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シリーズ討論

社会保障制度の将来

袖井孝子お茶の水女子大学教授
国民会議ニュース2001年01月号所収

司会 前回は財政構造改革の議論を行ったが、そこで、社会保障のあり方とか公共事業とか、具体的な話を少しやらなければならないのではないかという議論も出た。そういうこともあって、今回は社会保障のあり方について議論することとした。
 ただ、開催するにあたって、社会保障の問題というと直ちに財政論あるいは技術論に入り込んで、保険か税かとか、消費税は何パーセントがいいとかいう数字の話しばかりが先に立つ。いずれそういう技術的な話も聞きたいと思っているが、今日はそうした話に入る前に、これからの社会というものは一体どういうふうになるべきなのか、あるいは、これからの社会の中で社会保障というものをどういうふうに位置付けたらいいのかといった基本的な問題についての議論をして、必要があれば技術論にも入っていきたい。そういうことで、袖井先生をお招きした。
 袖井先生は10月の「社会保障構造の在り方について考える有識者会議」の報告書「21世紀に向けての社会保障」の起草委員をされた。この有識者会議というのは、結果について全員が不満というなかなか変わった会議であるが、どういうところが不満なのかをお聞きできればと考えている。また、袖井先生は「女性のライフスタイルの変化等に対応した年金の在り方に関する検討会」という長い名前の会議の座長も勤めておられるので、これについても触れて頂ければありがたい。


1 有識者会議の提言について
 誰もが不満
 もともとの発想は厚生大臣の私的諮問機関
 小渕さんは真面目だった
 議論は矮小化
 持続可能な社会でなく、持続可能な制度を議論
 チグハグなトーン
 国民にゲタを預ける
 安易な公費負担増
 支え手を増やす
 個人単位化には抵抗
 多様な働き方に対応したシステム
 高齢者も負担
 給付の見直し・効率化
 最初から結論は保険方式
 政治家の役割

2 社会保障制度の将来
 どのような社会を目指すか
 安易な中福祉中負担
 人生選択に中立的な制度
 高齢者に偏った福祉
 公平と平等
 教育の必要性
 どこから手をつけるか
 役人は変わらない
 企業への注文
 地方から変える

3 質疑応答・討論



袖井 まず最初に有識者会議のことについて簡単にお話し、その後で、どういう社会を目指すのか、どういうことを考えたらいいのかについての一つのたたき台というか議論のネタのようなことを提供しようかと思う。
 私は年金の専門家ではなく、もともとは家族社会学を専門にしていて、それから高齢者問題の方にシフトし、今はもっぱら高齢者を巡る家族の問題というあたり、家族、女性の問題を中心に研究をしている。したがって、本当の社会保障の専門家からみると見当はずれなことを言うかも知れないが、こういう発言も必要ではないのかということを感じている。

1 有識者会議の提言について
誰もが不満
 まず、最初に「有識者会議」について簡単にご説明したい。元東大教授で現在中央大学教授の貝塚啓明さんが座長で、慶応大学教授の清家篤さん、さわやか福祉財団の堀田力さん、東大教授の宮島洋さんと私が起草委員ということで報告書を書いた。先ほどの話にあったように、ほとんどの方が非常に不満で、満足しているのは座長だけではないかという非常に珍しい会議であった。報告書が発表されてから、いろいろな新聞にインタビューされたりして、皆さんがいろいろな意見を出しておられるが、採点で一番厳しいのが堀田さんだろうと思う。堀田さんは40点だといい、貝塚先生は80点だと言っているが、私はその中間で5〜60点かといった感じで、あまり皆さん満足していない。

もともとの発想は厚生大臣の私的諮問機関
 この会議は、1月18日から始まって10月24日に報告書を取り纏め、10月27日に森総理大臣に提出した。もともとは厚生大臣が社会保障の問題を考える、いわゆる私的諮問機関のようなものを作りたいということで始まった。ご存知のように、いま社会保障が大変なことになっていて、年金改革も年金審の議論が纏まらず、今年から改革がスタートしたといっても、保険料をちょっと上げて給付を下げるという、小手先の修正くらいしかできなかったということで、年金を何とかしなければならないという意識があった。もう一つは、医療改革という非常に大きな問題がある。これも本来的には介護保険の導入よりも先行しなければならなかったものである。というのは、今、医療費がもの凄く増大していて、しかも老人医療費が非常に増え、10兆円を超えている。そのうちのかなりが社会的入院によるもので、慢性期の高齢患者が病院にいることによって医療費が非常に高くなっている。これを何とかして減らさなければいけないということで、医療から福祉へのシフトが課題となっている。今の日本の社会保障給付をみると、年金が5、医療が4、福祉が1(実際には0.9ぐらい)となっており、医療費が高い。北欧諸国は福祉の方が比重が高いが、日本は医療費が非常に高い。この医療費を減らすということが緊急の課題となっているのだが、医師会の反対があってなかなか出来ない。結局2002年から改革ということになっている。そういう意味もあって宮下厚生大臣が議論する場を創りたいということだった。ところが、それを聞きつけたのか、当時の小渕総理が、社会保障は非常に重要な課題だからもう一格上げて官邸直属というものにすべきだと言い出して、総理の諮問機関となった。

小渕さんは真面目だった
 小渕さんはやたらに何とか会議、何とか会議というのを創って、マスコミにはからかわれていましたが、しかし非常にまじめな方でよく勉強なさる方だった。有識者会議にも本当にちゃんと出席され、最初から最後までおられ、不味い官邸のご飯まで一緒に食べて、最後にご自分の言葉で感想を話されるといった非常に誠実なひとだった。確かに人柄の小渕さんと言われるように、誠実というか真面目に付き合っておられた。ところが、過労から倒れて亡くなられたということで、有識者会議もしばらく頓挫して間があくことになった。
 それから森総理が登場したわけだが、この方はあまり社会保障に関心もないし、あまり勉強をしようともしない方で、あまり出席されないし、たまにいらっしゃっても役人の書いた文章を読んでそそくさと出ていってしまうといった感じで、なんだか、委員の間でも少しやる気がなくなった、ちょっと拍子抜けした、という感じになった。

議論は矮小化
 この会議の報告がどういう意味で不満があったかというと、一つは、社会保障制度に関する根本的な、ドラスティックな骨太の改革案を示すということでスタートしたはずだったのに、結果としてはどうも非常に矮小化というか、負担と給付の問題、財政論のところに行ってしまったということである。これは、座長が貝塚先生で、その他にも石先生とか宮島先生だとか、財政学の専門家が揃ってしまったということも大きいのではないか思う。私とか堀田さんなどは、もっと基本的な哲学、フィロソフィーのようなものをちゃんと議論して、どういう社会を目指すのかということを討議するのかと思っていた。しかし、もう最初に結論が見えているような感じで、負担と給付というところに議論がすぐに行ってしまったということで、非常に不満が残った。

持続可能な社会でなく、持続可能な制度を議論
 それとも関連するが、今必要なことは、基本的には持続可能な社会をつくるということではないかと思う。これは、環境問題とか経済システムとかいろんなものを含めて、今、日本は非常に危ないところへ来ている。したがって、どういうふうな持続可能な社会を構築するかがメインテーマではないかと思うのだが、実際には、持続可能な社会保障制度という話になってしまい、しかもその社会保障制度の中でももっぱら年金の方に議論が行ってしまった。年金をどうするか、保険料をどうして、給付をどうするかというところがメインになってしまったということで、この辺のところも非常に不満があった。
 それから、根底的な改革案を出すということを言っていたにもかかわらず、結局は現状維持というか社会保険制度を堅持するというかたちになってしまったといったところにも非常に不満がある。

