シリーズ討論目次に戻る TOPに戻る 
シリーズ討論

宮島洋東大教授を招いて財政構造改革の進め方について討論

宮島洋東京大学教授
国民会議ニュース2000年07月号所収

以下にご紹介するのはさる6月22日、宮島洋東京大学教授をお招きしての討論会の模様です。討論におけるご出席者の発言は、事務局で要約させていただきました。したがって、文責は事務局にあります。


1 宮島教授講演要旨
@ 財政の現状
A 裁量的財政政策の評価
B 財政再建と財政構造改革
C 量的目標と改革手法
D 国家の制御
E 社会保障の3類型

2 質疑応答・討論



1 宮島教授講演要旨
 資料として図をお配りしたが、今日は要するにこれを議論してもらいたいと考えている。これからお話しすることは、そのための準備であるとお考えいただきたい。

@ 財政の現状
 まず、現在の日本の財政の認識についてであるが、国民経済計算で98年度の一般政府の赤字はGDP比−10.9%であった。国と地方の財政収支全体をあわせてみると、GDPの10%位の赤字ということである。98年12月には財政構造改革法が停止され、同時に第3次補正予算が組まれた。今日までの財政政策の影響はまだはっきりとは見えていないが、98年度の数字を見ると財政赤字が従来の3倍に膨らんでいることがわかる。ちなみに、99年度の補正後の数字で見ると、国の財政は収入のうち租税の割合が51.3%と半分にまで低下し、国債が43%となっている。こういう状況というのは、われわれがいままで経験したことのないものである。
 次に指摘しておきたいことは、今の財政赤字というのは景気が悪いから税収が落ちているというものではないということである。主体は構造的赤字というもので、つまり日本が完全雇用(といても失業率がゼロという意味ではないが)になっても、なおかつ生ずる赤字というものが中心となっている。それは、結局、裁量的な政策、つまり減税とか歳出増というものから生じている。今年度からプラス成長に転ずるというが、成長率がある程度回復しても埋められる赤字ではない。逆に言えば、今後の財政問題というのは逆の裁量政策、つまり歳出を減らすか増税をするか、そういうことによらないかぎり赤字はそう簡単に減るものではないということになる。
 国際比較をすると、EUは通貨統合をするときに財政赤字をGDPの3%以内にするというのが共通政策であって、各国ともかなり無理をして3%以内にもっていったようであるが、日本はそれが11%という数字となっている。また、プライマリー・バランス(第1次収支、基礎収支)とは公債関係を除いて財政の収支がとれているかどうかを見るものであり、これがプラスであれば、今後国債の減額にもっていけるような財源的余裕があることになるが、これが日本の場合だけ非常に大きなマイナスとなっている。経済学者はしばしばこれを見て、財政にはサステイナビリティがない、つまり持続的に維持できそうもないという議論を行っているわけである。

A 裁量的財政政策の評価
 財政構造改革法停止後の財政政策をどう考えるかについては、いろいろ議論があるところであるが、「中立命題」ということが議論されている。これはどういうことかといえば、財政赤字を拡大することはケインズ的にいえば総需要を喚起して景気を立ち直させるものと考えられるが、中立命題の考え方は逆であって、財政赤字が拡大すると、ひとびとは近々増税が行われることを予想する。そうすると、政府が折角赤字を膨らまして歳出を増やしても、個人は消費を増やさないで、将来の増税のためにとっておく。そういう行動をとると、政府が財政赤字を拡大して総需要を拡大しようとしても、単にその後に起こる増税のための貯蓄が増えるだけで、消費性向の低下が起こることになる。したがって、赤字そのものが景気政策を阻害してしまうという考え方である。この考え方が成り立つかどうかは議論の分かれるところであるが、平成10年版の経済白書ではかなりこれがとりあげられており、この影響がかなり出ているのではないかと財政学者の間で話題になっている。つまり財政赤字の縮小そのものが景気政策に寄与する、つまり将来の増税不安を取り除くことが個人支出増を促すことになるのではないかということである。
 私がいま気になっていることは、景気政策と人気取り政策の識別がしばしば不可能だと言うことである。減税と歳出増についてはほとんどどこからも文句は出ない。政治的にもやりやすい。ところが増税や歳出削減となると、抵抗が強くて一般にはできない。そうなると、景気政策ということで減税を行う、あるいは歳出を増やすということと、国民の受けがよいものとの区別が出来にくい。ここらの識別をきちんとすることが必要だということをここで指摘しておきたい。

B 財政再建と財政構造改革
 戦後の行政改革の歴史をざっと見たことがあるが、第2次臨調路線というのは即効性があって成果というものははっきりしていたけれども、包括性というか理論武装的な面からすると、第1次臨調の方が勝っていた。第1次臨調とは昭和30年代末に佐藤喜一郎三井銀行会長が会長をつとめたものであるが、このときに一番強調したのは、大蔵省から主計局を切り離して予算庁に格上げして総合調整を行わせること、会計検査院の機能を重視して政策の実績評価をメインに据えて歯止めをかけるという発想であった。ただ第1次臨調は第2臨調とは逆に答申はほとんど採用されずに陽の目を見なかった。私はむしろそういう手法に関心があって、その点では最近の橋本内閣のもとで行われた行政改革というのは、規制緩和、地方分権、中央省庁改革、情報公開、政策評価などメニューは非常に揃った。むしろ、この実効性を問うことが財政構造改革そのものだというのが私の認識である。

