『アメリカンジャーナル紙』
−掲載記事−

・新吉渡米

 明治32年、山葉虎楠は文部省音楽掛の一行(文部省は学校にピアノを導入したいと考えていた)と、アメリカのピアノ工場視察に出かけていました。山葉は、当時のアメリカピアノ産業の先端を行く工場の部品を買い付け、船便で積んで帰り、それを組み立てて評判になりました。(日本人で最初に作った人物が山葉虎楠とされるのは、このときのことを指すらしい)
 これに刺激されたのが、松本新吉や西川虎吉でした。西川虎吉は養子の安蔵を新吉とほぼ同時期に渡米させました。
 新吉は、オルガンやピアノの製作をいくつか手がけたものの、(明治28年にはもう組み立てていた)経験の乏しさを自覚し、翌明治33年(37歳)妻子を残し私費で渡米、ピアノ製造技術の修行に出掛けました。
 当時、日本からピアノを買い付けに行くのは珍しくありませんが、製作工程全部の修行に来たのは、東洋人では初めてというので、新聞にでかでかと紹介記事が出ました。当時のアメリカは人種差別の厳しいときでしたから、新吉もアルバイトをする上でつらい思いをしました。
 しかし、ニューヨークの F.G.Smith's Bradbury ピアノ工場
では好意的に受け入れられました。それは、新吉の調律の腕前がアメリカ人をうならせる一流のものだったことと、クリスチャンだったことも考えられます。帰国したときも「アメリカンジャーナル紙」に、「松本新吉帰る」の記事が載るほどでした。このような報道は、山葉や西川にはありません。

*松本雄二郎著『明治の楽器製造者物語』より抜粋しました


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松本新吉へのスミス氏の談話:
彼の帰国を従業員全員名残惜しんでいる

日本のピアノ製造業
日出ずる国の進歩的な市民による最初の一歩

「THE MUSIC TRADE REVIEW」
November 24. 1900