本サイトに登場する神々

                                                                                                            

 地域の歴史を調べていると、どうしても神社仏閣にいきあたる。人は、ことを成そうとする時や追い詰められた時は、必ずと言っていいほど、神話の世界で活躍する神々や、仏にすがってきた。神話、それ自体は人為的なものである。しかし、そこには、幾ばくかの真実があり、時々の権力者たちも魅力を感じる世界があった。権力者たちは、物語そのものの展開に価値を見いだし都合のいいように脚色・編集して自己の正当性を主張しようとしてきた。しかし、一般の庶民は、そこから直接恩恵を得ようとした。つまり、神話の世界で生まれた神々の逸話から、あるいは、逸話そのものを新しく作り出すことにより、そこから現世利益を求めたのである。子供の「風邪」を治すのために、風の神「志那都比古命」を祀る人々の気持ちを誰が否定できようか。地域に残る多くの神社・仏閣は、そうした庶民の現実的な心情を背景に存続していると考えていいのではないだろうか。そのような視点で神話や地域の歴史をながめてみると、また違った歴史が見えてくるだろう。
 なお、以下に登場する神々の名前の最後が、「神」であったり「命」や「尊」であったりとばらばらである。特に、意識して区別したわけではない。「神」の場合は神格された扱いで、「命」の場合は人格として扱っていると言うが、庶民にとってはまさにどちらでもいいことなのだ。
 本ページを作成するにあたっては、『八百万の神々』『八百万の神々』(名前は同じでも違うサイト)、『畝源三郎のホームページ』、『Wikipedia』など多くのサイト、また、文献を参考にした。感謝!ほとんどつまみ食いのようなもので、『記紀神話』については、全体を把握しないまま作成してしまった。おそらく、多くの間違いがあるのではと思う。間違いを見つけたらぜひ、ご指摘をお願いします。
    

伊邪那岐神
伊邪那美神
恵比寿様

少彦名命
 日本の国土や多くの神を産んだ神である。伊邪那美神は、火の神である「火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)」を産んだことで亡くなってしまう。亡き妻を忘れられない伊邪那岐神は、黄泉の国を訪ねた。そこで、約束を破って醜い妻の姿を見てしまった。伊邪那岐神は一目散に黄泉の国を逃げ出し、日向の国の阿波岐原でみそぎをすると、三貴神(天照大神、月読命、須佐之男命)をはじめ多くの神が生まれたという。
 なお、伊邪那岐神・伊邪那美神の間に最初に生まれた子供(3番目の子とも)は「蛭子」といい、骨のない子だったので、海に流してしまった(記紀神話ではここまで)。しかし西宮神社の伝説によると、「蛭子」は、現在の西宮市付近の住民に助けられ、なんとか成人し、七福神で唯一日本生まれの神様で、商業を中心とした諸産業繁栄の神である恵比寿様になったそうだ。この他に、大国主の子「事代主神」が恵比寿様だとして祀る神社もある。東京都渋谷区にある恵比寿神社もその一つである。といっても、この神社、事代主神を祀り社名を恵比寿神社としたのは昭和34年で、元は「天津神社」といった。駅名やエビスビールにあやかって社名を変更したということだ。神田明神のサイトには、祭神の「少彦名命(すくなひこのみこと)」が恵比寿様だとしていた。少彦名命とは、大国主命を手伝って国造りを行った小さい神で、一寸法師などのモデルとなったと言われる。

天照大御神
 太陽神で、皇祖神とされる。古事記では『天照大御神』、『日本書紀』では、「天照大神」と表記される。伊邪那岐神の指示で、天照大御神は高天原を、月読命は夜を、須佐之男命は海を治めることになった。海から追放され高天原にやってきた須佐之男命の乱暴狼藉に耐えかねて、天照大御神が怒って天岩戸に隠れてしまった話は有名である。伊勢神宮をはじめ神明社など、天照大御神を祀る神社は、全国に18000社も存在しているという。

丹生明神
稚日女尊
 丹生都比売(にぶつひめ)大神のことで、記紀神話には登場しない神である。『久留里歴史散歩』で引用した『丹生都比売伝承』では、中国の呉の王女だとしている。また、同サイトの「丹生都比売神社」の説明には、天照大御神の妹にあたり、別名を稚日女尊(わかひるめのみこと)ともいい、織物の祖神で、子の高野明神と共に大和地方を巡歴し農耕殖産を教え、応神天皇の時に紀ノ川以南の地が神領として与えられたとあった。そういえば、須佐之男命の乱暴狼藉の被害にあって亡くなったのは、この稚日女尊だったような。

