久留里歴史散歩 partU

(1)久留里地区の民権運動について
 明治14年(1881)、北海道開拓使官有物払い下げ事件で、自由民権運動が全国的に大きく盛り上がり、政府は官有物払い下げを中止するとともに、国会開設の勅諭を出した。同時に民権派の大隈重信を政府から追放している(明治14年の政変)。
 久留里地区でも、この年4月に、市場町に民権結社である「嚶鳴社支社」が結成されている。発起人として、木村理左衛門、松崎伝吉、斉藤仁平、土橋銀次郎、国友友造らの名前が見える。同年同月13日には、円覚寺において、聴衆800人におよぶ演説会を開催している。演説者は、「益田、高梨、沼間」の3名であった。
 「沼間」は、嚶鳴社をつくり、『東京横浜毎日新聞』の社長となった人物で、後に自由党の結成に関係するとともに、自身は立憲改進党結成時に嚶鳴社を率いて参加し党幹部となった、沼間守一ではないかと思われる。沼間は、なかなか個性的な人物であったらしい。
 演説者3名のうち「益田」なる人物は、三井財閥の基礎を築いた人物で、沼間とも若い頃親交のあった「益田孝」ではない


円覚寺山門

土屋氏五輪塔
かと考えていたが、どんなに調べてもその可能性は発見できず、数年前にあきらめていたのだが、2012年1月に、別の調べごとをしていて、偶然、益田孝に弟がいたことがわかった。益田克徳なる人物である。彼は、戊辰戦争では旧幕府軍に属し箱館で捕らえられ、その後紆余曲折があって嚶鳴社に入り民権運動に参加している。円覚寺で演説した「益田」なる人物は、「益田克徳」である可能性が高いのではないだろうか。ちなみに、益田克徳は、その後、渋沢栄一や岩崎弥太郎らと東京海上保険会社を創設し支配人となり、さらに、王子製紙・明治生命・石川島造船所の取締役を歴任している。沼間守一と益田克徳は、ともに旧幕臣として戊辰戦争を戦ったり、明治政府の役人となったり、岩倉使節団の一員として渡欧するなど共通点が多い。
 3人目の演説者である「高梨」は、沼間守一の実弟であった高梨哲四郎の可能性が高い。彼は、大蔵省翻訳局に勤めたが、同局が廃止され職を辞し、改めて法律を勉強して代言人(現在の弁護士)となった人物で、嚶鳴社の前身である法律講義会に参加している。第1回衆議院議員選挙で当選し、この時は、立憲改進党に所属している。

 演説会は翌14日には、木更津でも全く同じ弁士で開催され、聴衆700人を集めている。君津地方では、嚶鳴社支社を含めて8つの民権結社が確認されている。また、演説会も明治14年から15年にかけて、8ヶ所で開催されているが、久留里地区で開催された演説会が一番規模が大きかったようだ。この事実は何を物語っているのだろうか。

 嚶鳴社支社の発起人のうち、土橋銀次郎は、維新後回船問屋を開業し、小櫃川の川船で米、薪、酒を木更津港まで運送し財を成した人物である。久留里町の4代目の町長になり(『久留里城誌』には初代とあったが、『君津市史』では初代の町長は杉木道茂という人物であるとしているし、久留里自治会館落成記念誌『おやしき』にも、初代久留里町長は杉木道茂であったという記事があった)、東京から英語や数学の講師を招き私塾を開いている。明治21年(1888)には6代目の久留里郵便局長にもなっている。明治27年には県会議員となり、自由党に所属していたという。その頃、上町地区にトンネルを掘り、小櫃川の水力を利用して、精米、製材業を始めている。松崎伝吉は、明治8年に2代目の久留里郵便局長になった人物である。木村理左衛門は、明治12年以来5回も小櫃村より県会議員に選出されている人物で、斉藤仁平は、明治17年県会議員に、そして、明治22年には初代小櫃村村長になった人物である。国友友造も、土橋銀次郎や斉藤仁平らと同じような人物であったか、それに近い人物だと思われるが、詳細は不明である。

 なお、円覚寺とは、曹洞宗の寺院で、慶長9年(1604)に久留里城主土屋忠直が開いたものだ。墓地の奥には、写真にあるように、土屋氏初代とその正室、二代利直の墓である、県内最大の五輪塔がある。この五輪塔は、市の指定文化財になっている。また、武田信玄のものであったといわれる、五百羅漢彫りの数珠が伝えられている。現在その数珠は、久留里城址資料館に展示されている。


