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シリーズ討論

セーフティネット論の知的革新

法政大学教授 金子 勝
国民会議ニュース1999年04月号所収
ここにご紹介するのは、さる4月14日に開催された討論会での金子教授の講演録です。なお質疑応答は、スペースの関係で割愛させていただきました。


はじめに
1 不吉な歴史の符号
 @ バブルとその破綻
 A 2つの脆弱な国際通貨とクラッシュの危険性
 B アメリカ経済の脆弱性
2 景気対策の効果
 @ 異常な金融政策をいつまで続けるのか?
 A 過去の不況とどこが違うのか
 B 95年の景気対策の教訓と経済戦略会議のシナリオ
3 規制緩和政策をめぐって
 @ 規制緩和政策の効果は不況の性格に依存する
 A 現代サービス産業の性格
 B 規制緩和すべき分野としてはいけない分野
 C セーフティネットとは何か:サーカスの綱渡りの譬え
 D セーフティネットの張り替えという知的戦略:第3の道
4 セーフティネット論の知的革新
 @ 例外論と使い分け論
 A 断片性と非体系的制度改革
 B 社会的コストは高くつくのか
 C 既得権擁護にならないか
 D 非歴史性論:セフティネットそのものがモラルハザードをもたらすか
5 セフティネットと連結する制度改革
 @ 国際通貨体制と危機管理戦略
 A 国内不良債権問題
 B 雇用対策
 C 年金改革と地方への税源移譲



はじめに

 本日の話の組立は、最初に、現在の経済状況に対する認識。次に景気はやや明るい兆しとかいわれておりますが、どうも先行き不安はなくなっていないこと。では何故か。ここは行革国民会議の場ですので、規制緩和に対する私の態度を示さなければいけない。そこで、自説のセーフティネット論。これに対しておそらく予想される反論への事前の答え。最後に、こうした議論を絵に描いた餅ではなくて、具体的それを適用するとどうなるかという実践編。こうした流れに一応なっています。
 私は、最近、仲間内から学問から踏み外した奴として烙印を押されております。何でそういう啓蒙活動みたいなことばかりやるのかと言われています。たしかに、安定的な世の中ですと安心して勉強ができるのですが、現在は学問の方法的な部分が時代についていけなくなってきている。いろいろな枠組みが変わってきますと、やはり我々もちゃんと座標軸のありかをしっかり捉え直さなければいけません。そういう意味で、政府や企業や個人などさまざまな人達と同じように、自分もそれに応じて何がしかのことを考えなければいけないと思っているわけで、それがこうした行動の動機であります。
もうひとつは、経済学の現状に対して非常に苛立っております。今やゲーム理論が経済学部ではほとんど主流になりまして、コンピューターの中でのゲームとほとんど同じで、現実に対してほとんど関心を失っているという状況があります。企業の経営者も含め、経済学が役に立つと思っている人はごく世の中では限られた人達でありまして、そういう現状に対してもやっぱり何がしかを言う責務があるのではないかというのも動機となっております。


1 不吉な歴史の符号
@ バブルとその破綻
 さて、朝起きた時には昨日の連続で物を考えていて、昼を過ぎて夕方位になると明日のことしか考えないのが普通の人の生き方です。ところが、現在起きている事態というのは、昨日から明日という時間のタームで物を考えていると、とんでもなく分からない迷路に入ってしまうと思っているわけです。少し自分を意図的に高いところに身を置き直して、現在起きていることをいろいろ眺め、過去と何が同じで何が違うのかということを冷静に眺めてみる必要があります。そうしてみますと、現在起きていることは実は不吉な状況であります。
 実は、バブルとその破綻のプロセスというのは、金融史をやっている人達(たとえば東大の伊藤正直教授)の地味な論文を読みますと、指摘されている事例というのは非常に恐ろしい内容であります。ひとつは1927年に金融恐慌が起きたわけですが、世界で先駆けて日本で恐慌が起きた後に日本が行ったバブル処理策というのは、今日と全く同じであります。当時、日銀の特融で5億円の公的資金が投入されたわけです。70年前で5億円というのは、今日では数十兆円に当たる額が投入されたと考えていいと思います。
 また、当時、日銀の考査部というのが新設されております。この考査部は今日で考えますと金融監督庁とほとんど同じでして、主要銀行の全てに集中検査に入っております。今現在行われている金融監督庁による集中検査というのと全く同じであります。それから当時最低資本金を設定して、この最低資本金に満たない銀行は合併の対象にするということが行われています。大蔵が裏でいろいろ銀行の合併に走りまして、これは悉く巧くいきませんでしたが、これも似ております。民主党案が非常に典型的ですが、自己資本比率8%に満たないところを極端にいえば潰して合併させたりするというような金融再生法案の議論の過程で出てきた議論と非常に似ております。
 さらに、ブリッジバンク。今、国民銀行が破綻して話題になっていますけども、受け皿銀行として昭和銀行が設立されました。それから、現在の日本では議論の段階だと思うんですが、抵当証券法というのを設定しておりまして、いわゆる不良債権化した土地の証券化というのを大規模に進める法律を通したわけです。これはほとんど実効性がなくて、結局、不良債権の処理は進みませんでした。
さらに重要なことは、こうした27年の金融恐慌にぶつかりながら、井上準之助が何をやったかといえば、ご存知のようにグローバルスタンダードである金本位制の復帰を目指して緊縮政策(これは現在の財革法と同じですが)を続け、30年、ようやく金解禁つまり金の輸出入を自由化してグローバルスタンダードに到達した時に昭和恐慌にぶつかって、グローバルスタンダードが崩れてしまったわけです。
 実はこれは歴史の非常に奇妙な符合でありまして、2001年に我々は日本版ビックバンを本格的にスタートさせる予定です。実はその年にユーロが本格的に通貨として出回るようになる。つまり、今考えうる最悪のシナリオとは何かといえば、グローバルスタンダードを目指してそれに到達したまさにその瞬間にグローバルスタンダードが崩れるというのが、日本にとって最悪のシナリオであります。これは起きるともいえないし、逆に、起きないともいえないわけです。今のアメリカのバブルがどういうタイミングで崩れていくかということに依存しているからです。これは崩落シナリオもあれば徐々に漸次的に落ち着いていくシナリオもあれば、あるいはユーロと米ドルの間で巧い妥協ができる楽観シナリオもあり得るわけです。ただユダヤがメディアと政府、それから金融業と学者のほとんどを握っておりますので、実はロスチャイルドを含めてユダヤが活躍した1930年代と全く同じ状況になっているという意味でも非常に歴史が符合しています。
 日本では、その後ご存知のように高橋是清の下で巨額の財政出動が行われました。その財源調達を金融市場が引き受けきれなくなって、日銀の引き受けが始まりました。これで金融政策の最後のタガが外れるわけです。ご存知のように、野中官房長官がつい先ごろ国債の日銀引受論を少し言い出しましたが、市場は逆の反応をしてしまってちょっと立ち消えになったわけですが、クルックマンをはじめとする人達のマネーサプライを3倍に増やせというような主張に乗っかって、そういう議論が出てくるような事態であります。
 実は伊藤教授の論文というのは、結末が非常に余韻がありすぎて怖い論文です。つまり、不良債権の処理は今日行われている政策よりもはるかに迅速だった。何故かといえば、戦前には民主主義的なプロセスが非常に弱くてかなり強力に政府が進めることができる状態にあった。にもかかわらず不良債権問題が解消するのは景気回復しかないというふうにいっているわけです。
 経済史の議論の中では、高橋財政は効果があったという説となかったという説、ニューディールについても効果があったという説とないという説とがあります。素直に指標を見ますと、本格的に景気が回復したのは、日本の場合には1937年、38年です。いうまでもなく、38年とは満州事変の始まった年です。アメリカも実はニューディールというのは思うほど効果がなかった。何故かというと、州や地方がほとんど赤字状態で引き締め政策をとらざるを得なかった。そのためにニューディールの効果は、全体としての地方の落ち込みをカバーするのが精一杯であったというのが事実であります。1941年に本格的に景気は回復しますが、これはいうまでもなく太平洋戦争の始まった年であります。
 現在、日本では地方の歳出を地方財政計画ベースで1.5%増やそうとしているのですが、主要な都道府県や政令都市は既に12%以上単独事業を削っている状況です。そういう意味では、大規模な景気対策をしながら地方の方から崩れ始めているという意味でも、実は大恐慌のプロセスと似た状況が始まっているわけです。
 さらに最悪なことに、バルカンがついに血みどろの戦争になりかけていて、地上戦が始まってアルバニアに入り始めた。実はあの地域は非常に重要な意味を持っています。つまり、覇権国を中心として世界を統合するシステムが揺らぐと、国民国家の地位も揺らいできて、安定的な枠組みがなくなる。民族だとか宗教だとかいう問題が必ず浮上して参ります。セルビアだとかクロアチアとかいう名前は、受験勉強でご記憶のあるように、第一次大戦と第二次大戦の前に出てくる地名でありまして、そこが発火点になった。理由も非常に簡単でありまして、ヨーロッパとアジアのちょうど接点なんです。人種や宗教の坩堝でして、ユーゴなどは7つの民族を抱えながら治めていた。社会主義というのは何であったのかと考えますと、人権抑圧だとかいろいろな問題がありましたが、実はそれが成立した地域はヨーロッパとアジアの接点で、民族や宗教の問題を封じ込めていたシステムであったと考えることができるわけです。その封じていた蓋を開けてしまった。あとは何でもありの世の中に実はなり始めている。
 そういう意味で、我々が解決しなければいけなかった問題は、マルクス主義でいうような階級ではなく、実は宗教や民族の問題です。17世紀までの宗教戦争の後にできた国民国家というシステムが揺らいでみると、もう1回宗教的対立や民族的な対立という問題が人の生死をかけて表面化してくる。文明が衝突するというハンチントンの説はいかがわしいと思いますが、そういう説がある意味で信憑性を持ってくるような時代に入ってきていると思います。