木花之佐久夜毘売命
 「このはなさくやひめのみこと」と読む。大山津見神の娘で、邇邇芸命の妃、海幸彦と山幸彦の母、そして、神武天皇の曾祖母である。たいそうな美人であったらしい。
 近世に富士山の神とされ、日本全国の浅間神社で祀られている。『日本書紀』では、「木花開耶姫」とあるそうだ。

大山津見神
 「おおやまつみのかみ」と読む。『日本書紀』では、「大山祇神」。日本全国の山を管理する神で、伊邪那岐神・伊邪那美神の子で、木花之佐久夜毘売命の父である。天照大御神の兄にあたる。大山津見神を祀る神社は全国に10,000社もあり、その中心は、瀬戸内海の大三島にある大山祇神社である。木花之佐久夜毘売命とともに、酒造業者の間で信仰を集めてもいる。この他、大三島の大山祇神社が、中世、瀬戸内海の水軍の信仰を集めていたことから、武門の神ともなった。

須佐之男神
 伊邪那岐神・伊邪那美神の子で、父伊邪那岐神に海を治めるように命じられたが、亡き母伊邪那美神のいる根の国に行きたいと泣き暮らし、父の怒りをかったり、乱暴狼藉をはたらき高天原を追放された神である。非常に人間的な神である。追放され降り立った出雲の地で八俣の大蛇を退治する話や、根の国にやってきた大己貴神(「おおなむちのかみ」と読む。後の大国主神)に多くの試練を課し、それをくぐり抜けた大己貴神に、「国の主となり、娘の須佐理姫を妃とし、大きな宮殿を造って住め」と言った話はおもしろい。八俣の大蛇を退治した時に、大蛇の犠牲となる予定だった櫛名田比売と結婚している。「(建速)素戔嗚尊」ともいう。その力強さから軍神としてあがめられるとともに、稲田の守護神櫛名田比売(くしなだひめ)とともに、農業神としても信仰をあつめている。

大国主神
大己貴神
大物主神
大黒様
 大国主神とは、言わずと知れた出雲大社の祭神である。須佐之男命の6世(5世とも)の孫とも子だともいい、「大己貴神(おおなむちのかみ)」など多くの名前を持つ。因幡の白兎の話や、国譲りの話は有名である。大物主神は、大国主神の別霊だそうで、同一人物(同一神ですよね)である。なんでも、大国主神が国造りの途中、共に作業をしていた神がいなくなり困っていると、海の向こうから助けに来て「私はあなたの別霊だ」と言ったという。後に、大物主神は、奈良の三輪山の神となった。
 ところで、七福神の大黒様は、インドから中国経由でやってきた神であるが、日本に入ってきた時に、大国主信仰と結びついて、大国主神=大黒様という考え方が生まれたようだ。音が「だいこく」で同じことも、一緒になった理由のひとつなのだろう。

志那都比古命
志那都比売命
 「しなつひこのみこと」と読む。伊邪那岐神・伊邪那美神が11番目に産んだ神で、伊邪那美神の吹き出す息から生まれたことから風の神とされた。音が同じことから「風邪」を直す神に、そして、子供がよく「風邪」をひくことから「子供」の健康を祈る神になったのだと思う。本来は、ただの「風」との関係から、農業、航海安全、豊漁の神とされる。
 『君津郡誌』によると、富津市花香谷の姥神社の祭神は、志那都比古命と志那都比賣命とあった。「志那都比賣命」は初めて目にした神なので調べてみると、日本書紀では、「級長津彦命」あるいは「級長戸辺命」(しなとべのみこと)と表記され、「級長戸辺」は女神として扱われることもあるそうだ。つまり、志那都比古命と志那都比賣命は、同じ神だったのである。しかし、元々は男女一対の神だったとして、富津市花香谷の姥神社がそうであるように、神社によっては別々の神として祀ることもあるそうだ。

火産霊命
 「ほむすびのみこと」と読む。伊邪那岐神・伊邪那美神の間に生まれた神で、「火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)」とも言った。炎を身にまとっていたために伊邪那美神はやけどを負い死んでしまい、怒った伊邪那岐神によって殺されてしまうかわいそうな神である。しかし、伊邪那岐神に切られた時に、多くの神も生まれている。名前の通り火の神で、破壊と生成という相反する力を象徴しているようだ。このため、陶芸の神としてもあがめられているようだ。火産霊命を祭神とする神社は、愛宕神社や秋葉神社であることが多い。どうも、修験道が関係しているらしい。

