君 津 地 方 の 歴 史
PartW

(1)町村合併について〜君津郡の誕生と消滅〜
 平成の町村合併の動きの結果、日本全体で、1999年末に3,232あった市町村がこれまでに1,820となった(2006年4月)。君津地方では、袖ケ浦市、木更津市、君津市、富津市の4市を合併して「上総市」をつくろうという声があがったが、大きな力とはならず立ち消えになっている。近隣では、2005年12月にいすみ市(夷隅町、大原町、岬町)、2006年3月に南房総市(富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、和田町)が誕生している。また、2005年2月には、天津小湊町が鴨川市と合併し、新しい鴨川市となっている。
 ところで、わが君津地方ではこれまで、どのような町村合併の動きがあったのだろうか。当サイトでも各頁で必要な範囲でふれてきたが、ここで、改めて、明治30年(1897)君津郡誕生後の4市の動きをまとめてみよう。ちなみに君津郡は、北部の望蛇郡と南部の天羽郡、その間にはさまれた周准郡が合併して生まれた。望陀郡は小櫃川流域、現在の袖ケ浦市、木更津市、君津市にまたがっていて、安房郡天津小湊町の一部をふくんでいた。周准郡は小糸川流域の木更津市と富津市の一部、そして君津市を郡域としていた。天羽郡は富津地区をのぞく現在の富津市を範囲としていた。この時、君津郡域に存在していた4町38村は、以下の通りである(『君津郡誌』による)。

 【旧望蛇郡】
  木更津町、眞舟村、清川村、岩根村、金田村、神納村、楢葉村、長浦村、中郷村、
  根形村、平岡村、馬来田村、小櫃村、久留里町、松丘村、亀山村、富岡村、中川村、
  鎌足村
 【旧周准郡】
  波岡村、八重原村、周西村、中村、小糸村、秋元村、三島村、周南村、貞元村、
  飯野村、青堀村、富津村
 【旧天羽郡】
  吉野村、大貫村、佐貫町、湊町、環村、関村、豊岡村、駒山村、天神山村、竹岡村、
  金谷村

 【君津郡誕生以後の町村合併の経過】
明治30年(1897) 君津郡誕生後、富津村が富津町となる。
大正 7年(1918) 大貫村が大貫町となる。
大正15年(1926) 青堀村が青堀町となる。関村と豊岡村が合併し、関豊村となる。
昭和 7年(1932) 楢葉村と神納村が合併し、昭和町となる。
昭和 8年(1933) 木更津町が眞舟村を合併する。
昭和12年(1937) 大貫町が吉野村を合併する。環村と駒山村が合併し、新しい環村とな
           る。
昭和17年(1942) 木更津町、波岡村、清川村、岩根村が合併し、木更津市となる。
昭和18年(1943) 八重原村と周西村が合併し、君津町となる。
昭和27年(1952) 長浦村の一部が市原郡姉崎村に、亀山村の一部が安房郡天津小湊村
           に編入される。
昭和29年(1954) 君津町に周南村、貞元村が合併する。久留里町、亀山村、松丘村が合
           併し、上総町となる。木更津市に、鎌足村が合併する。
昭和30年(1955) 木更津市に、金田村、中郷村が合併する。青堀村、飯野村が富津町
           に合併する。平岡村と中川村が合併し、平川町となる。この時に平川
           町には根形村と富岡村の一部が編入されている。残った根形村と長浦
           村、昭和町が合併し、袖ヶ浦町となる。同じく残った富岡村と馬来田村
           が合併し、富来田町となる。大貫町と佐貫町が合併し大佐和町が、湊
           町、天神山村、竹岡村、金谷村が合併し天羽町が、環村と関豊村が合
           併し峰上村が、小糸村と中村が合併し小糸町が、秋元村と三島村が合
           併し清和村が生まれている(1市9町3村)。
昭和38年(1963) 天羽町に峰上村が合併する。
昭和45年(1970) 君津町に小糸町、上総町、小櫃村、清和村が合併する。木更津市に、
           富来田町が合併する。
昭和46年(1971) 4月、富津町に大佐和町、天羽町が合併する。9月、富津町が富津市と
           なり、君津町が君津市となる。袖ヶ浦町に、平川町が合併し、君津郡は
           3市1町となる。
平成 3年(1991) 袖ヶ浦町が、袖ケ浦市となる(君津郡の消滅)。