C 量的目標と改革手法
 今後財政構造改革というのはなにを目的にするのかといえば、手法としては行政改革とセットで考えざるを得ない。行政改革なき財政構造改革はあり得ず、これはただ単なる財政再建でしかない。そうはいっても、この行政改革は即効性が問題であって、メニューは整ったが魂がまだ入っていないところがある。これをよほどきちんとしたものに急いでしていかないと、また、単なる財政再建になってしまう。
 そこで、手法としては行政改革と組み合わせながら、一方ではなんらかの量的目標を設定していかないとなかなか実効性があがらないだろう。ではなにが目標となるか。これはいろいろ考えられる。たとえば、第2次臨調の時のように赤字国債をなくするということは、一番わかりやすい。ただ、注意しなければいけない点は、これだと建設国債ならば許容されることになるが、それに基づいて行われる公共事業、出資金、貸付金というものが、本当に意味があるものかどうかを相当厳密に議論しないと、この赤字国債ゼロというのは相当甘い目標になってしまうだろう。
 基礎的収支の回復というのもわかりやすい議論であるが、これは経過的な、当面の目標に近いものであって、それをさらにプラスに転ずるところから財政改革が始まるのであって、最終的な目標にはならない。
 3番目はEUが採用したものであるが、財政赤字をGDPの3%以内にするということに具体的な意味があるかと言えばそうでもない。ただ、国際的には通りがいいかもしれない。
 4番目も、フローの赤字を抑制しても償還が進まない限り長期債務は累増してしまう。したがって、残高をなんとかコントロールしていくことが必要で、残高をGDPの100%というのはどうしようもない話であるが、これをたとえば60%までに下げるということがEUでは議論されていた。こういう歯止めもあるだろう。
 最後は国民負担率であるが、こういう収入面からのチェックしておくということも考えられる。これは第2次臨調でも一つの重要な柱となっていた。ただ、90年代の日本の財政を見ているときわめて特徴的なことは、財政赤字を膨らますことによって国民負担率を下げていることである。90年度には39.2%であったものがいま37%に下がってきている。なぜ下がったかといえば、公債を発行して減税をやり、社会保障負担の先送りをした。したがって、国民負担率の上限だけを見ても駄目であって、これと財政赤字の関連でどういう歯止めをかけるかということを考えなければならない。

D 国家の制御
 このようないくつかの量的な組み合わせと改革手法との関連ということになるが、そこで次ページの図を見てもらいたい。この図は私のアイデアということではなく、ベネットという学者がこのような図を書いているのだが、問題は国をどう制御するかである。国を制御するにはまず、大枠として、外的制御と書いてあるが、民営化と地方分権が大事である。中央政府の財政や権限をどうコントロールするかというときに、ひとつはこれを市場にゆだねる方向を追求しなければいけない。これが図でいえば縦のベクトルである。横のベクトルは地方分権で、政府がやらなければいけないものは分権によって、中央政府から引き離していかなければならない。日本の場合でも、こうした分権化と市場化とを組み合わせていく方向をとっているといえるのではないか。
 そこで、残った国の部分の制御をどうするか、つまり内的制御については、国の中央省庁改革といわれる部分である。ひとつは、従来は概算要求あるいは予算編成には強い関心を払うが、その後の決算がどうなっているかなどにはあまり関心がなかった。そうではなくて、事後的な実績の評価というものに重点を置いていく。これが縦のベクトルである。横のベクトルは、非常に細分化して、群雄割拠主義あるいは縦割り行政といわれる行政組織のもとで進められてきた官僚的な縦割り行政から政治主導の総合調整型に国の意志決定を変えていくというやりかたである。まさに今回の中央省庁改革法の理念がそういう理念である。内閣府の設置とか省庁の統合というのは、従来の官僚主導、行政主導から政治主導へということである。もうひとつは先程述べた事後評価あるいは行政評価といったものを組み合わせることである。
 実は政治主導になるとどうしても公共性という概念が拡大解釈されるおそれがある。これまでの日本の経験からみても、政治によっていかに公共性とか公益性というものが拡大されてきたか、それが中央政府の経済的機能や財政的機能を拡大してきた要因でもあった。したがって、政治主導に持っていけばいくほど、その公共性・公益性をきちんと評価する仕組みが必要となる。それが政策評価であると考えている。いま各省庁が必死になっているのがこの政策評価であって、これを余程きちんとしておかないと、利益を拡大解釈して入れ込む、費用の方はできるだけ過小評価して落としてしまうことが起こりがちである。政策評価というものは官庁の独占ではなく市民の側からの政

策評価という発想もしなければいけないし、こういうベクトルも考えていかなければならない。議論していただきたいのは、こういうやり方で中央政府の財政をいかにコントロールしていくかということである。民営化や分権政策、政策評価や省庁再編、これらがどれだけ実効性を持ちうるかということが財政構造改革そのものであるというのが私の理解である。

E 社会保障の3類型
 もうひとつ問題提起をさせてもらうならば、これは社会保障に係わることであるが、いまある国が100という老齢年金を給付するとする。そして、この年金に対して20という課税を行う。この場合、老齢者が実際に受け取るものは80である。実は、スウェーデン、デンマーク、オランダという国はこのタイプの国である。それに対して日本はどういうタイプかといえば、年金給付は80で課税はゼロである。これだとスウェーデンなどと実際に受け取る額に変わりはないが、スウェーデン・タイプだと表向き非常に大きな政府になる。この場合、国民負担率は100であるが、高齢者層が20負担しているから若年層は80ということになる。日本タイプだと、国民負担率は80であるが、高齢者層は負担ゼロで、若年層が80負担ということになる。
 実はもう一つのタイプがあって、それはアメリカである。この場合は給付は60で課税はゼロである。ただし、民間あるいは準民間の保険会社への拠出に拠出控除(損金算入)として特別減税を行っている。この場合も高齢者が実際に受け取る年金額は80である。政府からは60であるが、減税による民間を通じて20給付する。この場合の国民負担率は60である。ただし、若年層はこの20という減税分を負担しなければならないので、若年層の負担は80となる。
 なぜ、このようなことをいうかといえば、こうしたタイプの違いをいままで十分分けて考えてこなかったと思うからである。ヨーロッパ諸国は財政規模が非常に大きくて、国民負担率も高い。日本やアメリカは低いのだが、こうした違いは社会保障と税制の仕組みの違いに大きく係わっているということである。したがって、どういう仕組みをとるかによって、表向きの政府の規模とか国民負担は大きく違ってくる。いまの例でいえば、高齢者の受け取る額は変わらないが、そのやり方によって政府の規模は大きくなったり小さくなったりする。今後われわれが財政をコントロールしていくときに、なにをターゲットとしていくかをはっきりさせておかないといけない。行政評価をする場合にも注意が必要だということである。