天宇受売神
猿田彦神
 天宇受売神は、「あめのうずめのかみ」と読む。天照大御神が須佐之男神の乱暴狼藉に耐えかねて天岩戸に隠れてしまった時に、岩戸の前で面白い踊りをおどった神である。天孫光臨の時に邇邇芸神のお供として同行し、道案内をしようとしていた猿田彦神に会い後に結婚した。猿田彦神は、高い鼻と赤く輝く目を持ち、身長は2m以上もあったことから、天狗の神様とも言われている。邇邇芸神の道案内ということから、猿田彦神は道の神、あるいは境の神ともなった。また、境の神ということから、妻の天宇受売神とともに、村境などに置かれる道祖神ともなった。さらに、天宇受売神の子孫が「猿女の君」と呼ばれ、宮中で楽を奏し舞う仕事をしていたことから、先祖の天宇受売神が芸能の神として祀られるようになったという。
十一
邇邇芸命
磐長姫命
 「ににぎのみこと」と読む。天照大御神の孫である。大国主神から地上を譲り受けた天照大御神の指示で、いわゆる三種の神器(剣、勾玉、鏡)やお供の神々とともに、高千穂の峰に下った神である。降りた地は、宮崎県とも鹿児島県とも言われている。大山津見神の娘、木花之佐久夜毘売と結婚している。邇邇芸命は、「ににぎ」が稲穂が立派に成熟する様を意味していることから、農業神として信仰されている。
 ところで、大山津見神は、邇邇芸命が木花之佐久夜毘売命との結婚を申し込んできた時に、姉の「石長姫神(いわながひめのかみ)」も一緒に邇邇芸命のもとへ遣わした。しかし、「石長姫神」が醜かったことから、邇邇芸命は親元に帰してしまった。このことから、邇邇芸命の子孫である人間に、寿命が設定されるようになったという。「石長姫神」の「石」は、「永遠」を表していたのである。「石長姫神」は、「磐長姫命」ともいう。

