九十九坊廃寺(伽藍・三重塔想像図)

(2)作者と作られた時代

●高橋虫麻呂

 周淮の珠名の歌は高橋虫麻呂とされています。この人は藤原宇合という
人の部下ではなかったかといわれています。藤原宇合という人は鎌足の孫
です。鎌足の息子が不比等で、宇合は不比等の三男です。この人は日本武
尊と同じように、あちこちに行かれされている<西海道節度師(さっかいどうせつどし)とか常陸守(ひたちのかみ)>。それを愚痴ったような歌
が残っています。
 宇合が常陸守に任じられたのが719年です。この年、安察使
(あぜち)
という監督官の制度が東国と九州3か所に置かれました。初めて置かれた
ときに藤原宇合が常陸・上総・下総4国の監察官(監督官)というか、そ
ういう役目をおって赴任してきました。
 この辺は、作者一行が常陸から房総全部を巡視するため、その途中で立
ち寄ったのか、それとも赴任する途中で都から走水のほうを通って、まだ
官道が整備されてないから富津から上陸して君津を通り上総国府に行く途
中、とにかく周淮に寄っているだろうと思います。そこで、推測なんです
が、九十九坊廃寺が7世紀末(690年頃)に建てられています。

 それから20〜30年後ですから、まだこのあたりは周淮国造か、他の
支配者かに変っていたかわかりませんが、かなり繁栄していたと思われま
す。九十九坊が建てられたということで、かなり力があった時代だろうと
推測されます。
 京から来た人たちへの歓待の宴も田舎としてはかなり華やかであっただ
ろう。その席で「周淮の珠名」について、昔、こんな女の子がいたという
話しがでたのではないかと思います。周淮では「珠名」の話を聞き、そし
てこんどは下総の国府のほうに行って「真間の手児奈」の話しを聞いたの
でしょう。「真間の手児奈」の話は、高橋虫麻呂が真間に行く前から山部
赤人などが羇旅(きりょ)の歌という旅の歌で詠っています。こういう話
と抱き合わせて、向うが聖女だから、こっちには凄い娘がいたんで、対照
的に京に帰ってから歌に詠んだのか、その辺が定かではありません。周淮
の珠名については本当にそのような人がいたのか、高橋虫麻呂が創りだし
た人なのか、不確かです。
 高橋虫麻呂については『常陸風土記』を藤原宇合と一緒に編纂したと言
われています。『常陸風土記』とか『出雲風土記』など、残っている中で
もかなり格調高いものです。だからこの二人がかなり関わっているのでは
ないかということで、高橋虫麻呂という人の存在は信憑性が高い。高橋虫
麻呂は他にも浦島太郎の話とか伝承歌をたくさん詠っています。
 昔、この辺に見目麗しき美少女がいたということを想像するだけでも楽
しいものではないでしょうか。



            
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ハス