A 2つの脆弱な国際通貨とクラッシュの危険性
 今月号のフォーリン・アフェアーズには、「ユーロとドルがクラッシュするか」というタイトルの論文が冒頭に掲げられています。我々がグローバルスタンダードを目指している時に、世界は全く別の方向に向かっています。アメリカンスタンダードに対して、何処かで崩落するのではないかという危機意識が批判的な雑誌の基調になりはじめています。日本でも「毎日エコノミスト」が終始そういうトーンで一貫していますけれども、外国の雑誌にもそういうトーンのものが出始めています。これは起きるとも起きないともいえませんが、確率が高まってきたという気分でそういうものを読んでいるわけです。これも大戦間とそっくりです。
 大恐慌前後から世界的にデフレ傾向になります。同時に金利の引き下げの競争が始まって参ります。これは不況対策であると同時に為替レートを低めに誘導する役割を持ちます。実は今もアメリカのバブルは、アメリカ自身が他の国からたくさんの資金を集めることによって成り立っている部分がかなりあります。そのためにはある程度の金利差を必要とするわけです。大戦間ですと、ドイツの賠償がありまして、ドイツはアメリカからお金を借りてヨーロッパのほかの国に支払っているというような連関がありました。それが次第にヨーロッパの景気が落ちて、アメリカのバブルだけが最後に生き残って、アメリカに資金がたくさん集まってくるというような逆流がはじまりました。この逆流現象が世界経済の秩序を著しく不安定にさせて、最後に、アメリカのバブルがはじけることによって大恐慌に突入したわけです。日本が最初にバブルがはじけたところは大戦間と同じで、今、ヨーロッパが不況になりはじめている。これも似ています。ヨーロッパはユーロを発足する前に金利を下げていった。段々金利を下げていった時に、下げ止まった状態、つまりケインジアン(ケインズ自身よりもハンセンとかケインズを引き継いだ人達)がいう「流動性の罠」論になります。最近クルックマンが復活させた議論ですが、流動性の罠、すなわちこれ以上金利を引き下げる余地がなくなってしまうこと、日本はそこへきたわけですが、ユーロもこれに続いています。これは今日明日起きるという話ではありませんが、同じシナリオのところで今動き始めておりまして、これは非常に危険なシナリオです。似てることが多すぎるので、言えば言うほど狼が来たということになりますが、歴史の符合というのは、覇権国システムで世界の秩序を維持しようとする仕組みが揺らぎはじめている。これは第一次大戦直前と第二次大戦の直前に起きたことでありまして、今同じ歴史の時代に突入しはじめている。金利差が縮小して片方が下げ止まった状態になりますと、お金がどこに動くか非常に不安定な状況になります。これは世界の経済秩序にとっては非常に困ったことで、すぐには破局にはならないとしても、徐々にその方向に向かっているということが、非常に恐ろしい事態であるという受け止め方をしているわけです。
 これが何かの拍子(中国のバブルの破綻とかブラジルのレアルの大幅な下落であるとか)で弾けると大変です。皮肉なことに、中国が社会主義であったために封じ込められていて、そのおかげで他の国は助かっているという状況に資本主義諸国は直面している、そのような状況にアジアが置かれているわけです。こうなってくると世界の地域が統合をして参ります。アセアン、アフタにも勿論そういう構想がありますが、世界のブロック化傾向というのが非常に強まって参ります。為替の変動をなるだけ少なくして市場の規模を大きくしようとする志向が出てくるのは、世界経済とりわけ国際通貨が不安定になると出て来るのは非常に当然のことであります。ブロック化へ進むのか、あるいはそれを世界の協調体制に結びつけていくのかという意味で、世界史の中で我々はまた再び、同じ実験を迫られているということであります。

