(1)関の姥石について(関、関尻) 左上のバス停は、富津市から鴨川にぬける道沿い、富津市関にある。この場所の小字が、「姥石」だからだ。「姥石」は、地元では「ばあいし」と呼んでいるそうだ。なぜ「姥石」なのだろうかと思い、『富津市史』を調べてみたら、ここを流れる湊川のわきに、「せきのばあいし」と呼ばれる八角形の形をした巨石(右の写真)があるからだという。「関の姥石」は、高さ1.2メートル、周囲は約8.5メートル、外径2.4メートルもある石である。上の面には、中心に径が約70センチの窪みがあった。その窪みに、小さな石が置かれている。とにかく、不思議な石である。きっと何かいわれ話があるだろうと、さらに、『富津市史』で民話を読み進めると、「姥石の話」があった。以下、要約して紹介してみる。 むかしこの地に、大きな姥が住んでいた。その姥は、猿に木の実を集めさせて、大きな石臼で粉にして、木の実団子を食べていた。・・・(中略)・・・ある日、猿を相手にすることにあきて、話し相手になる大男を求めて旅に出ることにした。その時、ふところに入れておいた石臼を落としてしまった。この姥の大きさは、大股であるくと、片方の足が関で、もう片方の足は吉野というくらいだったそうだ。姥が落としていった石臼が、「関の姥石」だという話である。 筆者は、村境にあることで、隣の関尻にある「関尻の大わらじ」(下の写真)を連想し、村に災いが入らないようにするための石造物ではないかと考えていたのだが、どうも違うらしい。『君津郡誌』に地元に残る伝承として、次のような話が載っていた。巨石はもう一つ相対する形で存在していて、関門の礎石であった。後の人々が往来の妨げになるので一つの石を撤去した。その後、村内で凶事が起こったので、撤去した石の代わりに残っている巨石の窪みに代石を置いた。そして、「石凝姥命」を祀って、姥神様と称したというのだ。関という地名は、かつてこの地に「関」があったことに由来するとも出ていた。『富津市史』では、『君津郡誌』の伝承を歴史的に考察し、この地は、上総国から安房国へぬける道沿いにあたる交通の要衝で、近くには「峰上城」(『富津市の歴史』「富津市の中世城跡」参照)もあった。おそらく、中世に何らかの防禦的建造物があって、その礎石ではないかと推定している。 ちなみに、『Wikipedia』などによると、「石凝姥命」(「イシコリドメノミコト」あるいは「いしごおりのうばのみこと」と読む)とは、神話の中でも特に有名な天岩戸事件で、重要な役割を果たした神であった。三種の神器のひとつ八咫鏡を作った神であり、天孫降臨の時に、天宇受売命らとともに、邇邇芸命に同行してもいる。「姥」つながりで「石凝姥命」を祀ったというが、「石凝姥命」は作鏡連の祖神だとされていたり、鋳物や金属加工の神として信仰されているという。そして、「石凝姥命」には、「櫛石窓神」や「豊石窓神」の別名があるそうだ。おかしいと思い、『八百万の神々』でさらに調べてみると、「石凝姥命」は、確かに天岩戸事件の時に八咫鏡を作ってはいるが、巨石とか境界の神ではなかった。しかし、別の頁で、「櫛石窓神」や「豊石窓神」と同一神として「天石門別神」という神が紹介されていた。この「天石門別神」は、巨石信仰と結びついている神で、山の神、石の神、門の神、境界を司る神として信仰されている神だといい、この神が邇邇芸命の天孫降臨の時に他の神々とともに随行しているのである。関の人々が、姥石を「石凝姥命」として祀り、姥神様と称した理由が理解できた。単純に、「石」そして「姥」という共通の語句だけで祀った訳ではなかったのである。関の人々にとって関の姥石は、関尻の大わらじと同じ性格を持っていたのである。 関尻の大わらじ 「姥神様」といえば、『久留里歴史散歩』の「浅間山にて」で紹介している、久留里中学校の裏山にあった「姥神社」は祭神が「志那都比古命」で、風の神あるいは子どもを守る神だった。「関=咳→風邪」と考えれば共通点もあるが、関の姥石の祭神は「石凝姥命」であり、久留里の浅間山とは全く違っている。