富津市の歴史
PartU


(1)「周准の珠名」のこと(二間塚)
 万葉集に、『高橋虫麻呂歌集』からとった次の歌が載っている。

              上総の末の珠名娘子を詠む一首

 しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 末の珠名は 胸別の 広けき我妹 腰細の 

 すがる娘子の その姿の きらきらしきに 花の如 笑み立てれば 珠桙の 道

 行き人は 己が行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君

 は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鍵さへ奉る 人皆の かく迷へれば 

 うちしなひ 寄りてそ妹は たはれてありける
                            
(9ー1738 『古典文学全集』小学館)
 現代語訳
 安房国につながっている周准の珠名という娘は、胸が豊かでかわいい娘。すがる蜂のように腰がくびれている娘。その美しい顔で、花のように微笑んで立っていると、道行く人は行く先を忘れ、呼ばなくても門まで来てしまう。隣の家の主人は、妻を離縁し、頼みもしないのに鍵まで渡してくる。皆が血迷うものだから、娘はいいきになって遊んでばかりいる。

 この歌からわかることは、その昔万葉の時代以前に、現在の富津市か君津市の小糸川流域のどこかに、周囲の人々を惑わすスタイル抜群の美女が住んでいたということである。富津市二間塚に存在する県下最大の前方後円墳である、
内裏塚古墳は、現在では周准の国造の墳墓と考えられている。しかし、『君津郡誌』に幾つかの文献をもとに紹介されているのだが、かつては、珠名の墓と考えられていたそうだ。『ウォーク万葉』第20号の「虫麻呂のロマン"周准郡"コース」によれば、「珠名塚」とも呼ばれ、墳丘上に「珠名姫神社」があったという。明治末年に飯野神社に合祀され、現在では、墳丘上に江戸末期に建てられた小さな「珠名冢碑(たまなちょうひ)」が残っているのみである。『富津市史』の「富

珠名冢碑
津市の歴史的環境」にも、「珠名塚」の伝承や「珠名の碑」の記述がある。ところが、『富津市史』「古墳時代」の「内裏塚古墳」の項にある(『君津郡誌』でも紹介している)、大正10年に内裏塚を視察した喜田定吉の「上総飯野の内裏塚と須恵国造」では、上記の「珠名姫神社」の名はなく、「八幡社」があったと書いてあった。この「八幡社」に「珠名姫」も祀られていたのかと思っていたら、何と、『図説 千葉県の歴史』(河出書房新社版)に、飯野神社境内の隅にある「珠名姫神社」の小さな祠の写真が載っていた。とすれば、「珠名姫神社」は、祠そのものが飯野神社に移さ
れたのであり、「八幡社」とは別に存在していたということだ。「珠名姫神社」の写真は、(2)「消えた珠名姫神社」に掲載してある。
 作者の高橋虫麻呂とは、鎌足の孫藤原宇合の部下(異論もある)で、柿本人麻呂などのいわゆる宮廷歌人とはひと味違う異色の歌人であったらしい。上記の歌は、養老3年(719)に常陸国守となった宇合に同行してきた時に聞いた美女伝説をもとに詠んだ歌である。美女伝説としては、市川の手児奈(手古奈とも)の方が有名だが、手児奈についても、高橋虫麻呂は同じように歌を残している(手児奈については山部赤人も歌を詠んでいる)が、珠名の扱いと比べると、手児奈については「葛飾の真間」と所在をより細かく指摘するとともに、その返歌で「真間の井戸を見ると、手児奈のことが偲ばれる」と歌っているように、思い入れが強いように感じる。きっと、珠名より手児奈の伝説の方がより詳細に残っていて、最期がより悲劇的だったからではないだろうか(なお、手児奈伝説については、
『ご近所伝説』参照)。
 周准の珠名を調べているうちに、与謝野晶子が『日記のうち』(『早稲田文学』の1912年1月号)という作品の中に、「佐藤さん」の「書きさしの原稿」だとして、高橋虫麻呂の「珠名」を詠った歌をベースにした作品の書き出しの原稿が晶子の机の上に置いてあったという記述を発見した。作中の「佐藤」は、筆者はかってに「佐藤春夫」だと思っているのだが、彼の作品に「珠名」を扱ったものがあったのかどうか、残念ながらわからない。知っている人がいたら、ぜひ教えてほしいと思っている。