B アメリカ経済の脆弱性
 もうひとつ危ないのは、アメリカ本体はバブルがはじけたときに何度でも跳ね返す力があれば、我々は悲観する必要はないんですが、アメリカ経済自身がバブルが破綻した場合に非常に弱い経済社会構造になり始めているということに注意をする必要があります。したがって、日本のバブルの破綻を一生懸命学びながら、アメリカ政府は利上げをするぞというアナウンスはするけど、一度も利上げをしたことがない。絶えず利下げしかやっていない。これは日本の金利の引き上げが、バブルを急激に破綻させたことをよく学んでいて、その轍を踏まないようにしています。
 ただアメリカはこれがはじけた場合、弱い要素を持っている。なぜアメリカが弱いかといいますと、ひとつはアメリカ自身がどうもバブルの末期症状に入りはじめているということです。今、日本の中で株が上がりはじめて喜んでいる人達がたくさんいますが、これは逆です。日本のバブルの末期を思い出して頂くとよく分かるんですが、土地が暴騰していったわけです。85年のプラザ合意で為替レートが2倍になって、機関投資家は大損をしたわけです。だからもう一回アメリカにお金を出そうとしたんですが、出せなかったわけです。結局何で出ていったかというと土地です。日本のバブルっていうのは、最終的に証券や株へ投資できなくなって、その穴埋めに土地にいったわけです。国内の土地が下がらないという神話を基盤にして、相手の国の事情を全く無視して投資を始めていくわけです。アメリカは、いま、自国の株高を背景にしながらヨーロッパや日本の株に投じはじめているわけです。日本のパフォーマンスは明らかに悪いわけで、アメリカに学んで日本の土地も収益還元法でやらなけりゃあいけないとかいう議論が行われていますが、株に対する外国証券の投資は、その収益還元法からいって非常に非合理的な動きをしているわけです。この非合理的な動きが出始めているということは、ある種の末期症状でありまして、もしアメリカが破綻した場合には日本に波及する度合いが強まるというふうに考えたほうがよいと思います。
 この株高を背景にして、勿論含み益が拡大しますので、銀行は貸し出しを伸ばしていく。これで景気が立ち直ってくれればこれも神風になるわけですが、それが間に合わない場合のケースもあるわけで、ここは微妙なところです。もし間に合わないケースの場合には痛手はひどくなるという、我々はかみそりの刃の上をわたっているような状況をこの間続けているわけです。
 どんどんバブルがはじけていって最後はアメリカだけが残るということですが、戦前の場合のアメリカには根拠があった。モータリーゼーションが進んでいましたから実体経済もある程度力があった。州とか地方は道路を必死に通していたわけです。公共投資と自動車の好回転で20年代はかなりいったわけです。しかし、パフォーマンスがよい国がアメリカだけになった時に、たくさんの資金が集まって、株が上がり、最後の崩落のシナリオになったのです。こういうことを考えますと、今残っている国がアメリカだけになってきているというのも、非常に不気味です。更に、前にも述べましたように、バブルが末期症状を呈し始めていて、海外投資がほとんどファンダメンタルズを無視しはじめている。
 現在、アメリカでは貯蓄率がマイナスになっていますから、借金をして株を買ったり、借金をして消費したりしている状況になっています。これは貯蓄に対する債務の比率が著しく上がっているということですから、非常に危険であります。更に所得分配の悪化傾向も非常に進んでおりまして、アメリカの労働省の統計で見ますと、人種間の賃金格差が拡大し、しかも70年代からとると一人あたりの実質賃金は着実に低下しているわけです。どうしてアメリカは景気がいいようにみえるかというと、夫婦共働きで、しかも今の日本の労基法改正の議論と同じで、不安定就業が非常に強まっています。あまりにひどいので全米運輸労組のチームスターズがストライキをして、10000人を正規雇用させたわけです。大リーグのストライキなどは国民のブーイングでほとんど支持されていなかったのに、全米運輸労組のストライキは国民的同情を買いまして、ほとんどの国民が支持するという現象があったのです。どこかに不満が溜まっているわけです。しかもこのときは、労働組合は自分達の賃金が上がらない闘争をやったわけです。賃金が上がらないのに不安定な人達を正規雇用に取り込むということに国民は熱狂的に支持し、10000人の正規雇用を実現したというのは非常に示唆的です。アメリカの労働組合の組織率は20%を割ったにもかかわらず、労働組合の1週間のストライキが勝利してしまうというような、奇妙な現象が起きているのです。
 なぜこのようなことが起こったかというと、所得分配の悪化状況と雇用の不安定状況というのが非常に深刻になっていて、夫婦両方働いて何とか暮らしている。しかもこれが不安定就業です。
 考えてみると、資産を持っているごく数%の人が所得の40%近くを持っているという状況になっている。資産を持っている人が非常に所得が増えて、資産を持っていない人は雇用も賃金も上がっていない。こういう構図は、ほとんど日本のバブルと全く同じです。
 更に製造業はダウンサイジングで雇用を削っていて、増えているのはサービス業ですが、これはバブル景気に依存しています。日本ではベンチャーがあるということばかりに注目しているんですが、ベンチャーばかりで雇用なんか持つわけはない。バブル的消費の波及効果で生まれてきたレストランだとかに、黒人やヒスパニックが雇われるようになってきた。バブルがはじけた時の雇用の不安は、相当きつくなると予想できます。つまり首を切り易いような状況が非常にはっきりと出てきているわけです。さらに、ご存知のように401Kは伸びておりますので、株高を背景にしてそれを担保にしてまた借金をして消費をするという循環ですから、バブルがはじけた場合の雇用と消費に与える影響は益々強まっているわけです。
 アメリカの真似をしろという現在の日本の経営者はどうしちゃったんだろうかと私は思います。私は企業悪玉論なんか一度も展開したことはないんですが、たとえは木川田一隆のような財界のトップだった人達は短視眼的ではなかったですね。自己利益を超えるようなビジョンを語れたわけですが、今はほとんど改革案と称して出て来るのは、企業の税負担が軽くなる、基礎年金の税負担が軽くなるというような、それからアメリカの真似をすればほとんどうまく行くというものばかりです。このアメリカは、80年代後半の日本を真似すればうまくいくと思っていたわけです。今我々は冷静な判断はほとんど出来ていない状況になっている。もっと高見から見なければいけない。ダウンサイジングを続けていって、サービス業が伸びない場合、つまりアメリカの真似をして局所的に製造業企業がダウンサイジングをやったときに、サービス業の受け皿がなければ、アメリカと同じようには少なくともならない。しかもアメリカの場合でさえバブルがはじけたら、将来的にはそういう構造は非常に脆いということについて考慮が及んでいない。日本の社会を設計するに対して、短視眼的な設計というのは、あとのショックを大きくするだけです。そういう意味での苛立ちを私は持っているわけです。
 グローバルスタンダード論というのは、西部邁さんとか、佐伯啓思さんとか全然スタンスの違う人が言っているんで何となく格好は悪いのですが、経済学者はほとんどアメリカでPh.D.を取ってくると、ほとんどアメリカのいうとおりの政策しかいわない。私はウルトラ・ドメスティック、民族主義なんでしょうか。私にいわせると経済学者はほとんどアメリカの知的植民地状況です。主体性喪失症候群です。クルッグマンが流行れば皆飛びつく。団子3兄弟ではないですけど、クルッグマンが流行るというと、サラリーマンは恐怖症のように買って、分かりもしないのに読んでいる。ちょっと僕にはほとんど信じられないような状況になってきているということです。
 クルッグマンがいっていることは、ほとんどアメリカの言っている利害そのままです。うまいんです、論法的には。例えばヨーロッパは景気回復のために利下げをしなさい。だけど裏返してみると、ユダヤにとって重要なのは、向こうの金利が下がってくれないとアメリカのバブルを維持できない。完全変動相場制しかないと彼はいっているんですね。だけどアメリカ自身が通貨の不安定をもたらしていることについてはほとんどいわない。一見良心派なんです。バブルになっているとか、アジアのバブルがはじけるとか、アメリカ以外は仲間内資本主義であるというんです。だけどちょっと待ってくれと言いたい。アメリカのバブル、LTCMが破綻した時はほとんどユダヤの仲間内資本主義であったと言い返してあげたいくらいです。景気がよければ何でもいえるというそういう状態だと思うのです。更に最近では「流動性の罠」論です。日本はマネーサプライを3倍に増やせと、マイクロソフトが出しているスレートという雑誌があるんですが、そこでメッセージを日本側に送って、恐怖心を煽っている。それを見た人が、日銀の国債引受け論を唱え出す。しかし、これは戦前の歴史がそうですけど、これは最後の手段です。タガがなくなってしまうわけです。最後に困った時にサラ金に手を出すのと同じで、景気がよくなったら何とかなりますが、ならなかったらほんとに悲惨な状態になるでしょう。経済学というものは、普遍的なものを描いている部分と、どこかその国のバックグラウンドに引きずられている部分がありますから、どうしてもその国の利害を反映せざるを得ないわけです。その辺を冷静に見てないと、客観的なことはいえないだろうと思うわけです。


