(2)再び松本ピアノについて
周南中学校に、松本ピアノ工場に残っていたピアノが運び込まれたことは、前項「周南中学校の松本ピアノについて」でふれた。その中で筆者は、「周南中学校にある『松本ピアノ』も、『歴史の証人』として何らかの方法で残していくべきだと思うがどうだろうか」と私見を述べたが、周南中学校の「松本ピアノ」が復元されることになったのだ。こうした市の取り組み・姿勢に「感謝!」である。平成19年10月21日には、八重原公民館で「松本ピアノ」を聴く会が行われ、マスコミにも取り上げられた。11月17日(土)の君津市生涯学習フェスティバルでも、「響け、ふるさとのピアノ〜松本ピアノが奏でる地域の夢〜」と題した催しが行われた。これからも、地域に残る貴重な「生きた」文化財として、「松本ピアノ」を後世に伝えるこうした取り組みを期待したい。
左下の写真は、平成19年の6月14日に、周南中学校の体育館にあった松本ピアノを、技術科室に運び込むところである。6月21日付の読売新聞の記事にもあったが、選択技術の時間に、ピアノを復元することになったからだ。作業は中学生が行っているが、講師はもちろん、松本新一さんである。作業の過程で、鍵盤の裏側に、製造年(昭和29年)が書かれていたことがわかったそうだ。
技術科室に運ばれる松本ピアノ 技術科室に運び込まれたピアノ
部品を取り外した松本ピアノ これから弦の取り外しです
右上のピアノが横になっている写真は、周南公民館にあったピアノで、周南中学校のピアノと一緒に復元することになったものだ。解体して分かったことだが、前項でこのピアノは「昭和35年に製造された」と書いたが、実際はもう少し古く、周南中学校のピアノと同時期に製作されていたようだ。周南公民館のピアノは、フレームの色が中学校のピアノと違っていたり、塗装の状態が良く、周南中学校のピアノより新しく見えたのだが、松本新一さんによると、この間に1度修理されているとのことであった。
11月2日の毎日新聞、東京新聞、朝日新聞の朝刊に、写真入りで、中学生の復元作業の記事が載っていた。ここでは、東京新聞の記事を紹介しよう。
時代を超えて 響け明治の音色 『松本ピアノ』 生徒が修復
君津市出身の松本新吉が明治時代に創業し、その後製造中止になった国産ピアノ「松本ピアノ」を、同市周南中学校の生徒が修復している。指導するのは新吉さんの孫新一さん(72)=同市箕輪。美しい音色を生む職人技が、時代を超えて伝えられている。(中略)
修復は二、三年生十八人が、選択科目の技術科で取り組んでいる。生徒らはピアノからフレームを取り外す力仕事から、蒸気でフェルトをはがす細やかな作業まで、さまざまな工程を教わっている。作業は一年では終わらず、次の代に引き継いでゆくという。花井知文校長は「授業でピアノを修復するのは日本でもうちだけだろう。修復が終わればコンサートを開きたい」と話している。
かつて音大でピアノ作りを教えていた新一さんは、同校の工作機械室を“工房”にして、ほかの松本ピアノも修復している。久しぶりに腕を振るう機会を得て「今の子どもたちは工具を使った経験がないが、技術を吸収するのは早い。ピアノ作りは木工、鉄工、革細工、塗装などさまざまな技術の結晶。この年になってまた作業ができるのは幸せ」と喜んでいる。(後略)
中学生による復元作業は順調に進んでいて、外枠は左上の写真のように塗装がはがされ、鍵盤の象牙もきれいにとられている状態だ。下の2枚の写真は、平成20年10月8日に撮影したものだ。ピアノ本体とともに、写真のようにすべての部材にパテが塗られ、塗装にいつでも入れる状態になっている。また、古い象牙がはがされた鍵盤も、新品同様に復元されていた。
下の写真は、10月22日に撮影した修復中の周南中の松本ピアノである。18日の日曜日に塗装を施し、これから紙ヤスリで表面の凹凸をなくす作業に入るところだという。紙ヤスリをかけると表面がすべすべになり、鏡のようになるそうだ。11月末には、2度目の塗装が行われている。
職場が移った関係で、復元過程の松本ピアノがどうなったか気になっていたが、新聞報道でついに数年がかりの生徒たちの修復作業が完成したことを知った。以下、平成24年3月22日の東京新聞の記事を紹介する。
松本ピアノ 歌声とともに 君津市立周南中 5年がかりで生徒ら修復
君津市宮下の市立周南中学校(朝生敦校長、生徒数百六十四人)で二十一日、同校生徒らが技術科の授業で五年がかりで修復した「松本ピアノ」の演奏会が開かれた。松本ピアノは国産ピアノの草分けとして知られ、同市常代出身の松本新吉氏(一八六五〜一九四一)が創業者。市内にあった工場に残っていたピアノが生徒の手でよみがえり、歌声とともに響き渡った。