 ついでに、高橋虫麻呂について調べていると、彼が作った「浦島太郎」の歌が万葉集(9−1740)に収録されていることがわかった。それによれば、名前は「浦島太郎」ではなく「浦島子」で、「助けた亀がお礼に竜宮城へ連れて行く」というストーリーでもなく、直接海神の乙女と会うという設定だった。おかしいと思いネットで調べてみると、「亀を助け竜宮城へ」という話は、明治29年(1896)に発表された巌谷小波の書いた『浦島太郎』が初出だということで、意外と新しいことに驚いた。おなじみの「浦島太郎」「乙姫」「竜宮」「玉手箱」などの名称は、中世の「御伽草子」以降に生まれたようだ。文献でたどることのできる浦島伝説の最初は、なんと『日本書紀』の雄略紀(話のはじめの部分だけ)や『丹後国風土記』の逸文だという。『丹後国風土記』の逸文では、「島子」は釣り上げた亀が変身した美しい仙女につれられて蓬莱山に行くことになる。その後は話の最後がちょっと違う程度で、だいたいみんなが知っている話と同じようなものである。ただし、「島子」が手にする箱は、「玉手箱」ではなく「玉匣(たまくしげ)」である。なお、全国には、20ヶ所以上の場所に「浦島伝説」があるそうだ。「浦島太郎」について詳しく知りたい人は、三浦佑之氏著『浦島太郎の文学史』(1989 五柳書院)をぜひ読んでみよう。また、各地に残る浦島太郎伝説を調べたい方は、サイト『古代史の扉』「浦島太郎伝説」を訪問してみよう。

(2)消えた珠名姫神社(下飯野)
 前ページで紹介した「周准の珠名」の記事の中で、珠名姫神社が飯野神社に合祀されたことにふれた。その経過を、『富津市史』をもとに紹介する。
 明治39年(1906)の勅令を受けた内務省令で、神饌幣帛料を供進できる神社資格を定め、千葉県では次のような訓令を発した。
 
 
県社以下ニテ氏子又ハ信徒僅少ニシテ維持法確立セズ神社ノ尊厳ヲ保維スルコト
 能ハサルモノ及由緒モ格別ナキ神社ハ可成廃合シ由緒アル神社ヲ永遠ニ保維ス
 ルノ法ヲ設クルハ緊要ノ義ニ付神職及氏子信徒総代ト協議シ永遠ニ保維スベキ神
 社ハ維持法ヲ確立シ然ラザルモノハ廃合ノ手続キヲ履行セシメ神社ノ整理ニ努ム
 ベシ

                                        
(千葉県訓令第43号)