チグハグなトーン
 報告書を読んでいただくとお分かりになると思うが、全体のトーンがちょっとというか、大いにチグハグなところがある。これはおそらく、座長のパーソナリティーにも原因があると思う。貝塚先生は非常に人柄のいい方で、いろいろな人の意見をよく聞いて、みんな入れてしまう。強い路線を出すよりも、皆さんの意見を入れてしまう。この「皆さん」の中には役人の意見も入っている。私もいろいろな検討会とか審議会に出ているが、普通はもう少し座長がリーダーシップを握って役人がいろいろなことを言うと「黙れ」というか、たしなめたりするのだが、かなり役人さんの言うことを聞いてしまった。したがって、厚生省が今まで言ってきたような意見がそのまま出ている。
 また、大蔵省にも非常に気を遣われた。こういうのは私も初めての経験であったが、起草委員の会合に大蔵省の主計局の若い方が来て、要所要所でピッシと発言する。例えば消費税の目的税化とかそんなようなことが話題に出てきたりすると、「うちの大臣はそういうのは認めませんね」とか言う。「うちの大臣ではなく貴方が認めないのでしょう」と思うのだが、すごく怖いというか権力を握っているのは大蔵省だなという気がした。結局、そういうところで抑えられてしまい、新しいものがない内容になってしまった。もう少しなんとかできなかったかなと思うのだが、タイムリミットも切られていたということもあって、かなり中途半端なものになってしまい、社会保障制度審議会などから出たのとどう違うのか、あまり違わないのではないかという気もして、非常に不満が残ってしまった。

国民にゲタを預ける
 報告書の内容をごく簡単に紹介すると、第1の柱は「21世紀の社会保障に向けての国民の選択のために」というあたりだが、あまり新しいことがない。要するに、保険料を上げても給付をそのまま維持していくのか、あるいは保険料は上げないで給付を見直していくか、答えはこの間にあるということだが、これは昔からいっている中福祉中負担ということになってしまう。
今、日本は非常に負担が少ない。国民負担率で見ると、アメリカと同じか、むしろアメリカよりも少ない。しかし、現状の給付を維持していくと、ドイツ、フランス、イギリスぐらいになり、負担を増やすことには若い人の支持が得られないだろう。それでは給付を下げるのか。今度の年金改革ではいくらか下げたのだが、ちょっとしか下げていないので、これでは焼け石に水である。しかし、これ以上下げると、生活を保障するという意味がなくなる。社会保障制度というのはセイフティーネットというか安心と安定の支えになるべきものなのだが、もし保険料をこのままにして将来に引っ張っていくと基礎年金水準も現行の6割程度ということになる。いまが6万7000円だから、それの6割ではとても生活できない。こうしたことがジレンマで、まさに有識者会議で議論すべき課題であったのに、国民が議論してくださいと投げて、国民にゲタを預けてしまっている。

安易な公費負担増
報告では、将来に向けてある程度の負担の増加は避けられないものの、できる限り負担増、特に現役の負担増を抑えるということと、基礎年金の公費負担の問題をとりあげている。公費負担については、一応2分の1ということが決まっているが、実は、起草委員会のかなり後の段階で、厚生大臣(その時は津島さんだった)に呼ばれて、もっと公費負担を入れるように書いてくれなどといわれた。公費負担といっても、どこからお金が来るか。消費税については大蔵省の抵抗もかなりあり、宮島先生と、どこから持って来るんだろう、また国債かな、などと話したことがある。なにか今の政治家というのは簡単に公費負担と言い過ぎるんじゃないかというような感じもした。

支え手を増やす
 第2の柱は「持続可能な社会保障」ということで、世代間の公平ということである。ご存知のように、今日本の若者は将来に対する不安感が非常に高い。総務庁の青少年対策室というところが5年おきに世界の10ヵ国くらいの青年意識調査を行っているが、将来に対する不安は日本の青年がいちばん高い。また、新聞社の世論調査をみても将来に対する不安感が非常に高い。その原因はやはり社会保障、特に年金にある。自分たちが年をとった時に果たして年金がもらえるかという不安感が非常に高い。
したがって、これをより公平なものにする必要があり、そこで考えられる方策として、まず支え手を増やすということ、高齢者も能力に応じて負担を分かち合うこと、それに給付の見直しと効率化の3つを掲げている。主としてこの報告書で力を入れているのは支え手を増やすということで、これはいいことではないかと思う。要するに性とか年齢とか、障害の有無に関わりなく働く意欲と能力のある人は働いて保険料を払っていく。いわゆる一方的な受益者になるのではないという考え方である。
働くということについていえば、例えば、定年制の撤廃。最初はエイジレス・ソサイティーみたいなこと、年齢差別禁止法のようなことが話題になっていたが、「そこまでは」ということで落とされたが、高齢者でも働く能力と意欲のある人は働く。女性も、今、日本の場合は能力が活用されていないが、女性もちゃんと働くということである。

個人単位化には抵抗
支え手を増やすというところから、個人単位化という話も出てきた。いわゆる3号被保険者の問題である。収入が年間130万円未満であると保険料は払わなくてもいいが、それが女性の就労の妨げとなり、壁となっている。配偶関係とか働き方に規制されない中立的な社会保障システムをつくろう、ということが報告書に書いてある。
これについてはかなりもめて、特に個人単位化には厚生省が抵抗して、非常に曖昧な表現にしかならなかった。最初は「個人単位化にすべきとの意見もある」と非常に曖昧な文章にして、補論のところで個人単位化するといかに大変か、世帯単位を維持した方がいかに良いかなどということを付けたり、非常に抵抗した。それから何度も何度もやり取りしたが、やはり個人単位化にしたくないような姿勢であった。厚生省としては、「女性と年金の検討会」の方でやるからここに入れなくてもいいのではないかとか言う。それで結局、女性の委員が結託して、丁度岩男寿美子先生が「男女共同参画審議会」の座長であり、「男女共同参画審議会」の答申で個人単位化の方向をとると書いてあるので、岩男先生にそれを言ってもらったところ、貝塚座長が「それではそうしましょう」ということで、ころっと変わった。厚生省の役人は渋い顔をしていて、やはり現状を変えるということはなかなか難しいという感じがした。
今の状況を考えると、将来的に労働力不足は避けられないので、個人単位化に行かざるを得ないと思うのだが、報告書でどういう文章になっているかというと、「将来的には個人単位に改めるなど必要に応じて見直しを行うべきである」という変な文章になっている。厚生省の役人はちらっと「必要でなければ見直さなくてもいい」という。まあ、凄いことを言うなと思ったのだが、審議会の文章の読み方、書き方というのはこういうものらしい。

多様な働き方に対応したシステム
これからは女性も働き手に回っていかなければとてもやっていけないし、それから今、フリーターとか派遣とかパートタイマーとか多様な働き方が出てきていて、実際に、昨年くらいから厚生年金の保険料を払う人口が減ってきている。それから事業所の数が減ってきている。したがって、社会保険庁は青くなっている。それも減り方は半端じゃない、非常に大きな数が減ってきている。これはリストラとか倒産で職がなくなる人がいるし、それから若い人が簡単に仕事を辞めて、労働市場に参入しないでふらふらしているので、多様な働きに対応できるようなシステムを作らないといけない。今のような、男性が一家の世帯主・稼ぎ手で、一つの企業に生涯定年まで働き続け、その企業もつぶれないというような前提でできているシステムはもう持たないのではないかと私は思っているので、支え手を増やすということには深い意味があると思う。

高齢者も負担
それから、高齢者も能力に応じて負担を分かち合うということも大事である。この辺のところは私が報告した部分でもあるのだが、今の高齢者は二極分化している。一方には非常に貧困な人がいるけれども、一方には非常に金持ちもいる。フローの面でも若い世代に遜色ないのだが、とくにストックが多い。大体現役世代の倍ぐらいある。もちろんその多くは不動産なので、最近の地価下落の状況をみるとそんなに多くないということも言えるが、金融資産も多く、現役世代の倍ぐらいある。というのは、現役世代はローンを背負って、子どもの教育費もかかるのだが、高齢者はそういう意味で非常にリッチである。
ところが、例えば税金の老年者控除というのもあるし、公的年金などもほとんど税金を払っていないということで、ほとんど負担がない。したがって総合課税にして高齢者にも払ってもらおうとかいう話も出た。実際に高齢の委員(これは渡辺恒雄さん)が「もっと自分は払いたいのだけれど、国がとってくれないのだ」と何度も何度も言ってたが、そういう方もいる。したがって、高齢者にも応分に払ってもらおうとか、それから資産をリバースモゲージみたいなかたちでフロー化する案も出た。このリバースモゲージについては、それほど深く議論はされなかったが、今のシステムだとやはり再保険とかそういうことを考えないと金融機関が乗れないのかなという感じがする。

給付の見直し・効率化
「給付の見直しと効率化」については、非常に無駄が多いといったこととか過剰給付とかいう問題があり、もう少し制度間の調整を行うべきだとか、年金と医療保険なども個別に徴収しているが、これも調整すればもっと効率化するのではないかという議論があり、私もそう思っている。例えば、国民年金と国民健康保険などはもっと保険料徴収を合理化できるのではないかと考えている。