2 景気対策の効果
@ 異常な金融政策をいつまで続けるのか?
 今景気がやや回復している感があるのは、日銀による社債やコマーシャル・ペーパーの引受けが大きいと思います。企業は銀行の貸し渋りのためかなり社債やコマーシャルペーパーを大量に発行しております。たぶん経営状態が悪い企業ほど、そうです。それを日銀が買い上げている可能性が高い。
 日銀というのはおかしいところです。支店長の宅が立派であっても、僕は全然おかしくないと思うんです。あれは株式会社ですから。しかし、中央銀行というのは非常に複雑です。経済学ではほとんど説明してない。何故説明できないかというと、ひとつの民間の大きな銀行が、公共性を担って銀行券の発行を集中するというプロセスには必然性はない。例えば香港をみていただけば分かりますが、発券は集中していない。ほかの銀行も発券できるわけです。ハイエクのフリーバンキング論というのが最も有名ですが、このように必然性はない。ところが、金融システムが揺らぐに従って発券機能を集中して、最後の貸し手機能というのを集中していくプロセスがある。ですから民間銀行でありながら、部分的に公共性を担っている中央銀行という仕組みを市場経済は抱え込んでいくことになるのです。ところが、彼らは段段私的な貸し付けをなくしていく。つまり私的な貸し付けをすると公共性を担えないわけですから、そういう形で発券機能を集中していくわけです。政府の預金を与かったり、為替市場で運用したり、いろいろ利益も上げるのですが、私的な企業には貸し得ない。たしかに途上国にいくと、中央銀行の報告書に必ずリファイナンスという項目があります。つまり、ここでは特定の企業に貸し付けているのです。これは中央銀行のパフォーマンスを非常に悪化させて、通貨の信用性を落とすんです。現在の日銀による社債やCPの引き受けは、やってはよくないことだといわれていること、いわば最後の手段のひとつが動員されているわけです。
 それから信用保証協会から十何兆円も保証が行われていますし、商工中金、国民金融公庫や中小企業金融公庫の財投3機関は商工会議所を通すとほとんど審査なしで出せますから、財投は焦げつきだしている。不良債権をそこへ回しているんです。つまり、民間部門の不良債権を公的部門の不良債権に付け替え続けている。そのことによって何とかかろうじてもっているという状況です。
 こういう異常な金融政策をどこまで続けていくかというと非常に微妙な問題でして、永遠に続ければ崩落のシナリオしかないわけです。反転のきっかけがつかめないまま、最後の地獄の三途の川をもしかしたら渡ってしまっているのかも知れないという危惧を持っています。学者の人達というのは大体健全性というものを強調しますから、こういう議論になりがちなのですが、これに対しては、おそらく、こういう政策をとらなければ景気は底割れをしたという反論が返ってくるだろうとは思います。

A 過去の不況とどこが違うのか
 過去の不況と今の不況の違い、経済対策の効果が今回は何故上がらないのかということについて考えなければなりません。おそらく3つの点あげられると思います。
 第1に、国際的国内的金融システム不安というのはこれまでの不況にはなかったことです。そして第2には、おそらく産業構造の調整力が限界に達したと考えた方がいい点です。戦後日本の歴史を見ると、大きな不況の度に産業構造が変わり、輸出ドライブで逃げてきた。最初はエネルギー転換です。この転換で重厚長大の鉄鋼、造船、化学とかいう産業が出てきた。ニクソンショックやオイルショックでこれらが構造不況業種になった時には、メカトロニクスで自動車や電機が輸出された。第二次オイルショックの時には、情報機器、半導体とかいったものが更に輪をかけて伸びてきて、何とか乗り切ってきた。
 ところが85年の円高不況ではこうしたプロセスが終わったと思っています。アジアに出かけて、結局、国内の産業は空洞化せざるを得なかった。プラザ合意以降の円高では、結局、国内的にはバブルでしか乗り切れなかったんです。アジアに伸びていって輸出をアジアで伸ばしていったのは横の拡大で、新しい産業調整ではないのです。つまり日本と同じスケールメリットを生かせるような産業をアジアに移植して、そこに設備投資して出てくる需要に応えて輸出を伸ばしていく。ある意味でこの段階で成熟経済に入ったのです。
 過去の不況と異なる第3の特徴は、これまでなかった信用収縮とかデフレスパイラルという現象が、景気対策の手を緩めると生じてしまうことです。
 これまでは景気の谷があるとそのあとはV字型で上昇したのですが、この3つが不況の谷を非常に深くしている要因だと思うのです。国際通貨の不安定以外の2つの要因は19世紀の末に起きた現象ですし、この3つが同時に起きたのは、大戦間のことです。そういう意味では、経済学の短期的な分析ツールを持って、規制緩和をすれば直ちに産業が生まれてくるというような幻想は持たない方がいいと思うのです。むしろ、高度経済成長の幻影を追いかけることによって傷を深くしているという側面があります。これから多分景気の回復もあり得ると思うのですが、長期的に見た時に停滞の傾向は免れないだろうと思います。永遠に続くという話ではないのですが、歴史的な転換局面に入ってきていると思います。中長期的なシナリオという意味では、構造改革をしなければいけないという話を、我々は80年代からずっと聞いてきたんですが、規制緩和をして新しい産業など出てきておりません。PHSが出てきましたけど、瞬く間に雇用を吸収できないまま終に携帯電話にやられて、料金引き下げ競争に巻き込まれている。雇用はそこでは伸びてないんです。かつて産業構造の調整があったときには大量の雇用を吸収してきたわけです。そういう産業が生まれてきていないということを、よく見ておかなければならないのです。