 
簡単に言えば、氏子の少ない神社、由緒の明確でない神社は統廃合しなさいということである。つまり、国家をささえるのに役に立たない神社は、整理しなさいということだろう(すでにこの時点では、明治初年の太政官布告によって、県社、郷社などの社格は定められ、神社の廃合も行われていた)。勅令が出されたのが、明治39年である。ちょうど日露戦争が終わり、戦争に堪え忍んで協力した国民の不満が爆発した翌年である。政府としては何とか国民をまとめようと考えてのことだと思うが、どうだろうか。
 この訓令によって、町村の神社は廃合の方向へ進んだ。「珠名姫神社」のあった飯野村では、この神社の統廃合を積極的に進め、村中にあった15の神社をすべて取り壊し、新しく造営した飯野神社に合祀している(合祀された神は、『君津郡誌』によると以下の通りである。保食命、建御名方命、大國主神、稚産靈命、素盞鳴命、倉稲魂命、迦具土神、大山咋命、誉田別尊、大己貴命、天照大御神、佐田彦命、中筒男命、菅原道真、聖神、末珠名、ここに登場している神々は次ページ「本サイトに登場する神々」参照)。この時に、悲しいかな、「珠名姫神社」も廃合されてしまった。しかし、幸いなことに、廃合された神社は徹底的に壊され、石造物などもほとんど飯野神社の境内に移されたというが、嘉永4年に建てられた「珠名冢碑」だけは、古墳上に残され、当地方に残る美女伝説をわずかに伝えることになったのである。ところが、『図説 千葉県の歴史』(河出書房新社版)には、真間の手児名と周准の珠名を紹介するページに、飯野神社境内の隅にある「珠名姫神社」の写真が載せてあった。写真を見ると、以前に訪れた時に「これは?」と思った小さな祠であった。とすると、「珠名姫神社」だけは取り壊されずに、内裏塚古墳にあった祠がそのまま飯野神社の境内に移されたということなのだろう。内裏塚古墳の墳丘上に「珠名」の案内板があったのと同様に、この「珠名姫神社」の祠にも案内板があるといいと思った。
 それにしても、この時に貴重な文化遺産が幾つも破壊されたのではと考えると、残念なことである。『久留里歴史散歩』の「浅間山にて」でも紹介しているが、名もない小さな祠1つ1つにも、庶民の切なる願いが込められていたはずなのだ。ただ、この神社の廃合については、町村によって対応は様々で、名目的な合併で終わったところや、社格をもたない小さな神社がそのまま残されたところも多かったようだ。
 下の写真は、飯野神社と社殿の裏にまとめられていた石造物である。そして、「珠名姫神社」である。撮影に訪れると、真新しい社殿が建立されていた。まだ境内は整備の途中であるらしく、雑然としてはいたが、さすが村社といった立派な社殿であった。この飯野神社は、実は飯野藩の陣屋跡に建てられている。陣屋そのものは跡形もないが、陣屋を取り囲んでいた堀割はそのまま残されていて、飯野神社の参道の入り口に、富津市で立てた「飯野陣屋濠跡」の案内板が設置されている。また、陣屋の敷地内には、三条塚古墳もある。この三条塚古墳は、本格的な発掘は行われていないそうだが、露出していた石室の一部や周溝は調査済みだそうだ。この三条塚古墳は、周溝も含めると内裏塚古墳より大きいらしい。『千葉県の歴史 通史編 原始・古代1』によると、6世紀末葉から7世紀初頭の古墳時代終末期にあっては、日本最大級の前方後円墳だとしていた。

         
           飯野神社                   集められた石造物

         
    飯野神社に移された珠名姫神社         三条塚古墳 露出した石室

(3)再び、富津市と海防について 〜『黒船渡来日記』から〜(佐貫)
 佐貫藩の藩医であった三枝俊徳は、『黒船渡来日記』に、ペリー船団の来航の様子を以下のように記している。

  
望観すれば浦賀港より右方に当たり四艘碇泊す。其形山の如し。見る者驚嘆せ
 ざるなし。二艘は帆前船にして水兵三百人、大砲二十四挺。二艘は蒸気船にして
 水兵三百人、大砲十二挺。四艘合わせて水兵千二百人、大砲七十二挺なり。蒸
 気船を見る者、今日を始めとす。故に黒船と称して唯々驚嘆するのみ。停泊中追
 々内海へ乗入れ、日々測量す。人民兢々として動揺す。