 こうして年表にして町村合併の歴史をふりかえってみると、たとえば、昭和18年の君津町の誕生は、『君津地方の空襲の記録』でもふれたが、戦争と深い関連があったように、時々の世の中の動きと密接に絡んでいることがわかる。君津地方全域で町村合併が進んでいる、昭和30年には何があったのだろうか。
 「Wikipedia」で確認してみると、過去、町村合併には、「明治の大合併」と「昭和の大合併」と呼ばれる2度の大規模な合併の動きがあったことがわかった。明治22年(1889)には市町村制が施行され、江戸時代以来の71,314もの村々が15,859の自治体に整理された。これが「明治の大合併」である。「昭和の大合併」とは、昭和28年(1953)に施行された町村合併促進法、昭和31年(1956)の新市町村建設促進法によって起こったものである。新制中学校発足に伴う財源確保が主な目的だったようだ。中学校が建設できる規模に市町村を大きくしようとしたということだ。これにより、9,868あった自治体が、昭和36年(1961)の時点で3,472にまで減少している。わが君津地方は、昭和30年の時点で1市9町3村となっている。こうした動きは、「昭和の大合併」の結果だったのである。しかし、上記のように年表でながめてしまうと、「ああそうなのか」と単純に納得してしまうが、実は合併にあたっては紆余曲折があったのである。この辺の事情を、我が家で長らく行方不明だった『富津市史 史料集一』によって、大貫町と佐貫町の事情をみてみよう。

 
両町の合併が実現するまでには幾多の変遷があった。当初は大貫町、佐貫町及び富津町の三町合併案が取り上げられたが合併の見通しがつかないままに、右三町に青堀町、君津町、飯野村、貞元村及び周南村の五ヶ村を加え八ヶ村合併案が生まれた。しかしながら、これは幾何もなくして実現不可能と見込まれ、三転して富津町、大貫町、佐貫町、青堀町及び飯野村の五ヶ村合併案が検討されるにいたった。この第三案は相当に実現の可能性を備えていたのであるが関係町村の間に意見が一致せず進展をみるにいたらなかった。その間に富津町、青堀町及び飯野村の三ヶ町村合併が確定的なものとなったので、ここに両町合併案が最終案として打ち出されたのである。

 両町合併が決定した後でも・・・

 
新町の名称については「佐貫町」の名称を存続すべしと主張する佐貫町側と「大貫町」を主張する大貫町側との意見が対立し数回の協議が行われたが解決せず、佐貫町側から「大佐貫町」の提案があったが依然大貫町が同意せず結局大貫町の「大」と佐貫町の「佐」をとり、両町の完全和合を表徴する「和」の字を加えて「大佐和町」とすることに意見の一致をみた。

 現在進んでいる町村合併は、「平成の大合併」と呼ばれている。目的は、国及び地方自治体の財政再建と、地方分権を実現するための行財政能力の強化だというが、国主導の合併であり、行政サービスの低下につながるのではないかといった批判も多いようだ。また、合併の主導権をどの自治体がとるのか、大貫町と佐貫町の時のように新しい自治体名をどうするのかなどで、調整がつかない場合もあるようだ。最近の新聞報道によると、千葉県で町村合併で成立した町村は、平成20年の時点で11市町あるが、そのうち9つの市町で献血量が減っているという。記事では、市町域の拡大で、行政の担当者の地域密着度が薄れたことなどが原因ではないかと推測していたが、行政の広域化の弊害ではないだろうか。

 ところで、大貫村が町制をしいたのは、平凡社や角川の地名辞典で調べると、上記のように大正7年であったが、Wikipediaの「君津郡」の項目には、大正9年とあった。富津市のホームページでも、大正9年となっているが、どっちが本当なのだろうか。先に引用した『富津市史 史料集一』(P.981)には、大貫町の成立は大正7年10月1日とあった。さらに後日、暇にまかせてなにげなく『富津市史 通史』をながめていたら、そのP.853に、大貫村が町制をしくことに対する千葉県知事の許可書の写真が掲載されているのに気がついた。そこには、大正7年9月13日の日付があり、「
但シ大正七年十月一日ヨリ施行スヘシ」と書かれていた。大貫村が大貫町になったのは、大正7年だったのである。

