・新吉受難時代
松本新吉は、幾度も火災で工場を焼失しています。明治39年築地工場が全焼しています。このときは、東京市長となった後藤新平の肝いりで対岸の月島に用地を提供してもらい、翌40年(1907)には、この写真のような立派な工場を新築し焼け太りと揶揄されました。この頃が、松本新吉の絶頂期でした。ピアノ生産台数は年間100台位だったのだろうと、孫の松本雄二郎氏は書いています。
職人気質の新吉が音色の良い楽器つくりに熱中している間に、合資会社の名義変更が行はれ、代表権が出資者大倉の番頭、山野政太郎に移されてしまいました。
次いで大正3年暮れ、この立派な工場も焼けてしまい、工場再建の資金集めに奔走する間に、銀座の楽器販売店は山野政太郎のものになってしまいました。今でもその場所に、山野楽器店があります。
新吉は、焼け跡に規模を縮小した三代目の月島工場を再建し、ピアノだけを作ることにしました。そして、京橋柳町に「松本楽器販売店」を出しました。山葉楽器店では松本楽器の在庫品、ピアノ・オルガンを15%引き、その他の楽器は50%引きという妨害にでますが、それでも松本ピアノは順調に立ち直っていきました。
大正12年4月には経営に明るい信頼できる人物を入れて会社組織を再編成し、新吉は代表取締役に就任します。それもつかの間、9月1日関東大震災発生、翌日ピアノ工場はもらい火で全焼してしまいます。その年の12月には月島工場の再建はなりましたが、その工場は長男に任せ、自分は郷里に帰って外箕輪に第二工場を建設することにしました。新吉はすでに60歳でした。
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