<注釈>抽出し
      ひきだし【引(き)出し/抽き出し】
(1)(「抽斗」とも書く)たんす・机などの、物をしまっておくための抜き差
   しできるようになっている箱。
(2)銀行・郵便局などから、預貯金を引き出すこと。

荻原守衛  (号 碌山)

高村光太郎 詩

   荻原守衛

単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあっ
 た、
坑夫、文覚、トルソ、胸像。
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこ
 に居た。
新宿中村屋の店の奥に。

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹
 とで荻原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
荻原守衛はにこにこしながら卑属を無視し
 た。
単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きて
ゐた。


−原始
−還元
−岩石への郷愁
−燃える火の素朴性。

角筈の原っぱのまんなかの寒いバラック。
ひとりぼっちの彫刻家は或る三月の夜明けに
 見た、
六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊ってゐ
 るのを。荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。

粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いう、
「寸分も身動きが出来んよ、追いつめられた
 よ。」


四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
荻原守衛は血の塊を一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ−日本の底で。

*詩碑は、碌山美術館本館の西側にあります。

守衛の死因についてさまざまな憶測が飛びかったようだ。今から百年近くまえのことですから真相はわかりませんが、良(相馬黒光)がいちばん不愉快に思ったのは高村光太郎の発言だったようだ。光太郎は「病死であろうと自殺であろうと、みんなあの女がからんでのことだ」といっていた。そればかりかあるときは、友とおでんやで飲んだ帰りに良を激しく非難して「死因は脳梅毒だ。うつしたのは良だ」といい、守衛の死の翌年には『荻原守衛』という、上記の詩をつくって意味ありげな言葉をつらねている。

・・・・・・
角筈の原っぱ・・・・・・・・・・・・・
ひとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
六人の・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・

光太郎は感情の起伏が激しい人であったようで良を極端に嫌い、帰朝以来ほとんどちかずかなかった。良にしてみれば、為する梅毒説など笑いとばしてもよかったが、守衛の死に自分が全く無関係だったとはいいきれない。周囲はほんとはどうだったのだろうという目で見ているが、なんといっても守衛の日記を焼いてしまったのだから正面きって抗弁できなかったのだろう。
 学芸員の千田敬一さんは、だれよりも守衛の芸術を愛し、造詣深い人である。守衛の死因についての千田さんの説は結核による喀血説です。ただ、良が守衛の日記を焼いたくだりに話が及ぶと、千田さんは「わたしは黒光さんに厳しいので・・・・」と前置きして「守衛は死ぬ苦しみのなかで、
抽出しの鍵をわたし、日記を焼くよういったでしょうか」といった。千田さんは他国の人だが穂高の人はおおむね郷土が生んだ碌山を誇りに思い、婚家を捨てた良を快く思っていない。

荻原守衛の死因について附則
新宿中村屋
相馬黒光
宇佐美承著より抜粋

      号(碌山)の由来<考察>

 私(管理人)は守衛が、フランスの偉大な彫刻家オーギュスト・ロダンを師と仰ぎ傾倒していたことから、ロダンをもじってロクザンと号したのだろうと推測していた。
 宇佐美承氏は、碌山の号は夏目漱石の『二百十日』の登場人物「碌さん」にヒントを得たのではないか。と、上記の本で記述している。ちなみに、夏目漱石の『二百十日』初出は、明治39年(1906)10月である。
 守衛の略年表(碌山美術館)によると、自ら碌山と号したのは明治40年(1907)で、その間日本にはいなかったことになる。
 この年ロンドンで高村光太郎と交わっており、光太郎が守衛の死後に作成した詩(荻原守衛)の中で「・・・碌なものはできんよ。」ということから推察して、交友を結ぶ中で、すでに「碌」という言葉は滞英、滞仏中、日常的に二人の間で使われていたのだろうと思われる。
 従って、私も、百年も前の話なので事実確認のすべはないが、守衛が「碌山」と号したのは、高村光太郎の言葉「碌でなし」、師・ロダン、変じてロクザンとしたと考察し、このことを宇佐美案にプラスしたい。このほうがロマンがあってよい。
                   −管理人・人見庵−