(2)幕末における民衆の外国認識について(富津市)
 本サイトの『富津市の歴史』で、幕末の海防についてふれているが、最近刊行された『千葉県の歴史 資料編 近世』に、それに関係した大変興味深い情報が出ていたので紹介する。日米修好通商条約締結後貿易の開始とともに、多くの外国人が来日することになる。それにともない、桜田門外の変やアメリカ公使館通訳ヒュースケン暗殺など、攘夷を叫ぶ志士たちによる血なまぐさい事件が続発した。そんな尊皇攘夷運動が荒れ狂う中で、一般の人々が外国人をどう思っていたかを示す貴重な資料である。
 安政5年(1858)奥州二本松藩は、富津台場周辺の沿岸防備を命じられた(『富津市の歴史』「富津市と海防」参照)。二本松藩は、500から600人程度の兵力を派遣すると同時に、二本松藩領内の名主を「郡方手附」という役職で沿岸防備につけた。その内の一人、仁井田村(現福島県本宮町)名主遠藤源四郎は、その体験談を書き記していた。『千葉県の歴史 資料編 近世』から、史料を紹介した部分を抜粋しよう。

 
彼が勤務中の安政6年6月6日に、一艘のイギリス船が嵐のため砲台先の砂州へ乗り上げ動けなくなった。このとき源四郎は船の検分を命じられ、イギリス船に漕ぎ寄せ乗り込んだ。取り上げた史料は、彼がそのときの見聞を記した記録の一部である。筆談や話し合いなどで何とか意思疎通を図ろうとする源四郎の苦労がうかがわれる。また、イギリス船の乗組員は、日本の武士は刀を二本差すものという知識にもとづき、源四郎に質問している。ほかの箇所には、乗組員が、雨に濡れた源四郎の羽織を両手で絞ってくれたので、源四郎が「随分親切な人だ」と感じたというエピソードも綴られている。幕末期には攘夷論が声高に唱えられたが、源四郎の態度には異国人への敵愾心といったものは感じられず、逆に相互理解に努める姿が印象的である。民衆の外国認識を考える際の好材料だといえる。
 
 
NHKの大河ドラマ『新撰組』に、黒船を見学する近藤勇と土方歳三の場面があったが、あの場面は、筆者の記憶によれば全く緊張感がなかった。一般民衆の感覚は、まさにあんな感じだったのかと思っている。番組制作者の意図は違ったのかもしれないが。遠藤源四郎は、国際的に日本が置かれていた状況などに関する予備知識はあまり持ち合わせてはいなかったのではないだろうか。その上で、自分に任された任務を忠実に果たしただけだったのだろう。それでも、遠く故郷を離れ、外国人と直接ふれ合ったことは、彼にとって貴重で希有な体験だったことから、記録に残したのではないだろうか。それにしても、イギリス人と源四郎のやりとりは、なぜか「ほっと」させてくれないだろうか。

(3)八田沼 田の草地蔵について(富津市、君津市)
 富津市の八田沼に通称「田の草地蔵」と呼ばれる地蔵堂がある。左下の写真でわかるように、まるで日本昔話にでも出てくるような雰囲気だ。雰囲気だけでなく、実際に日本昔話のような話が伝えられていたのである。以下、『富津市史』から地元に伝わる話を要約して紹介する。

 
むかし、むかし、田植えも終わり一息過ぎた頃に悪病がはやり、村中の人々が床に伏せってしまった。田の草は伸び放題。そのうちに、稲なの雑草なのかわからなくなってしまった。村人は、「いつの年も重い年貢なのに、今年はどうしよう。暮れになるとみんな死ぬより他なくなるぞ」と誰となく言うようになった。そこで、病気をおして地蔵堂にお祈りをした。すると、村人の元にみすぼらしいお坊さんが現れ、「心配するな、田の草はみなとってやる」と告げたという。翌日、田んぼを見ると、田の草はすべてなくなっていた。村人は、「きっと日頃から信仰している地蔵様のおかげだ。あのお坊さんは、地蔵様にちがいない」と思い地蔵堂に行ってみると、何と地蔵には泥と草が一杯付いていた。やがて、この地蔵のことを村人たちは、「田の草地蔵」と呼ぶようになり、それまで以上に大切にしたということだそうだ。