2 質疑応答・討論

賀来(大和総研):ターゲットを考えた場合、誰もが感じている公共事業の非効率性という問題と財政赤字という問題のどちらに重点を絞るべきか。今の財政赤字は構造的であって自然治癒ができるとは思わないが、できると思っている人もいる。試算をすると今の赤字は殆どが構造的赤字ということになるのだが、日本の80年代あるいはアメリカの財政赤字の縮小は、これも計算が難しいが、かなり循環的なものであるといえるのではないか。こう考えると、自然治癒説を唱える人に徹底的に反駁を加えるというのは非常に難しい。そういうことを考え合わせながらターゲットとしてなにを取りあげるべきか。
 もうひとつは、官から政治へシフトし、政治優位にしていくことは望ましいことだとお考えのようだが、一方ではご指摘のようなバラ撒きも出てくる。むしろ、今の政治が主導権を取った形というのは絶望的にならざるをえない。中央銀行の独立性ということが叫ばれ、実現しつつあるが、なぜ金融政策のみが政治からの独立性を求めるのか。財政もそうあってもいいのではないか。財政もプロフェッショナリズムが要求されるし、政治からの侵食は金融よりももっと大きい。そうしたときに、財政が政治主導となっていくことは本当にいいことなのかと疑問も出てくる。

宮島:第1の点であるが、構造赤字か循環赤字かという問題は、その推計のプロセスを見ていると、過去の平均的な数字を使って出している。これが、たとえばいまのIT革新のような大幅な技術革新とかいうことになるとそれが当てはまるかどうか、問題もある。ただ、その一方で着実に起こるであろうことは、税制の弾性値が低下していることである。所得税の最高税率を引き下げたこと、法人税の税率を下げたこと、その一方で消費税の税率が上がっていて、今後日本の税体系が全体として弾性値の低い税目が中心になってきた。こうなるとかつては経済成長率の1.1というのが平均的な弾性値で、景気の良いときはもっと高く、2以上の時もあったが、今後弾性値が下がっていくのではないか。来年度以降、消費税の税率を引き上げる方向性というのはいずれ出てくるだろう。こう考えると循環的な赤字を解消する部分というのは小さくなるのではないかという印象を持っている。
 第2の点については、政治優位ということがもっている危険性というものがいかに大きいかということは、これまでもまた今でも実感しているところである。ただ、それをチェックする仕組みが今までなかった。それを政策評価などでチェックできる仕組みがある程度進んでいけば、いくらなんでも、政治がそう無茶なことはできなくなると思う。それと今度出来る経済財政諮問会議のような総合調整機能がもし発揮できるのであれば、政治主導という方向性というのはいいのではないかと思う。
 ただ、財政にとどまらず社会保障の分野でも、行政がなにからなにまで面倒を見るという仕組みが国民に対しての政府依存を強めてきた。そのために、政府をチェックするという機能が働かなかった。それが、政治が表に出ることによって有権者と政策そのものとが直接対峙していく状況というものが生まれてくるならば、結果がどうなるかは別として、それはそれではっきりしていくという意味で、望ましいことではないかと思う。いずれにしても、条件付きということである。

司会:この図は2つに分かれているのだが、政府の仕事をまず市場と地方に分けるのではなく、市場と政治に分けると考えるべきではないか。政治に分けるときに、これが膨張しないように自動調節機能を働かすために分権をすると考えるべきではないか。この2つの図は一緒にして3次元にした方がいいのではないか。

宮島:政治に分けるというときに、政治も出来るだけ分権化することがまず先行条件だと考えている。実はdecentralizationという概念は経済学の分野では、地方だけを意味するものではなく、消費者などが意志決定に参加していくことも分権であると捉えている。その意味では、この上の図全体が分権化と呼んだ方がいいかも知れない。ただ、規制緩和とか民営化といっているのは、今度財投計画の大幅な見直しが始まるが、財投機関債の発想などはマーケットにある程度意志決定を委ねようということでもあると思う。政治はまず分権を先行させておかないといけないだろう。下の図は、こうした手順を踏んで、あとに残った核になる部分になにをすべきかということを示したものである。

高橋(日本総研):分権には3つあると考えている。第1は政府部内の分権化であり、行政に集中した権限を立法や司法にも分権していく。司法機能が強化されれば、行きすぎた裁量行政はいらなくなる。たとえば、金融行政も事前規制をやめて悪いことをしたら取り締まるという司法にしてしまう。もう一つは市場への分権。これは民営化などである。もうひとつは市民への分権。NGO活動が活発化することで、行政が握っていた部分を担えるのではないか。
 財政全体の話については同感である。なぜ財政構造改革をしなければならないかということについては、かつて橋本さんが6つの構造改革をしなければならないといった。私は財政改革、行政改革、社会保障改革は三位一体ではないかと考えている。社会保障については、要するに大きな政府を作るのか小さな政府を作るのか、どれだけ民間に自己責任をとらせるのかといった選択をこれからしていかなければならない。高齢化社会にどんどん向かっていくのだから、北欧型にするのかアメリカ型にしていくのかという選択があってはじめて、社会保障改革というものができるのではないか。これを飛び越えて財政改革は出来ない。
 行革については、公務員の数あるいは公共事業の進め方が重要である。公共事業については、いま国全体で年間40兆円程やっていると思うが、これを単に3割カットということをすれば、その分、経済に影響が出てしまう。それを国が3割カットしてもPFIのような形で民間の活力を活かせれば実体経済への影響は出ない。つまり、公共事業の効率化をうまくやれば名目的な政府のサイズが小さくなっても影響が出ない。そういう意味で、行革ということを広く捉えれば政府の事業の進め方を改めていかなければならない。そういった意味を含めて財政再建というものをやらなければいけない。
 財政再建に絞ってみれば、入りと出があるわけで、すぐに増税の議論に入る前に出を抑えるという議論をしなければいけない。大きい歳出項目をたぐっていけば、公共事業と社会保障、それに公務員ということになる。その意味からも三位一体の改革をしなければいけない。
 入りを増やすためには増税は不可避だと思う。しかし、増税をするにしてもどういう形がいいのか、とくに個人からとるのか企業からとるのか、若年層からとるのか高齢者からとるのかの選択をっしなければいけない。それは結局、どの税をとるのかではなく税体系全体の話にならざるをえない。それを抜きにして財政再建の話は進まない。こう考えると、財政構造改革とは社会構造改革そのものではないかと思う。
 弾性値については、アメリカの財政は黒字になっているが、これは循環的な黒字と構造的な黒字の両方があるのではないか。たしかに景気がいいから税収が伸びているのだが、弾性値がすさまじく上がっている。96年くらいから弾性値が上がって税収が増えている。なぜかと聞いてみると、たしかに景気循環の過程で弾性値が動くということもあるのだが、たとえばキャピタルゲイン課税をしているために、そこが非常に調子がいいので税収が増えている面もある。したがって、税の中身を変えるということ、もうひとつは民間の活力が出るような税体系をとることが非常に重要だと思う。また、アメリカが構造的な黒字になった背景として、アメリカも相当行政改革をやったということができる。循環的と構造的とに分けるのは難しいが、アメリカも相当構造改革をやったということだと思う。
 イギリスも相当財政赤字を減らしているが、日本と彼らと違うのは、民に任せることは全て民に任せるという哲学が非常にしっかりしていて、常にそれを忘れないで切り込んでいった。日本のように、形は真似るのだが中身がないので実効があがらないところとは違う。