最初から結論は保険方式
次は財源の問題であるが、これは社会保険方式が相応しいと最初から結論が決まってしまっていたような感じで、実際に税か社会保険かという議論はそれほどしなかった。議論すれば、多分委員の間でもかなり意見は分かれたのではないかと思う。全部税という人もいれば、半分ぐらい税という人もいるし、いろいろ意見もあると思うのだが、あまりそこら辺は深く議論されなかった。社会保険方式がいいというのは負担と給付の関係が明確であるということが理由であるが、委員の間で、必ずしも全部が合意していたということではないと私は考えている。
税については、消費税を目的税化すべきだという人もいたが、目的税をやっている国はない。また、目的税にすると税収によって枠が決められてしまうという問題もあるので、ちょっとこれはできなかったということと、消費税の目的税化については大蔵省の反対もあったということで、そういう意見もあるという程度にしか書かれていない。それから、公費負担の在り方、公費負担の必要性、その辺のところは先ほど申し上げたとおりである。

政治家の役割
報告の最後のところが「21世紀の社会保障のために」となっているが、要するにこれは国民の選択であるということで下駄を預けたところがある。中福祉中負担みたいなところで皆さん議論して下さいということになってしまった。
それから「政治システムにおける党派を超えた国民的合意の必要」ということで、これはみんなで協力してやって下さいということである。
それから企業の社会的責任というようなことをいっているが、特にいちばん最後に、やはりこれは結局は政治の問題であるから、政治システムを通じて新しい社会保障制度は確立されるのだから、政治にしっかりして下さいといようなことをいっている。
私は「政治家に」と書けないかと言ったのだが、駄目だと断られた。本来的に言うと、どうも社会保障制度というのは(どの制度もそうだが)、非常に不幸な、なんか選挙の時に簡単にころっと変えられてしまうという、そういうところがある。したがって、もうちょっと政治家が長期的なスパンで将来を見通して欲しいと思う。これはどこの国でもそうらしいが、政治家とは目先の選挙のことしか考えない。だから社会保障制度もそういう意味で、本当に小手先のちまちまとしたものになってしまっているのは非常に残念である。
例えば、介護保険がその典型だと思う。4月から介護保険がスタートしたが、6月にあった総選挙を控えて亀井さんが「親の面倒を見るのは美風である」とか言ったりして、突如保険料徴収を半年間凍結して、その後一年間半額にした。これは自治体にとってはえらい迷惑な話で、全部ソフトを組んであるし、そのために職員を雇ったり、配置転換したりして万全な構えをしていたのに、突如あんな事を言いだす。要するに高齢者の票狙いで、凍結だの半額などをやってしまう。
それから今度の児童手当も同じである。あれも多分参議院選挙狙いだと思うが、公明党の案は高齢者から削ってということだったのに、高齢者から削ると高齢者の票が逃げてしまうので、結局また財源は赤字国債ということになるのではないかと思う。こんなことで将来どうなるのか、本当にいいのだろうかと私は心配している。
これは有識者会議の報告とは関係ないが、本当に今日本国が背負っている借金は凄い額である。ついにイタリアを抜いてしまった。今まではイタリアが酷いとかいう話を聞いていたが、イタリアはEUに加盟するためにいろいろ頑張ったのでいくらか改善され、今日本の赤字はイタリアを超えてしまった。したがって、やはり政治家にもっと長期的なスパンで21世紀の社会保障を考えて頂きたいと願っている。
以上がこの有識者会議報告の簡単な紹介だが、要するに、大幅な改革ではなくて小幅な修正に留まってしまって、委員の中でもやる気がなくなったのが見え見えの方もおられたし、そういう意味で非常に半端な結果になってしまった。医療とか福祉についてもあまり深い議論ができなかったというのが非常に残念であった。

2 社会保障制度の将来
 そこで、社会保障制度の将来について、私の考えていることを簡単にお話しして、議論の材料にしたい。

どのような社会を目指すか
まず、どういう社会を私たちは目指したらいいかということを考えるべきだと思う。いま、特に日本の政治家は、短いスパンで次の選挙のことしか考えていないという感じがする。
私は、大国の幻想というか、それはもうやめてもいいのではないかと思う。別に経済大国でなくてもいいのではないか、程々の国でいいのではないかと思う。これについては経済界とか、特に男性の方などは反対される。例えば、私はこの間まで人口問題審議会の委員もやっていたが、私が「人口が減ってもいいのではないですか」と言ったりすると「いや、やっぱり人口は国力だから、人口が減ると国の力が衰える」とか言う。衰えたっていいではないかと思うのだが、やはりその辺のところで大国意識というのが凄くある。やはりこれはジャパン・アズ・ナンバーワンになってしまったというのが不幸だったのだが、やはりナンバーワンの地位をなんとか維持したいということで、かなり無理して国民生活が犠牲になってきたのではないかと思う。
私は程々の国でいいのではないかという例としてオランダを挙げたい。オランダが全部いいかどうかは異論もあるが、オランダは16世紀に世界の覇者であちこちに植民地をつくったり、日本も蘭学をやったりして、ほんとうに威勢の良い国だったが、今はヨーロッパの片隅の小さな国になってしまった。しかし、非常に福祉も充実している。
オランダで面白いと思うのは、「1.5働き」という働き方である。これは夫婦で2働く、1プラス1でなくて、1.5働く。理想的には0.75ずつだが、実際にはどうも男1で女が0.5、あるいは男が0.9で女が0.6。やはり女の方が少し短いようだが、ただ、労働時間を短くして週休3日くらいにして家族の生活を充実するというような方向をとっている。だから、日本もそんなに長時間労働をしなくて、もう少し労働時間を短くして、男女が共に働いて、短時間労働でも生活がちゃんと保障されるというシステムを構築していってもいいのではないかと思う。
では、基本的に何に価値を置くかということになるが、これまでは成長とか発展とか能率とか効率、競争とか金といったことだったが、これからは共生とか協力とか安心とか安定とか、そういうことを目指した方がいいのではないか。まあ、そんなに一生懸命になる必要はないのではないかという気がする。皆で分かち合うという、そういう風になっていいのではないか。いま、いくらかそういう考え方も出てきており、少しずつ変わってきているという気がする。
また、21世紀というのは男女共同参画社会だけではなく、世代も共同参画していくということが必要ではないか。今までのように、高齢男性がコントロールする社会というのはおかしいので、若者世代もちゃんと政策形成に携わるとか、そういうかたちで公平な社会を築いていくということが必要ではないかと思う。

安易な中福祉中負担
どのような社会保障制度を目指すかということであるが、結局、有識者会議は現状維持になってしまった。社会保険方式で負担と給付をどうやってバランスをとるかという非常にちまちまとしたものになって、中福祉中負担ということになった。
しかし、中福祉中負担が本当にいいのか。高福祉中負担というのはできないのか。堀田さんなどは高福祉中負担ということを言われているが、私もその可能性がないことはないのではないかと思う。
例えば、いろいろなシステムの効率化がまだ図れるのではないか。社会保障関係の団体には、厚生省の天下りがいって高給をとったりして非常に無駄も多いわけだから、こういうものを効率化するとか、あるいはNPOとかボランティアとか地域のネットワークとか、そういうものの活躍で、負担はそう増やさないで高福祉ができるのではないか。
気になるのは、いつもこういう議論をするときに、一方にスウェーデンをおいて高福祉高負担、他方にアメリカをおいて低福祉低負担、日本はその中間をとって中福祉中負担とするのだが、これはすごく荒っぽい議論だと思う。スウェーデンは確かに、非常に税金が高いが福祉は高齢者だけでなく若者にも障害者にも行き届いている。しかし、私はアメリカに住んだりしてアメリカひいきなのかもしれないが、そんなにアメリカが悪いとも思えない。アメリカは確かに健康保険などなくて酷いところもあるが、ボランティアとかNPOとかが凄く活躍している。大分前にガルブレイスだったと思うが、論文でアメリカ人が無償で働いているものを全部金銭に換算するとGDPが3割ぐらい増えるというようなことを言っていたが、労働力も凄いし寄付なども凄い。したがって、額面上では低福祉低負担ではあるが、見えない面でアメリカは非常にボランティアとかNPOとかが大きな位置を占めている。
だから、日本もそういうことを考えれば、そんなに負担と給付のバランスという計算だけでなくてもやっていかれるのではないのかと思っている。