      
        
八田沼 田の草地蔵           住吉神社(蔵王大権現)

 ついでに、田の草地蔵のある八田沼を含む地域を吉野地区という。吉野といえば、奈良県の吉野を連想する人が多いと思うが、実は、関係があったのである。伝承によれば、建長4年(1252)に鎌倉幕府の将軍に迎えられた宗尊親王(後嵯峨天皇の第二皇子)が、富津市域を巡回したことがあるというのだ。その時に大和の吉野山を偲んで、現在の吾妻神社のある丘の辺りに奈良の吉野の桜樹を植樹して、「金峯山寺の蔵王権現」を勧進したことから、その地を含む8ヶ村を吉野郷と呼ぶようになったというのである。伝承ではあるが、当君津地方には、吾妻神社をはじめ各地に頼朝伝説が数多く残されており(『君津地方の歴史』「地域に残る頼朝伝説について」参照)、全くありえない話だとは思えないと筆者は考えているのだが。ちなみに、富津市域の地名の由来については、『富津市史』に詳しく紹介されているので参照されたい。
 
 右上の写真が蔵王大権現で、田の草地蔵の裏山の反対側にある。鳥居には「住吉神社」とあった。しかし、社殿(写真の鳥居右奥の建物、その中にさらに小さな社があった)の額には「蔵王大権現」とある。不思議に思い『君津郡誌』で調べてみると、鎌倉時代に勧進した後一時蔵王大権現は荒れていたようで、宝永元年(1704)に、大野忠左衛門清貞の子佐太郎清生が再興したとあった。この時に住吉神社となったのであろう。祭神は、中筒之男命である。先にふれたように、蔵王権現とは金峯山寺本堂の本尊である。釈迦、観音、弥勒の3体の仏が合体したもので(異説もあるようだ)、役行者として有名な役小角(「えんのおづぬ」と読む)が修行中に示現したと伝えられている、インドに起源をもたない日本独自の仏(神とも)である。その蔵王大権現が再興されて、祭神が航海の神の中筒之男命である住吉神社となるのはなぜか、またまた謎が出てきてしまった。大阪にある住吉大社のホームページによれば、祭神の住吉大神(底筒之男命、中筒男之命、上筒之男命の3神)は農耕の神でもある。現在でも吉野地区は水田地帯であることを考えれば納得できるが、それでもやはり、蔵王権現が中筒之男命にとって変わるのは理解できない。ひょっとしたら、必然性はないのかもしれないが。さらに、田の草地蔵との関連はないのだろうか.。
 ところで、「蔵王」というと、読者の皆さんは、山形県の樹氷で有名な「蔵王」を思い出さないだろうか。どっちが先かと言われれば、筆者は、山形県の「蔵王」が先だと思っていた。実は、山形県の「蔵王」は、修験道の山に「金峯山寺の蔵王権現」を勧進したことから名付けられたのだ。山の名前が後だったのである。ひょんなことから、またまた自分の無学を思い知らされてしまった。

 「田の草地蔵」と同じような話が、富津市に隣接する君津市小山野に伝わっていた。『ふるさとの伝説 清和・周南』(奈良輪美智野著)の「夜田向の田植」によると以下の通りである。


 
小山野に字田向という所がある。昔、田植えの最中に或る家の人が病気になり、田植えが出来なくなった。そこで、近所の人が田植えを手伝いに行った。ところが田植えが終わらないうちに日が暮れてしまった。仕方がないので、苗をぶったまゝ帰ってしまった。あくる日田んぼへ行ってみると、不思議なことに田んぼにはもう苗が植えてあったという。人々は驚いていろいろと調べているうちに、西了寺という寺に行って見た時に漸くわかった。それは此の寺の玄関がどろだらけになっていたと云うことから中に入ってみると、御本尊様もどろだらけになっていたそうである。よって人々は此の御本尊様が田植えをやってくれたのだと納得したそうである。それからは田んぼへ苗をぶったまゝで置くものではないと云い伝えられている。

 
「田の草地蔵」の話は、地蔵が困っている農民を助けるという話で、現在でもその地蔵尊に対する地域の人々の信仰は厚く、毎月24日には縁日が開かれている。小山野の話は、困っていた農民を助けるまでは同じだが、話の結末が「田んぼに苗をぶったまゝで置くものではない」といった教訓話として伝わっているのだ。