関の「姥神様」は、きっと関尻の大わらじと同じように、村境にあって禍が村内に入ってくるのを防ぐ役割だけを担っていたのだろうとかってに想像していたら、『房総に伝わる話』というサイトで「関の姥石」の話が紹介されていた。それによると、久留里の「姥神様」と同じように、「関」転じて「咳」となり、いつのころからか「咳の姥石」として、咳の治癒を願って供物を供えることも行われているとあった。また、この石の窪みあたりをさわると火事が起こるといわれていることも出ていた。さらに、この「関の姥石」のことを民俗学者の柳田国男が、『日本の伝説』『史料としての伝説』『女性と民間信仰』という本で取り上げているともあった。ぜひ、読んでみなくてはと思った。なお、『房総に伝わる話』の「関の姥石」の話は、君津地方の郷土史家菱田忠義氏の書いた文章をそのまま載せたものだ。 ところで、姥神社といえば、『君津郡誌』に、「姥神社 同町(佐貫町)花ヶ谷字姥神にあり祭神は志那都比古命、志那都比賣命なり境内三十坪丘阜の中腹にあり樹木蓊蔚として社地を蔽ふ創建年月詳ならず祭典は十月廿三日に行わる」とあったのだが、それらしき神社は見つけられなかった。道標や庚申塔のあった花香谷青年館のある場所が、『君津郡誌』の記述にあてはまることや、青年館の入り口に鳥居があったので、きっとそこが姥神社なのだろう。『富津市史 史料集二』に、花香谷姥神社の所在地は、「花香谷443」とあった。住所から考えても、姥神社は青年館の場所だと考えられる。 |
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(2)寺尾の河童の話(寺尾、不入斗、高溝) 富津市寺尾には、「河童のくれた証文」という話が伝わっている。以下、『富津市史』から要約して、紹介しよう。 むかし、寺尾の六所神社近くの大きな淵に、河童が住んでいた。ある時、川を渡っていた馬をかじろうとして、逆に馬方に捕まってしまった。馬方は河童を殺そうとしたが、河童が「もういたずらはしません。今度あったときに証文をわたす」と命乞いをする河童がかわいそうになり、逃がしてやった。数日後、馬方が川を渡っていると、河童が出てきて「この間は許してもらってありがとう。これがあの時約束した証文だ」と言って、石棒を差し出した。これ以後、河童はいたずらしなくなり、その河童がくれた証文の石棒は、今も六所神社のそばにあるという。 『富津市史』を読んで、寺尾の六所神社に、この話に出て来る石棒があるかもと思い出かけてみた。残念ながら石棒は見つからなかったが、六所神社そのものが面白い構造の神社だった。まず名称が六所神社ではなく、「六所大明神」であった。左上の写真を見てわかるように、鳥居の先には横に長い講堂のような建物があった。山門とはあきらかに違っている。拝殿として使っているようだが、通常の拝殿にしてはあまりにも横に長い。不思議な建物である。本来の用途は、別にあったのではないだろうか。右上の写真は、拝殿の中にあった古い御輿である。本殿はさらに一段高いところにあった(左下の写真)。 『富津市史』には、六所大明神の北西標高70mほどの地点に、縄文時代の「上之台遺跡」という遺跡が載っていた。縄文早期から晩期にかけての遺跡だそうで、多くの土器片とともに、石器類も発見されている。その中に石棒もあった。河童伝説に関係する石棒なのかもしれない。また、この遺跡は君津市の「三直貝塚」と同じように、縄文時代の土木工事を思わせる遺跡でもあるようだ。北側の斜面を掘削した土砂が、台地の南側に規模の小さな壁となっていたという。 右上の写真は、いく柱かの神様とともに、本殿の右奥に祀られていた「金刀毘羅宮」である。「金比羅宮」については、『久留里歴史散歩』や『君津市周南の歴史』でもふれたが、小櫃川や小糸川の河川交通の関係者が祀ったものだと考えられる。六所神社の「金刀毘羅宮」も湊川の川舟関係者が祀ったものだろう。