は、山肌を掘った場所に設置されているのに、その前に地蔵堂が建てられている、ちょっと変わった地蔵尊であった。地蔵尊の先に、相野谷の道標(右下の写真)が右側の山に見えてきた。

     

 相野谷の道標には、正面上に「」とあり、右には「かのふ山道 三り」、左には「さぬき道 一り」とあり、右側面に「此方 きさらつ道 三リ」、左側面に「此方 ふっつ道 一リ半」とあった。道標に従って「きさらつ道」を進みたかったが、残念ながら、崖崩れの危険があるということで、立ち入り禁止になっていた。本郷の道標を思い浮かべながら家路につくことになった。
 これで、亀沢から相野谷までの往還を完歩したことになる。次は、君津や木更津、そして、袖ケ浦の房総往還を歩かなければと思っているが、果たしていつになることか。

(3)富津市と会津藩(青木、西川、富津、下飯野、竹岡)
 上総唐人凧をご存じだろうか。いわれについては様々な説があるそうだが、その一つに会津の唐人凧が江戸時代の後期に当地方に伝えられたという説があるという。会津藩が、弘化4年(1847)から嘉永6年(1853)までの7年間、沿岸防備のために富津市に配置されていたからである。会津藩が陣屋を構えていた場所は、富津地区と竹岡地区であったが、ともに現在は住宅地や小学校となっており、「陣屋跡」「陣屋」という小字を残すのみで当時の面影はない。そういえば、『君津地方の歴史』で紹介したように、飯盛山で自刃した白虎隊の隊士の一人、石山虎之助は富津市生まれであった。しかし、会津藩の足跡は他にもあった。富津から竹岡までの遠泳達成を讃えて、竹岡の三柱神社(下の写真)に奉納された「会津藩士水泳の額」(富津市指定文化財)が残っている。また、平成20年2月末の木更津ケーブルテレビ「富津歴史の旅」でも紹介されていたが、富津市で亡くなった会津藩士やその家族の墓が、富津市の4つの寺院(富津市西川の正珊禅寺、富津市富津の長秀寺、富津市竹岡の松翁院と延命寺)に残されていたのである。以下、写真で紹介する。

     
        富津市西川 正珊禅寺           会津藩士とその家族の墓

     
        富津市富津 長秀寺              会津藩士の家族の墓

     
         富津市竹岡 延命寺          会津藩、白河、備前藩士の墓

     
      富津市竹岡 松翁院十夜寺           会津藩関係者の墓


     
         三柱神社二の鳥居               三柱神社拝殿

 会津藩は富津市に配備される前の文化7年(1810)には、対岸の三浦半島の沿岸防備を命じられて、観音崎、久里浜、城ヶ崎に砲台と陣屋を建設している。三浦半島の警備を10年間行っていたそうで、富津市同様、横須賀市や三浦市に会津藩士やその家族の墓が残されているという。さらに会津藩は、ペリー来航後、富津沿岸の防備は他の藩に代わり、品川砲台の守備を命じられることになった。また、富津市の防備には、会津藩の他、白河藩、佐倉藩、久留里藩、忍藩、備前藩、柳川藩、二本松藩、前橋藩が、交代しながらあたっている(『富津市の歴史』参照)。上の写真の長秀寺にある会津藩士の家族の墓の右にある墓石は、どうも白河藩の関係者のようだ。

 京都見廻組を率い、坂本竜馬暗殺にも関与したといわれる、会津藩士佐々木只三郎も、14才から21才まで富津市にいたそうだ。これまで、佐々木只三郎は、21才の時には富津市で沿岸警備にあたっていたことははっきりしていたというが、元読売新聞の記者河野十四生氏の調査で、それ以前から父や兄と一緒に富津にいたことがわかったという。嘉永3年(1850)に、会津藩主松平容敬が藩士激励のために富津を訪れた時、出迎えた藩士の席順を示す史料に「只三郎」の名があったというのだ(「福島民報」2008.1.30)。
 