阿部(経団連):先ほどの社会保障の類型で、北欧型、日本型、アメリカ型があるとのことであるが、北欧型とは社会が成熟して高齢化がこれ以上進まないという静態的な社会のなかで、給付は十分に行うけれども負担は平等に行うというタイプであり、日本型はまだ高齢化が進んでいく途中のなかでできるだけ給付を抑えていきたいというものであり、アメリカ型というのは高齢化が進まない社会でどんどん新しい人が外から入ってきて全体としての年齢構成はさほど変わらないという社会なのではないか。
 実は経団連はこの日本型からヨーロッパ型に必然的に移ると考えていた。したがって、給付と課税のあり方もヨーロッパ型の間接税にシフトしたものが望ましいと思っていたのであるが、率直に言って、アメリカ型の行き方もあるのではないか。極端なことをいえば、門戸を一切開放してどんどん外からひとを入れてしまう。いろいろ問題が生ずるかも知れないが、アジアを中心に移民を受け入れて、必要な負担をして貰う。場合によっては日本に定着して貰っても構わないという考え方である。
 まだ、これは外に打ち出すほど煮詰めてはいないが、会長発言などでときどき匂わして様子を見ているところである。今までのように、日本の中だけの自己完結型で考えるのでなく、もう少し世界に門戸を開けて、人の移動の問題まで含めて、アメリカのような積極的にはならなくとも、少なくとも来るものは拒まずといった方針をとることによって、今のように袋小路に落ち込んだ財政赤字問題も解消できるのではないかと考えている。

宮島:3つの類型についてであるが、高齢化のテンポの違いということはあるだろう。日本で高齢化が進みだしたのは80年代であるが、ヨーロッパでは第1次大戦直後からわりと緩やかではあるが着実に進んできた。また、税制からいうと、ヨーロッパ諸国では第1次大戦の時に今の付加価値税の前身である取引高税を殆ど取り入れてきて、それをベースにしながら法人税には殆ど依存しない税体系を作り上げてきた。早い段階からそういう構造になっていたということもある。もうひとつ、ヨーロッパでは80年代に高齢化が一旦ストップする。これは第2次大戦の影響を大きく受けたためで、戦争中に若い人が沢山亡くなったので、その人達が高齢化するときに、高齢化が一旦ストップする。それに比べると日本では80年代からほぼ一本調子で高齢化が進行してきている。また、税体系そのものがアメリカとヨーロッパの中間くらいで、今後の方向も十分に見えていない状況である。
 アメリカの場合は、NPOとか慈善機関の役割が非常に大きいのではないか。アメリカはサラリーマンを対象とした医療保険のない非常に珍しい国であり、事業主が民間の保険会社や非営利の保険会社と契約をして医療保障をしているわけであって、なぜそのような社会が成り立つのか、われわれの常識では理解しがたい面がある。400万人くらいの無保険者がいても暴動が起こらないところを見ると、それなりの受け皿が出来ているのだろう。それがNPOであったり慈善機関であったりするわけであるが、要するに民間部門を社会保障分野で活用するという認識が強いのだと思う。
 この3つの類型は、高齢化と税制、そして民間の役割の違いから生まれているものだと思う。日本では、民間というとすぐ営利企業のことを思うが、NPOとかNGOがどれだけ大きな役割を社会で果たせるのかということが、社会保障の手法の違いを生み出している要因ではないかと考えている。

片山(東京財団):日本の財政で一番の問題だと思うのは、受益と負担の関係が乖離していることである。負担感がないまま歳出が拡大している。そうしたことをもたらしているのは、歳入の3分の2は国に行き、使う方の3分の2は地方だという、国が集めて地方が使う仕組みだと思う。交付税制度などの仕組みを通じて、実際に使う方の負担感のないまま国の方の財政赤字は増えていく。
 プライマリー・バランスについていえば、そのうちの6割が特別会計にトランファーされている。したがって、一般会計に掲げられている歳出項目というのは一般国民にはなにに使われているのか実感できないようなものが多い。そういうなかで、プライマリー・バランスだけを見て、それを縮小していこうということになると、地方や外郭団体などにしわ寄せするだけの結果となるのではないか。いま、国債だけでなく地方債の残高も急増していることが大きな問題だと思うし、さらに筋が悪いのは公債の形を取らない借金がどんどん膨らんでいる。第3セクターの破綻が指摘されているが、行政改革の名の下にどんどん民活という形が進められていくと、こういう公共部門の隠れ借金を増やしてしまう危険性もあるのではないか。
 そう考えると、受益と負担の関係を納税者一人一人が意識出来る形に持っていかないと、こうした構造的な問題はいつまで立っても断ち切れないのではないか。となると、地方分権は難航しているがこれをなんとか実現して、まず地方ベースで受益と負担の関係をリアリティを持って考えられる体制を作っていかないといけないのではないか。