(4)再び頼朝伝説について(君津市)
 『君津地方の歴史』の「地域に残る頼朝伝説について」で、木更津市を中心とした頼朝伝説を紹介した。そこで、「『五十騎坂』『百騎坂』『百坂』『数馬』『神妻』『三百坂』『三百騎坂』『千騎坂』『万騎坂』などの地名は、頼朝が通ったか、あるいは頼朝のもとへ房総各地から馳せ参ずる武士団の通ったルートではないかと考えられる。頼朝が実際に通過した道筋は確定できないが、こうしたルートにそって、さまざまな頼朝伝説が残ることになったのだろう」と書いた。「百」「三百」「千」「万」といった数字から、その時に考えていたのは、北上するにつれて増えていく頼朝軍の兵士の数であった。ところが、清和地区の「三百騎坂」という地名の「三百」は頼朝軍の兵士の数ではなかったのである。前の項で引用した『ふるさとの伝説 清和・周南』の「三百騎坂」によると、「三百」は、頼朝を援助した農民の数だというのだ。以下、「三百騎坂」の一部を紹介する。

 
千葉氏の援軍と共に高宕山を下った頼朝は或難所につき当たった。山の斜面は急で、木や草は伸びほうだいで馬どころか人も通れないと云う有様であった。頼朝は村人に頼んでこの難所に道を作って貰った。源氏の大将と聞いて村人は我れも我れもと山刈りに、道作りにと喜んで参加したそうである。その道作りは幾日かゝったかは不明であるが、その時に集った村人の数が三百人、かり出された馬の数が三百頭だったので誰云うことなく三百騎坂と呼ぶようになった。がだんだんに伝えられていく中に三百坂となってしまい今では三百坂と呼ばれているということである。
 尚頼朝は、山刈りのお礼に何かをあたえなくてはと考えた末お金を与えてしまうとこれからの戦に困るというので一人一人に名字を授けたそうである。(中略)
 今でも西日笠、植畑の一部で萱野と刈込という姓を名のっているが、それはその当時の子孫であると云われている。

 
なお、『ふるさとの伝説 清和・周南』は、植畑で飲み水がなくて困っていた頼朝軍が、見つけた清水でほっと息をついたという、「ほっと井戸」の伝承や、「雨乞いの鉄釜」で高宕山の鉄釜にかかわる伝承なども紹介している。

(5)鹿野山測地観測所の三角点について(君津市)
 東京以外で最初に測量された「三角点」は、鹿野山にあることを知っているだろうか。実は筆者もごく最近知ったのであるが、意外と知らない人が多いのではないだろうか。マザー牧場から神野寺に向かう途中にある、国土地理院の測地観測所の敷地内に、その「三角点」は存在している。明治13年(1880)7月、内務省地理局によって測量されたものだ。標高は「352.39m」を示している。なお、明治5年に、東京では外国人の指導の下に、工部省測量士司によって、13ヶ所の「三角点」が設置されている。
 「三角点」とは、案内板によると、「
地形図作成の基準、地殻変動調査、国土調査の基準として」使用されるもので、かつては三角測量によって測量されたものだ。「三角点」は1等から4等まであり、鹿野山にある「三角点」は1等である。「1等三角点」は全国に972点しかないそうだ。
 同じ敷地内に、「水準点」もあった。水準点は標高の低いところにある、と思い込んでいた筆者には意外な事実である。標高は「三角点」より少し低いところにあって、「350.9944m」であった。「水準点」については、案内板の解説によると「
国道や主要道路にそって1〜2km間隔で設置されています。水準点の標高は、日本水準原点より水準測量を行って決定されます。水準点は、高さの基準を与えるとともに地盤沈下や地殻変動の実態解明に大きく貢献しています」とあった。
 「三角点」と「水準点」は、いずれも高さの基準を示すもので、「三角点」は標高の高い周囲から目立つところに、「水準点」は低地に設置されるものだと思い込んでいた筆者には驚きの事実であった。また、さらに調べていくと、「三角点」は測量の基準であり、「水準点」は高さの基準であるということも初めて知ったのである。

