君 津 市 周 南 の 歴 史

(1)周南中学校の松本ピアノについて
 周南中学校の体育館のステージの右端に、使われていない古いアップライトピアノがあった。そのピアノは、下の写真のように、ほこりをかぶり塗装もはげかかっていて、中には動かない鍵盤もあった。しかし、れっきとした「松本ピアノ」である。フタの内側には、「MATSUMOTO & SONS」とあり、一段下には「EST ○ 1892」とあった。「○」の部分は、おそらく製造会社の社章であろうマークである。「1892」は、操業開始が明治25年(1892)だということだろう(『明治の楽器製造者物語』によれば、実際の操業開始は、明治26年だったというが)。また、鍵盤の下のフレーム部分には、「MATSUMOTO PIANO KOJYO YSK」「SCALE 1953 ☆」とも印されていた。

      
                    
 先日、千葉県中央博物館「房総の山のフィールド・ミュージアム」の広報誌『しいむじな』を目にする機会があった。そこには、三島小学校にある「松本ピアノ」についての記事があって、現在でも残っているという外箕輪の「松本ピアノ第二工場」の建物の写真も載っていた。「松本ピアノ」については、木更津ケーブルテレビの『君津の歴史たんぼう』で紹介されていたことや、当サイトもリンクさせてもらっている『小糸川倶楽部』にも詳しく紹介されていたので、多少の知識はあったのだが、工場がどこにあるのか正確な位置は、住宅地図を調べてもわからなかった。どうしても写真に撮りたいと思い、以前に『広報きみつ』で「君津の宝」として「松本ピアノ」が紹介されていたことを思い出し、その記事を書いた久留里城址資料館の学芸員の方に問い合わせると、親切にもFAXでその位置を教えてくれた。そこは、国道127号線すぐ脇の八幡神社古墳の北側であった。以下、『明治の楽器製造者物語』(松本雄二郎著)、『松本新吉伝』(大場南北著)、『小糸川倶楽部』をもとに、松本新吉の足跡をたどってみたい。

 「松本ピアノ」は、「西川」「山葉」と並ぶ、国産ピアノ製造の先駆のひとつで、創業者は松本新吉という人物である。松本新吉は、横浜にあった西川虎吉の経営する西洋楽器製造会社「西川楽器」で働き、理由ははっきりしないが、突然「西川楽器」を解雇されてしまい(『明治の楽器製造者物語』では、新吉が秘伝の調律の技術を虎吉から盗み見たのではと推測しているが)、その後、明治26年(1893)に東京で独立「松本楽器」を起こし、紙巧琴(オルゴールのようなものである。以前、楽天のオークションに松本新吉製作の「紙腔琴」が、最低落札価格50万円で出品されていたこともあった。筆者が2万円で入札後、いつのまにか消えてしまったのだが)やオルガンの製造・販売を始めた人物である。明治33年に、ピアノ製造を学ぶために単身渡米、ブラドベリー社で半年間修行して、帰国後本格的にピアノ製造に乗り出した。新吉が渡米する1年前に、山葉寅楠は文部省の肝いりで米国の視察を行い、また、西川虎吉の養子安蔵も新吉と同じ年に渡米している。「松本楽器」の製造するピアノは、新吉のアメリカ修行の成果もあって品質には定評があり、当時は「見栄えの山葉、音質の松本」とまで評されていたという。「山葉」は、言わずと知れた現在の「ヤマハ楽器」のことである。
 「松本楽器」の経営は、順風満帆ではなかった。アメリカから帰国して1ヶ月後に妻が亡くなったり、2度も工場が火災によって全焼したり、銀座にあった「松本楽器店」が乗っ取られ「山野楽器店」となったり、多くの困難を経験している(「山野楽器店」は今でも銀座にある)。妻るゐの死は、直接的には肺炎が原因であったが、新吉のアメリカ滞在費の工面や、残された子供たちの養育による過労が原因だと思われる。松本新吉は、大正13年に関東大震災で焼けた(3度目の焼失)東京月島の工場を長男広にまかせ、外箕輪に自分で設計した洋風建築の工場を建て六男新治とともに楽器製造を続けたが、昭和16年に心臓発作で亡くなっている。77歳の生涯であった。墓は、常代の光聚院にある(『周南地区の歴史PartU』「常代 光聚院について」参照)。晩年は、常代の地に家を建てて、そこで生活していたという。
 その後、東京月島の工場は戦災で焼失(4度目)してしまい、廃業に追い込まれてしまった。しかし、外箕輪の工場は戦時中の一時期は第二海軍航空廠の疎開先として接収され、航空計器の分解・洗浄を行っていたが、戦後復活し、証言を総合すると昭和50年代後半までピアノ製造を続けていたようだ。『小糸川倶楽部』には、「新吉の子孫には、音楽業界で活躍する人が大勢います。また、松本新吉膝下で育てられた人々は、いまだに松友会という親睦会を作り、日本の音楽会、特に調律の分野の重鎮になっているそうです」とある。松友会は、現在「ピアノ松月会」となっているらしい(『明治の楽器製造者物語』)。松本新吉の人柄を示す、こんなエピソードが『松本新吉伝』に記されていた。三浦環や山田耕筰といった、音楽業界では知らない人はいない人たちが、若い頃、銀座にあった「松本楽器」で、展示してあった商品のピアノを弾くことを許されていたというのだ。音楽の発展とピアノの普及を願った、新吉の思いを象徴的に表すエピソードではないだろうか。