人生選択に中立的な制度
先ほどもお話ししたが、配偶関係とか就労状況などに中立的な個人単位でかつポータブルな年金制度というものをつくるべきではないかと思う。私は技術論が分からないので、どうしたらいいのかまだ考えていないが、今のシステムは要するに男が稼ぎ手で女が専業主婦というかちょっと働くというシステムで、しかも男性は一つの企業に生涯働き続けて、そして夫と妻は生涯同じ相手と結婚し続けるということが前提となている。今離婚率も上がってきていて、長寿社会になれば一生同じ相手と暮らすというのも退屈な話ではないかという感じもするので、やはり就労状況とか配偶関係、いわゆる結婚しているか否かによって得したり損したりというのはやめた方がいいのではないか。いろいろ技術的に難しい問題もあるかと思いますが、そうしないと日本国はやっていけないのではないかと思う。

高齢者に偏った福祉
今は社会保障の重点が高齢世代に偏り過ぎている。社会保障給付についてみると、社会保障給付全体の65%が高齢者にいっている。若い方にはあまりいっていない。児童手当とか特別児童手当とか、そういうものはあるが、非常にけちくさい。児童手当なども、今度対象を広げると言っているが、今までは年間所得が650万円以下としており、もらえない人が非常に多い。また、非常に矛盾を感じるのだが、企業が児童手当のためにお金を出しておりながら、その企業に勤めるサラリーマンは殆どもらえなくて、自営業の人がもらっている。結局、サラリーマンでは収入が限度を超えてしまう人が多いので、もらえないということになる。私は、もっと高齢者への優遇措置を見直して子どもや若者世代への給付を充実すべきだと考えている。
個人的なことを言うと、私の亭主が定年退職したのだが、税金の面で凄く優遇されていて、可処分所得など私より多いくらいだ。私など税金とか社会保険料などいっぱい取られて本当に少なくなってしまうのだが、なんでこんなに優遇されるのかという気がする。いま日本の課税最低限が高すぎるから下げるということを言っているが、それよりも年金生活者もこの席にいらっしゃるからちょっとまずいかと思うが、年金課税も考えていいのではないかという気がする。
少子化対策ということが盛んに言われるが、本当に少子化対策を考えるのであったら、子どもを育てるということにもっと給付をしなければインセンティブにならない。厚生省などがエンゼルプランをやったり、いろいろなキャンペーンをやっていて、私もそのシンポジウムに出たりするのだが、でもこんな事をやっていていいのかと思う。要するに男性も家事参加しましょうとかいっているが、それも重要ではあるけれど、そういうことよりもちゃんとした児童手当とか学生に対する奨学金とかローンとか、そういうことをしないと少子化の勢いは止まらないのではないかという気がする。

公平と平等
なにかにつけて公平性ということを言うが、完全に公平な社会は不可能だと思う。公平というか、全部を平等にするというのは不可能だが、不平等であってもそれを正当なものと認めるということが重要ではないかと思う。つまり、不公平感をなくすことが重要である。例えば、北欧をみると、ある世代の人達はあまり優遇されていない。例えば中年くらがあまり優遇されていない。高齢者と子どもと障害者に非常にたくさんサービスを行っているのに、働き盛りの人にはあまり行っていなくて、一方では税金は凄く高く取られている。私も北欧に行くと、「よく不満じゃないですね」と言ったりするのですが、でもそうじゃないと言う。要するに自分たちの子どもが教育とか医療とかが全部無料だし、自分の親たちもみてもらっているのだから、それは不満ではない。つまり、ある時点を取ってみれば中年世代への給付は非常に少ないが、自分が年をとった時とか障害を持ったときはちゃんと支えてくれるということで、これは不当ではないと言っている。したがって、日本の場合も最低限の保障、いわゆるセイフティーネットということになるが、社会的なネット、支えがあれば不公平感というのはなくなると思う。

教育の必要性
もう一つ、若者世代の抱く不公平感というのは、かなり無知というか、よく分らないで言っている面もあるので、教えるというか教育ということも必要ではないかと思う。スウエーデンではちゃんと教育の中にそういうことを入れていると言っていた。日本の場合にも若者世代に社会保障制度というのはどういうものか、社会保障制度の必要性をきちんと伝えていくことが必要ではないかと思う。
日本の場合、マスコミがかなり大袈裟に年金破綻とか書くから、不安感を持つし損だということになる。年金は損得勘定ではないというが、若者はどうしても損だと思ってしまう。今の高齢者は払った保険料の何倍ももらっているけれど、今の若者世代は払った分は戻ってこないとか、このままいくと8割ぐらいしか戻ってこないということを聞くと、やはり損だという意識を持つ。それで、若い人、学生などの中には国民年金の保険料を払わないで私的保険の方に掛けているという人もいる。大分前だが、私の学生にもそういうことを聞かれた。年金制度は将来破綻するそうだから、やめて私的保険に掛けた方がいいのではないと実際に聞かれて、国の年金制度が破綻するときは保険会社が倒れるときだから絶対大丈夫だと言ったのだが、そういうふうに誤解している。
したがって、ちゃんと教えるということが必要だと思うのだが、そういう面で日本はあまりやっていない。例えば、高等学校などでも、社会保障とか年金、あるいは高齢者問題について家庭科とか福祉科とかそういう特別なコースではかなり教えているが、一般の生徒にはあまり教えていない。
どういうわけか、文部省はこの問題についてあまり熱心ではない。大分前にアメリカから来た老年学の学者が、高齢者とか社会保障制度とかを学校教育でどういう風に扱っているか知りたいと言って文部省に行ったのだが、あちこちたらい回しされて結局やっていないということになってしまい、びっくりして帰ってきた。
私も学生に高齢者の問題を教えているが、彼らがどこから情報をとっているかというと圧倒的にメディア、テレビからである。このごろ新聞は殆ど読まないから、テレビからの情報が圧倒的に多く、その次が口コミで、学校教育は殆ど皆無に等しい。テレビは映像だからショッキングで、痴呆のお年寄りなどドラマチックな映像を見ると凄くショックを受けてしまう。社会保障は助け合いのシステムであることをどうやって次の世代に伝達していくかということが非常に重要だと思う。

どこから手をつけるか
最後にどこから手をつけるか。これがなかなかに難しい。皆さんいろいろ、ああすればいいこうすればいいとおっしゃる。例えば、年金は賦課方式やめて積立方式がいいとか、社会保険方式をやめて税がいいとかいう。しかし、どこから始めるか、何時やるか、これは非常に難しい。

役人は変わらない
こういう委員をやったり、いろいろな検討会をやってつくづく感じるのだが、役人とは新しいことに手をつけたがらない。これは非常にはっきりしている。例えば、女性の年金の検討会をやっているのだが、「何故うちがやらなきゃならないのか」、「それは大蔵省の問題でしょう」と言う。例えば配偶者控除、特別配偶者控除の問題もあるのに、何故年金のところを変えなければならないのか、何故厚生省が先導しなければいけないのかと言う。年金分割という話もこの頃出てきており、男女共同参画審議会でもその話が出ている。しかし、日本の民法では夫婦別産制をとっている。だから年金分割をするためには民法を変えなければならない、これは法務省の仕事だと言う。しかし、法務省というのいちばん時間がかかる役所で、いちばん変わらないところで、明治何年の監獄法とかが残っているところで、そんなことを言っていると全然先に進まない。本当にそうなのかと法律の専門家に聞いたら、必ずしもそうではなくて、やれるはずだと言っている。ともかく、本当に年金の個人単位化ひとつ、あるいは第3号被保険者の問題ひとつとらえても、あれはよその役所がやればいいのだと言ってなかなかやらない。
ちなみに、女性と年金の検討会も本当にゆっくりのペースで、皆さんからはどこまでいったかと聞かれるのだが、ともかく2カ月に一回しかやっていない。これは、こういうことをやっているという姿勢を見せるためだけにやっているのではないかと思うぐらい、ちんたらちんたらやっていて、なかなか前に進まない。時間切れを待っているのではないかと私は心配している。何とかしなければいけないと思うが、ともかく役人はなかなか変わらない。