  
    
         鹿野山 三角点                鹿野山 水準点

 三角点の撮影に鹿野山測地観測所を訪れたのは、12月3日の土曜日だった。その日は、富津市環境センターへ粗大ゴミを搬入しに行った日で、そのついでに、『君津市の歴史 PartU』で紹介している六手八幡神社境内の「金刀比羅宮」にある「狛犬」を撮影しようと、君津市に向かった。途中、鹿野山測地観測所の看板が目に入り、前々から気になっていた「三角点」を見ようと測地観測所に行ってみた。この時は、土曜日は測地観測所は休みだとは思っていなかったのだが、普段の土曜日なら、入り口の門が閉まっていて入れなかったのだ。その時は偶然、忘れ物を取りに来ていた職員の方がいて、「三角点」や「水準点」の場所を教えてくれ、撮影までつきあってくれた。今考えると、すごく幸運だったと思う。職員の方に感謝!

(6)君津地方の「防人の歌」と「東歌」
 万葉集については、『富津市の歴史PartU』でも、周准の珠名について歌った高橋虫麻呂の歌を、また、『君津地方の歴史PartU』の「富津市に丸姓が多いのは?」では、朝夷郡の防人の歌を紹介している。ここでは、当地方に関係する「防人の歌」と「東歌」をあげてみる。出典はすべて、小学館の『古典文学全集』である。

 国造 丁 日下部使主三中(くさかべのおみみなか)が父作
  家にして 恋ひつつあらずは汝が佩ける 大刀になりても 斎ひてしかも(20-4347)
(現代語訳)
 家にいて 恋い慕っているよりは おまえの下げた 大刀になってでも 守ってやりたい

 国造 丁 日下部使主三中作
  たらちねの 母を別れて まこと我 旅の仮廬に 安く寝ぬかも(20-4348)
(現代語訳)
 母に別れて ほんとにおれは 旅の仮小屋で 気楽に寝られようか

 望陀郡 上丁 玉作部国忍(たまつくりべのくにおし)作
  
旅衣 八重着襲ねて 寝ぬれども なほ肌寒し 妹にしあらねば(20-4351)
(現代語訳)
 旅衣を 八重着重ねて 寝ているが まだ肌寒い 妻ではないので

 天羽郡 上丁 丈部鳥(はせべのとり)作
  道のへの 茨の末に 延ほ豆の からまる君を はかれか行かむ(20-4352)
(現代語訳)
 道端の 茨の先に はいまつわる豆のように まつわりつくあなたに 別れていくことか


 周准郡 上丁 物部竜(もののべのたつ)作
  大君の 命恐み 出で来れば 我取り付きて 言ひし児なはも(20-4358)
(現代語訳)
 大君の 仰せが恐れ多くて 出て来た時 おれに取りすがって つらいと言ったあの娘よ


 望陀郡は、現在の小櫃川流域で、木更津市、袖ヶ浦市、君津市の一部である。天羽郡は、現在の湊川流域で、富津市の南部にあたる。周准郡は、現在の小糸川流域で、君津市の一部と富津市の北部にあたる。いずれの歌も、家族と別れ遠い九州に防人として働く、あるいは赴任する時の寂しい心情を歌ったものである。防人は、東国から選ばれた。古くから東国は、大和国家にとって、軍事的に重要な地域であったことが関係していると思われる。任期は3年であったが、3年で帰れるとは限らず、しかも、帰りは自費だったという。帰れたとしても、安全に帰着できる保障はなかったのだ。出発する時の気持ちは、本人だけでなく家族ともども、それこそ悲壮感さえ漂っていたことだろうと思う。
 なぜ、84首もの「防人の歌」が万葉集に掲載されたのだろうか。選者はもちろん大伴家持である。彼が、防人を管轄する兵部省の役人となって2年目の755年に、国府を通じて「防人の歌」を集めさせ提出させ、集まった百数十首の中から、84首の歌を選び「万葉集」に収録したのである。ちなみに、「防人の歌」を国別にみると、この時期は安房国が上総国に編入されていたこともあって、上総国の歌が13首と一番多かった。
 実はこの項を作成した時、はじめの2首は、ただ「国造丁日下部使主三中」とあるだけで郡名が不明だったので掲載しなかったのだが、よくよく調べてみると正倉院にある宝亀8年(777)の古裂銘に、「上総国周准郡大領外従七位上日下部使主山」の名があることから、周准郡の郡司一族の作品だと思われる。この2首が上総国の防人の歌の最初に掲載されている理由が理解できる。郡司クラスの豪族から防人が出ているのは、きっと、当地方から出ている防人のリーダー、まとめ役としての役目があったのだろうと思われる。
 「防人の歌」は、万葉集の第20巻に収録されているのだが、第14巻には、「東歌」が載っている。「東歌」とは、東国地方で生まれた、東国の方言で作られた歌のことである。当地方からは、次にあげる「相聞歌」2首が掲載されている。
 