阿部:経団連では4月に「自立自助を基本とした地方財政の実現に向けて」という提言を出しており、そのポイントは、今の地方分権というのは単に事務の見直しだけでそれに財源がリンクしていない。したがって、地方の事務を法定受託事務と自治事務にわけて、法定受託事務の経費は全て国費で賄う。自治事務は基本的には住民の課税(個人住民税と所得税から移転する新たな住民税、さらには固定資産税)で賄い、徹底的に受益と選択を求めていくという発想をとっている。
 問題意識は3つあって、ひとつは今の地方分権はかえって行政の肥大化を招いたり、国・地方あわせた財政の傷口を拡げてしまうのではないかということで、地方分権の本旨を見直すということ。第2は地方に本当の意味での自主財源を与えていかないとどのようなことを議論しても無理であろう。国からの事務を押しつけている部分は完全に国費で持つ、それ以外に自分の固有の事務としてやるものは自分たちの税金でやるということである。第3は、非常に難しいことであるが、社会保障の見直しのなかで自治体の役割が非常に高くなっていくであろう。そのために地方消費税を財源として確立せざるを得ない。これが要旨である。

宮島:政府とはなにをやっているかといえば、民間で出来ないことをやっている訳である。それはなにかといえば、再分配である。所得階層間の再分配もあれば産業間、地域間の再分配もある。そうなるとどうしてもコスト意識が薄れる。つまり、受益と負担の関係が一致できればなにも政府がやる必要がない。そこに乖離があるから政府がやることになる。これが根本問題である。そこで、受益と負担の関係、仕組みをはっきりさせるということになれば、これは情報公開の問題であるが、それを縮めるということであれば、それは行政改革本体の問題となる。
 私は、地域間とか産業間、業種間の再分配は好ましくないと考えている。地域が豊かとか貧しいというのは一体どういう概念なのか。いま一番得をしているは財政力指数の低いところの金持ちだろうと思う。前に経企庁がやっていた調査で、一番住み易いところというのは石川・富山・福井というところだが、ここは地方交付税を受けていて住み易いのである。逆に、交付税の恩典をあまり受けない千葉とか埼玉が一番住み難いところとなっている。誠に地域間再分配のなかで起こっている皮肉な現象だと思う。したがって、再分配は個人ベース(あるいは世帯まで含めてもいいが)に徹底すべきだと考えている。個人ベースということになれば、税制と社会保障の問題となり、先ほどその選択肢として3つの類型を掲げたわけである。
 財政というのは複雑な制度の固まりであって、それを解剖することは容易ではない。たとえば、地方交付税は一般会計からの繰り入れでは90年代の初めから6兆円くらい減っているが、出口ベースでは増えていて、これが地方交付税特別会計の借金となっており、この借金の分担について国と地方の間で極めてややこしい取り決めがある。こうしたことは普通には見えないものであり、また、自治体は出口ベースだけにしか関心がない。同じようなことは社会保障についてもいえる。間に緩衝地帯というかブラックボックスのようなものがあって、受ける方は出口しか関心が無く、一方では行政は入り口しか関心がない。このように非常に大きな再分配の機能が働いているところに、情報公開がきちんとなされていないという問題も無論ある。こうしたことを明確にしなければいけないし、それが政策評価の問題でもある。財投ではいま政策コストという概念を使って議論しているが、表向きの住宅金融公庫の金利がなん%であるかについて関心があるかも知れないが、それには財政負担がくっついて非常に低い金利となっているということは殆ど理解されないまま進んでいる。したがって、情報公開とか政策評価をすることが、受益と負担の乖離を縮める前に、そうした乖離があること自体を認識させるために必要だと考えている。
 地方分権に関しては、実は「分権のコスト」というリーフレットを出したこともあり、今日はあまり深く触れなかった。江戸時代ならともかく、現代のひと・もの・かねが自由に移動する時代の分権とは何だろうかということについて、私自身そう明確にはいえない。今日ここへ来るときも4つほどの区を通り抜けてきた。これは当たり前のことであるが、財政から見ると大問題である。居住地主義で課税をするといっても、住んでいるところで課税をするというのであれば、これはこれで一つの解決の仕方であるが、ここでお話しして謝礼を貰うとしてそれにどこが課税権を持つかというのは大問題である。国際社会といった無政府社会ではこれが大変な問題になって、WTOやらOECDなどが苦心惨憺してモデル条約を作り、各国政府間で交渉しているわけである。日本のなかではこれは全部国が決めているので、ある意味では非常に有り難い世界である。われわれはなんの違和感もない。国が全部調整の仕方を決めている。いちいち多摩川をわたるときにパスポートを出さずに済む。この便利さをわれわれが享受しようとすると上位政府によってなにからなにまで全部決めてもらわないといけない。
 経団連が居住地主義でやれというのは分かるが、本社が千代田区にあって工場が神奈川県、研究所が茨城県ということになると、これを居住地主義だけで課税をするということは、逆に問題も起こってしまうことになる。ただ、国際課税の場合には企業ベースで課税をする場合には定率でかなり低いということをお互いに約束する。基本は居住地、人間でいえば住むところ、企業ならば本社で課税をするということになる。但し、居住地と源泉地の2つの組み合わせはどうしても必要だと思う。住民税だけでというのは今のように人や企業が県境や市町村を超えてどんどん動く状況の下では難しいのではないか。
 ところが日本の地方公共団体の地方税法に関する考え方が逆であって、居住地主義のところは税率は一本で、源泉地課税については超過課税を活用している。生産の現場での課税については定率で固定しておく。その代わり居住というベースで課税をする場合には超過課税が出来るというのが、国際的な常識である。日本ではこれが逆になっているところに経済界からの不満があるのだろう。
 自治体は居住地主義で住民税を増やすことには非常にいやがる。なぜかといえば、地元住民に負担がはっきりするからである。源泉地的な企業課税をすると、よく分からないから問題があまり起こらないこともあって、こういう方向にどうしてもなりがちであり、それに不満があることは十分理解が出来る。
 地方分権一括法は機関委任事務の見直しを中心としたものであり、これはこれで評価するが、税源の問題が全く入ってこなかったからこそ出来たともいえる。税源の問題が入るととても纏まらなかっただろう。そうなると、せいぜいいえることは、交付税と補助金に当たる部分の地方税化をはかったらどうかということになる。税としては消費税なのか外形標準化にするのかという議論はあるが、付加価値税というのは本質的に難しいところがあって、これは国際貿易の時に払い戻すということがどうしても発生する、又輸入の時に課税をするといった国境税調整の問題があって、地方がこの税務行政を自ら行える可能性は薄い。どうしても譲与税になってしまう。それが分権といえるのかどうか。むしろ、外形標準課税かあるいは小売売上税かということを議論している。
 社会保障と分権であるが、国保を見ていると本当にこれでいいのかなあという気もする。税方式とか社会保険方式という言葉をよく使うが、国保というのはいま5割も国費が入っていて、果たしてこれが保険なのかといいたくなる。介護保険も5割国費が入っている。これは保険なのか、財政の一部なのか本当にわかりにくい。これだけ国費が入るということは自治体の財政力に大きな格差があって、地域住民に公平な負担、公平なサービスをということになると、こういう形でなければやっていけない。そこは、交付税と補助金分を枠にして地方税化を進めても解決出来ない問題が残ってしまう。
 一つの考え方は合併であり、あるいは道州制といった広域の地方団体というものを考え、そのなかで今東京都がやっているような内部で財政調整を行うという発想であれば、また、話は変わってくる。ただ、その場合、国が財政調整から手を引くということは、先ほど触れたような極めて便利で安上がりという面は犠牲にしなければならない。それが分権なのだというのが私の考え方である。
 つまり、私が分権のコストといったのは、地方自らが税務行政を行い、努力があればそれだけ税収が上がるという仕組みを作るためには、今のように国税の申告が終わると、道府県や市町村の担当者がやってきて、その資料をもとに地方住民税はいくらかを計算するような安上がりな税務行政ではなく、自らやることになる。それは一つのコストであるし、分権になればなるほど国際社会に似て、無政府状態での地方公共団体同士の交渉によって配分比率を決めるということになる。
 法人事業税の課税所得は本社でしか集計できないので、基本的には従業員数によってこれを分割するという仕組みをとっている。それもOA化が進んで人が減ってくると、本社の人数は2分の1にして地方の工場は1.5倍にするといった調整を行っている。これも全部地方税法で決めてあるので、極めてスムーズに安上がりになっている面がある。逆に言えば、地方がどんどん課税自主権から離れていった歴史でもある。分権の話は財源問題が入ってくると、にわかに雲行きが怪しくなってしまう面がある。