企業への注文
だから、私は企業に変化して欲しいと思っている。やはり、いろいろな面で日本は企業中心社会であり、特に労働時間短縮であるとかフレキシブルな働き方であるとか、パートであっても正規雇用者と同じような身分保障をするとかいうことは、企業が変わらないとなかなか変えにくい。第3号被保険者の問題にしても、女性の賃金が低いという問題が必ず出てくる。したがって、企業に変わって欲しいと思っているのだが、これもなかなか難しい。
この前ある会で大企業の経営者の話を聞いたが、「私たちは夜も寝ないで今必死になって働いている」とか言われて、「そうか。今そういうこと言ってはまずいのかな」と思ったりする。わかってはいるが、厳しい状況の中で必死になってやっているので、そういうことは考えられないと言われた。
では、労働組合はどうかというと、これもまたなかなか難しい。労働組合というのもなかなか変わらない。私もこの行革国民会議の研究会で2年ぐらい、女性の年金とか、配偶者控除とか特別配偶者控除とかの検討をしましたが、その時に、連合で出した配偶者問題に関する報告書の結果を聞いてびっくり仰天した。結局、男性の組合員の方の多くは、配偶者控除や特別配偶者控除がおかしいということが分らないらしい。何でそういうものをやめなければならないのかということが、わかっていないのだなという感じがした。
本当は労働組合にかなり変わって欲しいと思う。ヨーロッパの場合は労働組合が先導的な役割を果たしてきた。北欧もオランダもそうだが、やはり働き方とか女性の身分保障とかという面でかなり労働組合がリーダーシップを握ってきている。しかし、日本の場合、男性中心、男性支配という考え方が非常に強いのではないのかなと思う。たまたま私の友達がゼンセン同盟の方とご一緒にオランダへ行って、その時の話を聞いてびっくりしたのだが、日本からは女性は一人しか参加しなくて、みな男性だった。向こうの人からなぜ男女半々じゃないのかと聞かれたそうだが、どうして男女半々にしなければならないのかというようなことを男性の人が言っていたということで、彼女は怒り狂っていた。やはり、組合も変わらなくてはという感じがする。

地方から変える
ではどこから変えていくかというと、やはり住民から変えていかなければ仕方がない。行革国民会議では市民立法などということも言っているが、やはり、国民というか市民の側から変えるということがいちばん早いのかな、あるいはそれ以外ないのかなという気がする。地方分権一括法も通り、今自治体もかなり変わりつつある。住民も簡単には騙されないようになってきている。とすれば、住民参画というかたちで少しずつ変えていくことかなと思う。
例えば介護保険なども策定委員会に住民代表が加わるようになってきて、住民の中からいろいろな声を出していくということが次第に出てきた。議員になるのも、やはり国レベルはなかなか難しいが、自治体レベルではあまりお金がなくてもできる。それで女性の地方議員がたくさん出て、特にそういう人達は福祉とか環境とか子どもの問題を取り上げてなどを一緒にして活動している。そういうところから、草の根的なところから、少しずつ変えていくのがいいのかなと考えている。


3 質疑応答・討論
司会:有り難うございました。有識者会議のメンバーであった高木さんからも、ご意見をいただきたい。それから最後に組合のあり方についても触れていただきたい。

高木(ゼンセン同盟会長):有識者会議の報告書については、袖井先生とは若干視点が違うかもしれないが、こんなものを(といっては怒られるかもしれないが)、最終的にこういう形でまとまるしかなかった場に
かなりの期間、かなりの労力を拘束されたということに、率直に言って頭に来ている。ビジョンとか将来のことを考えるのに、「その心は」ということを全然議論しないで、最初から中福祉中負担の決め打ちで、現在それが行き詰まっているにもかかわらず、それが何で行き詰まっているのかというところにあまり踏み込まず、お金の勘定ばかりになってしまった。報告書をお読みいただければ、まさにそういう報告書であるとおわかりいただけると思う。
会議にはもの凄く喋ることの好きな人が多くて、なかなか発言がまわってこないので、ペーパーでも出さなければ仕様がないかと思い、3回ほどいろいろな思いをペーパーで出した。少しはつまみ食いしてくれたが、本質的なところは全然直らない。そういう状況であったので、最後にまとめる時に、この報告書の作成の論議に参加はしたが、内容にはいろいろ異議ありということを公然と言わせて頂きますからという発言をして、私は最後の審議会を終えたわけである。内容については、もういちいち触れることはしない。
 それから企業の変化、あるいは労働組合がダメだというお話が出た。現在日本の企業社会も大きく変わろうする流れの中にはあるのだろうと思うが、社会保障という立場で見れば、社会保障の役割を軽視する方向に企業経営者のマインドが動いている。有識者会議にも経営側の立場の方もメンバーとしておられたが、意見として出てくるのは、如何に企業のコストに響かないか、あるいはコストの負担を回避できるか、すべてとは言わないが9割ぐらいはそのような発想である。私ども、会社と組合の関係で言えば、給料袋に入れる前に負担するものが増えるのはいやだ、給料袋に詰めた後、それぞれから一部負担の格好で取るのはいいのではないかという感じのアプローチが最近まだ見られる。
例えば医療保険についていえば、かつて7・3運動というのがあった。7が使用者側の負担で、3が被保険者、社員の負担という制度の名残りが残っていて、5・5ではない負担になっているとこがまだ大会社を中心にある。あまり企業の負担を軽減させるような言い方ばかりになると、もう一度7・3運動をやりますよといいたくなる。そのような軋轢をお求めになるような社会保障論を企業として持っているならば、その考えを少し修正してもらえないならば、そういうアプローチにならざるを得ないかもしれないというやりとりを有識者会議でもちょっとしたことがある。
コスト論だとかアメリカンスタンダードだとか市場経済中心主義という中で、反社会的な動きを企業がすることに対しては観念論を言ったってダメだと思う。その意味では、日本の場合は系列内労働組合であるので、なかなかその外に出られず、昨今の企業のモラルが疑われる出来事を起こしていることには、労働組合も共同正犯みたいなところがある。そういうことには、制裁というコストを払ってもらわないと直らないのではないかと思う。
もちろん経営者の人にもよるし、立派な方もたくさんおられるが、総じて言えば、アメリカンスタンダードだと言われてきたアメリカの企業が、社会的な制裁のコストでたいへん高いものを払わせられつつある。例えば、アトランタにあるコカコーラは、社内で人種差別的な対応をしたということに対して、社会的な懲罰の意味を含めて210億円の賠償金を取られた。もう一つはマクドナルドがある中年の女性に損害賠償請求をされた。具体的にはマクドナルドは熱いコーヒーが売りで、それをドライブスルーかなにかで買いに来た女性が受け取ったところ、パックをきちっとしていなかったためこぼれて大腿部に大火傷を負った。この火傷という事件は彼女が初めてではなく既に十数件あったにもかかわらず、マクドナルドがそれを回避するための工夫努力をしなかったということに対して懲罰的賠償だということで、全米でマクドナルドが売る一日のコーヒーの売上高掛ける2という莫大な懲罰的な賠償が課せられるようになった。
まあここまでのことを日本で言うのはいかがかと思うが、最近では反社会的な行動というのはある意味ではコストがかかるものだということをもう少し感じて頂くようなことがないと、なかなか昨今のコスト、コスト主義の風潮は直らない。
そういう意味では労働組合も変わらなければいけない。もっと言えば、変わらないままでいたら労働組合そのものが自滅して行きかねない。来週初めには労働省が今年の6月30日現在の労働組合組織率というのを発表するが、この1年間に0.8ポイントほどまた下がっている。いまどんどん、自営業者の方が給与所得者化していて、いわゆる雇用社会化への流れがどんどん進んで、分母はどんどん増えるし、分子は絶対数で減る。その原因はどの辺にあるのかということについてもよく考えなければ、21世紀に形式的には労働組合はあるとは思うが、本当の意味で強い運動ができる力が担保された労働組合であり得るのかどうか。残された時間は余り長くはないのではないか。袖井さんの話を、特にそういうことを言われたように思って聞いていた。

司会:有り難うございました。高木さん、中福祉中負担はもう行き詰まっているのに、性懲りもなくというか、そういうことにかかわりなく押し進めているのは問題だと言われましたが、そこら辺をもう少し説明していただきたい。