 この『黒船渡来日記』は後にまとめられたものだと思う。かなり冷静に記しているが、それでも当時の混乱ぶりをよく表していると思う。外国船が多数出没し始めた江戸後期から、富津市は対岸の三浦半島とともに、江戸時代より東京湾防備の最前線となった。寛政の改革で有名な、松平定信も房総沿岸の防備を命じられ、文化11年(1811)に視察に訪れている。
 富津市の海岸線は、佐貫藩、飯野藩、久留里藩、佐倉藩などの房総に配置されていた諸藩のみならず、先にあげた松平定信の白河藩をはじめ、会津藩、忍藩、備前藩、柳川藩、二本松藩、前橋藩などの諸藩も担当している。各藩は、富津台場をはじめ、富津市沿岸に砲台を築き守備に当たっていた。砲台設備にかかる費用は幕府もちで、維持するのは各藩の負担であった。『黒船渡来日記』によると、佐貫藩は、ぺりー来航以前から、外国船が渡来するたびに出陣していたことがわかる。各藩も同じであったろうことは想像に難くない。その辺の事情を『日記』(『富津市史』)から見てみよう。
 
 
弘化2年(1845)3月11日(アメリカ捕鯨船来航)
  異国船浦賀港沖到来。海岸警備として八幡浦出陣。15日佐貫藩邸に帰陣。こ
 の時の人々の様子を「大艦海上に浮かんで山の如く、見る人驚嘆して止まず。遠
 近を問わず、見ようとする者は続々と押しかけ、海岸一時振動す。実に古今未曾
 有の大艦なり」と記している。

 弘化3年(1846)5月27日(アメリカ船来航)
  出陣、6月9日帰陣。

 嘉永2年(1849)4月8日
  出陣、11日帰陣。同日夜再出陣、12日帰陣。

 嘉永5年(1852)4月23日
  早暁出陣、26日帰陣。


 そして、嘉永6年のぺりー来航となるのである。2回目のぺりー来航時は、3ヶ月間にわたって出陣していたようだ。出陣するのは武士だけでなく、庶民も動員された。長期にわたる動員はたとえ手当てが出ていたとしても、庶民にはかなりの負担だったと思う。通常の仕事ができないのだから。さらに、安政2年(1855)の大地震で、竹ヶ岡陣屋の長屋が倒壊し、足軽が2名圧死するという悲劇も起こっている。
 さて、安政元年(1854)3月に日米和親条約が締結され、同5年(1858)6月に日米修好通商条約が締結された。それにともない、富津市の海岸防備は縮小されたようだ。日米修好通商条約締結3日後に、富津台場以外の砲台は廃止されている。

(4)富津市の縄文・弥生時代の遺跡
 富津市域に存在する旧石器時代の遺跡は、『君津地方の歴史PartV』で紹介しているので、ここでは『千葉県の歴史 資料編』で取り上げられている、縄文・弥生時代の遺跡を紹介しよう。『千葉県の歴史 資料編 考古1』では、縄文時代の遺跡として、「前三舟台遺跡」「大坪貝塚」「富士見台貝塚」の3遺跡が取り上げられている。弥生時代の遺跡は、同じく『考古2』で、「萩ノ作遺跡」「岩井遺跡」「東天王台遺跡」「岩坂大台遺跡」「川島遺跡」「打越遺跡」「前三舟台遺跡」の7遺跡が紹介されている。ちなみに、『千葉県埋蔵文化財分布地図』(平成12年千葉県教育委員会発行)には、縄文時代の遺跡が53ヶ所、弥生時代の遺跡が39ヶ所載っている。大半が「包蔵地」となっていて、発掘調査されている遺跡はそれほど多くないようだ。


【縄文時代】
○前三舟台遺跡
 同遺跡は、富津市前久保字三舟台で、富津市の火葬場への進入路建設のために発掘調査された。標高は、40m前後である。縄文時代草創期の土器、石器、礫が検出されている。出土層は、暗褐色の漸移層から立川ローム層最上部のソフトローム層上部だった。千葉県には、縄文時代の遺跡は数多くあるが、草創期の遺跡は十数か所が確認されているだけらしい。草創期は、土器の文様にその特徴がある。前三舟台遺跡で出土した土器の中に、隆起線文土器と呼ばれる最古の土器が含まれていたのである。同遺跡では、旧石器も出土している。

