彼女の名が記されているのは『万葉集』巻9「上総の末の珠名娘子を詠め
る歌一首、并せて反歌一首」の中である。作者は各地の伝説を詠んで有名な
高橋虫麻呂である。
虫麻呂は常陸の国司、藤原宇合の部下であったとみられ『常陸風土記』の
資料蒐集にあたったものと考えられている。藤原宇合が常陸の国司に任命さ
れたのは養老3年(719)とされている。その頃、虫麻呂も宇合に随行し
て常陸に赴いたのだろう。その道すがら上総では珠名の伝説を、下総では珠
名とは対照的な「真間の手児奈」の伝説をきき、後に『高橋虫麻呂集』に集
大成させたのだろう。
珠名がどんな女性であったか、1738番目の歌から読み取り、併せて当
時の郷土の様子も想像してみようと思う。
「しなが鳥安房に継たる 梓弓末の珠名は・・・・・・・」
で始まる、しなが鳥(かいつぶり)は安房に。梓弓は末にかかる枕詞である。
かって、房総半島の開拓を四国の阿波の人が始め、安房・上総・下総の順で
行われたと聞くが上代の房総は上総国と下総国の二つに分けられていた。奈
良時代になって、上総から安房四郡が分立し安房の国と呼ばれた。その後も
併合、分立が繰り返されていたそうだ。第一回目の分立が養老2年(718)
のことだから、この歌は上総と安房が分かれた直後のことではないかという。
宇合が常陸国司になったのが翌年だから「・・・安房に継たる末・・・」と
いう表現になったのだろう。
この歌の当時、小糸川流域の旧富津町、君津町、小糸町は周淮郡(すえの
こおり)と呼ばれていた。正倉院には調として納められた布が現存する。そ
の浅紅布(あさべにのぬの)に「周淮郡額田部千麻呂、細布一反」のもじが
記されてあるという。古くは『国造本記』に、須恵国造・馬来田国造の名も
見える。防人の歌の中には「種沘郡上丁物部竜」の作もある。須恵、末、周
淮、種沘、種准と表記は異なるものの、みな当地のことである。なお周准郡
(しゅすぐん)という名は、明治時代に(現在の袖ケ浦、木更津、君津、富
津4市域を合して)君津郡とあらためられるまで用いられた。周西、周南、
周東は周准から派生した地名ではないだろうか。
さて、珠名の話に戻ろう。
「・・・末の珠名は 胸別の広き吾妹 腰細のすがる娘子その姿の端正さに・・・」
説明するまでもなく十分想像できる表現である。胸が豊かで腰が細く、ま
るで、すがる蜂のようにウエストがきゅっとしまってスタイルがよく、その
顔はどこのも欠点のない美しさだという。まことに羨ましい美女ぶり。「樹
下美人」を思い浮かべたが、ウエストがきゅっと締まった感じはしない。現
代的美人を想像したほうがふさわしいかも。
この絶世の美女珠名が、
「花の如笑みて立てれば 玉鉾の道行き人は 己が行く道は行かずて
呼ばなくに門に至りぬ さし並ぶ隣の君は あらかじめ己妻離れて
乞わなくに鍵さえ奉る・・・」
今も昔も変らないのではないか。美人ににっこりされて、大事な用事も放
り出してフラフラと傍によっていく男性達の姿は! このくだりを読む度笑っ
てしまう。珠名の色香に迷う人の描写が巧みで生き生きしているから。
玉鉾の道を行く人は、多分公用がある旅であろうに! 玉鉾は道にかかる
枕詞である。玉は美称であるから官道(ある程度広くて整備された)を指し
ているのであろう。そこをそれて珠名の家にやって来てしまう。
特におかしいのは隣の主人で、奥さんを離縁してしまって財産管理まで珠
名に任せてしまう。鍵を与えることは、その家の財産管理を任せることであ
るそうだ。今でもこんな騒動はあるのではないか。
「・・・人皆のかく迷へれば うちしなひ寄りてそ妹は たわれてありける」
道行く人が皆、このように迷うので、なよなよとして誘惑しては戯れてい
たそうだと長歌は終わっている。うちしなうのうちは接頭語、しなうは、し
なやかで美しいようす。とあるから、物腰しなやかな媚びている態度をいう
のであろう。
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