  馬来田の 嶺ろの笹葉の 露霜の 濡れて我来なば 汝は恋ふばそも(14-3382)
 (現代語訳)
  望陀の 峰の笹葉の 露のように 濡れてわたしが来たら おまえは恋ふばそも


  馬来田の 嶺ろに隠り居 かくだにも 国の遠かば 汝が目欲りせむ(14-3383)
 (現代語訳)
  望陀の 峰にさえぎられて こんなにも 故郷が遠くては おまえに逢いたくなるだろう

(7)袖ケ浦公園で思ったこと(袖ヶ浦市)
 
        
        弥生時代の復元住居             奈良時代の復元住居

 先日、ちょっとした用があって袖ケ浦公園に行った。冬の晴れた日である。この公園には何度か来たことがあるが、平日にもかかわらず、思いの外駐車場が一杯だったのには驚いた。冬休みに入り、子どもたちが宿題で歴史でも調べに来たのかと思っていたら、何と地元の中学校で駅伝大会を開催していたのである。中学校の鑑札のついた自転車が、駐車場に何台も止めてあったり、また、駐車してあった自動車は、保護者や先生方の車だったのだ。敷地の広い公園だからこそのことだ。そういえば、富津市の富津公園やふれあい公園でも駅伝大会が開催されていたことを思い出した。
 さて、この袖ケ浦公園は、広大な敷地に、郷土博物館(上総掘も含めて、ミニチャアのディスプレイが楽しい)、旧進藤家住宅(江戸時代の上層農家の住居)、弥生時代や奈良時代の復元住居(上の写真を見てわかるように、微妙に違っている。この復元住居は、郷土博物館建設にともなって発掘調査された「西ノ窪遺跡」の住居址から復元されたものである)、万葉の植物と、何と、「アクアラインなるほど館」なる施設まであるのだ。また、袖ケ浦公園の周辺には、旧石器の出た根方遺跡群や百々目木B遺跡なども存在するなど、まさに、原始・古代から現代まで、いながらにしてその歴史を体験できる場所なのである(袖ケ浦市郷土博物館や袖ケ浦公園について詳しく知りたい方は、袖ケ浦市のホームページを参照のこと)。富津市在住の筆者には、うらやましい限りである。
 近くには、旧鎌倉街道が、そのまま残っている場所もある。下新田から市原市立野にいたるルートだというが、意識して通ったことは、実は全くない。昔の道は「歩く」ことが基本なので、そのまま現代の道として使われているのはある意味で驚きである。昔の道は、「地形にそって」造られているのが一般的であるからだ。技術が進んでくると、山には隧道や切り通しが当たり前になり、地形と道が少しずつずれてくる。富津市にも、相野谷から君津市の釜神に至るルートが残っているらしいので、今度、歩いてみたいと思っている。『貞元地域誌』によれば、「釜神」は宿場町で、現在の釜神橋の南側には道の両側に様々な店が並んでいたという。相野谷から釜神へ抜けるルートは、何でも、北条氏と里見氏の合戦場に関係する、三舟山山麓を通っているらしい。相野谷の入り口付近と、富津市本郷の奥には行ったことはあるが、そこが、鎌倉街道だったのかは定かではない。旧鎌倉街道は、君津市の「釜神」から「高坂」を通って、木更津市の「畑沢」から「烏田」へ抜けるらしい。現在の幹線道路とは、ずいぶんと違っているものだ。
 地域の「道」ひとつとっても、歴史の変遷をたどることができる。そんなことを教えてくれる(考えさせてくれた)施設であった。今後、君津地方に残る「鎌倉街道」を探索しなければと思った。なお、富津市に残る江戸時代の道「房総往還」については、『富津市の歴史PartX』を参照のこと。

