袖 ケ 浦 市 の 力 石

 いつだったか、『百街道一歩の房総往還』というサイトを眺めていて、蔵波踏切を渡った道路際に力石が写っていたので、撮影に行こうと思っていたのだが、なかなか時間がとれなかった。そのうち、『千葉の力石』にも掲載されていることを確認したので、何とか時間を作って撮影してきた写真が下の写真だ。力石としては、随分立派な力石だった。

     

       蔵波の道ばたにある石像物              蔵波の力石

 蔵波の力石を撮影したついでに、先日、木更津の上望陀の長徳寺の力石を撮影した後で『千葉の力石』を見ると、その先の袖ケ浦市三黒の大蔵神社(十二天)の力石も掲載されていたので撮影してきた。力石は社殿右前に2個置かれていた。かすかに文字が彫られているのがわかった。『君津郡誌』によると、「大歳神社」として紹介されていて、祭神は大年神だとあった。千葉県のホームページによると、「大蔵神社」となっている。「大蔵」は、「おおとし」と読むのかもしれない。
 大蔵神社に寄ったついでに、近くにあった三黒の吾妻神社、谷中の鹿島神社、三黒の御鉾神社、永地の八幡神社にも寄ってみたが、力石は確認できなかった。

     
           三黒 大蔵神社                大蔵神社の力石

 大蔵神社の次に、小路青年館に寄った。国道409号線の横田小路から南に入って狭い道を左折した奥に、小路青年館はあった。左下の鳥居の右側の建物が小路青年館で、力石は、鳥居の左側に置かれていた。見ての通り、四角い御影石が力石を押さえるように立てかけられていた。力石の脇と鳥居奥に小さな祠があったが、祀られている祭神等はわからなかった。

     
          横田 小路青年館               小路青年館の力石

 小路青年館の次は、大竹の本泰寺に向かった。吉野田から富岡に向かう道の途中から左に入るのだが、初めて踏み入れた場所だったので、地図は持っていたのだが、最後のところで道を間違えたようでいくら走ってもお寺らしき建物が見えなかった。偶然、掃除をしていた地元の方に聞くと、途中で入る道を見逃していたのだ。何とか戻って撮影してきた。地元の方は「建物を建て直ししたから、力石は埋まっている」と言っていたが、しっかりと、駐車場の入り口近くに確認できた。しかも、「
十八」と彫られた文字も読めた。

     
           大竹 本泰寺                  本泰寺の力石

 木更津市の諏訪神社や熊野神社の力石を撮影したついでに、ちょっと足をのばして高谷にある春日大明神の力石を撮影してきた。地図で場所を確認していったのに、いつもの通り入る道を一本間違えてしまい、延命寺の前に出てしまった。もう一度地図で位置関係を確認すると、延命寺から約100mほど先を左に曲がって50mほどの場所だった。地図の通りに進むと、道は車1台がやっと通れる道だった。その道をふさぐように車を止めて、急いで撮影した写真が、右下の力石だ。

     
          高谷 春日大明神               春日大明神の力石

 高谷の延命寺には、袖ケ浦市教育委員会の案内板が2枚山門前に設置されていた。それによると、延命寺には、天正18年(1590)7月5日付けの「豊臣秀吉禁制」と、空海とその弟子聖宝の姿を印刷する「元亀2年(1571)」の陰刻銘のある「版木」が2枚あるそうだ。ともに、市の指定文化財である。また、「
南 くる里たかくら道」と彫られた道標があった(右下の写真)。
 また、この延命寺は、太平洋戦争末期、東京都本所区(現墨田区)言問国民学校(現言問小学校)の5年男子が疎開していた寺院であった。『君津地方の歴史』「君津市域の学童疎開」で紹介していたのにもかかわらず、力石を探しに訪れた時にはその事実をすっかり忘れていたのだ。覚えていれば、また違った取材ができたかもしれない。

     
            高谷 延命寺                延命寺前の道標