栗山(関経連):先ほどの図についてであるが、まず民営化や地方分権を行って、そのあと中央政府の内部制御を行うという考え方はわかるが、問題はどこまで民営化しどこまで分権化するかをどういう仕組みで決めるかである。むしろ、下の図に書かれた仕組みによって上の図が決まるのではないか。また、分権された自治体についても下の図があてはまるのではないか。
 上の図から下の図へとスムーズに流れていくのなら問題はないが、これが難しいから、たとえば財政は肥大化し赤字にもなっているのではないか。行政の役割が小さいときならまだしも、これが大きくなり、しかも地域によってどこまで政府にやって欲しいかというニーズが違うのに、これを一律に決めようとするから最大公約数的なもの、税金は安くサービスは多くというものになってしまう。
 関経連としては、まず地方分権してしまい、そのなかで各地域(これは必ずしも今の府県の数、市町村の数ではない)が地域にあった受益と負担を決めればいいのではないかと考えている。
 また、近々関経連としては提言を発表する予定であるが、そこでは地方分権の最終的な姿として、少なくとも自治体の仕事は全部地方税で賄う、国と地方の間の財政移転はゼロとするという目標を定めないとうまくいかないのではないかと考えている。とはいっても、阿部さんもいわれたように、法定受託事務まで地方の負担にするというのは問題である。ただ、これをすべて国の負担とするのもモラルハザードを招くので半々とか7〜8割国が負担するとかいう形にして、そうした移転はあってもいいが、それ以外は全てなくすべきであると考えている。
 そうした場合、自治体の努力にも係わらず自治体間の税収格差が生まれることになり、ナショナルミニマムの行政サービスを実現するためにはどうしても財政調整が必要となる。しかし、その場合も、国の世話にならないで自治体間の水平的な調整を行うこととする。まず、府県間の調整を行い、そのあとで府県内の調整を市町村間で行うことになる。その場合、どのくらいの調整をすればうまくいくかということになるが、それについてはこれから研究したいと考えている。10何兆円の国税から地方税への移転となるが、これはそう不可能な数字にはならないと考えている。

司会:こちらでも税源移譲のシミュレーションをしたことがあるが、たとえば九州の産炭地であった田川市などは、いくら税源を移譲しても税収はそんなに増えない。では市町村合併で近隣を合わせればいいかといえば、合わせたところでどうしようもない。税源移譲は必要だが、どうしても財政調整は不可欠であるとおもう。宮島先生は地域間の財政調整は望ましくないと言われたが、赤池町は自立せよ、十島村は自立せよといっても、とても無理なのではないかと思う。