 会津藩と富津市の関係は、実は江戸時代の初めからあった。会津松平家の初代正之と、飯野藩主正貞は義兄弟だったのである。正之は二代将軍秀忠の子どもだったのだが、母親が秀忠の側室の乳母の侍女であったため、信濃国高遠藩保科正光の養子として育てられることになった。この時に、それ以前に兄正光の養子になっていた正貞は、保科家の跡取りではなくなってしまった。正之は、寛永13年(1636)に出羽国山形藩主となり、寛永20年(1643)に会津藩主となった。一方、正貞は正之が養子となってから、諸国を放浪した末に寛永6年(1629)に3000石取りとなり(後に加増され7000石)、寛永14年に正光から家督を譲り受けている。慶安元年(1648)に大阪定番となり新たに1万石加増されて大名となった。飯野藩の成立である。保科正貞が大名になるにあたっては、会津藩主となった保科正之の嘆願があったようだ。その後飯野藩主は、大阪定番を勤めることが多かった。最後の藩主正益は若年寄にまで進み、第二次長州征伐の時には幕府軍の司令官であった。飯野藩の陣屋は、富津市下飯野にあって、日本三大陣屋の一つに数えられたそうだが、現在は堀割を残すのみとなっている。飯野陣屋跡地に建つ飯野神社や敷地内にあった三条塚古墳の写真は、『富津市の歴史PartU』を参照のこと。また、二代目の飯野藩主保科正景の墓(右下の写真)が、青木の浄信寺(左下の写真)にある。なお、会津保科家が松平姓を名のったのは三代目からであった。

     
     二代飯野藩主の墓のある浄信寺      飯野藩主二代目保科正景の墓

 君津地方の戊辰戦争については、『君津地方の歴史』で紹介したが、そこでも飯野藩と会津藩の深い関係がみてとれる。飯野藩では、官軍に抗戦した請西藩に協力した責任をとって、樋口盛秀、野間銀次郎の2名が切腹し、剣術師範の森要蔵らが脱藩して会津へ向かった。藩主保科正益は、会津藩と姻戚関係にあったことから謹慎処分を受けている。鶴ヶ城籠城戦で婦女子のリーダーとして、負傷兵の手当や食料調達などで奮闘した照姫は、飯野藩主9代目の保科正丕の三女として江戸藩邸で生まれ、10才の時に会津藩主松平容敬の養女になった人物で、会津藩最後の藩主松平容保の義理の姉にあたる。その照姫の母親であった静廣院の墓が、保科正景の立派な墓所の隣りにひっそりと建っていた。静廣院は明治3年に亡くなっているが、この時娘の照姫は飯野藩に預けられ飯野藩の江戸藩邸にいたそうだ。

     
        照姫の生母静廣院の墓             森要蔵の墓

 右上の写真は、浄信寺にある森要蔵の墓である。森要蔵の諱(「いみな」)は「景鎮」。森要蔵は、文化7(1810)年、熊本藩の江戸藩邸で生まれ、北辰一刀流で有名な千葉周作の玄武館で「四天王」と呼ばれた人物で、常陸土浦藩の剣術指南役を務めた後、飯野藩の御前試合で勝ったことを機会に飯野藩の剣術指南役として召しかかえられた。先にふれたように、戊辰戦争に際して、飯野藩と姻戚関係のある会津藩に向かう途中、白河付近で官軍(土佐藩の部隊)との交戦中に亡くなっている。亡骸は、土佐藩の部隊にいたかつての弟子川久保南鎧の手によって、白河市羽太にある大龍寺に葬られた。写真の森要蔵の墓は、明治になってから、弟子たちが飯野藩ゆかりの浄信寺に建てたものである。森要蔵の娘のふゆは要蔵の高弟であった野間好雄と結婚した。その子清治は講談社の創業者である。