ひょっとしたら、神社の近くに河岸があったのかもしれない。 ところで、寺尾周辺には六所神社があと2ヶ所あった。天神山地区の不入斗(左下)と環地区の高溝(右下)の六所神社である。高溝の六所神社の狛犬の表情が面白かった。写真を見てもわかるように、大変あいきょうのある表情だ。特に左側の狛犬の表情が、何ともユーモラスな雰囲気で、なぜかモアイ像を連想してしまった。 『君津郡誌』によると、それぞれの六所神社の祭神は以下の通りである。 寺尾・・・・大巳貴命、伊弉冊尊、素盞鳴尊、瓊々杵尊、布留魂命、大宮比賣命 不入斗・・伊弉諾尊、伊弉冊尊、大巳貴命、瓊々杵尊、天宇受賣命、思兼命 高溝・・・・伊弉諾尊、伊弉冊尊、大巳貴命、天宇受賣命、瓊々杵尊、思兼命 祭神を見てみると、不入斗と高溝の六所神社は全く同じ神であった。寺尾の六所大明神は、伊弉諾尊の代わりに素盞鳴尊が祀られているが、いずれも6柱の神が祀られている。「六所」の名のいわれは、6柱の神が祀られているということであろう。木更津市下郡に「十二所神社」という神社があったが、その名の通り、十二人の女官を祀った神社であった(『君津市の歴史』「大友皇子伝説について」参照)。祭神は、藤原鎌足の娘で、大友皇子の奥さんであった耳面刀自である。Wikipediaで「六所神社」を調べてみたら、「社名は六柱の神を祭神とすることによるものである」とあった。推察は正しかったのである。しかし、六所神社が地域の総社の場合は、別の意味合いもあるようだ。 |
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(3)本郷の弁財天について(本郷、富津) 2007年12月のある日に、本郷にある道標を撮影に出かけた。2、3年前に行ったことがあったので、地図で確認もせずに出発したのだが、それが失敗の元だった。本郷の集会場から東に入ってしばらく進むと、道が二叉に分かれていた。何も考えずに右側の道を行くと、堰が見えてきて、車が行ける道はそこまでであった。道標までの道は左だったのだ。しかし、車を回そうと思って周囲を見ると、堰の中に小さな社が見えた。車から降りて、あらためて周囲を眺めてみると、不思議な気分になってきた。山しかないと思っていた場所に、結構広い堰と弁財天があって、違う世界に来たような気がしたからだ。しかも、その弁財天の狛犬が変わっていた。少なくとも、筆者は初めて見る狛犬だったのである。写真で見てわかるように、小さな狛犬が、溶岩を積み上げた「山」の上に鎮座していたのだ。残念ながら、『君津郡誌』や『富津市史 史料集二』に記述がなく、いわれ等は全くわからない。地元の人のツテを頼って、聞いてみるしか方法はないようである。後で調べると、狛犬の乗っている「山」は「獅子山」というらしい。ちなみに、道標の撮影は無事終了して、その成果は『君津地方の歴史PartX』「富津市の道標について」に載せてあるので、ぜひご覧下さい。 弁財天の狛犬と鳥居 弁財天 左側の狛犬 右側の狛犬 富津市の住宅地図で住所を確認すると、この弁財天は本郷の中にある「前久保」であった。「前久保」は本郷の北隣の地区である。何と弁財天のある場所は、飛び地だったのである。かってに想像するに、きっとこの堰を開鑿したのは、「前久保」の人だったのかもしれない。 「獅子山」はめずらしいものではなかったようだ。『富津市の歴史 PartX』の「富津市と会津藩」に掲載するために、富津市の西川地区や富津地区を回って寺社の写真を撮っていて気づいた。ただ筆者が知らなかっただけだったのだ。それにしても、貴布祢神社の周辺は鳥居だらけであった。特に、御嶽神社には、お稲荷さんもあったし、お不動さんもあった。「九頭竜大権現」なるものもあった。そして、それぞれに立派な鳥居が建っているのである。「何か雰囲気が違う」といった感覚にとらわれるかも。 富津市富津にある貴布祢神社の狛犬 富津市富津にある八坂神社の狛犬 |