       
 上の写真は、伊豆の大室山である。実はこの山頂に浅間神社があるのだが、その祭神は木花之佐久夜毘売ではなく磐長姫命なのである。磐長姫命を祭神とする浅間神社はめったにないとのこと。浅間神社イコール木花之佐久夜毘売という認識しかなかったので、筆者にとっては驚きの事実であった。山頂にあった案内板には、「(前略)すでに天孫の御子を懐妊されていた磐長姫は大室山山頂に萱で産屋を造らせ、中に入ると萱に火をつけさせて炎の中で火の神三柱を無事出産されたと言う。(後略)」とあった。
十二
八幡様
 八幡神、八幡菩薩ともいう。仲哀天皇の第4皇子で第15代の天皇、応神天皇のことで、誉田別尊(ほんだわけのみこと)ともいう。生まれた時に、天から8本の幡が降ってきて産室をおおったということから「八幡様」となり、さらに仏教では、「幡」は仏や菩薩の威徳を示す荘厳具であるということから「八幡菩薩」と言われるようになったとか。
 71歳で即位して、40年間も在位していた天皇で、なんと、111歳も生きたことになる。年齢についてはともかく、応神天皇は、いわゆる「倭の五王」の時代の天皇で、「倭王武の上表文」にあるように、大和朝廷が日本全国のみならず、朝鮮半島にまでその勢力を拡大していった頃の天皇である。武神となったのもうなずける。大阪市羽曳野市にある誉田山古墳は、応神天皇のものだと言われるが、
大仙古墳(伝仁徳陵)に次ぐ大きな古墳で、武神となった応神天皇に、まさに、ふさわしい墳墓と言えるであろう。
 その武神としての八幡様が一般に広まったのは、源氏の氏神とされてからである。源義家は、石清水八幡の社前で元服し、自ら「八幡太郎義家」と名乗り、源頼朝は、幕府を開いた鎌倉の現在地に鶴岡八幡宮を造っている。鎌倉最初の八幡宮は、源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り源氏の氏神として由比ケ浜辺に祀ったのが始めだという。八幡信仰が一般に広まるようになると、武神から病気平癒や治水などの様々な神性が付け加えられるようになったようだ。
 九州にある宇佐八幡宮が、全国に40600余社もある八幡様の総本社である。もともとは、宇佐の地方神であったようだ。
十三
保食命
 伊邪那岐神と伊邪那美神の子の一人で、「うけもちのみこと」と読む。食物の起源となった神である。そのいわれは、『日本書紀』によると次の通りである。三貴神の一人月読神をもてなすのに、自分の口からご飯や魚、獣を出し、机の上に盛りつけたのだが、「口から出した汚いものを食べさせるのか」と怒った月読神に斬り殺されてしまったかわいそうな神である。しかし、その時に、保食命の体から五穀や家畜が次々に生まれたというのである。また、この時に、天照大御神が、保食命の口に繭を入れて糸をを引き出したことから、養蚕が生まれたともいう。
 上記の月読神と保食命の逸話は、『古事記』では、須佐乃袁尊と大宜都比売(おおげつひめ)の説話となっていることから、大宜都比売と同一視されたり、同じ食物神である宇迦之御魂神(後述)とも同一視され、稲荷神社に祀られることもあるそうだ。大宜都比売も伊邪那岐神と伊邪那美神の間に生まれた神である。
十四
建御名方命
 「たけみなかたのみこと」と読み、諏訪大社の祭神である。神話では大国主神の子だとされ、大国主の国譲りの時に、最後までこれに抵抗したが、建御雷之男神に力比べで負けてしまい、ついには出雲の地を追われ、信濃国諏訪湖畔に落ち延びた。その地で、国津洩矢神(くにつもれやのかみ)と戦い勝利したことになっている。しかし、本来は諏訪地方の地方神だったらしい。地方の神が神話に取り入れられていることを考えると、「阿久留王伝説」と同様に、大和政権の諏訪地方侵出をうかがわせる話の1つである。古くは、狩猟の神として信仰を集めていたが、平安時代に坂上田村麻呂の東征を守護するなど、武神として知られるようになり、武士の世の中となった鎌倉時代に全国的に広まったそうだ。また、風の神としても有名で、風を治めるということから、農業を見守る神ともなっているそうだ。
十五
稚産霊命
 「わくむすびのみこと」と読む。古事記では、父に殺されてしまった火之迦具土神が、日本書紀では、土の神である埴山姫神(はにやまひめのかみ)と結婚して、生まれた子どもが稚産霊命だとされている。稚産霊神の頭から蚕と桑が、へそから五穀が生まれたということから、五穀や養蚕の神として信仰を集めているという。
十六
倉稲魂命