○大坪貝塚
 同貝塚は、佐貫町駅から西へ300mの富津市亀田字大坪にあたる。近くには、古船遺跡、崖淵遺跡があり、いずれも縄文時代前期の遺跡である。ほ場整備の途中に発見され、わずか20uが発掘されたのみである。しかし、千葉県南部においては、数の少ない黒浜式期の貝塚で、ヒョウタンやカマイルカの全身骨格などが出土している。それ以外の自然遺物として、クロダイ、スズキ、シカ、イノシシ、ニホンザル、ハマグリ、アサリ、ツメタガイ、アカガイ、アカニシ、ヤマトシジミ、オニグイミ、ヒメグミ、クリ、ムクロジ、カヤ、スダジイ、キハダ、カラスザンショウ、アカメガシワ、サルナシが出ている。

○富士見台貝塚
 同貝塚は、主として縄文時代の後期の貝塚で、富津市湊字富士見台の標高40mの台地上にある。東京湾岸の漁労文化の伝播の様子を調査するために発掘された。出土した土器は、一部堀ノ内式土器もあったが、主体は加曾利B2式土器で、土偶や土器片錘、耳栓なども出ている。また、釣り針などの骨角器も多数出土している。出土した自然遺物は、以下の通りである。
 ウミガメ、オサガメ、ウミウ、オオカミ、イヌ、ベンケイガイ、ボウガイ、サザエ、オキアサリ、ハマグリ、マダイ、イシダイ、カンダイ、ハタ類、ボラ、イナ、オオハム、カモ類、ウ類、ワシ類、キジ類、ニホンザル、クジラ類、イルカ類、タヌキ、アシカ類、イノシシ、ニホンジカ。
 ちなみに、『千葉県の歴史 考古1』によると、本貝塚は、「
東京湾東岸で外洋的な性格を示す北端の貝塚である。鉈切洞穴との比較検討からは、後期初頭の外洋で行われていた積極的な漁労が、後期中葉に内湾域に展開したと考えることができる。骨角製の漁具に形態的な変化がみられることから、おそらく漁法のうえでも技術的な進歩があったと思われる」という貴重な貝塚である。

【弥生時代】
○萩ノ作遺跡
 富津市竹岡字萩作にあり、ほ場整備にともない発掘された、縄文時代から奈良時代にかけての複合遺跡である。。2回の発掘調査で、縄文時代の炉穴5基、弥生時代の竪穴住居40軒、方形周溝墓1基、古墳時代の竪穴住居2軒、円墳2基、奈良時代の竪穴住居2軒が確認された。

○岩井遺跡
 天羽高校近く、富津市数馬字岩井の丘陵上にあり、共同住宅建設にともない発掘調査された。弥生時代の住居跡4軒、古墳時代の円墳2基が確認されている。円墳のうち大きい方は、前期古墳の可能性が指摘されている。

○東天王台
 富津市湊字東天王台にあり、最初に発掘されたのは、天羽中学校の校舎建設のためである。第1次の調査で、弥生時代中期の住居跡5軒、同後期の住居跡2軒が確認され、2・3次調査では、弥生から古墳時代の住居跡が10軒確認された。同遺跡では、以前に、天羽中学校の敷地内から、旧石器2点が出土している。

○岩坂大台遺跡
 富津市岩坂字大台にあり、国道建設や鉄塔建設にともなって、これまで5回にわたって調査された。弥生時代後期の住居跡1軒、弥生時代末期から古墳時代前期初頭の集落跡(16軒の住居跡)、古墳時代後期の円墳が確認されている。