白石(三菱総研):財政構造改革の量的目標についてであるが、特例公債依存ゼロ、プライマリーバランスの回復、財政赤字の対GDP比の上限設定という3つは、本質的に違いがないものだと思う。なぜかといえば、入りと出の差をどう捉えるかということであり、本質的な差がない。では、どういう量的目標がいいかといえば、これはマーストリヒト基準(財政赤字の対GDP比3%、長期債務残高60%)を真似してしまうのが一番わかりやすいのではないかと思う。
 構造的な赤字と循環的な赤字については、たとえば2000年度予算では歳入総額が84兆円で公債収入が30兆円であるが、これをいきなり30兆円減らすといっても国民はげんなりするだけである。仮に10年間3兆円づつへらすといってもかなりのデフレ圧力が働くことになり、これも合意を得られないのではないか。
 そうなると、アメリカのように循環的な要因でどれだけ税収を増やせるかということになる。たしかに、弾性値も落ちているし税収の割合も歳出の50%にまで落ち込んでいるために、増税はしなければいけないと思うが、考えようによっては税収も増えるのではないか。いま租税印紙収入が48兆円あるわけであるが、これが政府の言うとおりGDP成長率が2%位にまで戻ってくると、政策減税が6兆円ありそのうち4兆円ほどが戻ってくるので、52兆円。弾性値が1.1か1.2かというということになるが、名目で3%成長で弾性値をおまけして1.2とすると5〜6%位税収は増える。そうなると、うまくいけば57〜58兆円まで税収は伸びる。となると、循環的要因で10兆円くらい税収が増えるかも知れないという計算も成り立つことになる。
 つまり、構造的要因と循環的要因を計算すると圧倒的に構造的要因が大きいのだが、こうした計算をすると30兆円の赤字のうち10兆円くらいは景気の回復によって稼げるかも知れない。しかし、それでも20兆円足りないから、その分は歳出をカットするなり増税をする必要がある。こうした議論が、最近の財政構造改革の議論では抜けているのではないかと思う。
 また、この図についてであるが、イギリスの社会学者のアンソニー・ギデンズのいう第3の途ということが最近はやっているが、普通、第3の途というと市場対国家を対比させて、その真ん中を行くことだと受け取られているが、ギデンズの議論はそうではなく、社会には3つの重要なセクターがあり、それは政府と民間とコミュニティであり、コミュニティを重視していくことが必要だということになる。
 公共部門はすべて政府(立法府、行政府、司法府)が行うのではなく、公的な仕事を民間部門とかコミュニティが担っても構わないのではないか。そういう仕組みが、このような図などでも見えるといいのではないか。政治主導だと財政が膨らむから官僚主導の方がいいという意見は間違っているが、政治主導のなかで公共性、公益性が拡大するのをどう抑えるかといえば、今行政が握っている公的なるものの提供機能を民間なりコミュニティに持っていけばいいのではないかと考えている。

宮島:数値目標についてであるが、マーストリヒト基準は明確であるけれども、その意味するところがわかりにくい難点がある。たとえば赤字国債ゼロというのは、建設国債だとあとに見合い資産が残るからという財政法上の発想に立てばなんとなく分かる、プライマリーバランスもこれが回復すれば今度は国債減額に向かえるということになる。しかし、GDPの3%がどうして必要かを直感的に説明するのは難しい。
 構造赤字と循環赤字の問題も推計方法その他に問題があることはたしかである。ただ、財政再建は景気回復からというキャッチフレーズがあって、景気が回復すれば財政は再建できるというメッセージが送られた時期があった。景気回復と財政再建は両立するかというときに、両立するという考え方にも、ひとつは景気が回復すれば自然に財政は再建できるというもの、もうひとつは規模よりも効率性を重視すれば両立できるというものと2つある。このうち、前者の考え方は楽観的ということをいっておきたかったわけである。ただ、具体的にどの程度になるかは、弾性値というものも平均を取れば1.1だが、景気の上昇期には大分違うので、どういう課税ベースを含んでいるかなどを見なければならない。アメリカでは、キャピタルゲインのほかデリバティブなども年度末には時価評価して利益を計上することをやっているので、景気に敏感に反応する。日本のように取得原価主義で動いている社会で保有資産の評価損益などは課税に反映させないという考え方をとっているところでは鈍い。そうしたことを考えると、日本の場合にはアメリカよりは低いのではないかと考えている。
 第3の途については昔から問題となっていることであるが、コミュニティあるいはさらに友人とか家族の役割の問題である。つまり、全くの営利企業があって、次に民間非営利セクターがあって、第3セクターとかなどの政府企業、そして最後に政府本体があるといった図式で、入ってこないものが家族とかコミュニティである。もちろん、それが組織化されていれば民間非営利団体ということになるが、そこの部分をどう考えるかである。この問題をいうと半分くらいの女性から反発を受ける。まさに日本型のやり方というのは、コミュニティとか家族をうまく使え、これはタダで代行をやってくれるという発想である。とくに社会保障の分野などで、これまではまさにコミュニティや家族が担っていた部分が大きいし、これからも大きいとは思うのであるが、この部分が段々マーケットに出たり政府に出たりしていて、コストが認識されるようになってきた。したがって、そこのところをどう考えるかということが、財政問題よりももう少し広い社会問題として考えておくべきところだと思う。堀田力さんなどは別の意味でこのことを非常に重視していて、これが政府を制御するもうひとつの大きな手段となるといわれるが、そこのところは若干ジェンダー戦争的なところもあって、更に議論が必要だと思っている。

村山:増税の議論に入る前に、税金を払っていない若者などが一杯いるのではないか。国際比較するとどうなるのか

宮島:国際比較の数字はよくわからない。
 なお、税金を払っていないというとき、課税最低限の問題がよく出されるが、その際、課税最低限とはなにかということをきちんとおさえておかなければ議論が混乱する。基礎控除、配偶者控除、扶養控除のようなものが問題なのか、あるいは給与所得控除とか公的年金控除といった経費とはいえないまでも経費的なものに対する控除が高いのか。たとえば、アメリカやイギリスだと日本のような社会保険料控除はない。こうしたことが課税最低限を大きく左右している。その結果、アメリカに比べて日本では働いている人のうち税金を払っている人の割合はかなり低いと思う。大蔵省などは、日本の国に会費を払え、つまり所得が低くても応分の分担をしろといっている。
 それはそれでいいのであるが、いまいろいろな議論を聞いていて不安になるのは、あるひとはこれから消費税を中心に税率を上げざるをえないだろうという。それがなぜ可能かといえば、所得税が累進的で社会保障給付も比較的低い所得層に重点的にいっているから、消費税を上げてもいいという議論をする。ほかへいくと、所得税の累進性をもっと低下させてもっと多くの人に負担して貰った方がいい、社会保障についてもレベルを下げるという。つまり、なにか政策の軸があってその下で二重になるもの、無駄なものは削っていくというのならばいいのだが、どこもみんなレベルを下げるとか税率を上げるとかいう話になって、相互調整がうまくとれていない。
 社会保険の場合には、130万円の所得までは被保険者として認定せず、保険料は取らない。また、103万円までは税金をとらない。こういうことを前提として、他の方ではこういうことがあるのだから手当的なものは小さくしてもいいだろうという議論も成り立つ。こうした支出面と税制面と社会保障面全体をみてどうするかということが、政策的に行いにくい仕組みに日本はあって、そこのところがこれから変わっていくのかどうか、全体の政策を総合調整する仕組みというのがあるのかどうかが気になるところである。