高木:今の日本が中福祉中負担という定義に合うのかどうか、いろいろなご意見があると思うが、現状を中福祉中負担と定義するならば現状は行き詰まっている。とりわけ、私は年金のことはあまり詳しくないが、医療をみたら、30兆円の医療費、その中の3割をいわゆる老人関係の費用に充当している。例えば不正請求という問題があるが、私どもは組合の人達に、医者にかかったら領収書をもらいましょうというカードを配って、医者にかかったときはそれを出して下さいという運動をしている。ところがなかなかそれを出すのが難しいらしい。妙なことをして、おじいちゃんおばあちゃんも世話になるし子どもも世話になる医者に「お前、なんだ」と言われたらかなわないということがあったりして、一部の組合員は窓口で出して下さっているようだが、こういうものを出すだけでいかにヒステリックな反応が各地の医師会から返ってくるか。例えば徳田虎夫さんに言わせると約5兆円は水増し請求とのことである。そのようなことを含めて今の医療の問題点は多い。医療の抜本改革を本当は今年やるということだったが、2002年に延びた。しかし2002年に今のままで何ができるのかと疑いたくなる。医師会とかなりのことをやらないとそう簡単にはいかないと思っている。
例えば、そういうようなことを含めて、このままの延長線上では立ちいかない。社会保障・福祉の本枢まで空洞化というか形骸化している兆候が随所にあるにも係わらず、ただただ財政負担だけの議論に終始してしまったということである。

司会:屋山さん、お話きいておられて、どうすればいいとお考えか。

屋山(評論家):この問題は見当が付かないので、今日出てきた。僕らも外部で見ていて分らないのは、社会保障の問題と、医療の問題、特に老人問題とは、ばらばらに議論するものだから、いったい社会保障の総枠がどれくらいの規模でどういう風に推移していくのかと、そういうことがなかなか分らない。それから日本の財政の中でどれくらいの負担になっていくのかということもわからない。おそらく細かい問題については専門家がたくさんいて、専門家同士で議論すればそれなりの結論が出るのだと思うが、全体の大づかみなところが解決しない。
私などの評論などという仕事は、この程度の負担は仕様がないのではないかとか、もっと出さないと財政がパンクするぞとか、そういうことを評論するのですが、ネタが分厚すぎてとてもこなせない。いろいろな方の本を読むのだが、ちょっとこなせない。

賀来(大和総研副理事長):社会保険料がいいのか租税がいいのかという話なのだが、そこがよく解らない。先程の先生のお話でも、社会保険料では負担と給付の関係が明確であるということであった。それを突き詰めて行くならば、私的保険に全部(あるいは保険じゃなくて貯蓄でもいいが)、私的に解決してしまうのがいちばん明確だということになる。
社会保険システムとは何かということを私はよく理解していないのだが、おそらくそこには再配分の機能というのがあることが公的制度のゆえんなのだろう。そうすると、今度は、全部税にしたほうが分り易い、すっきりした制度になるのではないか。
つまり、社会保険料であるという意味はどこにあるのか、幼稚な質問で恐縮だが、かねてから分らないので教えていただきたい。

袖井:私も専門家でないのであまりよく分らない。日本という国は何でも足して2で割る国である。したがって、社会保険方式というが純粋な社会保険ではなく、半分国費が入っている。厚生省に言わせると、税方式と社会保険方式のいいところをとっているということになる。例えば、ヨーロッパなどは本当の社会保険方式でやっている。ドイツの介護保険には公費など入っていない、全くの保険である。一方、北欧などは税である。日本は足して2で割る国だから、その中間である。何か非常に曖昧なところもあるのだが、いい説明の仕方をすると、半分は負担と給付がはっきりして、半分は社会的連帯であると、こういう説明をする。両者のいいところを取っていると言っている。
今、経営者団体のほうは税方式を支持している。基礎年金の部分は税にして、それであとは民営化する考えである。若手の経済学者にもこれを支持する人もいる。たしかに税にした方がすっきりすることは確かだ。税にしてしまえば3号被保険者などという問題も出てこないし、国民年金の空洞化の問題、つまり国民年金の保険料を払っていない人が今たくさんいるのだが、そういう問題も一挙に解決する。
 ただ問題は、ではどこまでどのくらいの額でいくのか。今の基礎年金の額、月67000円、これを全部税で賄うとかなり膨大な財源がいることになる。日本の場合は中福祉中負担といって、どんな問題でも足して2で割るという非常に曖昧模糊としたのが日本の生き方で、負担の方式についても税方式でもないし社会保険方式でもない、ヌエのようなやり方である。それがいいのだということを厚生省は言っている。

司会:今の社会保険料は、例えば国民年金は13300円、これが夫婦だとその2倍になる。これを消費税に振り替えればいい。別に増税する話ではなくて、保険料徴収をやめて例えば消費税というかたちでとれば、これは単にシフトする話で、マクロ的には負担の増減はない。
東大の八田先生の意見では、社会保険に於ける逆進性よりはまだ消費税の方がいい。基本的に八田先生は直接税論者だが、この件に関してだけは消費税方式をむしろ是認するという議論であった。
有識者会議の報告書として厚生省の書いた議論は説得力がなくて、いちばんの問題は厚生省の自前の財源がなくなるということではないか。確かに財政全体の状況で社会保障財源が不安定になるおそれはあり、それは工夫しなければならない。しかし、税方式にすれば厚生省の自前の財源がなくなるだけで、そうなると社会保険庁もかなり簡素化される。給付の問題があるからゼロにはできないにしても、徴収の面はなくなるのだからその分簡素化され、そうすると、袖井さんのいわれる高福祉中負担も、ごく一部かも知れないが、社会保険方式を税に変えることによって実現することになる。
所詮強制的に取られているという点では税も保険料も同じだから、私は税の方がすっきりしていいのではないのかなと思う。そういう意味では有識者会議の報告は、始めに保険ありきのようだから、ご苦労さんだったなと思っている。

袖井:消費税にすると、広く薄くということになるが、高齢者は買わないだろうという議論がある。結局若者が負担することになるのではないか。高齢者も買いたいような物をもっと作らないと、世代間の不公平は解消しないんじゃないかという議論もあった。

岡田(ジャーナリスト):この問題について、どうも司会者の問題意識とかがちょっと違うのではないか。すぐに議論が中福祉中負担とか、税か保険かというところに行ってしまうのだが、本当にそれが問題なのかよく分らない。
この問題について、わりに包括的な解決案などを示しているのが神野直彦さんとか大沢真理さんの議論だが、要するにあれが一体どの程度意味があって、ほんとうに信頼するに足るものかということを知りたい。
つまり、ごく簡単に言ってしまうと、今の社会保障の体系は家族頼みで大企業本位で男性中心である。それを個人モデルに改める、医療保険も一人で入る、年金も一人で持つ。やはりそういうふうにしないといけない。その点では今日の袖井さんのお話と僕は一致するところがあるように思う。
あとは中央政府と地方政府の役割をはっきりさせて、要するに社会保険税というのをつくって第3の政府である社会保障基金を独立してつくれということだが、その辺が果たしてうまくいくのかどうか分らない。しかし、先日あるシンポジウムで彼らに聞くと、例えば年金について言えば、他にやりようがあるならやってごらんなさい、これしかほんとうにない。年金は巨額の積立金を取り崩しながらなだらかにわれわれが言っているように移行して行くしかあり得ないのだ、と言う。誰か社会保障の専門家がいたら、彼らの言っているのは、実現性は別として、理屈の上で成り立ち得るものなのか、説得力のあるものなのか、それを知りたい。

袖井:私もあまりよくはわからないのだが、神野先生は国民会議の研究会のメンバーでもあり、報告してもらったりしており、私も基本的にいいのではないかなという気がする。特に私は、個人単位化するということと、所得に応じて払っていくという、アメリカの社会保障税と同じ様な考え方であるが、それはその方がいいと考えている。いわゆる基礎年金、国民年金が定額であるというのは非常にまずいと思う。国民年金もすこし段階にできないかと言っているのだが、神野さんなどが言っているのは、アメリカの社会保障税などと同じく、所得に応じて払う、だから少ししか払わない人はちょっとしか貰えないことになる。だから日本の9・6・4なんかの場合、定額になっているからあまり払うというインセンティブがわかないけれど、自営業の人もちょっとしか払わなければちょっとしか戻らないという、払ったものに応じるというのがきちんとできていればいいという考えには、私も賛成である。ただ、社会保障基金みたいなものを創って取り崩していくというのが、計算上は合うというのだが、本当に大丈夫なのかなという気がする。
社会保障とか年金の専門家の方は自分のがいちばんいいと主張するるので、八田さんは八田さんで積立方式に変えてそれで行けるというのです。神野さんは今まで積立金を膨大に積んであるから、それを少しずつ崩していけばいいという考え方であり、そこの決断がつけば行けるんじゃないかと私は個人的に思う。しかし、厚生省はそれはしたがらない。貯め込んだものはしっかり持っていたいと思っている。