 「くらいなたまのみこと」と読む。お稲荷様のことで、「宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)」あるいは「豊受姫神(とようけひめのかみ)」ともいうらしい。須佐之男神と神大市比売神(大山津見神の娘)の子供である。お稲荷様は、商工業の神様として信仰を集めているが、本来は農業の神である。元々は、京都の豪族秦氏の氏神だったのだが、空海が東寺を建設する時に、秦氏が協力したことから、稲荷神が東寺の守護神として祀られるようになった。こうして、真言宗と結びついたことで、仏教的な現世利益の考え方とも相まって広く庶民に浸透していった。特に、商工業の発達した江戸時代に、稲荷信仰は飛躍的に広まったようだ。
 ところで、お稲荷さんにつきものの狐であるが、これは、稲荷神の使いとされている霊獣で、忙しい稲荷神に変わって人々を助けてくれる大変ありがたい存在である。にもかかわらず、狐というと、人をだましたり、人に取り憑くといったマイナスのイメージがある。これはどうも、中国の狐に対する考え方に影響されているようだ。
十七
大山咋命
 「おおやまくいのみこと」と読む。須佐之男命の孫、大山津見神の曾孫である。本来は日枝山(比叡山)に宿る山の神であったが、この地に、最澄が延暦寺を建立してから、延暦寺の守護神ともなった。天台宗の発展とともに、大山咋命に対する信仰も各地に広がり、山の神から、倉稲魂命と同様に仏教的な現世利益の考え方から、農業、商業など様々な産業の守護神となっていった。全国の日吉神社や日枝神社に勧進されている。なお、この神の使いは猿のようだ。古事記では「山末之大主神」だそうだ。
十八
中筒男命
底筒男命
上筒男命
 「なかつつのおのみこと」と読む。底筒男命、上筒男命とともに、伊邪那岐神が黄泉の国から帰り禊ぎをした時に生まれた神である。三神合わせて「住吉の神(すえのえのかみ)」といい、住吉神社の祭神であり、海上の守護神である。応神天皇の母である神功皇后が朝鮮に遠征した時に、この三神が皇后にのりうつり遠征を成功させたことで有名だそうだ。また、外交の神、和歌の神でもある。日本書紀では「中筒男命」、古事記では「中筒之男命」となっているそうだ。
十九
聖神
大年神
 大阪府和泉市に、聖神社という神社がある。当然、社伝によると主神は聖神である。「日知り」の神。つまり、暦の神である。朝鮮半島からの渡来した氏族の流れをくむ、陰陽師が信仰していた神だという。大山咋命とは異母兄弟にあたり、聖神も、須佐之男命の孫、大山津見神の曾孫にあたる。父の穀神である大年神は、年末に各家庭をまわり福をもたらす神で、お稲荷様である「宇迦之御魂神」の兄にあたる。
 ネットにより「聖神社」で検索すると、他にも聖神社は存在していた。しかし、主となる祭神は必ずしも「聖神」というわけではなかった。例えば、鳥取市の聖神社の祭神は、「邇邇芸命」「日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)」「事代主命(ことしろぬしのみこと)」の三神であったり、秩父市や愛知県にある聖神社も祭神は違っていた。
二十
明神様
 神田明神で有名であるが、「明神様」は、「知る人は知る」「知らない人は知らない」の代表ではないだろうか。
 「明神様」とは、八幡様やお稲荷様と同様に特定の神だと思い、ネットで検索してみたが、神々を紹介するサイトにはその記述がなかった。困り果てて広辞苑で調べると、何と、「神を尊んでいう称号」「名神(みょうしん)の転」とあり、「名神」は「延喜式に定められた社格。名神祭にあずかる神々で、官国幣を奉られる大社から、年代も古く由緒も正しく、崇敬の顕著な神々を選んだもの」とあった。つまり、古くから祀られた由緒正しい神や神社のことを、一般的に「明神様」と呼ぶのだそうだ。意外と「知っている」ようで「知らない」事実ではないだろうか。
 神田明神で言えば、その祭神は、「大国主命」「少彦名命」「平将門命」の三神だということなので、この三神と、それを祀る神社そのものを「明神様」と言うのだろう。地域によっては、祭神がわからなくなってしまい、ただ単に「明神様」と呼ばれてる場所もあるようだ。
二十一
荒神様
 三宝荒神(さんぽうこうじん)のこと。竃(かまど)の神である。西日本では、屋敷神であるとも。不信心者にとっては、年に一度、正月の準備の時期に、作ったお飾りを飾る時にこの神の名を聞くのみであるが。
 荒神様は、どこの家庭にもいる有名な神で、全国各地に由来話が残されているのに、実は正体のはっきりしない神なのだそうだ。まず「三宝」は仏教でいう「仏、法、僧」だという説、そうではなくて、本来は「三方」つまり三人の神を指しているという説と、いろいろだそうだ。そして、この三人の神についてもいろいろあるそうだ。その一つの説が、大年神、奥津日子神、大戸比売神である。この考え方は、古事記の大国主神の話の後ろに出てくる、民間伝承がもとになっているらしい。さらに、三宝荒神は文殊菩薩で、心がいらだっている時に「荒神」になるとか、あるいは、不動明王なのだという説もあるという。
二十二
菊理媛命