B 95年の景気対策の教訓と経済戦略会議のシナリオ
 こういう傾向を無視しているのは最近の経済戦略会議です。更にまずいことに、短期的にも、ついこの間あったことをも忘れてしまっています。
 すぐこの間起こったこととはなにかといえば、このように産業構造が停滞して国際通貨が不安定化してマネーゲームが行われるようになってくると、資産価格の動き方が景気を引っ張る度合いが高くなってくるということです。実はクレジットクランチ、いわゆる貸し渋りがバブルの破綻の後起きたのは、94年でした。つまり銀行の貸し出しの伸び率がマイナスに転じて、95年に14兆の緊急経済対策をやったわけです。この結果、フローのレベルでは景気指標は上がったのです。ところが、ストックレベルでは、不良債権はずっと溜まっていたわけです。このことは実は大蔵省が公表しなかったから悪いんだとマス・メディアは叩いていましたけど、実はそれは不勉強なだけで、まともな学者は皆知っていたわけです。有価証券報告書の70ページ以降の、その他資産負債勘定をみれば、未収利息という欄があって、その未収利息が着実に増えていたことは分かっていたわけです。
 にも拘わらず、これで一定の成果が上がったとして、財革法で小さな政府を目指したわけです。基本的に公的資金を入れてバブルを解決しなければいけないのに財革法で突っ走ってしまった。今度の戦略会議のシナリオも全く同じなです。つまり公共事業をやったり、むちゃくちゃな金融政策をやって景気が回復したら、プライマリーバランスを回復させるといっている。これは財革法の言葉そのままで、消費税を将来的に上げていくという。この前やって間違えたシナリオをまたやるわけです。では、94、5年当時と比較して現在は良くなっているのか否か、例えばストックの価格が回復しているのか。この前の国土庁の公示地価をみれば分かるように、8年連続マイナスが続いているわけです。更に個別の調査をやったところでは、商業地、住宅地共に値上がりしているところはついにゼロになったわけです。外国投資家も、不良債権化した土地を買うとやくざが出てくるので、皆、株に向かっていった。そうすると、ストックのデフレは依然として続いているわけです。ただ不良債権を民間部門から公的部門に移しているにすぎない。ですから、公的部門が悪いと指摘されるのですが、このことを忘れないことが大事です。今、民間部門は皆付けを回している。しかも郵便貯金の民営化を主張する銀行です。これをはっきりさせておかないとまた後になって付けが回ってきます。
 最近密かに考えている本の企画があります。経済学のテキストには、市場の失敗や政府の失敗が取り上げられているのに、なぜ企業の失敗はないのか。「企業の失敗」という題で本を書こうと思っています。民営化すればうまく行くとかという話はほとんどダメで、処方箋というのは事実に即してやらないといけない。そうでないと、私達はまた国鉄清算事業団の累積債務28兆円をたばこ税で支払うのと同じことを繰り返すことになると思います。
 今危ないのは地方交付税で、特別会計の累積債務が今年度末には22兆円になります。無理な景気対策のために、地方にお金をばら撒いたわけです。こうなるとほとんど国鉄の不良債権と同じです。やがて、これも付けが回ってきます。そういう意味では、今のシナリオというのは、とても評価に耐えられない。このような戦略しか持っていない日本は、甚だ心許ない状況ということになる。何故これで皆安心できるのだろうか。「あとはこれをやるしかない」という人の神経が私には良く分からない。恐らく楽天的を通り越して記憶喪失症なのではないかと思っているわけです。
 私が非常に危機感を持っているもうひとつは、失業問題です。たとえば企業経営者の中で、ソニーは海外と連結決算をすれば赤字で、先手を打ったリストラを始めている。危機感を持って、アメリカの真似をしている。ここで大事なことは、欧米の失業率と日本の失業率の1%の持つ意味は全然違うということです。昭和恐慌期の失業率は、6.6%でした。あれであのような状況になった。今は4.6%です。2年前だったと思いますが、日本商工会議所の稲葉会頭が、日本は失業率が6%を超えたら社会がピンチだという発言をしていたのを記憶しています。日本の経営者の中にも全体をみる人がいるんだとちょっとほっとしたのですが、最近は富士ゼロックスの小林さんにインタビューをした人の話を聞きますと、アメリカの株が暴落することを最も恐れている。経営者の中にもそういう全体をみようとしている人達がいると思うんですが、おそらく日立だとか、新日鉄だとか、伝統的な企業では雇用の問題についての社長のスタンスは他の会社とは違っています。新興企業ほど強い首切り、ダウンサイジングを望んでいますけど、失業率6.6%でファッショの登場でしたから、これからどうなるか不安です。
 とくに考えなければいけないのは、生き甲斐の問題です。今の日本家庭はほとんど崩壊しているんだと思うのですが、これをどうにか食い止めているのが、亭主の「俺が食わしているんだ」という言葉でしょう。つまりこれはジェンダーからいえばとんでもない言葉なのかもしれないけど、仕事とはそう言う発言に象徴されるような、人間にとって最後の拠り所になっているわけです。皆さんご存じないかも知れませんが、新宿中央公園に行くと、ちょっと前までスーツホームレスというのがいたんです。家をネクタイして出ていくんですね。新宿駅で雑誌や新聞を拾って中央公園で読んでそのまま家に帰る。雇用保険が切れるまでそれを延々と続けるんです。つまり失業したっていうことをいえないわけですよ。会社で我慢して家に帰って権威主義的になるというそういう日本の社会のタイプの最後の拠り所がなくなった時に、正規雇用に次第に及んでいるこの失業率の持っている意味は、生きる誇りを失うということと同義語なんです。
 横浜の寿町というドヤ街がありますが、ドヤ街を調査した報告なんかを聞くと、生活保護をもらっていることが分かるとバッシングを受けるんです。つい数年前、埼玉で生活保護をもらわないで餓死してしまった親子もいました。日本の公共事業が何で受けるかというと、政権党がゼネコンを集票マシーンにしているという事実もありますが、裏側はそんなに単純ではない。ただでお金をもらっているのではない、つまり、その公共事業で働いてそれでお金をもらっているという関係を作り出しているんです。このワークフェアという原理を日本の社会に埋め込むことによって、農村への所得再配分が行われてきましたから、それは非常に根強いものがあり、そう簡単に切れるものではない。現金収入ほとんどそこに依存しているわけです。村の中の循環を描く社会会計行列という、ILOがやっているような手法で、農総研の人と東京市政調査会の人の共同報告のようなものを見ましたけど、ほとんど貨幣的なものはそういう形で入ってきて循環している。そういう社会の仕組みそのものを根付かせてきたのです。それが疲弊していることも確かなんですが、同じような意味で、日本の失業率が持っている意味は、非常に重たいものがあるだろうと思います。石原慎太郎氏が当選したのも、ある意味で、社会の「キレ方」のひとつの兆候だろうと思うんです。変化というのはいつでも急激に起きるんですけど、起きる前に常に前兆がありまして、そういう前兆がいくつか見え始めている。こうしたことに鈍感になり始めると非常に危険だと思います。


3 規制緩和政策をめぐって
@ 規制緩和政策の効果は不況の性格に依存する
 何故セーフティネットを強調するのか、そのバックグラウンドを理解して頂きたかったので少々詳しくなりました。現在の不況は通常の不況とは違っているという認識が私にはあるということです。
 この冒頭で、規制緩和政策の効果は不況政策の性格に依存するという言い方を致しました。たとえば、ある程度不況があっても、ショックが軽い状態で産業の潜在的な成長力の強いところでは規制緩和をすれば、効果を持ちえます。私は全て規制緩和を否定する論者ではありません。ただ不況の性格が非常に厳しい時に規制緩和をやると、冬に裸で海で泳がせるようなもので、少なくとも政策効果としては期待するほどに上がらない可能性が高いということです。寧ろ逆です。
 例えば非常にはっきりしているのは、このところやっているビッグバン路線で、最初に早期是正処置に関して自己資本比率規制があったため貸し渋りが起きました。したがってそれを延期しました。ところがどんどん破綻してきて日銀特融でも救えないという、つまりいつつぶれるか分からないというような状況になってきた。ところが2001年にはビッグバンの実現を目指しています。問題はペイオフです。ペイオフが一番問題になるのは、実は法人預金です。1千万円以上保証しないと、企業の側も疑心暗鬼を起こすし、銀行の側も疑心暗鬼になっていく。そうすると自分の関係する優良企業だけに融資を絞っていくのはある意味で当然でありまして、最終的に困った時にはそのようになっていきます。ゆとりのある時には融資はほかも広がっていきますが、そうでない時には絶えず絞って行く力が働くのです。そういう中で、自己資本比率規制を厳格に適用していくというようなタイプの金融自由化政策をやっていきますと、たちどころに貸し渋りが起きやすい状況が生まれてくるわけです。

A 現代サービス産業の性格
 規制緩和についてもうひとついえば、規制緩和の効果は産業によって異なるという丁寧な議論がなされていないということです。ここで非常に重要なのは、現代のサービス産業は規制緩和をすると独占や寡占が進むということです。つまり想定している効果が全く逆だということです。よく規制緩和をして市場競争を活性化させるという話がされるのですが、結果は益々集中や寡占が活性化していくということです。これは非常に当たり前のことであります。
 現代の産業とは、OS(オペレーティングシステム)を握ってしまえば勝ちになってしまうという特徴を持っているからです。グローバルスタンダードでもISO基準というのがありますが、ISO基準に関していえば、特に携帯電話でその競争は激しいのですが、後発効果はあるとこで決まってしまえば簡単に得られるということです。しかし、金融業のOSはそうではなくて従っていったら逆に損をする結果になるのです。例えばドルでデリバティブをやって格付け情報を発信している企業がありますが、そこに従っていったら振り回されるだけで終わります。つまりOSを握っていった方が勝ってしまうという構図であります。
 例えば製造業の例でいいますと、ベーターとVHSの戦争がありました。放送局に勤めている人なら分かると思うのですが、未だにベータの方がVHSよりも性能が良いので局ではそれを使っています。しかし、東芝、日立、松下などがVHSで組んでしまったものですからベーターは駆逐されたわけです。従ってグローバルスタンダードというものは良いか悪いかというものではなくて、OSを握った方が勝つという、そういう産業の性格を持っているのです。従って共通の基準で顧客のネットワークが掌握されれば、他社はそこから抜けられないということになります。ウインドウズが良い例です。今挑戦を受けていますけど、商業化するのは難しいと思います。一旦ソフトができてしまうともうそこからは抜けられなくなってしまうのです。今でこそNECとIBMは互換性がかなり高まっていますが、ある時期までNECは国内シェアーが高かったために、国際的には違う基準であったにもかかわらずそこに入らなかった。しかし、他社からどんどん殴り込みをかけられて、同社のシェアーが落ちて来ると逆転が始まったわけです。結局NEC自身がそれに合わせざるをえなくなっていったわけです。つまりOSをめぐる戦いとネットワークをめぐる戦いというのは現代サービス産業の本質なのです。
 このことは、アメリカがWTOでパネル裁定を受け入れて製造業については他国に譲歩しながらも、サービス産業については要求を強行に主張した例を思い起こしてもらえれば分かります。その時インドなどは反対しましたが、結局日本はそれに従いました。当時日本の政府はこのようなことが良く分からなかったのです。したがって自己資本比率規制もある意味ではそういう流れの中で出てきたのです。1988年バーゼル合意がなされた時、世界の銀行のトップ10はほとんど日本の銀行でした。いわばこの合意は日本を叩くために作ったようなものです。日本政府は後追いの政策を続けていけば何とかなるという方向で従来政策を遂行してきたのです。それで何とかなると思っていたのでしょう。実はそれに失敗があったわけです。
 グローバルスタンダードというのは、たとえばF1グランプリでホンダのターボエンジンが連戦連勝すると即座に禁止されてしまった例、あるいはフランスのルマンで日本のロータリーエンジンが勝った時に即座に禁止されてしまった例、そして日本はスキーのジャンプ競技で圧倒的に強くなりましたが、それによってスキー板が短くなった、このような例であります。スポーツについてはまだルールに基いて競争ができるわけですが、現代サービス産業の場合はそうではなくて、ルールを握った者が勝つのです。つまりルールそのものが支配されるわけです。これが決定的な意味を持っております。