(2)久留里線今昔
 現在のJR久留里線は、大正元年(1912)12月28日に開通した。当初は千葉県営久留里軽便鉄道といい、明治43年6月の臨時県議会の決議で建設が決まり、翌年の7月に免許がおり建設が始まった。建設費は371,300円かかり、県債で充当されたという。はじめ終点の久留里駅は、現在の小櫃地区の青柳(現在の青葉高校付近)に建設する予定だったが、久留里地区の住民が現久留里駅までの延長を陳情し、延長区間の工事費を久留里住民が負担するということで、現在地に建設されるようになった。運賃は木更津〜久留里間が32銭で、所要時間は大正2年の時刻表によると、73分ほどだった。当時の木更津中学の陸上部の生徒が、汽車と競争して勝ったというエピソードがあるほどのんびりしたものだったらしい。自転車にもぬかれたという記事が、大正12年7月25日付けの『東京日日新聞』に載っているという(久留里城址資料館資料『地方鉄道 久留里線の軌跡』)。開通当時の駅は、木更津駅、清川駅、中川駅(大正4年から「横田駅」となった)、馬来田駅、小櫃駅、久留里駅の6駅であった。その後、大正10年に俵田駅が開設された。なお、久留



JR久留里駅
 
久留里線(小櫃駅)
里線は、大正12年(1923)9月1日に国鉄に無償譲渡され、昭和11年の3月に久留里〜亀山間が開通している。将来的には木原線と連結する計画があったが、残念ながらついに実現されることはなかった。 

 久留里線開通の9ヶ月前の3月28日に、木更津線(現在の内房線)が蘇我〜姉ヶ崎間で営業を始め、8月21日には木更津までつながっている。上総湊まで開通するのが大正4年(1915)、浜金谷までが大正5年である。

 久留里線の開通は地域の人々の生活を大きく変えた。人と物の移動は便利になったが、その一方で江戸時代より地域経済を支えてきた、小櫃川を利用した川船の運航は終焉を迎えることになった。往時の川船は灌漑用水が必要でなくなる、秋の彼岸から春の彼岸までの農閑期に運航していた。久留里地区御屋敷の戸張りに水を溜めていっきに流し、その勢いで川船を下流に流したという。この川船運航は、関東大震災による河床の隆起による影響もあって、大正12年に廃止された。さて、川船を廃止に追い込んだ久留里線のうち、久留里〜亀山間は戦争の最中の昭和19年に一時運休し、レールや鉄橋は撤去されてしまった。お寺の鐘や家庭の鍋釜と同じように、戦争遂行のために供出されたのである。

 戦争との関連では、昭和11年木更津航空隊の開設(昭和16年に設置された海軍航空廠の工事の可能性もある)にともない、工員輸送のために翌年の4月に、東横田と下郡の2駅がつくられ、下郡と小櫃駅間の山本に臨時乗降場までできた(久留里自治会館落成記念誌『おやしき』)。しかし、『君津市史』では『小櫃村誌』をもとに、この時できた駅は「下郡と山本」であったとしている。なお、『小櫃村誌』は、下郡と山本駅は無人駅で戦後廃止されたが、地元の要望で下郡駅は復活したと記している。『おやしき』『小櫃村誌』『君津市史』の記述は、微妙に食い違いがあるが、真実はどうだったのだろうか。
 平成16年10月19日から11月28日まで、君津市久留里城址資料館で、『地方鉄道 久留里線の軌跡』と題する企画展が開催された。その資料から、上記の疑問は解決した。「東横田駅」「下郡駅」「上総山本駅」の各駅は、昭和12年4月に開設されたが戦後廃止された。「下郡駅」は昭和31年7月に、「東横田駅」は同33年4月に復活している。前掲の『おやしき』で山本駅を「臨時乗降場」としているのは、戦後復活しなかったからであり、『小櫃村誌』や『君津市史』は君津市関連の駅のことにしか言及しなかったということなのだろう(下郡は木更津市であるが、下郡駅は君津市域に含まれる)。なお、戦後復活しなかった「上総山本駅」のネームプレートが、企画展の展示品の中にあった。また、前掲の資料の中に昭和39年当時の「朝の通勤ラッシュ」(横田駅)の写真もあった。地域にとっては、歴史を物語る貴重な資料である。