 平成29(2017)年、袖ケ浦公園の北側にある山野貝塚が国の指定史跡となったことで、一躍、袖ケ浦公園周辺がスポットライトを浴びることになった。先にもふれたが、袖ケ浦公園周辺には、山野貝塚だけでなく、多くの遺跡が存在する。また、郷土資料館などの施設もあり、旧石器時代から現代まで、居ながらにして歴史を感じ取れる場所だからである。それだけでなく、近くには気軽に買い物もできる「ゆりの里」(農産畜産物直売場)や、ちょっと足をのばせば、ドイツの田園風景を再現したテーマパーク「東京ドイツ村」などもある、観光スポットでもあるからだ。

     
         山野貝塚案内板                  山野貝塚

 好天に恵まれた文化の日(2017年)に、山野貝塚に行ってきた。袖ケ浦公園から20分ほど歩いた。途中には道順を示す矢印や、遺跡の前には案内板があってわかりやすかった。なお、山野貝塚の空撮写真は、『千葉市の遺跡を歩く会』「小櫃川流域の貝塚−豊かな海の記憶」で閲覧できます。

【山野貝塚】
 山野貝塚は、袖ケ浦公園に北方に位置し、縄文時代後・晩期(今から約4,000年前〜2,300年前)の規模の大きな馬蹄形貝塚(南北110m、東西140m)である。房総半島に現存する大型貝塚の中で最南部に所在する貝塚であることから、国の指定史跡となった。周辺には、「鎌倉街道」を初め、様々な時代の様々な遺跡が存在する。

 ついでに、鎌倉街道も見てきた。袖ケ浦公園から、万騎坂のある辺りまで車で走った。ほとんど直線的で平坦な道だ。途中からは、市原市と袖ケ浦市の境界になっていて、両側には左下の写真のように畑が広がっている。未明に雨が降ったおかげで、車が泥だらけになってしまった。右下の写真は、「南ミナミたかくらミチ キタちば ミチヒガシ うしく」とあった道標である。道の反対側に、もう一つの「南たかくら道」と彫られた道標があった。

     
           鎌倉街道                      道標

     
    「南たかくら道」と彫られた道標              鎌倉街道橋
 
 周辺には、館山道建設に先立って行われた発掘で、中世の鎌倉街道跡である山谷遺跡や旧石器の出土した関畑遺跡や台山遺跡も存在している。台山遺跡は、弥生時代の影響が残っている古墳時代の集落跡も出ている。右上の「鎌倉街道橋」は館山道に架かる橋で、山谷遺跡の調査地点はこの付近から東側(写真の右側)である。ということは、この橋付近から300mほどの道路は、かつての鎌倉街道ではないのである。つまり、館山道が通る前の鎌倉街道は、現在の館山道を東南東方向に斜めに横切る形で直線的に通っていたようだ。なお、先行するサイトの「鎌倉街道橋」の写真には「鎌倉街道橋」というネームプレートが付いていたが、現在はない。なぜ?

【山谷遺跡】
 中世から近世の主要道路である「鎌倉街道」の様子がわかる遺跡である。街道遺構に沿って掘立柱建物跡と土抗墓、井戸などが検出されていて、街道に沿った町並みが続いている景観が想像できる遺跡である。山谷遺跡からは、青磁や白磁など大陸からもたらされた磁器や、国内産の陶器なども出土している、特に多かったのは、常滑製品だったそうだ。年代は13世紀から15世紀と考えられるという。

【関畑遺跡】
 
総数3448点の石器が出土した、今から3万年近く前の遺跡である。使われていた石材の7割が嶺岡産だそうだ。千葉方面に向かって館山道の山谷遺跡の手前にある。

【台山遺跡】
 今から約2万8千年前の石器が出土した遺跡で、石材は、ガラス質黒色安山岩が多いそうだ。館山道の山谷遺跡の千葉方面に向かって少し先にあたる。

 各遺跡については、袖ケ浦郷土博物館『はるかなる西上総の歴史』より抜粋させてもらった。また、「万騎坂」などの頼朝伝説に関わる写真を『君津地方の歴史』にも掲載してあります。