 外箕輪にある「松本ピアノ第二工場」を撮影に行くと(平成18年10月7日)、突然の訪問にもかかわらず親切にご主人の松本新一氏が応対してくれ、「工場」の中まで案内してくれた。「工場」の中には、修理中のピアノやオルガンが所せましと並んでいて、それら一つ一つについて、懇切丁寧に説明してくれた。さて、周南中学校の「松本ピアノ」であるが、昭和28年頃に製造されたもので、学校の備品として購入されたものだろうとのお話であった。周南中学校の『創立三十周年記念誌』で確認すると、昭和29年9月8日に「ピアノ購入、松本ピアノより25万円」とあった。ピアノの底に、マジックか墨で「1954」と書かれていた。また、周南公民館の「松本ピアノ」は、もとは君津中学校にあったものだとも教えてくれた。周南公民館にそのピアノを見に行くと、「昭和35年に製造され、その年に君津中学校が購入した」との解説があった。また、お話を伺った新一氏製作のピアノが、君津文化ホールにあるという。

      
        松本ピアノ第二工場            周南公民館の「松本ピアノ」

 写真の「松本ピアノ第二工場」は、『松本新吉伝』によると、応接兼事務所で、平屋建ての工場は、写真の左側に道に沿って建てられていたという。

 平成19年1月29日に、「松本ピアノ工場」から周南中学校に、保存されていたピアノが十数台運び込まれた。残念なことに、関東大震災以来続いてきた「松本ピアノ工場」が人手にわることになったからだ。中学校に運び込まれたピアノの中には、我が国のピアノ製造草創期の一翼を担った「松本ピアノ」(東京の工場で製作されたピアノも含めて)だけでなく、後に山葉に吸収されてしまった「西川ピアノ」も存在していた。とりあえず周南中学校に保管されることになったが、将来的には、1台ずつバラバラでもいいので、しっかりとした展示スペースを確保して、市民に公開すべき文化財だと思うがどうだろうか。もちろん、資金がかかることは十分承知のうえでだ。平成19年3月28日、NHKの首都圏ネットワークの中で、「大正時代のピアノ工場」として、小糸川倶楽部の活動とともに「松本ピアノ」が紹介されていたが、それによると、現在周南中学校に保管されているピアノのうち、グランドピアノ1台が君津文化ホールに展示される予定だという(同様の内容で、4月13日のお昼にも「松本ピアノ」が放送された)。