 戦後、地元の人々の復帰運動が実って、昭和22年4月に再び久留里線は亀山までつながっている。ディーゼル化は、房総西線(現在の内房線)よりも2年早い昭和27年であった。これは戦後の復興期に、都市部への物資を輸送する上で、久留里線が果たした役割の大きさを示しているのではないだろうか。久留里線の役割という点では、昭和35年6月から同43年7月、房総西線が木更津まで電化されるまで、通勤客の利便のために、千葉直通列車も多い時で朝に4本通っていた事実はあまり知られていない。しかし、戦後の経済復興とともに進んだ自動車の普及が、かつて久留里線が川船を廃船に追い込んだように、今度は久留里線自身が存亡の危機に立たされるようになる。全国的に巻き起こった、赤字路線廃止の動きである。地元では、「久留里線を守る会」を結成し存続を訴えた。そのかいがあってか、同様に赤字線だった木原線は廃止されたにもかかわらず、久留里線はなんとか今でも営業を続けている。

 現在の久留里線は典型的なローカル線で、昼たった2両でトコトコ走る姿はのどかなものである。踏み切りで遮断機に遮られることもめったにない。しかし、地域の人々の足として、昔と変わることなく大切な役割を果たしている。また、ローカル線と観光がテーマのテレビ番組によく取り上げられ、鉄道ファンには魅力のある路線のひとつのようだ。使用されている車両は、昭和41年度製の「キハ30」をはじめ、すべて国鉄時代のもので、久留里線のように駅員と運転士間でダブレット交換をしている路線はJR全体で5カ所だけしかないそうだ(2012年3月17日のダイヤ改正で廃止になるそうだ)。そういう面でも貴重な存在である。

 
「JR久留里線で1世紀ぶりシステム交代」(産経新聞 1月29日)
 千葉県のJR久留里線で、単線での正面衝突事故などを回避する「タブレット閉塞(へいそく)」という保安システムが3月17日のダイヤ改正に合わせて廃止される。
 100年前の開業当初から続いているシステム。近くの沿線には、引退予定の旧式ディーゼルカーなどと合わせて見ようと、鉄道ファンが詰めかけている。

 
何気なくインターネットニュースを見ていたら、「「キハ38」ミャンマーで余生!? 初のエアコン車両と大ニュース かつて久留里線で運行」(ちばとぴ by 千葉日報 2014年9月22日)という見出しに目がとまった。記事に目を通すと、見出しの通り、かつて久留里線を走っていた車両「キハ38」が今年の8月からミャヤンマーのヤンゴンで使用されるようになったということだ。何でも、自動扉とエアコンがついている車両はミャンマーで初めてということで、現地では大ニュースだそうだ。なお、「キハ38」の久留里線での運行は2012年12月で終わっている。その後、ミャンマーの国鉄に5両譲渡されている。

(3)久留里水力電気(株)〜大正期の久留里〜
 大正2年7月に、久留里水力電気会社が設立された。発起人は大正4年に久留里町長となる藤平量三郎らである。発電所は、上町の土橋銀次郎が設立した精米、製材所のあった場所に建設されたという。江戸時代は、上町河岸があった場所だというが、現在は、河川改修の結果跡形もなくなっている。右の写真の、竹林の向こうにあったらしい。この発電所は、千葉県下で最も古い水力発電所で、全国的にも記録となるほど低落差(約2.1m)での発電であった。『君津市史』によれば、法人として登記されたのが大正2年の7月であったというが、『おやしき』(久留里自治会館落成記念誌)には、建設工事は大正元年より始まり、翌年の2月には電灯が点灯したとある。


水力発電所があったと
思われる辺り
 配電区域は、久留里市場、久留里、安住であった。夕方6時になると各家庭に送電し、翌朝6時に休灯した。動力送電は朝7時から午後5時まで、川俣屋、魚源、鈴木屋、吉崎酒造などの精米所などに送られた。この発電所は、直流送電であったことや低落差であったことなどから、雨降りは水車がまわらずに停電になることが多かった。それでも、明るい電灯が利用できるようになって、住民は大変喜んだというし、水力電気株式会社も営業成績は相当なものだったらしい。なお、久留里町には、大正11年に営業が始まった千葉水力電気株式会社(発電所は松丘地区の平山にあり、設立は大正8年)から送電されていた地域もあった。大正14年、電気の需要に応じきれず千葉水電より電気を買うようになり、昭和13年には東京電灯に合併した。この年、亀山電気株式会社(大正12年設立、営業開始は翌年)も東京電灯に合併している。東京電灯は、後の東京電力である。

