・松本楽器合資会社設立

 帰国してすぐ、留守家庭(男5人・女1人の子供)を1人で支えてきた妻「るゐ」が他界するという悲劇にあいました。るゐの死は、新吉に生活費を送るため大変な苦労をしたことが原因だと言われています。翌年、同じクリスチャンの女性と再婚しましたが、この人にも7人の子供が生まれ、新吉は13人の子沢山でした。この子供たちがそれぞれ、日本の音楽会の重鎮となっていきました。
 翌35年5月、新製品ディスク型オルガン、明治36年にはアップライト式のベビーピアノ2種の製造販売を始め、ようやく念願であったピアノ製造の緒に就くことになりました。

 ピアノ製造販売は順調に業績を伸ばし、翌37年には投資家の援助も受け、「松本楽器合資会社」を設立し、銀座三越前に「松本楽器販売店」を出店しました。
 この頃のピアノ業界は、西川・山葉・松本の順でリードしていたようです。オルガンは西川の技術が他社を断然引き離し、追随を許しませんでしたが、ピアノは大体同時期スタートでした。そのため、各社大いにしのぎを削ったようで「見栄えは山葉、音色は松本」と称されるほど、松本ピアノの音質のよさは評判を呼びました。資本が大きく文部省をバックにした山葉にはとてもかなわなかったものの、松本ピアノの売れ行きは好調だったといいます。銀座の販売店には、山田耕筰などの著名な音楽家がよく出入していたそうです。
 新吉は、日本の風土にあった美しい音色にこだわり、よく吟味した国産の材木を用い、特にエゾ松を好んで使ったといいます。

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当時を想像するのに、なかなか面白い言い回しである。
全文を観覧したき輩は、上記著書をご高覧頂きたい。
                    (筆者考)

 広告の序文にある「注意」を「ヤーヤー」にし
 て全文を読むと、次の「名乗」は「遠からん者
 は音にも聞け、近くば寄って見よ」となる。
 大変「大時代」でござるが松本新吉の「ピアノ
 製造初名乗り」である。と、記述している。
*『明治の楽器製造者物語』著者である松本雄二郎氏
 (新吉、るゐの三男の子)は、その著書の中で松本
 新吉最初の製造販売広告を次のように表現している。