 Yahooでニュースを検索していると、読売新聞の「明治・大正のピアノ寄贈へ、工場など取り壊しで...千葉」(2007年2月10日)という記事を見つけた。松本ピアノの歴史的価値を示していると思うので、記事をそのまま紹介する。

 
明治-大正期の国産ピアノの代表メーカー「松本ピアノ」(千葉県君津市)の工場と事務所が取り壊されることになり、保管されていた同社のピアノやオルガンなど約20台が君津市に寄贈される。市は「貴重な文化遺産」として、専用施設などで展示・保存することも検討している。
 松本ピアノは、君津市出身の松本新吉氏が1893年、東京都築地に設立した。新吉氏は単身渡米して製作技術を研さん。特に国産エゾ松にこだわった製品は、美しい音色と豊かな音量で高い評価を受けた。「山葉楽器」(現ヤマハ)や、新吉氏が独立前に勤めた「西川楽器」とともに、日本の鍵盤(けんばん)楽器製作で先駆的役割を果たした。
 関東大震災(1923年)で工場が焼失したのを機に、製作拠点を故郷に新設。昭和30年代には職人10人ほどが月10台ぐらいを製作していたが、職人が次第に減り、1991年を最後に製作は途絶えた。
 建物の老朽化が激しくなり、昨年12月、取り壊しが決定。楽器は、新吉氏の孫、新一さん(71)が「先々代、先代が作ったピアノだけでも長く残ることを望みたい」として、寄贈することにした。
 千葉県八街市の音楽プロデューサー馬場孝之さん(64)は「現存する松本ピアノは全国で数十台。日本ピアノ史黎明(れいめい)期の資料として貴重」としている。


 君津市中央図書館で、「松本新吉と柳敬助展」(主催『小糸川倶楽部』)が開催されていたことから、東京新聞(2月21日)や毎日新聞(2月23日)にも「松本ピアノ」の記事が掲載されてた。

 何と驚くなかれ、松本新吉、そして、前出の西川虎吉も、君津市周南地区の常代の出身なのである(「松本ピアノ工場」に保管されていたピアノが周南中学校に「疎開」することになったのはこのためである)。松本新吉の家の当時の住所は、常代992番地だったという(地域の方に伺うと、宮下川の改修や道路建設の関係で、昔の様子が変わってしまったが、現在、ローソンの道路をはさんだ反対側にあたるらしい)。おまけに、二人は親族だったのである。家は隣同士で、松本新吉の妻るゐは、西川虎吉の姪でもあった。全くの偶然であるが、筆者の明治32年生まれの祖母も常代出身で、名前は「るゐ」であった。姓は「高間」なので全く関係はないのだが。

 松本新吉の孫にあたる松本雄二郎氏の著した『明治の楽器製造者物語』によると、西川虎吉は旧姓伊藤で、横浜の西川家の養子となり、最初は三味線職人になった。その後に、西洋楽器の将来性に目をつけ、明治14年に「西川楽器」を設立し、オルガン、そして、ピアノの製造を始めている。日本最初の本格的な西洋楽器製造会社の誕生である(創業年については諸説あるようだが、ここでは、『明治の楽器製造者物語』によった)。ちなみに、「山葉」のちの「日本楽器」、そして「ヤマハ」は、明治20年創業であった。「西川楽器」は、虎吉の没後大正10年に、「日本楽器」に吸収合併されている。しかし、吸収合併されたものの「西川楽器」の技術力は大変優れていて、「日本楽器」の横浜工場としてオルガンを造り続け、製品には「Nishikawa Organ」の名前が明記されていたという。特に、教会関係者に人気があったらしい。「松本ピアノ第二工場」にも、その「西川楽器」のオルガンが1台置いてあった。

