年 号 年齢 事                項
明治14年
(1881)
 0才 ○5月5日、(戸籍上は5月10日)上総の国周淮郡泉村(現君津市)に生まれる。父・医師、山田七郎平改め文安(31才)と母・はる(26才)の次男。
明治19年
(1886)
5才 ○11月20日、絶家となっていた親戚の柳家を継ぐ。(父・文安の弟・徳三郎の戸籍に入籍)
明治20年
(1887)
6才 ○籾山小学校(現君津市立中小学校)に入学する。在学中、堀江正章に絵を学び才能を磨かれる。
○クリスト・リーブ氏に従って、ドイツ派キリスト教会に所属する。
明治33年
(1900)
19才 ○千葉中学校を卒業する。父の希望に従い、医師をめざして二校を受験したが失敗に終わる。
○絵画への志望強まる。
<交遊録>井口喜源治と荻原守衛、新井奥遽を訪ねる
明治34年
(1901)
20才 ○東京美術学校西洋画家へ入学する。
明治35年
(1902)
21才 ○第七次白馬会へ油絵「田家」を出品する。
*売価20円と出品目録に記されている
明治36年
(1903)
22才 ○絵画勉強のため渡米をもくろむも、師・黒田清輝から時期尚早といましめられる。長兄・誠の支援で父の同意が得られる。
○11月10日、友人達が発起人となり餞別をつのり、黒田清輝はじめ43人から〆て28円10銭が集められる。
*1「
餞別ノート碌山美術館所蔵
○12月12日、信濃丸にて横浜出帆。航海17日間、鉄道5日間を費やし、1月3日にセントルイス到着。
明治37年
(1904)
23才 ○セントルイス万国博覧会(4,30〜12,1)期間中、万博関係で働きながら、美術工芸の出品作品を見て勉強する。
*この時のクーポン式特別入場券51枚(未使用)が残存している。(碌山美術館所蔵)
明治38年
(1905)
24才 ○万博終了後から5月頃までの間にニューヨクに移り住む。
○ナショナル・アカデミーの夜学に入り、ジョージ・ブリッジマンに学ぶ。入学試験の素描の成績がよく石膏のクラスを跳んですぐ人体のクラスにはいる。

<交遊録>アカデミーには、戸張弧雁、荻原守衛も学んでいたが、昼間のクラスだったため、はじめはお互いに知らなかった。
○この後、アートスチューデンツ・リーグに入り、ウイリアム・メリット・チェイスに就く。ここで碌山と知りあい、共に人体素描を学び、デッサンの練習を続ける。
明治39年
(1906)
25才 ○5月頃より碌山と連れ立って高村光太郎を時々訪問する。
○渡仏した守衛の送ってくる習作の彫刻の写真を光太郎と見ながら評しあう。
○本格的に油絵を描くようになったのはこの頃からであろう

<交遊録>
  2月 高村光太郎渡米
  8月 戸張弧雁、帰国
  9月 荻原守衛、再渡仏
明治40年
(1907)
26才 ○4月、三男の弟・修造(24才)、長男・誠(29才)を相次いで失う。
○義兄・岩崎總五郎宛に、山田家の相続は弟・謹吾(四男)にさせるよう依頼の手紙を出す。

<交遊録>
  6月 高村光太郎渡英

*第1回文展開催
明治41年
(1908)
27才 ○4月、三男の弟・修造(24才)、長男・誠(29才)を相次いで失う。
○11月9日、母・はる(53才)を失う。
<交遊録>
  3月 荻原碌山帰国
  10月 富本憲吉、私費で英国留学

*第1回文展開催
明治42年
(1909)
28才 ○2月8日付(ニューヨーク消印)で岩崎宛にハガキで、4,5月に渡欧し、各地巡遊の上帰国する予定と知らせる。
○パリ、ロンドン、その他の諸国をまわり、古今の名作を鑑賞する。
○8月7日、伊予丸でロンドンを出帆。9月中旬帰国し、郷里(中村泉)に落ち着く。
○この間しばしば東京へ出て、碌山、光太郎等、在外時代の友人と会談。

<交遊録>
  6月 高村光太郎帰国
明治43年
(1910)
29才 ○1月「山田謹吾肖像」、「花澤荘作肖像」完成する。「岩崎總五郎肖像」もこの頃の作か。
○3月20日、実父・山田文安(60才)を失う。
○4月20日、碌山からアトリエ落成の電報届き、急いでかけつけるが、その時すでに碌山は中村屋の一室で不帰の客となっていた。
○7月13日〜25日、琅かん堂で個展を開催する。
○秋、相馬黒光から、橋本八重を紹介される。

