●望陀布

何故この近辺の人の歌が整っていたかというと、京から訪れる人が多く、
その人たちの交流で上手になったと考えられます。どうして多くの人が訪
れたかというと、この地方には上等な麻布が織られていたからです。白村
江の戦いで敗れた百済の人たち(職人)が東国に2000人送られてきて
います。

 ここは「総(ふさ)」の国です。総とは麻のことです。それで麻を織る
技術を教えたのではないかと思われます。租庸調として米以外にこの辺で
科せられたのが調布(麻布)です。望陀布というのが有名です。地域の名
がついている布はほかに美濃の絁(あしぎぬ:粗い絹織物)があります。
望陀布は天皇が践祚(せんそ)したりしたときに布団や幔幕に使われ、絶
対これを使わなければならないという決まりがありました。

 この望陀布は、1センチ間に経(たて)・緯(ぬき)とも約23~24
本と通常の調布に比べ密度が高く(普通の調布は経:約10本、緯:数本
程度)糸も細いようで、貲布(さよみ)の名にふさわしい。勿論手織りで
す。今、袖ケ浦の学芸員の人たちが復元しようと挑戦していますが、1セ
ンチ間に経・緯とも約20本詰め込もうとすると切れてしまい織れないそ
うです。望陀布は現存しませんが、周淮郡の糠田から東大寺廬遮那物の開
眼法会のときに特別に織られて差し出された布は正倉院にあります。写真
(正倉院展)でみると、まるでシルクと見紛うような素晴らしいものです。

 天皇が践祚するとき神が降臨し、褥をともにする・・・と言い慣わされ、
その神様が寝る布団に望陀布を使ったそうです。そのとき、天皇が同衾す
るかどうかはわかりません。絶対それを使わなければいけなかったという
のはどんな理由かわかりませんが、望陀の貲布として、名を留めた布がこ
ちらの地方で織られたということがとても素晴らしいことだと思います。

 麻は青い染汁で染める藍色が普及していますが、ほかにも紅や黄、水色
もありました。紅花は山形が有名ですが原産地は千葉県です。正倉院に残
っているのは赤い布です。上敷きとして5枚使ったという記録が布の端に
書いてあります。

 普通の麻は手触りがゴワゴワしたものです。それを緻密にしたのは百済
からきた人たちの指導があったから、高度な織り方ができるようになった
のではないでしょうか。この「調布の負担が大変だからもっと軽くして」
と、願い出たら、特別のようですが軽くされたという記録があります。

 平安時代、上総の国はたびたび戦乱が起こり、農村はすっかり疲弊して
しまいます。そのせいでしょうか、上総布、望陀布の記述はすっかり消え
てしまいました。



                         次へ


 望陀布は奈良の正倉院にあります。常設展示し
 ていません。ご覧になりたい人は、図書館にあ
 る書籍「正倉院展」で御覧下さい。