 ピアノといえば、「ヤマハ」「カワイ」がすぐ思い浮かぶし、現在では、両社とも世界的なメーカーに成長している。しかし、ピアノ製造の草創期には、わが郷土出身の西川、松本両氏創業の「西川楽器」や「松本楽器」が、「ヤマハ」と並ぶピアノ製造会社として一時代を築いてきたこと、特に、「松本楽器」は、最近まで外箕輪の「工場」でピアノ製造を続け、そのピアノが千葉県内の小中学校などで使用されていたという事実は忘れてはならないだろう。周南中学校にある「松本ピアノ」も、「歴史の証人」として何らかの方法で残していくべきだと思うがどうだろうか。

      
    君津文化ホールの松本ピアノ           三島小学校の松本ピアノ

 ところで『明治の楽器製造者物語』を読んでいて後で気づいたことであるが、三島小学校に残る「松本ピアノ」(右上の写真)は、『小糸川倶楽部』では工場の従業員だった方の証言をもとに、昭和4年1月15日に出荷された外箕輪工場の第1号ピアノだとしているが(「房総の山のフィールド・ミュージアム」の広報誌『しいむじな』でも)、『明治の楽器製造者物語』では、第1号ピアノの完成・出荷は、大正13年の暮れではなかったかと推測している。この矛盾は、どうしたことだろうか。ちょっと気になる話である。そこで、前にもお世話になった久留里城址資料館の学芸員の方に伺うと、「外箕輪の工場でははじめ、オルガンを製造していたらしい」とのことであった。とすれば、『明治の楽器製造者物語』の著者松本雄二郎氏の記憶違いということか。しかし、前出の『松本新吉伝』を読むと、昭和3年夏、声楽家四家文子が外箕輪の工場を訪れ、そこにあったピアノを弾いて、「こんな田んぼばかりの田舎で、どうしてこのような美しい音色のピアノが、生まれるのでしょう」といったというくだりがあった。この記述が事実だったとすると、第1号ピアノは三島小学校のピアノではなかったことになるのだが。ただ、東京の工場で生産したピアノが、修理のためか、あるいは見本として置いてあった可能性も無いとは言い切れないが(結論は、次の「再び松本ピアノについて」の項に)。この三島小学校のピアノは、修理のために周南中学校にある工房に運び込まれたと、「松本ピアノ・オルガン保存会」のブログに紹介されていた。ちなみに、左上のピアノは、松本新一さんが平成3年に製作した、外箕輪工場の最後のピアノである。

 富津市に残る「松本ピアノ」について知りたい方は、『富津市の歴史 PartV』を参照のこと。

 ついでながら、前出の『明治の楽器製造者物語』には、大正、昭和の世相を伝える記述もあったので、以下、それを紹介する。2つ目の『国家総動員体制の中で』という題は、筆者がつけたものである。

 『震災余話』
 (前略)
 震災直後から朝鮮人蜂起暴動のデマが飛びかい、町内に自警団を作り、不審な者を拘束尋問した。松本楽器で雇っていた朝鮮人夫婦は工場の下働き、妻は賄い婦としてよく働いていたが、月島町内の自警団から彼等に呼び出しが掛かり、これを工場側は宗教上の信念から拒否したが、かばいきれなくなり、安全な場所にかくまうために三男三郎と他にもう一人が、この夫婦を中にして密かに移動中、通りかかった惨殺現場を見た彼等は、逃れられないと観念したのか三郎等の腕を振り切って堀割に飛び込み自殺を図った。妻も続いて入水。水面に顔を出した二人を自警団が鉄棒で撲殺した。
 日本近代史の汚点の部分である。三郎は終生このことを悲しみ、二人を守りきれなかったことを悔やんだ。