○川島遺跡
 君津商業高校のグラウンドや弓道場に接する、富津市西大和田字川島周辺にあたる。道路建設に先立って2回にわたって発掘され、弥生時代中期の方形周溝墓3基、同後期の住居跡131軒、方形周溝墓3基、古墳時代前期の方墳10基、同後期の円墳2基等が確認されている。すぐ近くには、縄文から奈良・平安時代までの遺物や遺構の出た、大明神遺跡が存在する。
 『千葉県の歴史 考古1』では、「
弥生時代中期後半に砂丘南側突端部に沿って方形周溝墓が連続して築かれ、後期には集落域となる。後期の住居跡は、中期の方形周溝墓とは重複しておらず、墓域を意識的に避けている。おそらく、墳丘があったためと思われる。集落は、古墳時代には継続されることなく、古墳時代前期には再び墓域となり、小型の方墳群が築かれ、古墳時代後期まで墓域化する。このように、弥生時代中期以降の土地利用の変遷が明らかになり、墓域と集落域の時期的な変遷から、当時の共同体が集合的な集落を形成し、集団で移動していたことがわかる」とまとめている。
 『千葉県の地名』(平凡社版)では、川島遺跡の発掘調査について、「弥生時代における集落の平野部への進出と展開を明らかにする重要な調査となった」と評価している。

○打越遺跡
 現在の富津市役所周辺、神明山山麓の、富津市飯野字打越や西大和田字根崎にあたる。本遺跡の北側は、旧小糸川の流路にあたっているらしい。富津市役所建設に先立って行われた第1次調査で、弥生時代後期の住居跡が319軒、掘立柱建物跡1棟などが確認された。その後数度の調査で、古墳時代の住居跡や古墳なども出土している。また、同遺跡から、千葉県ではあまり見られない「双角有孔土製品」と呼ばれる土製品が、3点出土しているという。

○前三舟台遺跡
 同遺跡については、旧石器時代や縄文時代についてはふれたが、弥生時代から古墳時代前期の住居跡47軒や方形周溝墓19基なども検出されている。集落跡は2ヶ所に分布の中心があって、いずれも弥生時代から古墳時代まで継続している。遺跡西側では、環濠の可能性のある溝も見つかっている。

       
         前三舟台遺跡付近               川島遺跡付近

                
                   富津市役所(打越遺跡付近)

 縄文時代の遺跡は、袖ヶ浦市157、木更津市129、君津市106、富津市53、弥生時代の遺跡が、袖ヶ浦市102、木更津市90、君津市56、富津市39ヶ所が『千葉県埋蔵文化財分布地図』に載っている。ひょっとしたら、数え間違いがあるかもしれないが、君津地方全体で、縄文時代の遺跡は445ヶ所、弥生時代の遺跡が287ヶ所となる(『千葉県埋蔵文化財地図』が発行された平成12年現在)。今ではもっと多いと思う。貝塚や前方後円墳の数は千葉県が全国一だという。君津地方では、内裏塚古墳群など千葉県を代表する古墳が数多く存在するが、縄文・弥生時代の遺跡についてはどうだろうか。