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(4)笹毛の波切不動尊について(笹毛、亀田、富津、小久保) 以前に、君津市亀山の不動明王と滝の関係を調べたことがあった(『君津地方の歴史PartX』「亀山神社と滝と不動明王について」参照)が、調べていくうちに、日本中に「波切不動」なるものが存在していることがわかった。例えば、岩手県陸前高田市にある曹洞宗の寺院、海岸山普門寺にも、「波切不動伝説」があった。千葉県では、外房に「波切不動」と呼ばれる不動尊があちこちに存在していた。さらに、朝日新聞のインターネットサイト千葉県版にある、『房総の伝説民話紀行』の昨年(2007)12月11日の記事「波切不動」(現在はこの記事は削除されている)で、山武市成東にある成東山不動院長勝寺を紹介していた。そこで、「波切不動」についてさらにインターネットで調べてみると、どうも弘法大師の伝説がもとにあるようだ。高野山にある浪切不動尊(高野山真言宗 別格総本山 浪切不動尊別當 南院)のホームページなどをのぞくと、以下のような伝説があった。ちなみに、高野山の南院は、「波切不動尊」ではなく「浪切不動尊」と書く。 空海(弘法大師)が唐から帰ってくる時に、乗っていた船が難破しそうになった。そこで、空海が師の恵果和尚からもらった霊木を、自ら彫った不動明王を一心に拝むと、その不動明王が火焔を発し、右手に持つ剣で波を切り裂いた。そのおかげで、船は無事帰国することができた。 山武市の「波切不動尊」の話は、江戸時代の話である。 嵐で遭難しかけた漁師たちが「南無大聖不動明王」と唱えると波間に火がともり、それを目指して船をこいだら海岸に着いた。漁師たちを導いた火は、成東山長勝寺の常夜灯だった。それ以来、長勝寺は「波切不動尊」と呼ばれるようになった。 この話は南院の伝説とは違っているが、不動明王にすがって助かったという点では同じである。さすが、大日如来の「教令輪身」として、仏法に従わない者まで力ずくで救ってしまう不動明王である。 さて、先日地域の地図を別の目的で見ていたら、佐貫地区の笹毛というところに「波切不動尊」があるではないか。「波切不動尊」は、「外房」という先入観があったのでびっくりした。すぐに、『君津郡誌』で確かめると、笹毛の慈眼寺の説明の中に「不動堂」「不動明王」「波切山」を発見した。そこには、「境外に不動堂あり不動明王を安置す波切山と號す天正二年の開基にして明治三十九年四月再建すと云う(原文のまま)」とあった。さっそく休日をまって撮影に出かけた。左下の写真が慈眼寺、そして、右下の写真が波切不動尊である。波切不動尊の西側は崖になっていて、すぐ下は海で浦賀水道が見わたせた。 撮影の帰り、地元の方に話を聞くと、いわれなどはよくわからないが、『君津郡誌』にあった不動堂は「波切不動尊」といい、その「波切不動尊」は、線路の向こうの慈眼寺の支配だと教えてくれた。きっと、航海や漁の安全のために建立したものであろう。 さらに、インターネットで検索していたら、『歴史の足跡』というサイトがあって、亀田にある安国寺を紹介していた。そこの不動堂に安置されている不動明王が、「波切不動」と呼ばれていると出ていた。「波切不動」は、笹毛だけではなかったのである。安国寺の不動明王は、何と市の指定文化財でもあった。さっそく、撮影に出かけた。左下の写真が安国寺で、右下の写真が不動堂である。 ちなみにインターネットで「波切不動」で検索してみると、千葉県内では、流山市、銚子市、千葉市、いすみ市、鴨川市に、「波切不動」が存在していることがわかる。最初の数ページでしか確認していないので、実際はもっとあるのかもしれない。情報があったら、ぜひ教えてください。 また、お寺だけでなく、三重県志摩市、和歌山県太地町、宮崎県日南市、大阪府岸和田市には、波切(浪切)神社も存在していた。これらは、明治の廃仏毀釈の折りに、不動尊が神社として残ったものであろう。