松本氏はアメリカでピアノ作りの技を習得し、東京・月島で明治期にピアノ製作を開始した。関東大震災後は君津市八重原に工場を建て、子や孫に手作りピアノの技を伝えた。
同工場で作られたピアノは「MATSUMOTO&SONS」と呼ばれ、音の美しさが評判だった。しかし、一九六五年以降、大量生産されたピアノの普及で手作りピアノは衰退。二〇〇七年には、八重原の工場は閉鎖された。この際、工場に残っていた修理などが必要なピアノ十三台が松本ピアノから市に寄贈され、同校の敷地内にある文化財保護施設に保管されることになった。この寄贈がきっかけとなり、同校ではこのうちの一台の修復を技術科の教材として扱いたいと考えた。生徒らが松本氏の孫の新一氏(76)の指導で復元作業に取り組み、五年で計四十九人の生徒が作業を受け継ぎながら、汗を流して完成させた。
演奏会は、生徒らの授業での成果披露と国産ピアノの先駆けで、同市でも製造された松本ピアノを知る機会として企画された。
「響け!ふるさとのピアノ 生きた文化財 松本ピアノ」と題した演奏会は、スライドを使った松本ピアノの歴史で幕開け。修復されたピアノで、同校の音楽教諭やピアニストがベートーベンやモーツァルトの曲を演奏した。修復にかかわった関係者の苦労話が披露され、一、二年生約百十人がピアノの伴奏で「絆」などを合唱。ピアノの修復にかかわった生徒らの名前を刻んだプレートをピアノに取り付け幕を閉じた。
岸良宏教頭は「ピアノは音楽室に保管。合唱など授業で活用したい」と話していた。
読者はすでに気づいていると思うが、上記の記事には誤りがある。それは、生徒たちが修復していたピアノは、松本ピアノが君津市に寄贈したものではなく、もともと周南中学校が昭和29年に購入したピアノだったということだ。5年の歳月が人々の記憶を曖昧にしてしまったのだろうか。この記事を読んでいてもたってもいられなくなり、24日(土)に周南中学校を訪れ、修復の終わったピアノの撮影をさせてもらった。修復前のピアノの状態(前項の「周南中学校の松本ピアノ」の最初に写真を掲載している)を思い出しながら撮影させてもらった。感慨もひとしおであった。感謝!感謝である。
修復の終わった周南中の松本ピアノ ネームプレート
【松本ピアノ修復その後】
選択技術の時間を使った中学生の復元作業と並行して、中学校に保管されている別のピアノを松本新一さん自身の手で、小糸川倶楽部の方や地域のボランティアの方たちと一緒に復元修理も行っている。下の写真は、その復元作業中のピアノである。東京月島にあった「松本ピアノ工場」で大正3年(1914)に製造されたピアノで、装飾の施されていた格別(筆者の思い込み?)のピアノである。復元作業に携わった小糸川倶楽部の方の話によると、このピアノは、燭台が付いていた可能性があることや、大正3年の火災にあった可能性もあったということであった。修復の終わったこのピアノは、君津市の生涯学習フェスティバルで披露された(右下の写真)。
木枠だけになったピアノ 取り外されたフレーム
完成間近のピアノ 生涯学習フェスティバルにて
君津市生涯学習フェスティバル
平成19年11月17日に行われた、君津市の生涯学習フェスティバルに参加した。松本新一さんたちが修復したピアノを、周南公民館の職員の方が弾いて始まった。最初に、小糸川倶楽部の河井さんから、松本ピアノの歴史についてレクチャーがあった。次いで、松本さん宅にあったピアノを幼稚園児から中学生、そして、地元出身のピアニストがそれぞれ思いを込めて弾き、パネルディスカッションでは、松本新一さんをはじめ各パネリストが、それぞれの思いを語った。君津市の文化財として、「松本ピアノ」をどう受け止め、どう活用していくのかがテーマであった。ピアノ製造草創期に「ヤマハ」と並び立っていた「松本ピアノ」である、筆者もこのサイトで何度か書いてきたが、まとまった施設が造れればベストだと思う。しかし、それができなければ、せめて、周南中学校に保管されているピアノを修復して、市民が手軽に体験できるように、文化ホールをはじめ各公民館などに展示すべきだと思う。生涯学習フェスティバルの最後に、周南中学校の生徒たちの合唱を聴いて、格別の思いがこみ上げてきた。やはりまずは、松本新吉氏が生まれた周南の地に、孫の新一さんが復元した写真にあるピアノを展示すべきだと思う。ぜひ、周南公民館や周南中学校に展示して、実際に使うべきだと思った。できれば、周南公民館の付属施設に、保存館でもできればいいかなと思うが。また、松本新吉がかって居住していた場所や、外箕輪の工場跡地に、記念碑のようなものを建てるべきだと思うのだがどうであろうか。最後の写真は、参加者全員で「ふるさと」を歌っている写真である。きっと、思いは一つだと思うが、読者はどう思うだろうか。