(5)平野武治郎について(大堀、青木、小久保)
 『君津市の歴史』「近江屋甚兵衛のこと」で、上総海苔誕生についてふれたが、海苔養殖技術を語る時、大堀村(現富津市大堀)の平野武治郎(ひらのぶじろう)を忘れてはならないだろう。『富津市史』によって彼の業績をまとめてみる。
 武治郎は、製塩業と海苔養殖を行っていた平野武右衛門の長男として、天保13年(1842)に生まれ、明治5年(1872)に家業を継いだ。もともと、それまでの養殖技術では豊凶の繰り返しで、安定的な生産はのぞめなかったのだが、安政年間より毎年凶作が続き、海苔養殖業は壊滅寸前であったようだ。武治郎が家業を継いだのはちょうどその頃で、彼は海苔養殖立て直しのために試行錯誤を繰り返した。そして、ついに、明治11年偶然「海苔ひび移植法」を発見することになったのである。たまたま暴風雨によって、河口付近の海苔ひびが一部流されてしまったので、沖合いに立ててあった海苔ひびを河口付近に移植したところ、良質の海苔がついたのだ。武治郎は、この現象を見逃さなかった。以後試験を続け、明治18年に「海苔ひび移植法」を実用化させることに成功する。この方法は、沖に立ててあるひびで種苗を採り、栄養分豊富な小糸川河口付近にひびを移動して、海苔の成長を促進するとともに、良質の海苔を生産する方法であった。はじめは、移植は冬季に行わねばならず、見習う者も少なかったが、収益が上がることが次第に理解され、周辺に広まっていった。明治30年の第二回水産博覧会で「千葉県海苔柵移植法」として発表され、高い評価を得たことで、全国的に普及することになったのである。他地域で一番最初にこの技術を取り入れたのは、浦安の養殖業者らであったという。大正3年(1914)の大正博覧会でも「海苔ヒビ建移植法」として発表し、博覧会総裁より金牌を授けられている。
 武治郎は、この後も海苔養殖に尽くし、大正3年9月に73歳で亡くなっている。墓は大堀明澄寺の薬師堂墓地にあったが、最近出された『富津市の文化財ガイドブック』によれば、現在は明澄寺境内に移されているという。写真の胸像は、富津市にある埋立記念館前に設置されている。


      
         平野武治郎胸像            平野武治郎の墓があった薬師堂墓地

 下の写真は、小久保地区の大貫漁港にある「千葉県水産総合研究センター 東京湾漁業研究所」(左下)の敷地内に建っている、海苔養殖に功績のあった近江屋甚兵衛や平野武治郎らを顕彰する碑(右下)である。


      

(6)日蓮伝説について(富津地区)
 朝日新聞のインターネットニュースを読んでいると、地域のニュースの中に、「大黒堂」と題した記事が目に入った。この記事は、大多喜町の粟又地区に残っている日蓮伝説を紹介する記事であったが、何とその伝説の中に富津岬が出てきたのである。日蓮といえば、滝の口の法難など、さまざまな奇跡的な伝説が有名であるが、わが郷土、富津市にまつわる話は初めてだったので驚いた。そこで、その記事の抜粋を紹介しよう。記事の元は、『広報おおたき』の「日蓮さんと大黒堂」だというが、大多喜町のホームページで広報をのぞいてみたのだが、残念ながら見つけることができなかった。

 
小松原で東条景信に襲われ負傷した日蓮は、清澄山へと逃げ込み猟師と出会った。「どうしました」と聞かれた日蓮は、正体は明かさぬものの襲撃された事実を話す。すると猟師は、「粗末な家ですが」と粟又の家へ招いてくれた。猟師の家族は、傷付いた僧を手厚く介抱したので、ひと月ほどで傷もよくなった。ある日、僧は寝床の枕木を削り始め、大黒様を作り上げた。そして、「これを受け取ってください。明日おいとまします」と語り、僧は家族に大黒様を手渡した。翌朝、家の者は握り飯を作ろうとしたが米がない。そこで、隣の家に米を借りに行った間に、僧は旅立ってしまった。急いで飯を炊き、握り飯を作り新しいわらじを持ち、猟師は後を追い富津岬でようやく追いついた。僧は感謝しつつ夢中で飯を食べたが、その間に船は出帆しはるか沖へ。しかし、僧はわらじを履き替え礼を言うと、衣の裾をたくし上げ海へ入って行った。と不思議なことに潮が引き道ができ、僧は無事に船に乗り込んだ。猟師の家族が、その僧を日蓮だと知ったのは、後のこと。以来、粟又の人たちはこの家を「大黒堂」と呼ぶようになった。