 大正期には、鉄道以外に交通・通信網の整備も進んでいる。自動車会社が各地に設立されるようになったのも、この時期である。日本で最初に乗合自動車が営業を始めたのは、大正2年、富津市湊から木更津港間だったそうだ。何と東京にバスが登場する6年も前のことである(『ふっつ 昔 むかし』)。『目で見る木更津・君津・富津・袖ケ浦の100年』では、笹生萬吉が乗合自動車を始めたのは日本で二番目だとあった。この地域では、大正9年、久留里−亀山間に「織本自動車」が、大正15年には、久留里−月崎(現市原市)間に「木村自動車」が設立され、営業を始めている。「織本自動車」は後に、君津合同自動車株式会社によって統合されるようになるのだが、この君津合同自動車株式会社も、昭和に入り、安房合同自動車に吸収され、日東交通となるのである。
 久留里地区の通信網の整備という点でも、大正の時代はひとつの画期である。大正9年10月に、久留里郵便局(局長は発電所開業の発起人の1人であった田丸節氏)が、特設電話通話(電話交換業務)を開始している。君津市域に電話が導入された最初だそうだ。
 また、金融業の整理統合も大正期に進んでいる。明治29年に佐貫銀行(本店は明治15年創立)の支店が開設された。主宰者は前出の藤平量三郎である。明治32年には久留里銀行が創設された。久留里銀行は、大正13年に上総銀行に統合されている。この頃、上総銀行に統合された銀行は、久留里銀行を含めて5行であった。さらに、上総銀行は、昭和6年6月に千葉合同銀行に統合され、昭和18年に千葉銀行になった。佐貫銀行も昭和6年9月に千葉合同銀行に買収されている。

 大正期はわずか15年ながら、近代的な統一国家をめざした明治時代と、軍国主義の足音が聞こえるようになる昭和初期にはさまれた、日本の歴史全体から見ても一種独特な時代である。生活文化という点では、明治の時代に流入してきた洋風文化が、都市だけでなく地方にも広がり定着した時代であると言えよう。鉄道の開通、電気文化の広がりなどは、それを示している。地方にとっては、まさに文明開化の時代だったのだ。いや、都市部以上に、一気に近代文明が流入してきた時期なのである。


(4)君津市域の人口の推移から思うこと
 昭和45年(1970)に、君津地区(旧君津町、八重原村、周西村、周南村、貞元村)、小糸地区(旧小糸町、中村、小糸村)、清和地区(旧清和村、秋元村、三島村)、小櫃地区(旧小櫃村)、上総地区(旧上総地区、久留里町、松丘村、亀山村)の5つの地域が合併して、新しい君津町が生まれ、翌46年に市制をしいて、現在の君津市が生まれた。
 この5つの地域の人口の推移を、5年ごとの国勢調査でみてみると、いくつかの意外な事実に気がつく。その第1は、君津市域の人口は、昭和20年をピークに昭和40年まで減っていることだ。旧君津町では、昭和40年には増加に転じているが、それ以上に、他の4地区の減少が大きかったということだ。第2は、昭和35年までは、4つの地区で人口の最も多かったのは、上総地区であったということである。昭和40年の国勢調査で初めて、君津地区の人口(13,223人)が上総地区の人口(12,787人)を上回っているのである。第3に、君津町全体の人口が飛躍的に増えるのは、昭和40年(42,574人)から昭和45年(70,440人)の間だということだ。
 『君津地方の歴史PartV』「地域の変化と新日鐵」でもふれているが、昭和40〜45年の人口増加は、新日鐵の君津地方への進出にともなうものであろうが、ここで注目してほしいのは、昭和35年まで、君津市域の人口の中で一番多かったのは上総地区であったという事実である。これまで、自由民権運動、久留里線、水力発電所等を通して、久留里地区の近代史をみてきたが、中世から交通の要衝であったことや、江戸時代に城下町として発展したことを前提として、久留里地区が果たしてきた政治的、経済的な役割を重ねてみると理解できるだろう。自由民権運動の中心人物は、小櫃川の川舟で財をなした人物であったし、久留里線や水力発電所は、まさに、久留里地区の財を結集してつくられたものなのである。その頃の久留里地区は、まさに、木更津とともに、君津地方の経済の中心であったのである。
 残念ながら、君津市の地域別の人口の推移については、君津市のホームページでいつでも閲覧できるようになっていたが、ホームページがまったく新しくなって人口の歴史的推移の情報はなくなってしまった。