 ところで、先に紹介した竹岡にある三柱神社は、『君津郡誌』によれば、祭神はその名の通り、「天太玉命」「天日鷲命」「天比理乃当ス」の三柱である。2013年1月27日に初めて撮影しに訪れてみたのだが、境内には枯れ枝が散乱(ちょと大げさかな)、鈴やしめ縄も何年も変えていないようで古ぼけていたが、鳥居や拝殿は立派だった。特に、向拝にあった龍の彫り物が見事だった。その後、伊八会の制作した写真集『波の伊八』を偶然目にする機会があって、その中に、三柱神社の龍を発見した。三柱神社の龍は、初代波の伊八の作品だったのである。波の伊八は、江戸時代、鴨川生まれの彫工で、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」にも影響を与えたのではともいわれている大変優れた彫工であった。あらためて2月23日に撮影した龍が下の写真である。

     
          三柱神社の龍               三柱神社の龍

 祭神の「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」はともに阿波の忌部氏の祖神とされていて、「天比理乃当ス(あめのひりのめのみこと)」は「天太玉命」の奥さんである。「天太玉命」は館山にある安房神社の主祭神で、「天日鷲命」や「天比理乃当ス」もあわせて祀られている。また、同じく館山にある州宮神社の主祭神が「天比理乃当ス」で、あわせて祀られている「天富命(あめのとみのみこと)」は、神武天皇の命を受けて阿波国を開拓し、続いて阿波の忌部氏を率いて安房国を開拓した神とされている。
 2014年8月、力石が2個存在するというので、その力石を撮影しようと三柱神社を訪れた。残念ながら、写真のように立ち入り禁止になっていた。写真の黄色の置物に、「危険」「立入禁止」のラベルが貼ってあった。『君津地方の力石』「富津市の力石」でもふれたが、昨年の10月(2013年)の台風被害で、裏山(百首城跡)が崩れ本殿が倒壊したからだ。

             

 実は力石の撮影ができなかっただけでなく、がっかりして車で帰ろうとしたら、轍にタイヤがはまってしまい車が動けなくなってしまったのだ。何度も脱出を試みて、アクセルをふかしてみたのだが全くダメ。途方に暮れていると、地元の方がやって来てくれて助けてくれたのだ。感謝である。

(4)あんば様について(青木)
 今年(平成20年)1月から始まった、木更津ケーブルテレビの「富津歴史の旅」では、富津市の歴史を取り上げている。2月の放送は、前項でもふれているように、青木、西川地区が舞台であった。その放送の中で、青木地区にある「あんば様」なるものを紹介していた。初めて聞く名前だったことと、テレビに映った場所が普段よく通る道の脇で、見覚えがあったことから、興味を覚えちょっと調べてみた。
 「あんば様」とは、茨城県稲敷市にある大杉神社のことで、「あんば様」信仰は、江戸時代に利根川の河川交通の発展とともに、関東地方一帯のみならず、隣接する地方にも広がったと、ケーブルテレビは伝えていた。大杉神社のホームページによれば、古代には霞ヶ浦から印旛沼、手賀沼あたりまで一つの大きな内湾だった。大杉神社のある場所は、その内湾に突き出ていて、見る方向によれば島に見え「安婆嶋」といった。そこに大きな杉の木が立っていて、内湾を船で行く人々にとって交通標識の役割を担っていた。そうした人々は、その杉の木を「あんばさま」と呼び、水運の守り神として、信仰の対象にしていたそうだ。そして、いつの頃からか神社が建立されるようになったのだろう。厄除けの神様になったのは、神護景雲元年(767)に大和国からやってきた勝道上人が病苦にあえぐ人々を救うために、大杉に祈念すると三輪明神が飛び移り病魔を退散させたという伝承が元のようだ。現在の大杉神社は、様々な御利益の中でも、日本唯一の「夢むすび」の神を売りにしている。

   
  

 右上の写真は、青木の八坂神社(右下の写真)境内にある「あんば様」である。右側に「日本唯一の夢むすび」左側に「大明神」と朱書きしてあった。かつては、この「あんば様」は、左側の写真の場所にあったと、ケーブルテレビでは伝えていた。八坂神社の境内(拝殿左側)には、「厄神社」なるものが存在していた。きっと、「厄神社」(左下の写真)があったので、その右隣りに厄除けの神様でもあった「あんば様」が移されたのであろう。

     

 八坂神社の狛犬が、なかなかユニークであった。なんと、ねじりはちまきをしていたのである。天保の時代に建てられた狛犬である。