 
『国家総動員体制の中で』
 
昭和六年、満州事変、昭和七年、上海事変、事件事変と世情が騒がしくなって、ついに日支(華)事変、これは本格的な戦争であった。
 昭和八年の『八重原村 事務報告』は当時の模様がわかって興味深い。
 昭和十三年には「国家総動員法」が出され、これに基づく「平和産業自粛の通達」で楽器製造業者は壊滅的打撃を受けた。
 修理と調律で細々と食いつなぐか、中古品の売買しかできなかった。だが、これにも、「価格統制令」の網がかぶせられ、軍事優先の体制下になった。八重原工場の若者工員は軍隊に取られ、楽器製造業者は転職して、アクションやフレーム、ピアノ線もなくなった。がらんとした工場でピアノやオルガンの修理が時々あったと思われる。
 近世音楽史を読んでも、暗黒の昭和十年代といわれる時代にはいったのである。

 
先述したように、この後、「八重原工場」は第二海軍航空廠の疎開先の一つとして、昭和19年の末から軍需工場となり、航空計器の分解・洗浄を行うようになったのである。

(2)再び松本ピアノについて
 周南中学校に、松本ピアノ工場に残っていたピアノが運び込まれたことは、前項「周南中学校の松本ピアノについて」でふれた。その中で筆者は、「周南中学校にある『松本ピアノ』も、『歴史の証人』として何らかの方法で残していくべきだと思うがどうだろうか」と私見を述べたが、周南中学校の「松本ピアノ」が復元されることになったのだ。こうした市の取り組み・姿勢に「感謝!」である。平成19年10月21日には、八重原公民館で「松本ピアノ」を聴く会が行われ、マスコミにも取り上げられた。11月17日(土)の君津市生涯学習フェスティバルでも、「響け、ふるさとのピアノ〜松本ピアノが奏でる地域の夢〜」と題した催しが行われた。これからも、地域に残る貴重な「生きた」文化財として、「松本ピアノ」を後世に伝えるこうした取り組みを期待したい。
 
 左下の写真は、平成19年の6月14日に、周南中学校の体育館にあった松本ピアノを、技術科室に運び込むところである。6月21日付の読売新聞の記事にもあったが、選択技術の時間に、ピアノを復元することになったからだ。作業は中学生が行っているが、講師はもちろん、松本新一さんである。作業の過程で、鍵盤の裏側に、製造年(昭和29年)が書かれていたことがわかったそうだ。
      
     技術科室に運ばれる松本ピアノ      技術科室に運び込まれたピアノ
      

      部品を取り外した松本ピアノ         これから弦の取り外しです

 右上のピアノが横になっている写真は、周南公民館にあったピアノで、周南中学校のピアノと一緒に復元することになったものだ。解体して分かったことだが、前項でこのピアノは「昭和35年に製造された」と書いたが、実際はもう少し古く、周南中学校のピアノと同時期に製作されていたようだ。周南公民館のピアノは、フレームの色が中学校のピアノと違っていたり、塗装の状態が良く、周南中学校のピアノより新しく見えたのだが、松本新一さんによると、この間に1度修理されているとのことであった。

 11月2日の毎日新聞、東京新聞、朝日新聞の朝刊に、写真入りで、中学生の復元作業の記事が載っていた。ここでは、東京新聞の記事を紹介しよう。

 
時代を超えて 響け明治の音色 『松本ピアノ』 生徒が修復

 
君津市出身の松本新吉が明治時代に創業し、その後製造中止になった国産ピアノ「松本ピアノ」を、同市周南中学校の生徒が修復している。指導するのは新吉さんの孫新一さん(72)=同市箕輪。美しい音色を生む職人技が、時代を超えて伝えられている。(中略)
 修復は二、三年生十八人が、選択科目の技術科で取り組んでいる。生徒らはピアノからフレームを取り外す力仕事から、蒸気でフェルトをはがす細やかな作業まで、さまざまな工程を教わっている。作業は一年では終わらず、次の代に引き継いでゆくという。花井知文校長は「授業でピアノを修復するのは日本でもうちだけだろう。修復が終わればコンサートを開きたい」と話している。
 かつて音大でピアノ作りを教えていた新一さんは、同校の工作機械室を“工房”にして、ほかの松本ピアノも修復している。久しぶりに腕を振るう機会を得て「今の子どもたちは工具を使った経験がないが、技術を吸収するのは早い。ピアノ作りは木工、鉄工、革細工、塗装などさまざまな技術の結晶。この年になってまた作業ができるのは幸せ」と喜んでいる。(後略)