B 規制緩和すべき分野としてはいけない分野
 規制緩和の対象には医師会などもあると思います。例えば寝たきりの人を寝返りさせるにも診療報酬の対象になっています。そこでは介護のための施設を充実させないで、療養型病床群という形で寝たきり老人を介護保険の対象にしているわけです。早い話、寝返りを打たせて、介護保険からも診療報酬からも報酬を取ろうという状況があります。医師の指示書があれば訪問看護婦は簡単な「医療行為」ができるのですが、毎日通うホームヘルパーはできないのです。一方で医師会はほとんどが勤務医になっているという現状もあります。このような医療の供給システムにおける矛盾を変えないと実は家族の問題も解決できないということです。本当に規制緩和しなければいけないような領域ではしなくて、してはいけないところで緩和しているわけです。
 自民党は長い意味で岐路に立たされていると思います。同党は例外なき規制緩和を採用してきたわけです。しかし経済戦略会議でその例外になっているのは、銀行経営者、ゼネコン、医師会という自民党色の強い業界団体です。しかもこれらは時代を閉塞させる要因にもなっています。例えば銀行経営者は選挙の時にはカネを、ゼネコンは集票マシーンに、そして医師会はカネと票を自民党のために提供します。これらは強い政権基盤になっているのですが、規制緩和をしてどんどん他を削ぎ落としていくと、これらだけが浮き立ってくるはずです。経済戦略会議がこの分野について一切規制緩和に触れていないのは実はこのことが背景にあると思います。
 銀行経営者の社会的責任は問わないで公的資金を投入するという行為は正に護送船団方式ではないですか。都市型開発といってはどんどん公共事業をやっている。これはほとんどゼネコン救済でしょう。また今、医療や介護や社会保障が大切な時に当たっているのに医師会には手を触れないで、年金の民営化だけをいっている。こういう不公平なことをやっていると失業率が6%を超える時どんでん返しがやってくるような気がしてなりません。
 つまり中国の歴史でははっきりしているのですが、支配者が長く政権に就くと最後は自分の基盤にしがみつくようになる。それだけに倒れる時は実にドラスティックであります。つまり自己革新能力を持っている者こそが政権を長引かせることができるわけです。
 自民党は田中角栄が出る前まで、最も多元主義的民主主義を実践していました。派閥の次元で政策論争をして政権交代をしていっていたからです。スムーズに、民主主義的に、政権を交代してきました。ところがそういう交代のシステムを失って来て、そしてなおかつ政治の舞台でも既得権に縛られ始めていて、自分の主張と同党がやっていることが異なり始めた。しかもそのことが世の中を閉塞させている原因になっていることが次第にはっきりとしてきた。そして政党離れが進んできて、かろうじて現状では政権を維持しているような状況であります。従って選挙で大勝したかと思えば大負けするというようなブレの可能性が高まってきているようです。しかし不幸なことに野党にこれに代るしっかりとしたビジョンを持っているところがないわけです。これが政治の悲劇であり、有権者もしかたなく自民党を選んでいる。選ばれる方も選ばれいるから安心している。危機の深刻化というのは常にこういうところから始るのでしょう。勝っているうちはいいのですが、負けると態勢さえ取れない状況になる。規制緩和も変えられなければならないところに焦点が絞り込まれてきているのです。

C セーフティネットとは何か:サーカスの綱渡りの譬え
 ではおまえはどういうビジョンを持っているのか、ということであれば、応答としては古くなった規制は変えられなければならないが、同時に規制を緩和したり、なくしたりすれば景気が回復したりするものではない。市場にすべてを任せれば良いというわけではなく、ここで必要になってくるのがセーフティネットなのです。
 もともとセーフティネットというのは安全網という意味ですから、サーカスの綱渡りからきているわけです。芸人は綱の下にネットがないと怖くて綱渡りが出来ないわけです。このことを市場主義者は、ネットがあるから皆怠けてしまうといいますが、しかしそれは逆です。ネットがあるからアクロバットができるわけです。もしネットがなかったらそろそろ歩くか、しがみつくかしかないと思います。勿論、やる能力のない者はできません。したがって規制緩和というのはどういうことを意味しているかと申しますと、今のアド・ホックな規制緩和の場合はネットに穴を開けていくというような解釈になります。そうするとスリルが高まるわけです。自己責任が高まるわけですから。しかし、ネットに穴を開けるとどうなるかといいますと、力量のない者は怖がるわけです。従って綱を渡る者は少なくなっていくでしょう。しかし無事渡りおおせたらすごく高い給料をもらえるわけです。皆スリルを味わっているわけですから。ところが綱渡りをやらない者は食ってはいけないわけですから何とかやろうとするわけです。だけど力量のない者は必ず落下して、死んでしまうわけです。死んでしまった瞬間、どうなるかといえば観客はキャーとなって二度と見に行かなくなるわけですね。綱渡りをする力量のある者も芸人が死んだ瞬間を見たら心理的に心が冷えてしまうでしょう。今の信用収縮もこれと同じだと思います。デフレスパイラルも同じですね。ネットで救われないということが分かってしまうと、倒産の危険もあるし、自己破産の危険もあって個人は段々ちぢこまってしまうわけです。
 つまり我々がいっているのは、ネットを張る時には実はターゲットがあって、つまりすべての人が公正であると認識できるような、共通のルールを定める必要があるということです。共通に高まっている社会的リスクに対してそれをどうやって救うか。例えば今アルツハイマーで2020年に大体200万から400万人が寝たきりや痴呆症になると予想されています。2020年迄今の家族システムを前提にするならば、確率的にいえば、200万人から400万人それ以上の主婦がもう一生奴隷になるかも知れないという恐れがあります。10年間とか20年間主婦は自由を失うわけです。その間は何もできなくなるわけです。そういうものを共通のリスクというわけです。また60ないし65になった時に定年後に繋がらないような年金制度というものもほとんど意味がありません。ところがヨーロッパの諸国特にフランスなどは発想が逆です。どんどん年金の支給年齢を低年齢化させているわけです。年寄りを辞めさせて代わりに若い者を雇うという姿勢です。日本とは社会の成り立ちが異なりますからそんなに簡単にはできませんが、我々が持っている共通のリスクとは何なのかということを特定して、そこには必ずネットを張っていかなければならないということです。