屋山:自由党は全額税方式というのを言っているのですが、あれはいいのか悪いのか、コメントを頂きたい。

袖井:あれは消費税で賄う考え方である。ちょっとそれは、先程も言いましたように逆進的になってしまうのではないか。結局高齢者はあまり使わないだろうから若者の方に負担がいくのではないかという気がする。それと全額税にしたら消費税が非常に高くなりますよね。もちろん保険料はいらないからその分が理論的には回るのですが。

屋山:消費税が高くなるというが、どのくらいの高さになるのか。

袖井:今5%ですから、少なくとも10%。でも10%じゃ無理じゃないか。

司会:岡田さんが噛み付いてきたが、私はこういう技術論をするためではなくて、もっと哲学なりなんなり議論しようと思っていたのだが、お話がここまで来ているのでちょっと言うならば、基礎年金の給付は年間14兆円程度だから、消費税率1%が2兆円ちょっとになると考えれば、6〜7%程度となる。2010年には給付額は20兆円ほどになるから、8%程度だろう。保険料徴収をやめて全額国庫負担にし、その財源をすべて消費税で賄うとすれば、その程度になると思う。
 技術論を今日はやるつもりではなくて、これからどういう社会を目指すのか。それに対して福祉政策なり社会保障政策というのをどう位置付けていくのかということを議論をして、税か保険かという技術論は、それこそ専門家を何人かお呼びして議論をしたほうがいいだろう。
 袖井さんからの問題提起で言えば、いったい大国幻想をいつまででも持つのがいいのか、ほどほどとはどういう風に実現するのかということが一つの疑問である。いまぐるぐる自転車を漕いでいるわけだが、ほどほどにスピードをおとせば倒れるのではないかとかいろいろ議論は出来ると思う。ほどほどの国へのソフトランディング、経済成長率からすればもう既に低成長以下だから、ほどほどもほどほどなのだが、そうではなく、皆ひっちゃ気になって働いて、ああ疲れたとという空しい社会をこれからどうやって変えていったらいいのかといった意味でほどほどにするにはどうしたらよいのか。これからできるのかできないのか、あるいはどうしたらいいのか。

賀来:まず、技術論に入ってしまうきっかけをつくったのは申し訳ない。
 今の話はあまり考えていないので思いつきを申うだけだが、さっき先生も人口は減ってもいいのではないかと仰った。思い返すと、まだ幼かったとき、戦争敗戦直後にいわれていたことは、日本のいちばん大きい問題は資源もない国に人口が多いことだった。そういうことから考えると、人口が相当減ると非常に望ましい社会ができるのかなという気がする。しかし、実を言えば、そのプロセスに問題がある。できあがった時は人口が半分ぐらいになった、空いたよい国のような気がするが、プロセス、減速の過程というのが何事も非常に難しい問題が起こる。それに対する知恵というのがぜんぜん用意されていないと思う。

斎藤:今年の6月末まで会社にいて、7月から年金をもらっている。袖井さんから高齢者もリッチだというお話があったが、全然その実感がなくて、二極化している方の下の部類だろうなと思っている。
 さきほど袖井先生は、これからどうするということで若い人達に対するPRに触れられたが、私はむしろ高齢者に対してもっとPRをすべきではないかと思う。というのはこういう立場になって痛感するのは、長年企業の中にいて企業の論理だけにどっぷり浸かってやってきたわけで、世の中の仕組みに対する理解がない。どちらかというと家内の方がその辺は進んでいる。その点では、袖井さんの仰る、女性をもっと使いなさいよというのは私ももっともだと思う。
 その時にちょっと伺いたいのは、家族から個人へいうものの考え方が、どうも日本ではなかなか馴染みにくいところがあるのではないか。やはり高齢者も家族のくびきからなかなか出ていけない。だから年とって年金をもらいだすと夫婦で海外に遊びに行っちゃう。だから、高齢者の力が、何かやりたいというパワーが外に向かっていかない。そういうことが、NPOだとかボランティアが日本でさっぱり伸びないということの一つの理由になっているのではないかという気がする。高齢者は弱者であるという制度に長いこと浸かってきているので、そうではないのだと、あなた方は力を持っているし、やる気さえあればできるのだということを、高齢者に対してもう少し社会がアピールすることも必要なのではないか。
 それからもう一つは、私の両親は98歳と87歳で二人だけで暮らしている。そういうのに対して画一的な介護みたいなことを今の制度は仕組みができるとすぐやりたがる。私の親父なんかは、自分の奥さんの手間を省くために市の方から何か援助に来るのをいやがる。得体の知れない者が急に外から来てうろうろされるのは気持ちが悪いということを言ったりする。ですからそういう画一的な制度というのがいろいろな意味で日本の高齢者問題に非常にマイナスになっている面がありはしないだろうかという点が一つと、それから感想みたいな事になるが、高齢化がこれだけ急激に進んだ国というのは他にない。だから、高齢者だけでなく社会全体の意識が人口構成のあまりにも急激な高齢化についていっていない。スウェーデンもそうだと思うが、そこにいちばん問題があるのではないかという気がする。
 そのあたりについて袖井先生はどうお考えなの伺いたい。

袖井:なかなか難しいが、いちばん最後の方から私の考えを申しあげると、確かに日本が非常に速いスピードで高齢化していて、いまのところ世界一だが、21世紀になると韓国、台湾、香港とか、それから21世紀半ばになると中国とかがもっと凄いスピードで高齢化する。
 ただ高齢化すること自体は前から分かっていた。だいたい1960年頃からもう日本の出生率はベビーブーム以降下がっているから、はっきり分かっていた。それにちゃんと対応してこなかったということで、突然来たものではない。人口の高齢化の予測は非常によく当たって、経済企画庁が何年か前に出した未来予測は殆ど当たらなかったけれど人口の高齢化だけは当たっている。したがって、本当はもっとちゃんと対応していかなければいけなかったのに、目先のことに振り回されてきた。もうひとつは、経済成長を非常に過大評価していた。高齢化社会がやってくるというのは60年代頃から分かっていたのだが、60年代、70年代は経済が成長していたものだから、それで乗り切れるという甘い見通しがあった。ところがそうではなくなって、人口の高齢化プラス不況のダブルパンチ、この二つを考えないといけないと思う。だから少子高齢化ということと、21世紀は多分もうかつてのような経済成長は望めないと思うので、やはり両者に対応していくことを考えていかないといけない。
 それから、意識がついていかないという面は確かにあって、最近はだいぶ変わってきたが、高齢者自身が外部サービスに拒否反応を示すということと、地方に行くと近所とか世間体とか周りがどうのこうのということもあって、なかなか外部サービスが入らない。それから、介護保険は本来的には画一的なサービスではないはずだったのだが、やってみるとどうしても画一的になってしまった。本当は今までの措置と違ってもっと個々の高齢者のニーズにあった多様なサービスを提供するはずだったのが、今のところうまくいっていない。しかし、私は、これはいずれうまくいくのではないかと思ってる。
 それから高齢者に対してもっとPRすべきというのは、実は私もそう思っている。最近エッセイにもそう書いたのだが、江崎さんが座長になっている教育改革国民会議の中で、子供達にボランティアの義務化をするという話が出た。あれはいろいろ叩かれてちょっと後退したけれどまだ入っているが、私はそうじゃなくて、子供達に義務化するよりも高齢者に義務化する、斎藤さんではないけれど定年退職した人に義務化した方がいいというエッセイを書いた。つまり、今の子供達に無理矢理やらせても反感を持つだけで、対象者に対して失礼な行動をとったりする。18歳になったら1年間過疎地の山村か何かに入って何かやれという凄いことが中間報告に書いてあるが、そんなことしたら、きっと子供達は悪いことをするだろうし、問題おこすし、盗んだり、いじめとかするだろう。そんなことするより定年退職者に、義務化するかはっどうかは別として、もっとボランティアするように奨励すべきだと書いた。特に今の高齢者はパワーもあるし、体力、知力、気力はあるしお金もあるが、あまりボランティア活動はやらない。やる方も最近では増えてはきているが、なぜボランティアをしないのかと聞いたら、やはり若い頃苦労したから遊びたいという。それも無理ないかとも思う。女性なんかも海外旅行したいとか言う。でもそれだけでいいのかなという気もして、今では自治体とかボランティアセンターとかでやっているボランティア入門講座などには定年退職の人が増えてきた。今までコーディネイトがうまくいかなかったが、最近、地域の社協などを手がかりに少しずつ増えてきている。こういうのは非常にいい傾向だと思う。
 高齢者からお金を取ることだけではなく、高齢者の持っている力、そういうものを活かしていくということは望ましいことだし、それをしないと日本社会は乗り切れないと思っている。