 久留里城址資料館で平成19年10月16日から、『にぎわう町なみ 久留里−古写真と建築に見る久留里市場−』という企画展が開催された。久留里が君津地方で果たしてきた、主として経済的な役割が理解でき、大変興味ぶかい企画展であった。

(5)戦争と久留里
 地域からアジア・太平洋戦争を語る時、忘れてはならないことがある。それは、空襲の記憶である。君津地方は、東京や横浜方面を空襲する米軍機の通り道にあたり、そのため多くの空襲の被害が出ている(『君津地方の空襲の記録』参照)。特に君津市域の中でも、久留里地区の被害は大きかった。『上総町郷土史』によれば被害の様子は以下の通りである。

 昭和20年6月10日12時近く、敵機が北方東京湾方面から木更津上空を通り、愛宕山の上に来たと思うころ、フュルフュルという異様な音が聞こえたと思う瞬間、一大爆音と共に物凄い土煙が愛宕に舞上った。中型爆弾が投下されたのである。丁度森酒造店の前の麦畑に直径3、40米、深さ6、7米の大穴があき、周囲の樹木や建物は土煙をあび、200米もはなれた直径20センチもある松の木が中程からメチャメチャに裂けて倒れる程の破片の力は四方に及んだ。このため6名の尊い命を奪われ、2名の負傷者を出した。
 その後敵機の襲来は日毎に激しく、時には敵味方の戦闘機が久留里の上空で空中戦となり残念ながら味方戦闘機が浦田田圃に撃墜されたこともあった。
 20年8月10日正午頃、南方より飛来した敵小型戦闘機は市場警察裏に2発の爆弾を投下し焼夷弾、機関銃を新町、仲町、上町に乱射し、そのため新町の住宅8棟、仲町の物置3棟を焼かれた上1名の尊い命を奪われた。

 久留里小学校百周年記念誌『雨城を望む学び舎』(いつでも、君津市中央図書館で閲覧できる)にも、6月10日の空襲の体験談が載せられているが、この時に亡くなった6名のうち3名は親族のもとに疎開してきた一家だった。袖ヶ浦でも同じ悲劇があったが、何ともやりきれない思いがする。
 先日、空襲を体験した方数人に話を聞くことができた。爆弾は少なくとも5発投下されているようだ。5発とも、森酒造を取り囲むような場所であることから、森酒造の煙突を軍需工場だと勘違いし、爆弾を投下したのではないかという。そのうち、森酒造の前の麦畑(右上の写真、現在は落花生が栽培されてる)に投下された爆弾が一番大型で、埋め戻すのに消防団が1週間がかりだったという。威力も物凄いものであった。話をしてくれた方は、あっという間に数メートルほど飛ばされてしまい、気がつくと、爆弾の破片が高速で飛び散り、戸袋、茶箪笥、壁を貫き、反対側の木に突き刺さるほどで、爆風で家の土壁はすべて飛ばされ、柱と横木だけになってしまったという。右下の写真の畑の向こうにも小型爆弾が落とされた。民家直撃で、家は全く形が残っておらず、家の中