平成20年6月23日(月)に、市役所で松本ピアノを使用したコンサートが開かれた。使用したピアノは、生涯学習フェスティバルで披露された、大正3年に製作されたピアノだ。筆者は仕事のため残念ながら参加できなかったが、松本新一さんの話によると、大盛況で狭い玄関ホールに、200〜300人以上集まったのではないかということだった。この大盛況のおかげで、保存会の賛助会員が増えて、「工房」の見学会が8月22日に実施された。また、10月25日(土)の周南中の文化祭の中で、松本ピアノのコンサートも開かれた。
選択技術での修復作業についての展示 松本ピアノについての展示
松本ピアノ製作のオルガン コンサートの様子
大正3年製作のピアノで演奏 「千の風になって」を演奏
この10月25日のコンサートの様子は、当日のNHKニュースや、木更津ケーブルテレビの週間トピックスでも取り上げられたことを付け加えておく。ちょっとさかのぼるが、10月18日には、八重原公民館でも、松本ピアノコンサート(2回目)が開催されている。
【松本ピアノ修復その後2】
前の項でもふれたが、外箕輪の松本ピアノ工場で製作された最初のピアノは、三島小学校のピアノだと言われている。そのピアノが周南中学校に運び込まれ(平成20年3月)、現在修復作業中である(上の2枚の写真 左上の写真は平成20年4月撮影、右上の写真は6月撮影)。松本新一さんによると、解体した結果、いつ製作されたのかを特定できるものが全くなかったということだったが、後に「西暦一九二八年 千葉県君津郡八重原村 松本ピアノ工場製作」(下の写真)と書かれた板材が発見された(1928年は、昭和3年である)。新一さんによると親父(新治さん)の書いたものだということだ。昭和3年に1号ピアノが完成していたとすれば、大場南北著『松本新吉伝』の記述と符合する。三島小学校のピアノは、確かに八重原工場の1号ピアノだったのである。『明治の楽器製造者物語』の著者松本雄二郎氏の記憶違いであった。この1号ピアノには、あちらこちらに修理の後があった。釘を打ち込んで修理した跡なども見せてもらった。現在急ピッチで修復作業を進めているが、かなり手間がかかるようで、松本新一さんは、「新しいピアノを造るほうがずっと楽だ」と語っていた。
「1928年」と製作年の入った板材
左上の写真は、6月25日に撮影した三島小のピアノである。左右の側面に新しい板材が取り付けられている。右上の写真は7月2日に撮影したもので、表面のでこぼこをなくすためパテが塗られている。これから、塗装に入るところだという。完成が楽しみだ。
上の写真は、9月に撮影した修復中の三島小のピアノである。外側がきれいに塗装が施され、フレームも同じく金色に塗装されている。現在は、弦を張る準備が進んでいる。
左上の写真は10月8日(水)に撮影した三島小のピアノである。新しく作った弦が、すでに張られていた。10月17日(金)には、アクションも取り付けられていた(右上の写真)。着々と、作業は進められているようだ。
左上の写真は、11月12日に撮影した三島小のピアノである。見たとおり鍵盤が取り付けられていた。右上の写真は、12月2日に撮影した、ついに完成した三島小のピアノである。12月21日に文化ホールで披露される予定だとか。
上の写真は、つい最近運び込まれた、木更津一小にあったピアノで、昭和19年に納品されたものだそうだ。現在急ピッチで解体作業が進んでいる。
木更津一小のピアノを解体中に、工員が書いたと思われる鉛筆書きの落書きが見つかった。当時の世相を語る上で、大変興味深いので紹介する。落書きは、1枚の板に3ヶ所書かれていた。一番右側は書きかけだったが、左上の写真の落書きは、その真ん中に書かれていたものである。そこには、「昭和十六年十二月八日 大本營陸海軍部発表 帝國陸海軍は今八日未明西大平洋に於てイギリス、アメリカ軍と戰闘情態に入れり」とあった。また、その落書きの左側(右上の写真)には、「昭和十七年二月十五日 シンガポールのイギリス軍は無条件降伏ス」とも書かれていた。木更津一小のピアノは昭和19年に納入されたのであるが、製作は昭和17年のシンガポール陥落直後に始まったのかもしれない。
上の写真は、周南地区常代の元洋品店、「伊藤屋」さんのお宅に残っている松本ピアノである。お話を伺うと、今から4,50年前に、音大に進んだ子どもの為に購入したという話であった。フタを開けると、「MATSUMOTO
& SONS」とあった。おそらく、現在修復中の周南中学校のピアノと同じ頃に製作されたピアノだと推測される。
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