      
 中学生による復元作業は順調に進んでいて、外枠は左上の写真のように塗装がはがされ、鍵盤の象牙もきれいにとられている状態だ。下の2枚の写真は、平成20年10月8日に撮影したものだ。ピアノ本体とともに、写真のようにすべての部材にパテが塗られ、塗装にいつでも入れる状態になっている。また、古い象牙がはがされた鍵盤も、新品同様に復元されていた。
      
 下の写真は、10月22日に撮影した修復中の周南中の松本ピアノである。18日の日曜日に塗装を施し、これから紙ヤスリで表面の凹凸をなくす作業に入るところだという。紙ヤスリをかけると表面がすべすべになり、鏡のようになるそうだ。11月末には、2度目の塗装が行われている。
      

 職場が移った関係で、復元過程の松本ピアノがどうなったか気になっていたが、新聞報道でついに数年がかりの生徒たちの修復作業が完成したことを知った。以下、平成24年3月22日の東京新聞の記事を紹介する。

 松本ピアノ 歌声とともに 君津市立周南中 5年がかりで生徒ら修復

 
君津市宮下の市立周南中学校(朝生敦校長、生徒数百六十四人)で二十一日、同校生徒らが技術科の授業で五年がかりで修復した「松本ピアノ」の演奏会が開かれた。松本ピアノは国産ピアノの草分けとして知られ、同市常代出身の松本新吉氏(一八六五〜一九四一)が創業者。市内にあった工場に残っていたピアノが生徒の手でよみがえり、歌声とともに響き渡った。
 松本氏はアメリカでピアノ作りの技を習得し、東京・月島で明治期にピアノ製作を開始した。関東大震災後は君津市八重原に工場を建て、子や孫に手作りピアノの技を伝えた。
 同工場で作られたピアノは「MATSUMOTO&SONS」と呼ばれ、音の美しさが評判だった。しかし、一九六五年以降、大量生産されたピアノの普及で手作りピアノは衰退。二〇〇七年には、八重原の工場は閉鎖された。この際、工場に残っていた修理などが必要なピアノ十三台が松本ピアノから市に寄贈され、同校の敷地内にある文化財保護施設に保管されることになった。この寄贈がきっかけとなり、同校ではこのうちの一台の修復を技術科の教材として扱いたいと考えた。生徒らが松本氏の孫の新一氏(76)の指導で復元作業に取り組み、五年で計四十九人の生徒が作業を受け継ぎながら、汗を流して完成させた。
 演奏会は、生徒らの授業での成果披露と国産ピアノの先駆けで、同市でも製造された松本ピアノを知る機会として企画された。
 「響け!ふるさとのピアノ 生きた文化財 松本ピアノ」と題した演奏会は、スライドを使った松本ピアノの歴史で幕開け。修復されたピアノで、同校の音楽教諭やピアニストがベートーベンやモーツァルトの曲を演奏した。修復にかかわった関係者の苦労話が披露され、一、二年生約百十人がピアノの伴奏で「絆」などを合唱。ピアノの修復にかかわった生徒らの名前を刻んだプレートをピアノに取り付け幕を閉じた。
 岸良宏教頭は「ピアノは音楽室に保管。合唱など授業で活用したい」と話していた。