D セーフティネットの張り替えという知的戦略:第3の道
 ではどういうところにネットを張っていくのがよいのかということですが、実は労働市場とか土地市場とか、貨幣金融市場、こういうところは、市場化しきれないところですから、こういうところには必ずネットを張っていかなければならないということです。例えば労働市場の例を簡単に上げますと、企業は採算を上げるためにどんどんリストラをやっていくと、失業した人は食えなくなっていきます。そうなると、過去の歴史が物語っているように、暴動が起きたり、争議が起きたりするわけです。老後労働力というのは、たとえ機械のように使い果たしても生きて行かなければならないわけです。家族が面倒を看るか、共同体が看るか、年金のような社会保障制度が看るか、何かで見なければ社会は崩壊してしまうわけです。経済学ではこのようなものを、財の性質として、本源的生産要素と教科書の始めに書いていますが、実は本源的生産要素そのものが、市場化の限界を抱えていますから、そこではネットを支える制度やルールをつくらないと市場そのものがワークしないという問題があります。つまりこれは逆説です。つまりお互い信頼し、協力し合う制度があって初めて市場の競争ができるということです。つまり共通のリスクをシェアーする協力の領域があって初めて市場が働く、それがよく分かってきたのです。
 バブルが崩壊して企業は自己責任でいくためにリストラをする。リストラしてみたら社会全体としては合成の誤謬で不況は深刻化してしまう。あるいは銀行経営者は生き残りのために自己資本比率規制を満たそうとして貸し渋りをしてしまう。個人も破産が嫌だから一生懸命雇用のリストラや年金の削減に備えて貯金をしてしまう。一人一人は合理的行動を採るが、社会全体としては消費マインドが冷えて景気が悪くなってしまう。リスクはあるところでシェアーしないと市場も働かないという局面に我々は今立たされているです。
 また国際金融通貨制度が不安定化してくる局面では、リスクというのは非常に高まってきます。今時「リスク」という本が良く売れているというのは良く分かります。このようなリスクをシェアするような制度設計をしていく。そして、役に立たなくなった規制を取リ払うと同時に、人々にとって共通のリスクを救う制度をどのように張り替えていくか。制度改革の基本的な視点はそういうところから出発しないと、今の不況を長期的には脱出することはできないし、社会不安というものを回避することはできなくなってくるのだろうと思います。これがいわゆるセーフティネットの張り替えという知的戦略、つまり第三の道であると私は思っています。
 これは新古典派という主流経済学による規制緩和路線だけではよくないし、またバブルがはじけてから、70兆円とも80兆円ともいわれる公共事業をやってみてもこの体たらくという状況からいえば、ケインズ主義的有効需要政策もあまり有効性を持っていないといわざるを得ません。そうであるとすれば、このリスクを軽減しながら、制度を変えて行き、本来ニーズがあるところに人や物やカネが流れて行く仕組みに変えていかなければならない。そういう方向付けをしていかないと市場も生き返らないということです。長期不況の中で社会の耐性を高めながら、徐々に景気を回復させていく。つまり楽観的なシナリオで景気が回復するというものではなく、そういう長期的な着実な道を歩むことが必要であると私は思っているわけです。


4 セーフティネット論の知的革新
@ 例外論と使い分け論
 戦略会議の答申には、私が声高に言い出したためか、セーフティーネット論が入ってきたのですが、能力開発バウチャーがセーフティネットだといい始めているようです。しかし、これは最近の心臓移植手術にたとえますと、血液型の違う体質の違う人に別の血液型の心臓を入れるようなものです。あれは人的資本論というベッカーの議論に従っているのですが、たしかにアメリカでそのような議論があります。しかしこの制度は、雇う側の企業の中でもジョップデマケーションがしっかり確立し、つまり仕事の区分が明確で、資格がある程度尊重されていて、受けた技能を尊重する雇用のルールがある程度あるようなところでしか意味がありません。中にはフランスのように熟練の技能の等級まで決まった国もあります。そういう国の場合には自分が職業訓練すれば、そういう水平的に開かれた雇用の市場に入っていくことができます。しかし日本で先ずリストラされるのは中高年です。若い人から切られるヨーロッパやアメリカの場合とは異なります。
 中高年が能力開発バウチャーを使って一年間英会話教室にいく、あるいはコンピューター学校に行くとします。8割は国から負担してもらったとしても(失業保険から2割を出すには苦しいと思うのですが)、仮にそれで1年後に資格を取得したとして、もしここに企業の経営者の人がいたとしてそれらの人を雇いますか。おそらくほとんど雇わないと思います。単純にあんなものでセーフティネットになりうるとは考えられません。今ただでさえ若い人が失業であまっている時代に、そういう優秀な者を雇ってフレシュな頭でやってもらった方が、遥かに効率がいいでしょう。つまりこのような対策は日本の社会に合ってないのです。終身雇用をつぶしていくのもいいけれど、さしあたり賃金の年功カーブを寝かせてでも、あるいは役職の人達を削ってでも、中高年の雇用を安定させることを優先しないと、今の消費マインドの冷え込みを反転させるには難しいだろうと思います。確かに企業経営は苦しのですが、社会全体でどうやって雇用を守るのかという工夫をしなければならない時に、能力開発バウチャーとはあまりにトンチンカンだと思います。おそらくOLを10年間やった主婦が、8割負担してくれるということで、この機会に資格とってみようと押し寄せる位だろうと思います。きちんとしたセーフティネットを日本の社会の実状に合わせてしっかり張り直して行く必要があるだろうと思います。
 さて、話をもう少し前へ進めたいと思います。セーフティネット論に対して予想される反論というのを4つ5つ書いておきました。ひとつはセーフティネットというのは例外で、市場が基本ではないかということです。これはさきほど申しましたように、今何故デフレスパイラルが起きているのかということと関連します。つまり、雇用とか年金制度をつぶしていけばいくほど消費マインドは引っ込んでいくという、協力の領域と競争の領域とは実は深いところで相補っているという逆説的な関係が、市場社会の奥底に眠っているということに我々は今実は気づかされているのです。つまり例外的な事態にのみ備えて後は市場に任せるという話は、実はネットと連結する制度があって初めて市場も回るという相互関係を無視しています。そういう意味では使い分け論というのでしょうか、これはいけないと思います。 
 これが一番典型的なのは、世銀やIMFがやった発展途上国の援助政策です。構造調整政策という名で市場経済化をやるわけです。つまり、融資の代わりに構造調整をやるわけです。融資をやるために民営化しなさいとか、小さな政府にしなさいとか要求するが、そのとおりすると必ず失敗していくわけです。セーフティネットをこわしてしまうわけですから。その結果たくさんのお金をいれるわけです。そしてその度に市場経済化を強制するわけです。その結果、泥沼のように市場経済化と同時に公的資金導入も膨らんでいくわけです。
 かつて85年ベーカー提案というのが出た時は債務の支払い繰り延べであったわけです。これで構造調整やった結果、89年のブレーディー提案の時には債務放棄になりました。段々公的資金が強まっていきました。今の金融ビッグバン路線も全く同じです。94年に住専に6850億円入りました。日本の金融が危ないというのでグローバルスタンダードに従わなければいけないというので公的資金を入れながら早期是正処置をやった。早期是正処置をやったらまた崩れて、また2兆円入れた。2001年ビッグバン路線やりながらまた7兆5000億円入れる。段々市場介入をやりながらアド・ホックな公的介入を繰り返しながら、しかも公的介入が増していくというジレンマに陥ったわけです。実は例外論と市場論というのは、両者のつながりを無視して、ネットだけのところに公的介入を入れて後は市場でやろうとするわけですが、その結果として市場が不安定化して、またネットを拡大しなければならないという悪循環を繰り返すことになるわけです。

A 断片性と非体系的制度改革
 もうひとつは、セーフティネットの断片性論です。さっきの能力開発バウチャーがその例です。もしこれを本当に機能させるとしたら、企業の中の雇用の仕組み、ジョップのデマーケーション、資格社会、こういうものを全部整えていかないと、セーフティネットとしては機能しません。ネットに連結して制度やルールができている体系的なものを非体系的に処理したのでは駄目なのです。断片的に輸入するのではなく、日本の仕組みはネットを中心にしてどういう制度やルールによってできているかを分析し、それにあわせてネットを張り替えていかなければならない。そうしないと、将来きちんとした社会の安定はありえない。何かをはずして、あとは市場が解決してくれるというのはほとんど幻想です。やればやるほど市場が不安定化して公的介入が増してくるというパラドックスに陥ることになるわけです。

