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記』なんですが、浦賀あたりから富津岬の南に上陸したようです。大化の改新後、官道(玉桙の道)が整備されました。この当時はこれが東海道の本道でした。740年くらいにこの道は東海道の本道ではなくなっています。防人たちが行ったのは違う本道です。武蔵のほうが東海道の本道になりますから。大化の改新頃の本道(幹線)としては富津から北上し、上総の国府に入り、今の千葉あたりから印旛・香取の方に曲がって、香取の海(霞ヶ浦)の東岸を進み常陸国府に入りました。市川の真間や武蔵のほうは本道ではなく私道だったのです。
 高橋虫麻呂はどこを通ったのでしょう。監督官ですからいろいろ見てまわります。多分、郡衙や駅家を官道辺りを見ただろうと推測されます。

 古代の道は「相模から走り水の海を渡り、総の国に入った」という記述があります。これは、『古事

●高橋虫麻呂はどこを通ったか

 大化の改新後、上総の国府を市原の五井につくるよう命令が下ると新しい港がそこに築かれました。浦賀のほうから走水という難関を通って富津に来るよりも、もっと穏やかな内湾を通ってきた方が安全に船で来られます。国府に近いということで、その頃に今津という地名ができたのでしょう。そうする
と、この辺は通らなくてもよいようになります。上総の国府から安房の国府へ何か伝達があって来る以外は、用がなければ来なくなってしまうので、この辺は次第にさびれていったのだろうと思います。

 港というのは公の港と徴税(命令系統の行政面で使う)の港というのがあります。富津から市原の今津(現、今津朝山か)に移ると、水路も陸路もそちらのほうに移る。このように道路網、交通網の変化によって、現代も同様に商圏までが変ってしまいます。

 5世紀頃に内裏塚古墳が造られたということはそのころはまだこちらのルートが幹線です。周淮の豪族が「俺の力は偉大だ」ということを象徴するために、海上から見える場所に大きな内裏塚古墳を造ったのではないかと。 
(豊巻説)
 その後、法律がいろいろと改正され740年頃、武蔵のほうが本道になりました。武蔵から市川に至り、印旛・香取はそのままで霞ヶ浦の東岸を通り常陸国府に行く。今までの本道が私道になったので、官人たちは用事がない限りこちらの方に来なくなります。次第に廃れていったのではないでしょうか。
(4) 周淮の郡衙・駅家の位置