●防人の制度

 防人の歌は天平勝宝7年(755)2月派遣時、難波の港で大伴家持に提出されたものです。東北地方を征討に行くのに上総からも兵士を出しています。大宰府にも出し、東北にも出す、というと二重ですからとても大変です。しかも、疫病が流行ったり、天変地異があったから、この2年後から大宰府に坂東諸国から兵士を遣わすことが廃止され、もとのとおり西国から派遣するようになったので、この人たちは無事に帰ってきます。防人で九州に行った人たちの中には九州に住み着いた人たちも沢山います。大宰府の娘子たちがとても可愛らしかったので香取娘子(かとりおとめ)と約束した仲を破ってしまったという歌もあります。

 「筑紫なる にほふ子ゆゑに 陸奥の 香取娘子の 結びし紐解く」

 防人の任務は3年間です。防人の人たちはどういう格好で出かけたかというと籠を背負っていました。防人に行くのに弓は何脚もなかったでしょうが、矢の方はそれぞれ50本用意することと、難波の港に行くまでの間の食料は自分持ち、衣服も自分持ちでした。武具や衣服、食料も全部背負って、上総の国府に集められました。はじめは海のほうからまわったかもしれませんが、755年位になると下総を通って武蔵を通り足柄山を越え、難波の港に各国の防人たちが集まりました。そこから初めて船に乗せてもらい、官からは衣服も食料も支給されました。九州に赴任後、大宰府や壱岐・対馬に配置されます。そうすると、そこで土地が与えられ食料を生産します。自給自足です。

 望陀郡上丁・・・・・話。一つだけ離していましたが、720〜730年位からこの近辺には周淮郡・望陀郡のほかに畔蒜郡(小櫃・久留里・松丘・亀山)がありました。755年頃、小櫃の一部がまだ望陀郡に入っていたのか、君津市域が望陀郡に入っていたのか。はっきりしません。昔は、馬来田国造の支配下にあったのは確かですが、大化の改新後に郡制がしかれたりして、望陀郡から分離していたとしたら君津の歌の中にこれは入ることになります。


               
次へ