 粟又地区のある農家には、今現在でも、高さ12センチの「大黒様」が大切に保存されているそうだ。また、対岸の横須賀市にある猿島にも、日蓮の伝説が残っているという。

            
                 富津公園の展望台から撮った風景

 
(7)勝骼宸ノついて(佐貫花香谷地区)
 『富津市再発見』というフィールドワークで、佐貫地区の花香谷にある「勝骼宦vを久しぶりに訪れた。このお寺は、現在は廃寺となり墓地として残っているが、内藤氏、松平氏、阿部氏という歴代佐貫城主の墓の残る寺院である。
 勝骼宸ヘ、はじめ善昌寺といった。『君津郡誌』によれば、寺伝では関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城の戦いで戦死した内藤家長を弔うために息子の政長が建立した寺院だというが、実際は家長の戦死前にすでに存在していたようだ。内藤氏は二代目政長の時に陸奥(現福島県いわき市)に移り、替わって佐貫城主となったのが松平忠重である。松平忠重が掛川へ転封の後しばらくは代官支配であったが、寛永16年(1639)から松平勝驍ェ城主となった。その松平勝驍ェ、善昌寺を勝骼宸ニ改称し菩提寺とした。二代目の時に改易となり、宝永7年(1710)に阿部正
鎭が佐貫城主になるまで再び代官支配となった。元禄の一時期、柳沢吉保の所領になってはいる。阿部氏は、廃藩置県まで続く。先にふれたように現在は廃寺となり、同じ浄土宗の三寶寺と合併し、佐貫地区に移っている。写真にある本堂をのぞくと荒れた感じであったが最近まで使われていたようで、廃寺になったのはそんなに古くはないような気がする。
 浄土宗の寺院を紹介しているホームページで「三寶山 勝骼宦vを見ると、もっと複雑な経緯があった。以下、引用させていただく。

 
天正18年(1590)、馨崇山善昌寺・説蓮社演譽馨香上人を開山とし、佐貫城主・内藤家長公を開基に、花香谷に創建された。
当時、三世・雄譽靈巖上人(知恩院第三二世)は学寮を開設して徒弟を育成し、城主の保護と相俟って当地浄土教発展の基礎を固くしていた。
 その後、松平勝隆公城主となり、菩提寺に定めた。次の松平重治公は寛文6年(1666)父君・勝隆公の菩提を弔うため『覺雲山・勝隆寺』と改称した。
 一方、瑞龍山・三寶寺は、永禄2年(1559)、貞譽祖閑上人を開山とし、里見安房守義弘公を開基として佐貫に創建されたが、明治31年(1898)、二十世・勲譽大倫和尚遷化後は無住が続いていた。
 明治45年(1912)、第十八世・晃譽大仙上人が就任すると、大正10年(1921)1月13日、時(「勝」の誤りだと思う)隆寺と三宝寺とを合併し、寺号を「三宝山・勝隆寺」と改称して現在(元、三宝寺)の位置へ本堂を再建した。しかし大正12年9月1日の大震災の為に倒壊した。そこで大正14年(1925)、再建工事に着手し、翌年12月、本堂の落慶をみた。
 また、昭和28年(1953)には、亀田の末寺・光源寺を併合して今日の姿となった。


 『君津郡誌』では、松平勝驍ェ名を改め菩提寺としたとあったが、上の説明文では二代目の松平重治が改称したとある。どっちが本当なのだろうか。

      
          旧勝骼尠{堂             内藤家長の墓(真ん中の墓)

      
        松平勝驕i左側)の墓         阿部家八代阿部正身・九代正恒の墓

             
                      現在の勝骼尠{堂

 「伏見城の戦い」は、徳川家康が会津の上杉景勝を攻める「会津攻め」の動きに乗じて、石田三成が伏見城を攻め落とした戦いである。石田三成方4万に対して、伏見城を守備する徳川方は1800人ほどだったという。その中に、佐貫城主・内藤家長もいたのだ。4万の西軍が1800人の守備する伏見城を攻略するのに10日もかかり、後の関ヶ原の戦いの行方に大きな影響を与えた戦いだった。