 読者はすでに気づいていると思うが、上記の記事には誤りがある。それは、生徒たちが修復していたピアノは、松本ピアノが君津市に寄贈したものではなく、もともと周南中学校が昭和29年に購入したピアノだったということだ。5年の歳月が人々の記憶を曖昧にしてしまったのだろうか。この記事を読んでいてもたってもいられなくなり、24日(土)に周南中学校を訪れ、修復の終わったピアノの撮影をさせてもらった。修復前のピアノの状態(前項の「周南中学校の松本ピアノ」の最初に写真を掲載している)を思い出しながら撮影させてもらった。感慨もひとしおであった。感謝!感謝である。

      
   修復の終わった周南中の松本ピアノ           ネームプレート

【松本ピアノ修復その後】
 選択技術の時間を使った中学生の復元作業と並行して、中学校に保管されている別のピアノを松本新一さん自身の手で、小糸川倶楽部の方や地域のボランティアの方たちと一緒に復元修理も行っている。下の写真は、その復元作業中のピアノである。東京月島にあった「松本ピアノ工場」で大正3年(1914)に製造されたピアノで、装飾の施されていた格別(筆者の思い込み?)のピアノである。復元作業に携わった小糸川倶楽部の方の話によると、このピアノは、燭台が付いていた可能性があることや、大正3年の火災にあった可能性もあったということであった。修復の終わったこのピアノは、君津市の生涯学習フェスティバルで披露された(右下の写真)。

      
       木枠だけになったピアノ            取り外されたフレーム

      
          完成間近のピアノ            生涯学習フェスティバルにて

             
                   君津市生涯学習フェスティバル

 平成19年11月17日に行われた、君津市の生涯学習フェスティバルに参加した。松本新一さんたちが修復したピアノを、周南公民館の職員の方が弾いて始まった。最初に、小糸川倶楽部の河井さんから、松本ピアノの歴史についてレクチャーがあった。次いで、松本さん宅にあったピアノを幼稚園児から中学生、そして、地元出身のピアニストがそれぞれ思いを込めて弾き、パネルディスカッションでは、松本新一さんをはじめ各パネリストが、それぞれの思いを語った。君津市の文化財として、「松本ピアノ」をどう受け止め、どう活用していくのかがテーマであった。ピアノ製造草創期に「ヤマハ」と並び立っていた「松本ピアノ」である、筆者もこのサイトで何度か書いてきたが、まとまった施設が造れればベストだと思う。しかし、それができなければ、せめて、周南中学校に保管されているピアノを修復して、市民が手軽に体験できるように、文化ホールをはじめ各公民館などに展示すべきだと思う。生涯学習フェスティバルの最後に、周南中学校の生徒たちの合唱を聴いて、格別の思いがこみ上げてきた。やはりまずは、松本新吉氏が生まれた周南の地に、孫の新一さんが復元した写真にあるピアノを展示すべきだと思う。ぜひ、周南公民館や周南中学校に展示して、実際に使うべきだと思った。できれば、周南公民館の付属施設に、保存館でもできればいいかなと思うが。また、松本新吉がかって居住していた場所や、外箕輪の工場跡地に、記念碑のようなものを建てるべきだと思うのだがどうであろうか。最後の写真は、参加者全員で「ふるさと」を歌っている写真である。きっと、思いは一つだと思うが、読者はどう思うだろうか。

 平成20年6月23日(月)に、市役所で松本ピアノを使用したコンサートが開かれた。使用したピアノは、生涯学習フェスティバルで披露された、大正3年に製作されたピアノだ。筆者は仕事のため残念ながら参加できなかったが、松本新一さんの話によると、大盛況で狭い玄関ホールに、200〜300人以上集まったのではないかということだった。この大盛況のおかげで、保存会の賛助会員が増えて、「工房」の見学会が8月22日に実施された。また、10月25日(土)の周南中の文化祭の中で、松本ピアノのコンサートも開かれた。

