これは、長野県南安曇郡穂高町の碌山美術館にある柳敬助画伯の作品の一部です。柳敬助を調べていくと、ドラマチックで著名人との交友関係も多彩です。
荻原碌山作 女
千葉県立美術館所蔵
青木重夫画伯によれば、敬助のほうが断然上手とのことです。また、千葉県立美術館にも2点購入され展示されていました。
私たちはいつかこれらの作品を拝借して、「君津市が生んだ肖像画家柳敬助作品展」を開催し、市内の方々に生の作品を身近で観ていただき、柳敬助をもっと多くの人に知っていただきたいと思っています。
大正12年9月1日、敬助の友人たちの呼びかけにより、日本橋三越で追悼展が開催されました。9月1日といえば関東大震災が起こった日です。文展や二科展に出品した彼の代表作のほとんどが焼失し、多くの人の目にふれる機会を失わせる結果となりました。また、賛助出品してくれた友人たちの作品も一緒に焼失してしまい、その時の目録だけが残されています。ほんのわずか残された柳敬助の作品のほとんどは、安曇野の碌山美術館と八重夫人の母校日本女子大成瀬記念館で大切に展示、保管されています。碌山美術館には、アメリカ修行時代同じモデルを描いた荻原碌山と柳敬助のデッサンが展示してあります。彫刻家となった碌山は大胆で荒削りなデッサン。肖像画を得意とした敬助は丹念で質感のあるデッサン。2人の描き方には歴然とした違いが見られます。
遺作展・遺作の行方
*名前をクリックすると肖像画と人物紹介がご覧になれます
明治42年12月帰国後、敬助の留守中に相次いで家族(母、兄、弟)を失って、すっかり元気を無くした父を慰めながら、しばらく泉の生家で制作の日々を送ります。この頃に、郷土の風物や身近な人たちの肖像画を描いています。郷土の友人立川二郎氏に宛てた手紙に中で彼の『肖像観乃至芸術観』を述べている。
親友死去・結婚・活躍
さて、柳敬助は明治14年(1881)周淮郡泉村の医師山田文安の次男として生まれ、5歳で絶家となっていた親戚の柳家の名跡を継ぎました。籾山小学校(現中小学校)では校長の佐藤善次郎に絵の天分を見出され、千葉中学校に進学すると堀江正章に師事しました。一度は医師を目指しましたが受験に失敗し、東京美術学校(現東京藝術大学)洋画科に入学しました。ちなみに、この年銀座中村屋が創業しています。卒業を待たず、明治36年(1903)22歳のとき渡米し、ニューヨークで油絵の勉強をしているときに、荻原守衛(後の碌山)や高村光太郎、戸張弧雁などと知りあい、親友となります。明治42年(1909)9月、ヨーロッパに渡り、各地の絵画を見て帰国しました。
敬助生い立ち
(柳敬助年表)
*柳敬助画伯の作品の多くは長野県安曇野にある「碌山美術館」が所蔵しています。常設展示ではなく、特別展として開催されますので、碌山美術館のホームページで確認してからおでかけください。
静物画
夫人像
夫人
順子像
禮子像
− 出典:碌山美術館刊「柳敬助集」 −
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