内裏塚古墳は内房で一番大きな前方後円墳であり、須恵国造の墓とも珠
名の墓ともいわれている。その主はまだはっきりしない。けれど、珠名の
碑が立てられたことは、そのあたりが相模の国から走水の海の場所を渡っ
て上陸した港に近いところであり、古くから開けた所と考えられるからで
あろう。
官道は、古津(ふるつ:富津)から湯坐(ゆえ)を通り海沿いに木更津
を抜け、市原の国府へ通じていた。珠名を詠んだ虫麻呂はこの道を更に市
川の国府へと行き、常陸の国府まで歩いたのだろう。
しかし、天平勝宝(755)に筑紫に派遣された防人、物部竜(ものの
べのたつ)は、市原の国府に集まり陸路大阪まで歩いて行ったようだ。と
いうことは、陸路が整備されて相模から海を渡るコースはだんだん廃れて
いったものと思われる。それに伴って珠名伝説は旅人に伝え広がることも
なかったのだろう。
それに反して、「真間の手児奈」は下総の国府近くの話であり、益々交
通の要衝の地として栄えたのであろうから、沢山の旅人の耳にも入ったこ
とだろう。珠名の歌はたった一首であるのに比べ、手児奈(てこな)を詠
んだ歌は長短併せて九首もある。高橋虫麻呂だけでなく、山部赤人も詠ん
でいたり、東歌にも四首、大変な人だった。市川市は手児奈霊堂を建てて
手児奈を祀ってある。境内には関連する万葉集の歌と、詳しい説明を書い
た案内板も立っている。真間の継橋、真間の井、昔の面影を偲ぶには無理
があるが文化財保存の姿勢がうかがえた。
真間の手児奈は身をたな知りて、男達を遠ざけて入水した純粋な娘。周
淮の珠名は、身はたな知らず、男達と戯れていたみだらな娘。と、対照的
に描かれている。そして、かたやお参りの人が絶えず明るく広々とした地
に祀られ、かたや山の中にひっそりと訪れる人もなく、碑の存在さえ知ら
れていない。けれど二人とも、わが房総の伝説上の美女である。珠名は道
徳上好ましくないが、もっと地元の人々に知って欲しいと思う。