 「くくりひめのみこと」と読む。『小櫃村誌』では「きくりひめのみこと」。サイト『八百万の神』によると、日本書紀のみにたった1度だけ出てくる神だそうだ。伊邪那岐神と伊邪那美神が、泉平坂(よもつひらさき)で口論をした時に、仲裁に入りほめられたという。あの世の伊邪那美神とこの世の伊邪那岐神の、それぞれの言葉を相手に伝え和解の手助けしたということから、あの世の言葉を聞くことができる霊媒の神とみなされているとも。この菊理媛命を祀る神社が「白山神社」で、全国に2700ほどあるという。本社は、石川県石川郡鶴来町(つるぎまち)の白山比神社(しらやまひめじんじゃ)である。白山周辺の、石川県、新潟県、愛知県、岐阜県に、末社が多いという。
 『君津地方の歴史』でもお世話になっているサイト『能登の社・寺・祠』の「白山信仰とその歴史」によると、そもそもこの地域の人々は、農民は農業に不可欠な水の供給源として、漁民は海上通行の指標として、白山そのものを神として信仰していた。それがいつのころか、白山神と菊理媛命が同一視されるようになったという。どうも、近世になってのようだが、はっきりしないらしい。
二十三
天御中主神
神皇産霊神
高皇産霊神
 「天御中主神」は、「あまのみなかぬしのかみ」と読む。「天之御中主神」ともいう。古事記で最初に出てくる神だが、古事記にはそれ以上の記述はまったくないそうだ。各地の水天宮や秩父神社の祭神である。秩父神社は、「天御中主神」を「妙見菩薩」と結びつけて祀っているが、君津の人見神社も同様に、妙見信仰と関わりのある神社である。妙見とは、天台宗の中心的な仏で、北斗七星を神とし、国土を守り、人々の福寿をかなえる菩薩のことで、もとは大陸の遊牧民の北極星に対する信仰が、古代の日本に定着したものである。当初は近畿地方の渡来人を中心に信仰されていたものが、平安時代末期には、 関東地方にも伝えられ、桓武平氏の流れをくむ千葉氏・相馬氏などの守護神となった。『久留里記』で千葉の六妙見のひとつとして、人見神社が紹介されているという。君津地方では、人見神社以外に、久留里神社や袖ヶ浦の横田神社も該当する。「神皇産霊神(かみむすびのかみ)」と「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」も、「天御中主神」と同じように古事記の最初に出てくる神である。それぞれ、「神産巣日神」「高御産巣日神」ともいう。
二十四
豊受姫大神
 「とようけひめのおおかみ」と読む。「豊受姫神」、あるいは「宇迦御魂之神」のことだと思う。つまり、「お稲荷さん」である。名前が似ていることや、同じ神格を持つことから、「豊受大神(とようけのおおかみ)」と同一視されているらしい。「豊受大神」は、前出の「稚産霊神」の娘で、食物や穀霊の神である。伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)に祀られていることで有名だ。「天照大神」の夢のお告げにしたがって、もともとは丹波国の穀物の女神であったのだが、雄略天皇が伊勢の地に祀り、伊勢信仰とともに全国に広がったという。
二十五
天神様
 言わずと知れた、菅原道真のことである。でもなぜ「天神様」なのか、これまで考えたこともなかったが、考えてみれば不思議なことである。単純に、菅原道真は、代々学者の家系に生まれ、幼少のころより詩歌をたしなみ、33歳の若さで文書博士になったことから、道真の死後、学問の神として祀られた。学問の神だから、「天神様」なのだと思い込んでいた。しかしこれでは、道真がなぜ「天神様」といわれるようになったのか、まったく説明できていない。今まで疑問に思わなかったのが不思議なくらいである。
 調べてみると、学問の神様として庶民の間に広まったのは、比較的新しく江戸時代だという。何と道真は、平安時代には、怨霊と恐れられていたのである。道真が大宰府で死んでから、都では疫病が流行ったり、日照りが続いたりと自然災害が頻発した上に、宮廷に雷が落ちて多数の死傷者が出た。こうした天変地異の原因は、不遇の死を遂げた道真が祟っているせいだと恐れ、朝廷は、天暦元年(947)に、火雷天神という地主神が祀られていた北野の地に天満宮を建立し、道真の霊を鎮めようとしたのである。火雷天神とは、天から降りてきた雷の神のことで、農耕の神であり、日本各地に同様の神を祀る天神社があった。火雷天神と道真が合体したことにより、この後、各地にあった天神社の祭神も道真とされるようになり、道真は「天神様」となったのである。なお、平安時代の終わりのころには、道真は怨霊として恐れられることはなくなり、慈悲の神、正直の神として信仰されるようになったという。下の写真は、2013年2月4日に訪れた時に撮影した北野天満宮である。雨模様の月曜午前ということで、参拝者はちらほらという感じだった。
       
