内裏塚古墳 
−出典:富津市観光ガイド−

●日下部使主三中と周淮の国造の関係

 富津にある内裏塚古墳は5世紀頃につくられた古墳で、周淮の国造であった豪族の墓ではないかといわれています。

 5世紀頃よりもっと前、総(ふさ)の国と呼ばれていた時代、千葉県全体に七つの国造があり、周淮・馬来田(うまくた)・上海上(かみつうなかみ)・伊甚(いじみ:夷隅)・武社(むざ)・菊間(くくま)・阿波といわれたところにおかれています。このあたりは早くから大和朝廷に従属し、東征拠点として大変重要視されていました。

 大化の改新後「総の国」は上総・下総の二国となり、上総の国府は市原に、下総の国府は市川に設置されました。国司が任命された後には、上総は親王統治国となり国司には親王が任命されてきますが、郡司は地方の国造が任命されたと推測されます。

 日下部使主。この使主という身分は天武天皇のとき、「八色姓(やくさのかばね)」の身分制度が厳重になります。厳重にされた上で、房総に置かれた11の国のうち周淮・望陀・伊甚には臣(おみ)の位が、国府のある市原などは直(あたい)の位があたえられます。

 日下部三中は「使主:つかいぬし」と書いて「使主(おみ)」と名乗っているわけです(これは京の大臣などと区別するためか。臣の中にも身分の違いがあったのかわかりませんが)。普通は臣、直は国造という特別の官位にあたる人しか名乗れませんから、わざわざ使主がつけてあるということは周淮国造の一族であろうと、『君津市史』では推定しています。日下部姓は周淮郡、畔蒜郡(あびるのこほり:小櫃・久留里・松丘・亀山)に見られました。


             
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