− 序 −

 『万葉集は』1200〜1300年前の歌集といわれています。最初の歌はかなり古い時代(500年代)で、最後の歌(759年)まで約4500首位あります。そのなかで千葉県に関する歌は42、3首です。そのうち、君津に関する歌として取上げられるものは別紙に記載しているものです。但し、「周淮の珠名」にしても君津市のものなのか、富津市のものなのかわかりません。周淮の歌ということです。
 防人の歌(755年頃に九州に行った人たちの歌)も取り上げられています。大伴家持が郡の長官(兵部少輔)になったので、難波の港で防人達の歌を集め、そのなかの良いものをピックアップし編集したものです。「望陀郡上丁(もうたのこほりかみつよぼろ) 玉作部国忍(たまつくりべのくにおし)の歌」。この作品は君津市域に入るかどうかチョット疑問があります。

(1) 周淮の珠名の歌

−出典:古典を勉強する会 平成2年10月31日刊『わすれ草 第9集』<抄>−
−出典:小糸川倶楽部   平成14年10月『すゑ風土記・周淮の珠名』 河井衣子』−

●周淮の珠名

 「周淮の珠名」の碑は、富津市二間塚の内裏塚古墳の一隅にある。訪れてみると、古墳の登り口は草茫々で、石段のところどころが崩れ落ちていてその上に幾重にも朽ちた落ち葉が積もっていた。まてば椎の木立の中で、阿吽の狛犬が愛らしく迎えてくれた。石段を登りきるとすぐ右側に珠名の碑はあった。摩滅寸前の碑文はかすかに読めるだけ、説明の立札がないとつい、見過ごしてしまう。これが珠名の碑だと教えてもらわないとわかりにくい。周淮の珠名とは何者か!一口で言えば当地方の伝説の美女である。

上総(かみつふさ)の末の珠名娘子(おとめ)を詠む    (巻9 − 1737)

しなが鳥安房に継たる 梓弓末の珠名は
 胸別
(むなわけ)の広き吾妹(わぎも)
腰細のすがる娘子

 
その姿(かほ)の端正(きらきら)さに
花の如笑
(ごとえみ)て立てれば
 
玉桙(たまほこ)の道行き人は
(おの)が行く道は行かずて
 呼ばなくに門(かど)に至りぬ。
さし並ぶ隣の君は
 
 
あらかじめ己妻離(おのずまかれて)
乞わなくに鍵さえ奉
(まつ)

 
人皆のかく迷(まと)へれば
うちしない寄りてそ妹
(いも)
たわれてありける

         
反歌

      金門
(かなと)にし
       人の来立てば
        夜中にも
       身はたなしらず
      出でてそあひける

    
(高橋虫麻呂歌集所出)

周淮の珠名娘子(想像図)

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解説