その中で、大阪府岸和田市の浪切神社は、あの有名な岸和田だんじり祭の安全祈願が催される神社であった(『Wikipedia』「波切神社」より)。 富津市富津にも浪切不動があった。貴布祢神社、浅間神社、御嶽神社の撮影に行って、偶然見つけた。不動明王の後ろに「昭和五年一月一日新調」と彫ってあった。さすが、漁師の町富津である。 先日法事があって(2013.3.30)、真福寺を訪ねた。『富津市の歴史PartV』「真福寺の筆子塚と絹本著色清涼殿八宗論図」で紹介した寺だ。開始時間まで本堂で待っていると、「波切り不動尊大改修芳名額」が目にとまった。何と我が家の墓地のある真福寺にも「波切り不動」が安置されていたのだ。大貫も漁師町だったのだ。法事の後に住職に話を伺うと、「創建当時からあったのではないか」ということだった。また、「漁に出ていた時にお不動さんが現れて、自分の家が火事だと教えてくれたということがあって、それ以来亡くなるまで、この不動さんを信仰していた漁師さんもいた」とも話してくれた。 |
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(5)上の龍岳神社について(上) 前々から近くを通るたびに、鳥居(左下の写真)や灯籠が見えていて、その立派さが気になっていた神社である。先日、吉野地区の房総往還を歩くついでに、撮影に行ってみた。 近くまで行くと、記念碑(右上の写真)が立っていて、そこには「浅間神社(右) 龍岳神社(中) 御嶽神社(左)」と彫り込まれていた。地元の工務店が建てたものであった。 鳥居をくぐり石段を登って行くとと、社殿(左上の写真)が見える。これが、龍岳神社だと思う。名前の由来は、『君津郡誌』によると、以下の通りである。 同村(吉野村)上に丘阜高く古木大樹欝々蒼々として耕地に突出せるあり其頂に龜ヶ井と稱する池あり古來龍神の棲みし所なりと傅へ之を龍岳と云ふ本社はこゝに鎮座す祭神は日本武尊素盞鳴尊大山咋命なり境内五十五坪近く吉野の扶野を瞰下し遠く富岳を望む起原沿革詳ならず例祭は十一月三日に行はる明治十四年二月同大字の八幡神社を本社に合併す(原文のまま抜粋) 社殿の右側に小さな社があった。それが、明治14年に合併された八幡神社なのではないだろうか。浅間神社と御嶽神社はどこにあるのかと思い、ぐるっと辺りを見回すと、社殿の右側に山道があった。浅間神社は山の頂上にあることが多いので、きっとその山道を行けばあるだろうと登ってみた。すると、頂上に着くと、「磐長姫命」と彫られた碑(右上の写真)があり、その反対側に、人工的な「山」が築かれていていた。そこに、様々な石造物があった。 左上の写真は、「山」のメインとなる二つの碑で、右側の碑には「彦穂邇々藝命(右) 木花開耶姫命(中) 大山祇命(左)」と彫られていた。これが、浅間神社である。左側の碑には「大巳貴命(右) 國常立尊(中) 少彦名命(左)」と彫られていた。おそらく、これが御嶽神社のことだろうと思う。ちょっと不安だったので、御岳信仰について調べてみると、木曽の御嶽山に対する信仰が江戸時代に広がっていることがわかった。実際に木曽の御嶽山にある「御嶽奥社」や「御嶽里宮」の祭神は、上の御嶽神社と同じで、「国常立尊、大己貴命、少彦名命」であった。ちなみに、御嶽信仰とは、御嶽山を死後の魂が落ち着く場所だという信仰だそうだ。右上の写真は、御嶽神社だと思われる碑の左前にあった石造物で、表面に不動明王が彫られていて、「滝不動」と刻銘されていた。そういえば、富津市西川の八坂大神八幡神社境内にあった「御嶽神社」にも、不動明王の碑があったように記憶している。 『君津郡誌』には、龍岳神社は「無格社」とあったが、多くの神々が祀られていて面白い神社であった(なお、この項で登場する神々については、『本サイトに登場する神々』参照のこと、「磐長姫命」と「邇々藝命」の関係など、これまた、面白いことが一杯のはず)。 |
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