250kg爆弾着弾地点

小型爆弾着弾地点
にいた方は即死だったという。
 家の中にいて知らない間に飛ばされてしまったので、あまり恐ろしくなかった。6月10日よりも、8月10日の空襲のほうが、機銃掃射の音がバリバリ聞こえてきて、恐ろしかったと話してくれたおばあちゃんもいた。
 60年近い歳月がたった結果だろうか、それとも、空襲や戦争被害の悲しみを乗り越え、戦後の混乱期を生きぬき、現在の幸せをつかんだ自信だろうか、話をしてくれたおばあちゃんたちはみんな明るかった。しかし、家族がこの空襲で犠牲になり、自身も重症を負って1ヶ月の入院をしたおばあちゃんが、地元の病院が休診で汽車に乗って木更津市内の病院に行ったくだりや、祖父が退院した時に、木更津から愛宕までリヤカーに祖父を乗せ引っ張って歩いてきたといった、戦後の苦労を語った時に、明るかった表情にややかげりが見えたような気がする。そのおばあちゃんが最後に、「
私は2度広島へ行ったことがあるが、毎年被爆者は慰霊されるのに、久留里の空襲で死んだ人は、そんなことはなにもしてもらわない」「私たちは大変な体験を経て、今の幸せな生活をつかんだ。今の子は、幸せな生活しか知らない。そんな子どもたちの将来は、どうなんだろうね」と言った言葉が、妙に印象的であった。

 愛宕地区が空襲を受けた1945年6月10日は、関東全域の軍需工場が、約300機のB29と約70機のP51によって襲われている。千葉市、横浜市、土浦市も大規模な空襲を受け、大きな被害を出した。千葉市では午前7時45分から、B29約27機によって爆弾、焼夷弾が投下され、国鉄千葉駅付近や南部の海岸付近にあった日立航空機工場周辺が焦土と化した。このわずか数分間の空襲で、419戸が焼失し、120人余りの方が亡くなっている。この空襲でなんと、千葉師範学校女子部や県立千葉高等女学校が被害にあっている。日立航空機工場の疎開分散先だったからだ(『学校が兵舎になったとき』)。また、横浜市では、本牧・磯子・富岡周辺がねらわれ、富岡駅近くのトンネルでは、避難していた乗客の多くが爆風で死傷したという。おそらく、久留里地区の空襲は、横浜市を襲ったB29の帰還途中に、余った爆弾を投下していったものと考えられる。
 後日談になるが、空襲を受けた愛宕地区から切り出した木材は、空襲後は商品にならなかったという。爆弾の破片が木々にめり込んでいて、製材する時にその爆弾の破片のため機械が損傷するおそれがあるという理由のためだったらしい。空襲の被害は、その時の人的、物的被害のみならず、後の人々の生活にまで影響をおよぼしたのである。

 8月10日の空襲を体験された、当時16歳だった方の話によると、亡くなったのは、廊下で傘の修理をしていた上町の人で、不幸にも隣にあった旅館を貫通してきた銃弾にやられたという。また、この時には、空襲のショックで心臓麻痺で亡くなった方もいたという。話をうかがった方は、一時機銃掃射を受けたために、正源寺の近くにあった防空壕に避難したが、しばらくして防空壕を出て消火活動に加わったという。
                                        
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 久留里は、「城」と「水」に代表される。事実、訪れる観光客もそれを目的に来ることが多い。しかし、これまで見てきたようにこの地は、原始古代から連綿と人々の生活が続き、その生活の跡をたどることができる地である。その地域で働き、その地域に生活する以上「城」と「水」以外の歴史を明らかにし、「城」と「水」以外の歴史を知ることも意義のあることだと考えている。もちろん、「城」と「水」の歴史も含めてではあるが。古墳一つとっても、日陰山の前方後円墳の存在、上野台古墳と天神様の関係、久留里地区の自由民権運動の実態、久留里線や水力発電所、地域から考える戦争のことなど、「城」と「水」以外にも、歴史と民俗学のテーマはつきないだろう。それらの歴史は、時にはロマンを感じさせてくれることもあるだろうし、この地域に愛着を感じさせてくれたり、また、悲痛な体験を想起させるものでもあるかもしれない。しかし、こうした過去の歴史をまるごと受け入れ、これからの地域を展望する一助になればと考えている。なお、久留里の歴史については、『君津地方の歴史』にも、熊野神社や戊辰戦争に関連した情報を掲載している。
 前ページ『久留里歴史散歩』や『君津地方の歴史』も含めて、このページを作成するにあたって、『君津市史』や『小櫃川流域のかたりべ』など多くの文献を参考にさせてもらった。また、地元の方にも貴重なお話も聞かせていただいた。特に、久留里城址資料館の学芸員のみなさんには大変お世話になった。今後とも、おつき合いを!さらに、『丹生都比売伝承』の管理人の方にもご教授を受けたこともあわせて記しておきたい。感謝!