      
   選択技術での修復作業についての展示      松本ピアノについての展示
      
       松本ピアノ製作のオルガン            コンサートの様子
      
     大正3年製作のピアノで演奏          「千の風になって」を演奏

 この10月25日のコンサートの様子は、当日のNHKニュースや、木更津ケーブルテレビの週間トピックスでも取り上げられたことを付け加えておく。ちょっとさかのぼるが、10月18日には、八重原公民館でも、松本ピアノコンサート(2回目)が開催されている。

 【松本ピアノ修復その後2】
      

 前の項でもふれたが、外箕輪の松本ピアノ工場で製作された最初のピアノは、三島小学校のピアノだと言われている。そのピアノが周南中学校に運び込まれ(平成20年3月)、現在修復作業中である(上の2枚の写真 左上の写真は平成20年4月撮影、右上の写真は6月撮影)。松本新一さんによると、解体した結果、いつ製作されたのかを特定できるものが全くなかったということだったが、後に「西暦一九二八年 千葉県君津郡八重原村 松本ピアノ工場製作」(下の写真)と書かれた板材が発見された(1928年は、昭和3年である)。新一さんによると親父(新治さん)の書いたものだということだ。昭和3年に1号ピアノが完成していたとすれば、大場南北著『松本新吉伝』の記述と符合する。三島小学校のピアノは、確かに八重原工場の1号ピアノだったのである。『明治の楽器製造者物語』の著者松本雄二郎氏の記憶違いであった。この1号ピアノには、あちらこちらに修理の後があった。釘を打ち込んで修理した跡なども見せてもらった。現在急ピッチで修復作業を進めているが、かなり手間がかかるようで、松本新一さんは、「新しいピアノを造るほうがずっと楽だ」と語っていた。
              
                  「1928年」と製作年の入った板材

      
 左上の写真は、6月25日に撮影した三島小のピアノである。左右の側面に新しい板材が取り付けられている。右上の写真は7月2日に撮影したもので、表面のでこぼこをなくすためパテが塗られている。これから、塗装に入るところだという。完成が楽しみだ。
      
 上の写真は、9月に撮影した修復中の三島小のピアノである。外側がきれいに塗装が施され、フレームも同じく金色に塗装されている。現在は、弦を張る準備が進んでいる。
      
 左上の写真は10月8日(水)に撮影した三島小のピアノである。新しく作った弦が、すでに張られていた。10月17日(金)には、アクションも取り付けられていた(右上の写真)。着々と、作業は進められているようだ。
      
 左上の写真は、11月12日に撮影した三島小のピアノである。見たとおり鍵盤が取り付けられていた。右上の写真は、12月2日に撮影した、ついに完成した三島小のピアノである。12月21日に文化ホールで披露される予定だとか。
      
 上の写真は、つい最近運び込まれた、木更津一小にあったピアノで、昭和19年に納品されたものだそうだ。現在急ピッチで解体作業が進んでいる。
      
 木更津一小のピアノを解体中に、工員が書いたと思われる鉛筆書きの落書きが見つかった。当時の世相を語る上で、大変興味深いので紹介する。落書きは、1枚の板に3ヶ所書かれていた。一番右側は書きかけだったが、左上の写真の落書きは、その真ん中に書かれていたものである。そこには、「
昭和十六年十二月八日 大本營陸海軍部発表 帝國陸海軍は今八日未明西大平洋に於てイギリス、アメリカ軍と戰闘情態に入れり」とあった。また、その落書きの左側(右上の写真)には、「昭和十七年二月十五日 シンガポールのイギリス軍は無条件降伏ス」とも書かれていた。木更津一小のピアノは昭和19年に納入されたのであるが、製作は昭和17年のシンガポール陥落直後に始まったのかもしれない。


             

 上の写真は、周南地区常代の元洋品店、「伊藤屋」さんのお宅に残っている松本ピアノである。お話を伺うと、今から4,50年前に、音大に進んだ子どもの為に購入したという話であった。フタを開けると、「MATSUMOTO & SONS」とあった。おそらく、現在修復中の周南中学校のピアノと同じ頃に製作されたピアノだと推測される。