牧野(国会議員):どのような社会を目指すのかということで、大国幻想を捨ててほどほどの国でいいのではないかというのは、私も賛成だ。人口が減ってもいいと思うし、必ずしも経済大国でなくてもいい。それからもう一つ、政治大国でなくてもいいではないか。今日本は国連の分担金とかODAをかなりでたらめに出している。これはやはり政治大国になろうという野心があるからだと思う。こういうものはやめて、国連の安保理の常任理事国になりたいためにあちこちの国にお金をばら蒔いていくというのはよくないと思う。それよりも内政を充実させるべきだろう。
 一つ伺いしたことがあるが、新保守主義というか、自己責任、自助努力、自由競争、孤立万能、こういうのが謳歌していて、21世紀はこういう考え方で日本が運営されようとしているのはよくないと思っている。殺伐として貧富の差は大きくなるし、嫌な世の中になるというのが見えてきているので、それよりも先生の言う共生とか安心とか安定とかあまねくバランスのとれた安らぎのある社会というのがいいのではないかなと思っている。ただ一つ、新保守主義、自由経済を謳歌する人のいうには、そういう安定とか社会保障を充実すると人間は怠惰になって世の中が停滞するのだと声高に言う。僕はそんなことはないと思っているのだが、そういう世の中にしていっても国際社会の中でやっていけるのだという論理構成をつくって欲しい。その辺、先生はどうお考えか教えて欲しい。
 老人問題もいろいろあるが、いま日本の政治の枠組みの中でいちばん弱い者はだれかというと、この世に存在していない、これから生まれてくる子供達だと思う。彼らの人生を棒にふりながら今のシステムを支えているので、こんな理不尽な世の中というのは歴史的にも世界的にもないと思う。その辺の矛盾をどういうふうに克服したらいいか、その二点を教えていただきたい。

袖井:私も政治大国にならなくてもいいし、安保理とかG7とかいうのはどうでもいいと思っている。国内ではヒーコラいっているのに外国に行ってずいぶんばらまいてくる。首相がちょっと海外に行くと各国で甘いことを言ってお金をばらまいてくるのはおかしい。私は小国でもいい、別に大国じゃなくてもいいと思っいる。
 それから、新保守主義というのはわりに若い経済学者にこういう考え方が多い。最近私も気になるのだが、自己選択、自己決定、自己責任、要するに自分が選んだのだから自分で責任を持ちましょうという考え方は非常に怖い。特に経済学の人に多い。社会学の人は何をいっているのか分からないといつも批判されるのだが、例えば401kなども、あれは要するに民間の保険と同じ原理だ。自分でどういうふうに運用するか選んで、うまくいけば倍にも3倍にもふえるけれど間違えればパーになってしまう。ああいうのはとても怖いからいやだと言ったら、それではだめだと馬鹿にされた。私は人生の最後のところで、何もなくなってしまうという恐ろしい世の中にはして欲しくないと思っている。
 福祉が行き過ぎると怠惰になるとよく言われるが、そういうことはないのではないか。一時期、北欧諸国についてかなり間違った情報が流れて、社会福祉が行き届くと生き甲斐がなくなって老人が自殺するとか若者がドラッグに走るとか犯罪が増えるとかいうひどい情報が流れたけれども、決してそういうことはない。老人の自殺率は日本の方が高い。北欧はむしろ中年位の人が死んでいるが、老人の自殺率は高くない。若者も日本だって変なことをしている者はたくさんいるし、そういうことには関係ない。
 安定していると怠惰になるかどうかというのは、生きる目的があるかどうかということだと思う。スウェーデンは今経済が非常にいい。あれは規制緩和して経済活動を非常にやり易くしているということで、かつての社会主義国のようにみんなが統制された世の中で受益者だけになっているというのだとやる気がなくなるけれども、一方において経済活動などの規制緩和をして、そしてやりがいがあるようなシステムをつくっていけば、怠惰にはならないと考えている。
 それから、これから生まれてくる世代を犠牲にしているというのは、同感である。何かというとすぐ簡単に国債を発行してしまうのは問題だ。日本国の借金体制はイタリアを抜いたとか、日本の国債の評価はスペイン並みとかいわれている。南ヨーロッパの国々をああいう駄目な国になっちゃいけないとかいって、今まで日本人は馬鹿にしていた。いまはそこよりも日本の経済状態が悪くなっていて、全部次の世代に借金借金と負いかぶさっていく。こんな酷い国はない。今国債残高が645兆円と言っているが、まさに中負担でなく高負担の国となっている。ほんとうに次の世代にこんなに負の遺産を渡していいのだろうかと思う。
 負の遺産とはただ単に借金ということだけでなくて、公共事業なども膨大な負の遺産だと思う。原子力発電にしても、ひどい道路にしても、それを全部次の世代に渡していいのだろうか、それをもっと真剣に考えなくてはいけないのではないかという気がする。
 この有識者会議の時も若い人の意見を聴くというのを一回やったが、非常に形式的だった。私はもっと若い人の意見を継続的に聴くというのも必要だし、政策決定のプロセスにもっと若い人を入れる必要があるという気がする。高齢の人だけで勝手に決めてそれを次の世代にどんどん押し付けていく、このままで行ったら凄く怖い。

司会:今日この会議を考えたのは、要するにこれからの社会では蟻さんだけが中心で、蟻的美徳で構成する社会がいいのか、蟻もいるけれどキリギリスもいてもいいじゃないかというような、もう一度原点に戻って考えてみたいなという気がして、あえて漠としたイメージで会議を設定したわけである。先ほど、例えば神野さんの考えをもっときちっとお聞きしたいというご意見もあったし、保険か税か、あるいは消費税なら何%かという議論をしなければいけない。しかし、今日の会議を見ていて、技術論をやりながら原点に戻り、さらにまた具体的技術的な議論を行うというやり方しかないという感じもっしている。

田中(拓殖大学):基本的には袖井先生の社会観といいますか考え方に賛成だが、賀来さんの仰った後退のプロセスというのはもの凄く難しい。しかも日本だけそう思っていても東南アジア諸国とか貧困な国は、ODAひとつとっても、日本からいくら貰えるかをもう予算に組んでいる。そういう中で日本がどうやって撤退していくか。
 日本とは結局行き着くところまでいかないと、つまり、人は高齢化し、大都市に人は集まり子供を産まなくなるといったところまで行かないと変わらない。だから645兆円でも仕様がない。日本の貯蓄がなくなって外債でも借りるっしかないという状況にならないと、直らない。私は日本の役所というか、政治はそこまで行かないと絶対に本気になって考えないというふうに絶望的に考えている。

司会:突然絶望的になりましたが、恒松さんどうでしょう。


恒松(代表):田中さんがいわれたように非常に暗い気持ちになる。しかし、そうなったら困るので、それを何とか止めなくてはいけない。
 袖井さんがいわれたように、大国幻想というか、例えば成長率が何%なくてはいけないとか、それで何%に近づいたから、2%に近づいたからそれで日本は万々歳だなどと言っているようなのはどうしても理解できない。社会保障の問題に限らず、そのバックグランドとしてどういう社会が必要かとか、あるいはどういう社会を皆が望んでいるのかとか、そういうことをきちんと位置付けなければいけないなという感じがしている。もう21世紀なのだが、たいへん暗い気持ちで迎えようとしている。私も高齢者なのであまり大きなことは言えなくて残念だ。