『すゑ風土記」をごらんいただきありがとうございました。
次回は「小糸川揚水車の歴史」を予定しています

 戦争中(昭和20年頃)、君津駅の回りは、田圃で湿地帯だったようです。雨が降ると道路が泥んこになるような状態だったそうです。官道は安全な道を通りますから、必然的に湿地帯は避けます。そうすると山の中の道を通ったでしょう。山沿いであるとしたら、小山野の隧道付近の道を通ったのではないかとと思います。駅家は16Km間隔で設けられたようです。富津

に不入斗(いりやまず)という地名があります(姉崎にもあります)。この辺は税金を免除しますという意味なんです。税金を取らないということは、そこになにか官に関係する施設があったと考えられるので、駅家が置かれていたか郡衙があったか、多分どちらかがあっただろうと思われます。税金を全く取らないということではなく、都に収めなくてもよいが、官の施設のお米や用役などの提供を科しました。不入斗から16Kmの地点というと、大体、外箕輪付近になるのではなかろうかと推測されます。

 昭和42年に撮影された空中写真の中に外箕輪遺跡が載っています。ここを発掘したところ長方形の建物跡が出てきました。奈良時代の頃のものらしいと推定されています。かなり大きな建物跡なので官の役所か駅家ではないかと思われます・・・・・?

 条里制の跡ということで写真を添付しているのですが、左側のキチッとした升目の方は区画整理したところです。が、キチッとした升目ではなくて、右側のボヤッとしたところです。外箕輪の周りとか郡とか、三直の周辺にも条理遺跡がありますので、この辺りに官のものがあったのではないかと推測されます。

 地図は昭和5、6年のものです。国道127号線が通っていません。昔の字名が残っています。×印を付けている「神宿」のあたり。これから内箕輪との間あたりの道路は、ほぼ旧いままと思われます。

 その先に子安神社があります。子安神社に行くから大道といっていたのか。よくわかりませんが、袖ケ浦市史は子安神社のあたりに駅家があったと記述しています。

 「馬門(まかど)」という地名は郡衙か馬家があったから付けられた地名ではないかと思われますが、郡条理遺跡を発掘したチームによると郡衙に関するものは何も見つからなかったそうです。駅家は、官人たちが用いる馬を置いておかなければいけないので、駅戸という50軒の家で奉仕します。役人が来ると食事の

接待とか宿の世話、その人たちが食べる米なども作っておかなければならないし、馬の世話もしなければならない。ここ周淮郡の駅家から下郡かどこかわかりませんが、畔蒜郡の郡衙に行くためか、望陀の郡衙に行くためのどちらか、そこの郡衙と駅家までの間、馬子が案内しました。子安神社の周りであれば50軒くらいありそうですが。外箕輪遺跡の周りは、昭和の初期でも50軒程度だから外箕輪に駅家があったかどうか迷っています。

 京から役人が来るたびに奉仕がかさみ大変な負担となります。奉仕に耐え切れず50軒全体が離散(浮浪人)したということが、何度もあったようです。条里制で班田が川の傍にあった場合、川が氾濫すると何も穫れません。だけど、税(米)は払わなければなりません。だから逃げたくもなります。駅家が外箕輪あたりに埋没しているのではなかろうかと推論するのは無理でしょうか。小糸川があまりにも近いですし、川が氾濫するとお米の収穫ができなくなりますから、駅戸を50軒確保するのは難しいでしょう。

 外箕輪から九十九坊あたりを通り烏田の方面に抜ける道がこの地図の当時もあったのです。昔の官道はここを通って下郡のほうへ向かっていったのではないかと思われます。

 いずれにせよ、周淮郡の郡衙や駅家は国道127号線に近い君津市域に設置されていたものと思います。

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神宿

大道

大道

大道

大道

馬門

子安
神社

 

外箕輪遺跡

八幡神社古墳

外箕輪

杢師

内箕輪

北子安

南子安

昭和42年撮影  空中写真 
昭和5.6年頃の地図

小糸川の桜並木