 天満宮といえば、太宰府天満宮も忘れてはならない。太宰府天満宮は、北野天満宮造営の29年前の延喜19年(919)、道真の御霊を鎮めるため、道真の墓所に社殿を造営したことがはじまりである。2012年1月29日に太宰府天満宮を訪れた。さすが受験シーズンで、日曜日ということもあり、境内は下の写真のように参拝客で一杯であった。
       
二十六
摩利支天

 『富津市の歴史』「峰上城跡」でふれた「環神社」の祭神は、「摩利支天」と「天満天神」である。「天満天神」とは、先にも紹介した「菅原道真」のことであろう。特に、大阪の天満宮をさすらしい。「摩利支天」とは、インドの出身の神で、陽炎を神格化した女神である。一説によれば、3面の顔、6本あるいは8本の手を持ち、槍や弓矢を持っていたとも言う。「摩利支天経」を唱えると、人には見られることがないといい、護身、蓄財、勝利をつかさどる神であった。まさに、陽炎のごとくである。中世において、武士たちの守護神として信仰された神である。かの有名な楠木正成や前田利家は、出陣の際に、兜の中に「摩利支天像」を祀ったともいう。
二十七
天兒屋命
天太玉命


 「天兒屋命」「天太玉命」ともに、平山地区の大原神社の祭神である。
 「天兒屋命」は、「あめのこやのみこと」と読む。「天児屋根命」や「天之子八根命」ともいわれ、天照大御神が天岩戸に隠れた時に、天照大御神を讃える祝詞(ノリト)をささげた神で、「中臣氏=藤原氏」の祖神だといわれている。
 「天太玉命」は、「あめのふとだまのみこと」と読む。天岩戸に隠れた天照大御神を何とか出てくるようにさせるため、岩戸の前で卜占をして、榊に勾玉や鏡を下げ、太玉串を作って捧げた神である。そのことから、いっさいの神事やその時の用具を管理する神となった。この「天太玉命」は、『日本書紀』によれば、代々宮廷の祭事を司ってきた「忌部氏」の祖だと言われている。いずれにしても、「天兒屋命」と「天太玉命」は、ともに「天の岩戸事件」にかかわって、その解決に大きな役割を果たした神だという点で共通している神である。
二十八
石凝姥命
 「石凝姥命」は、『Wikipedia』等によると、「イシコリドメノミコト」とか「いしごおりのうばのみこと」と読む。「櫛石窓神」や「豊石窓神」という別名もあった。古事記では、「伊斯許理度売命」と表記されている。「石凝姥命」は、日本書紀の表記である。富津市関の姥石に祀られた神なので、「石」に関係すると思っていたら、作鏡連(「かがみづくりのむらじ」と読む)の祖神だった。そのいわれは、有名な天岩戸事件の時に、「石凝姥命」が3つの鏡(日像鏡と日矛鏡、そして最後に八咫鏡)を作ったからだ。「石凝姥命」は、天宇受売命らとともに邇邇芸命の天孫降臨に付き従っている。この時に、「石凝姥命」の作った3つの鏡も、天照大神の代わりとして持ってこられ、日像鏡と日矛鏡は和歌山県にある日前神宮と國懸神宮の御神体として、八咫鏡は伊勢神宮の御神体となった。八咫鏡は、三種の神器のひとつである。また、「石凝姥命」とは、「石の鋳型で鏡を鋳造する老女」という意味で、そこから、鋳物や金属加工の神として信仰されているそうだ。
 サイト『八百万の神々』では、「石凝姥神」と「櫛石窓神、豊石窓神」は別々の神として紹介されていた。「石凝姥神」は、天岩戸事件の時に三種の神器の一つである八咫鏡を作ったことから、金属加工や鍛冶の神として信仰されている。天抜戸の子どもだとあった。「櫛石窓神、豊石窓神」は、別名を「天石門別神」・「天岩間別神」・「天石戸別神」といって、天太玉命の子どもで、天上界の門を守る神であった。天孫降臨の時に、政治を行う宮殿の入り口で悪霊の進入を防がせるために、天照大神が邇邇芸命に随伴させた神である。後には、門=出入り口のみならず、境界を司る神としても信仰された。また、名前に「石」や「岩」があることから、巨石信仰とも結びついたようである。
 いずれにしても、富津市関の人々が姥石を祀った時には、「石凝姥命」の神格と「天石門別神」の神格が一緒になっていたということなのだろ。巨石である姥石を「石凝姥命」として祀り姥神様と称したのだから。
二十九
大宮比売命
思兼命