安藤(東海大):学問的と言うよりは政治スローガン的にいって、財政赤字はなぜ悪いのかを端的に教えていただきたい。
 日本の財政赤字の累積状況からすると、もはや永久凍土(ツンドラ)に近い状況になっていて、これが完全に返済されることはまず永久にない。こういう状況のなかで大蔵省がやっているキャンペーンなどもある時期を経て段々迫力がなくなってきた。なにが悪いかのか、ということに対してはっきりしなくなっている。たとえば、後代へのツケ回しはけしからんというけれども、これは過去50年位の間につけ回されてきたものであって、いまから20年後の世代につけ回せば、恐らく又それを更に後の世代につけ回すであろう。こう考えると、つけ回し自体が悪いわけではない。
 あるいは、財政赤字を続けると消費者は消費を控えるという経済白書の文章を先生は引用されているが、白書を書く人と消費者とは違うのであって、そうした「合理的判断」はしないだろうと思う。なぜ財政赤字が悪いのかについて、骨太のわかりやすい議論はどうも拡散しているように思う。
 私は消費税よりは課税最低限の引き下げの方が望ましいと思っているが、今度の選挙で自民党はこんな残酷なことは出来ないといっているほど、血の雨の降るおそれのある増税策であるから、よほどのわかりやすい説明、選挙のまっただ中でもいえるようなスローガンがないかぎり難しいと思う。財政赤字について、これだけは許せないというものがあればお聞かせいただきたい。

宮島:私は財政赤字をゼロにするということを考えているわけではない。現在の財政赤字というのは今だけ生じたというわけではないが、1990年度、91年度は一応なんとかバランスしたわけである。いま、おそらく多くの方々が一番大きな危機感を持っているのは日本の人口構成や家族や世帯の変化が背景にあるのではないかと思う。つまり、80年代はまだヨーロッパに比べて高齢化が低い国であった。90年代末になって、老齢人口が16.3%とスウェーデン、イタリアに次いだ高齢国になった。もうひとつはバブル不況の影響が強く、今後の成長もせいぜい名目2〜3%というところで、ツケ回しが難しくなるのではないかということもある。
 ところが、私自身がこうした危機感だけでなく、なんとなくピンとこないなあというところもある。これはなにかというと、ある大学院生の研究の結果によると、これが正しいかどうかはわからないが、今の相続と贈与を前提とすれば、今の債務の6割くらいは帳消しになるだろうという。今のキャンペーンというのは、将来の社会保障負担はこのくらいに上がるだろう、あるいは公債の発行によって将来の負担がこれだけになるというのだが、これが相続とか贈与に効いてきている面があって、財政とか社会保障とかいう制度を通じて将来の世代に依存しようとしている面と、親子関係を通じてそれを帳消しにしようとしている面が同時並行的に起こってきているのではないか。
 また、普通、財政赤字になると高金利または円安になることが考えられるが、これも全くない。また、長期金利が上昇して設備投資の芽がつみ取られてしまい、更に景気の後退が起こるという考えもあるが、現実にはそうしたことは感じられない。民間の金融機関は沢山の余裕資金を抱えていて、喜んで政保債も地方債も買うので、金利の上昇もない。
 なにかわれわれの生活レベルでの危機が起こらずに、それを隠しているものがあるとすれば、それは実は家族だと思う。失業率が相当に高いのにこれだけ安定している国は非常に珍しい。ヨーロッパでは若年失業率が増えるということは社会不安そのものであって、ワークシェアリングとかフランスのように老齢年金の支給年齢を引き下げて早く引退させて若年層に職業を与えるということを一生懸命にやるのであるが、日本では若年層の失業率が増えても危機感がない。むしろ、それを抱え込んでいる豊かさが日本の社会や家族にある。非制度的セクターとでもいうべきところが大きな吸収力を持っている。しかし、それをあてにしたり政策の手段とかに使うことは望ましくはない。
 ご質問の、なにが我慢できないかといえば、私の場合は、明らかに政策的に意味のないもの、効率の悪いものを政府が政策としてやっているために生じている財政赤字ではないかと思う。かならずしも赤字そのものではない。あくまでも目的や意味があるかどうかが判断の基準である。

司会:20年前の土光臨調の時は、企業増税に結びつくから財政赤字は悪であるという立論であった。したがって、「増税なし」という縛りをかけて歳出カットをやった。その後、消費税が導入されて、いまでは世論調査をやると「必要なものなら払ってもいい」というものわかりのいい答が多くなっている。こうなると増税になるから財政赤字は悪という図式は成り立たなくなってきた。
 あとは、個別の政策で、腹が立つといった散発的なものになって、財政赤字についての議論の収斂が昔に比べるとなくなってきたように思われる。
 ただ、これを黙って放っておくと、大蔵省が「歳出カットはやってみました。しかし、みなさん反対が多いので、結局増税しかありませんね」というシナリオに乗せられることになる。それも芸のない話である。

片山:財政構造改革といったときに、国民の要求するものと実際に支出されるものの間にギャップがある。これをギャップを無くすることが一番大事であって、これは財政が赤字であろうと黒字であろうと取り組まなければならない課題だと思う。納税者の要求とは違う行動になるような政府であるならば、そんな政府よりは企業にお金を払った方がいいという選択も出てくる。そういう緊張感も必要なのではないか。

高橋:公共事業などが議員の横槍でいじくり回されることがいろいろあるようだが、三重県の北川知事の話では、情報公開を徹底して行って、どこからどういう横槍が入ったかも分かるようにしたら、それがなくなったということである。そうするとその分は削れることになる。
 また、政策評価をきちんとやれば公務員に動機づけができることになり、効率が上がることになる。いま、小さなことの積み上げだが全国の自治体でいろんな試みが行われている。そうした試みを住民が評価し、促進していくことが、全体の改革につながると考える。