*日本女子大1回生で、同校『家庭週報』の編集に携わり、原稿依頼のため足蹴く中村屋に通っていた。
○「夫人」(モデル:永嶋瑛子)と「朱胴」(モデル:熊谷守一)を第4回文展に出品。「朱胴」は褒章受賞。
明治44年
(1911)
30才 ○中村屋の相馬愛蔵、黒光夫婦により、橋本八重との話がすすむ。
○新井奥邃に請うていた「有神無我」の書が与えられ、墓碑に刻んで泉に建てる。
○4月25日、*2「
橋本八重(28才)と結婚、東京市雑司が谷に移り住み、アトリエ新築の準備を進める。
*築地精養軒の敬助・八重結婚披露宴の席で、高村光太郎が最初に祝辞を述べる。
○11月1日〜12日、東京赤坂三会堂での「白樺主催洋画展覧会」に出品。
○12月、八重は敬助と相談し、女子大時代からの友人・長沼智恵子を光太郎に紹介する
明治45年
大正元年
(1912)
31才 ○4月、雑誌『昴』に黒田清輝、上田敏、高村光太郎が発起人となり、津田青楓、柳敬助の油絵作品頒布会「敬助青楓画会」の催しが発表される。
大正2年
(1911)
32才 ○日本洋画協会、組織拡張にともない、幹部の1人として活躍。
○7月文展に「椅子に凭りて」を出品。モデルは渡辺栄一。
大正3年
(1912)
33才 ○10月、二科会創立委員として活躍し、創立後は監査委員となる。第1回展に「白シャツの男」(モデル富本憲吉)「初夏 大和にて」を出品する。第2回展からは辞退し、後は文展に出品する。
<交遊録>
  12月 高村光太郎、
*3長沼智恵子と結婚(柳夫婦出席
大正7年
(1918)
37才 ○1月、弟(四男)・謹吾(32歳)死去。
大正9年
(1920)
39才 ○5月、次女・順子(よしこ)、ジフテリアで入院、死去する。
○第2回帝展に「書斎の雪嶺翁」を出品する。
大正10年
(1921)
40才 ○6月、背部化膿による切開手術のため入院。
<交遊録>
  10月2日 東京小石川の野島熙正邸に、柳敬助、富本憲吉夫婦、柳宗悦
      夫婦、岸田劉生夫婦、梅原龍三郎、江渡幸三郎(秋嶺)らが
      会合する。
大正11年
(1922)
41才 ○1月8日、八重の母・うめ(58歳)永眠。
○第4回帝展に、「中原徳太郎肖像」を出品。
○夏、禮子、文治郎を連れて、高尾山妙音ヶ谷の中里介山を訪れ、山歩きをし、庵に1泊する。
大正12年
(1923)
42才 ○1月〜2月、平井武雄等と下諏訪桔梗屋に滞在し、「諏訪湖畔」「諏訪湖畔の雪」を描く。単身、穂高に足を伸ばし、絵を描く。
○帰宅後、かねてより構想を練っていた「或る日の画室」百号の制作を始める。
○3月、体調不調を訴え、親しくしていた村山浩一医師の診断で胃に異常が認められる。
○4月、東京愛宕下、宮原病院へ入院し、レントゲン治療を受ける。
○約束の絵の仕上げを気に病みながら、未完成の絵を残して、5月16日、午後1時半、42年の生涯を閉じる。
大正12年
(1923)
没後 ○友人の間で追悼展覧会が計画され、9月1日から三越呉服店4階、催物室で開催される。不幸にして開会2時間足らずで関東大震災に遇い、展示された作品38点(36点ともいう)、友人の賛助出品64点は、悉く焼失する。
*4絶筆推論 柳敬助の絶作は「或る日の画室」(追悼展で焼失)であるが、この作品を敬助の画室で撮影した写真に「リンカーン」の絵が並んで写っていることから、『現存作品では絶筆と考えて間違いないのではないか』と、学芸員の千田敬一氏は推論している。

柳敬助略年表        碌山美術館・柳文治郎 共著より抜粋

*1  選別ノート(夭折の画家柳敬助)
*2  橋本八重(略年譜)
*3  長沼智恵子(光太郎手記『邂逅』)
*4  絶筆推論(絶作)

添付資料(下記項目をクリックすると簡単な説明がご覧になれます