 「大宮比売命(おおみやひめのみこと)」と「思兼命(おもいかねのみこと)は、ともに天羽地区にある六所神社の祭神である。
 「思兼命」は、高皇産霊神の子どもで、知恵の神である。天岩戸事件の時に、天照大神を岩戸から誘い出す方策を考え出したことから、知恵の神として信仰されている。天孫降臨の際に、この神も邇邇芸命に付き従っている。古事記では、「思金神」とか「常世思金神」と表記されているという。
 「大宮比売命」は、市の守り神あるいは食物神として信仰されている神である。もとは、稲荷神を祀る巫女だったのだが、後に神格化されたそうだ。「石凝姥命」と同じように、天太玉命の子どもである。
三十
弁財天
宗像三女神
 七福神の一員である。弁天様ともいう。元々はインドヒンズー教の女神で、川の神であった。その神が仏教や神道に取り込まれたものである。本来は弁才天と表記されるそうだが、音が同じ「財」が当てられるようになり、財宝の神としての性格も付け加わったそうだ。
 また、神仏習合によって、海の神であった宗像三女神(奥津島比売命、市寸島比売命、多岐比売命)の市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)が弁財天と同一神だと考えられるようになったそうである。
 弁財天は財宝の神として有名であるが、その他に、美、水、農業、海、航海、知恵、戦勝、子孫繁栄、音楽・芸能など様々な分野に御利益があるそうだ。なかなかすごい神様なのである。
 宗像三女神とは、天照大神と素盞嗚尊の誓約から生まれた神で、天孫降臨の時に、天照大神から道中の安全を守るために、邇邇芸命に随行するように命じられた神である。
三十一
國之常立神
 国之常立神は、「くにのとこたちのかみ」と読む。日本書紀では、国常立尊。古事記では、日本の国土ができる過程で、最初に出現した神で、姿がなく性別もない、独神(ひとりがみ)だとされている。日本書紀では、男性だったとしているらしいが。国土ができる過程で出現したことから、国土の守護神として信仰されている。一般にはあまり馴染みのない神だが、神道の中では大変重視されているそうで、伊勢神道や吉田神道などでは、宇宙の根源神のひとつとされているという。
三十二
天太玉命
天日鷲命
天比理乃当ス
 天太玉命、天日鷲命は、ともに天岩戸に天照大御神が隠れてしまった時に、活躍した神で、天比理乃当スは、天太玉命の奥さんである。天太玉命のお父さんは、高御産巣日神だと書いてある史料もあるらしい。天太玉命は、天児屋命とともに天照大御神を引き出す策が良いのかどうかを占い、また、顔を出した天照大御神の前に鏡を差し出した神である。ということで、天太玉命は、占いや祭事の神として信仰されるようになったらしい。さらに、天孫降臨の時に、邇邇藝命にしたがっている。天日鷲命は、同じく天岩戸の前で弦楽器を奏で、穀や木綿を植えて白布を作った神である。このことから、製糸業や紡績業の神になったようである。
三十三
表津少童命
中津少童命
底津少童命
 表津少童命、中津少童命、底津少童命の三神を総称して、少童命(「少童命」は『日本書紀』の表記で、「わたつみのみこと」と読む)という。『古事記』では綿津見神と表記される。大住三神(上筒男命、中筒男命、底筒男命)と同様に、伊邪那岐神が黄泉の国から帰り禊ぎをした時に生まれた海の神である少童命を祀る神社の代表格は、福岡県大川市にある「風浪宮(ふうろうぐう)」のようだ。代々阿曇氏が祭祀を司る神社で、少童命の子である宇都志日金析命が阿曇氏の祖だという。風浪宮のホームページに、「本官は神功皇后が新羅御新征よりの帰途(西暦一九二年)軍船を筑後葦原の津(大川榎津)に寄せ給うた時、皇后の御船のあたりに白鷺が忽然として現われ、艮(東北)の方角に飛び去りました。皇后はその白鷺こそ我が勝運の道を開き給うた少童命の御化身なりとして。白鷺の止る所を尾けさせられ、其地鷺見(後の酒見)の里を聖地とし、武内大臣に命じて仮宮(年塚の宮)を営ませ、時の海上指令であった阿曇連磯良丸を斉主として少童命を祀りました」とある。
三十四
P織津比賣命
氣吹戸主命
秋速津日命
速佐良比賣命
 「P織津比賣命(せおりつひめのみこと)、「氣吹戸主命」(いぶきどぬしのみこと)、「速秋津日命」(はやあきつひのみこと)、「速佐良比賣命」(はやあきつひめのみこと)を合わせて「祓戸四神」(はらえどよんしん)とも「祓戸大神」(はらえどのおおかみ)ともいう。やはり少童命同様、伊邪那岐神と伊邪那美神の間に生まれた神で、神道において祓を司る神だそうだ。俗な言い方をすれば、厄除け・災難除けの神である。ただ、「P織津比賣命」については、龍の神・川の神でもあるという。また、天照大神と密接な関係のある神だとする説もあるらしい。
三十五
事代主神
三穂津姫命
 三直の八雲神社の境内に、事代主神社があったので、事代主神について調べてみた。古事記では「言代主神」と表記される。大国主神の子供で、いわゆる国譲りの時に登場してくる。高天原の武甕雷男神たちが大国主に国譲りを迫った時に、大国主に代わって、国を譲ることを承諾する旨を伝えた神である。承諾することを伝えたのは、美保ヶ崎というところで釣りをしていた時だという。ということで、事代主神を祀る神社で一番有名なのは,島根県美保関町の美保神社だそうだ。事代主神の娘は神武天皇の皇后になっている。託宣(神のお告げ)の神で、いつの頃からか、恵比寿様と同一視されるようになったとか。美保神社のホームページでも、「えびす様の総本宮」と紹介している。また、柏手を打った最初の神だとも紹介していた。なお、美保神社の祭神はもう1柱、大国主神の奥さんだった三穂津姫命(みほつひめのみこと)である。三穂津姫命は、高皇産霊神の娘で、高天原から稲穂を持って降りてきて、人々に食糧として配り広められた神だそうだ。「「五穀豊穣、夫婦和合、安産、子孫繁栄、歌舞音曲(音楽)」の守護神として篤く信仰」されています」と、美保神社のホームページに出ていた。