B 社会的コストは高くつくのか
 次はセーフティネットは高くつくかという論点です。不良債権問題をみればわかるんですが、護送船団方式ゆえに不良債権問題が深刻化したのでしょうか。逆ではないでしょうか。公的資金という新たなセーフティネットが不良債権問題を深刻化させたのでしょうか。違うでしょう。実際には、公的資金という新しいセーフティネットを使いたがらなかったんです。社会的責任を取りたくなくて、自己責任でやりますといって、外部からの介入をしてもらいたくなくて、自分でやりますといったわけです。折角ある公的資金というセーフティネットを使わずに、むしろ自己責任という市場原理でやったわけです。だからこそ不良債権問題が深刻化したのです。深刻化したために、その解決のためにたくさんのお金が膨らんでいったというプロセスです。セーフティネットがあるから不良債権問題が深刻化したのではなくて、逆です。セーフティネットを、社会的責任つまりペナルティを含めて、きちんと組み込んで行使するというモラルが日本社会全体にかけているのです。
 日本のトップエリートたちは、自分の都合のいい議論だけやって、襟を正さない。ちょっとこれは危ないと思っています。戦後改革と同じように、つまり自分に対して血を見るような手術を自分でやって見せられるような肝っ玉の大きいリーダー達が出てこないと、庶民の間の強いリーダーシップ願望論をあおるだけです。非常に不合理的なもの、そういうリーダーシップを求め出すのではないかと私は危惧いたします。

C 既得権擁護にならないか
 世の中の論調、新聞やジャーナリズムも、公的資金があるからモラルハザードが心配だと書いています。しかし、繰り返しますが、公的資金を入れる時に社会的責任を取りたくない、だから不良債権が溜まっているわけです。もっと早くセーフティネットを行使すれば不良債権は少なくてすんだわけです。今、経済戦略会議は金融がピンチだから社会的責任を問わないで公的資金を入れるといっている。これこそ護送船団方式だし、勘違いです。全く議論が逆です。そういうところがおかしいと思うのですが、誰もおかしいとは書かない。ペナルティーを恐れて社会的責任逃れに終始して、自己責任でやりますと言い続けてセーフティネットを行使しないで益々護送船団方式になりつつあるというのが現実であります。
 モラルそのものというのは、経済学では解けないのです。公共性とかモラルというのは、そのものを正面から論じないといけないわけで、そういうことが今日本の中で欠けているということです。
 我々のセーフティネット論というのは真に既得権を打破するような、そういう制度改革ですから超過激なのです。

D 非歴史性論:セフティネットそのものがモラルハザードをもたらすか
 セーフティネットがあったら倫理の欠如、モラルハザードがおこって、皆規制によりかかるのではないかという議論がありますが、これは非歴史的議論であると思ってます。例えば戦後直後に食糧統制があった。これを非難する人は誰もいないでしょう。これは当時の状況に合った制度であったからです。誰も食えなかったからです。市場に任せたら食糧価格が暴騰したからです。あるところで価格統制をする。インドネシアでもそうです。IMFがこれは無駄な制度だと撤廃したわけです。それで暴動になったわけです。しかし、市場や社会が変化した時迄こういう制度が永久に続くのはおかしいわけです。なぜかといえば、増産して賄えるのに食糧統制をやっていれば、絶えず所得保障をしているだけになります。しかも赤字覚悟でやっているわけですから、政府が全部買い切れるわけではない。そうすると穴ができるわけです。自主流通米です。では農家はどうするかというと、いいものは自主流通米に出して、悪い物は政府がそのまま買ってくれるのだから、そっちにまわすということになる。このようなことをモラルハザードというのです。
 また80年代後半のアメリカのバブルもそうです。S&Lが崩れたのですが、預金保険機構があって金利の上限規制があった。金利の上限規制がなくて本当に裸で競争したら、大手の銀行が高い金利を設定して小さな銀行をつぶすことは簡単です。大恐慌の時、預金保険機構と金利上限規制(レギュレーションQ)ができた。ところがMMFのように、証券業界が高い貯蓄性の金融商品を出すと、そっちに流れてしまう。そこで、金利の上限規制を取り払った。つまり、セーフティネットに穴があいた。穴があくと、経営者はいざとなれば預金保険機構に頼ればいい、何とかなるだろうと考える。預金者も日本であれば1000万円までなら保証してくれるから、ハイリスクハイリターンなものでも投資できるのではないかと考えて、バブルがどんどん進んだわけです。
 ドルペック制でも同じです。アジアの諸国はアメリカのドルとリンクすることによってお互いに通貨を安定させてきました。ところがタイで自由化をやって穴があき、そこで投機が起きる。一旦崩れますと、今度はドルペック制が逆機能を果たします。相互に為替レートが連動していますので、1箇所落ちたら全体が落ちてしまう。ドルペック制というのは為替の変動リスクをカバーする制度としてあったわけです。ところがどこかに穴があくと、逆に連られて落ちる、伝染し易い構造を作ってしまう。常に規制がモラルハザードを起こすのであったら、危機はいつだって起きている事になる。うまく機能している時とうまく機能していない時がなぜ起きるのか。それは市場や社会の変化に応じて、セーフティネットが良い機能から逆機能に転嫁するためです。
 規制緩和論というのは何でも規制緩和すればいいのではなくて、きちんとした理由とビジョンがなければならない。セーフティネットに連結しながら、市場や社会に応じて張り替えていかなければならない。こういう戦略が必要になってくる。ですから、規制緩和をするということ、新しい規制をするということに対して私はニュートラルです。問題は、市場や社会の状況に応じてそれがふさわしいかどうかがきちんと説明できるか否かにかかっている。規制緩和という標語をいえば分かったような気分になる。これは非常に危険です。ある種の群集心理が強まっていて、例えば規制緩和といわないと自分は遅れているとか、クルッグマンを読まないと自分は遅れているとかいうことになってしまう。メディアもいつでも同じ学者を使うのは不思議です。違う意見を対立させたりはしない。多分、判断出来ないんでしょう。


5 セフティネットと連結する制度改革
@ 国際通貨体制と危機管理戦略
 ではどういうことをすれば良いか。今日のような歴史的状況のなかで、国家レベルだけでリスクをシエアすることは難しいだろうと思います。
 一例を上げれば、タイで通貨危機が起きた時にヘッジファンドが非難されましたが、あの時どのくらいのお金が動いたと思いますか。わずか数週間でタイの中央銀行の外貨準備の6割が動いたといわれています。6割が動いたということは、一国ではとても耐えられないということです。アシア通貨基金のような構想がなぜ出て来るかというと、明らかにそういう事実があるわけです。
 また、国独自で社会保障やいろいろな政策をやるのは無理です。ヨーロッパは非常に典型的ですが、通貨発行権を譲った代わりに、EUレベルとローカルな地方団体のレベルで政治の領域、制度の領域が広がっています。イタリアなどは典型的で、今まで固定資産税がなかったところに財産への課税権限を下ろしています。そういう世界の流れに合わせて、我々はもっと国家という枠に縛られずに、アジアというレベルで何をしたら良いのか、国家というレベルで何をしたらいいのか、あるいはローカルというレベルでなにをしたらいいのか、どうしたら人々は安心して市場競争に参加できるのか。そういう仕組みをどうやって作っていくのかを構想しなければならない。日本というナショナルなレベルに限らないことが大切です。
 国際通貨体制との関係からいえば危機管理政策が重要です。ドルとユーロという2つの基軸通貨がクラシュするのは20%か30%位の確率だと思いますが、それに備えて、多分アジアレベルでの通貨貿易体制というのが必要になると思います。ただ、通貨統合というのは随分時間がかかります。途上国における短期資金の規制は何らかの形で必要でしょう。
 もうひとつは通貨構成を共通化していく必要があると思います。円の国際化というのは自己利益だけでやるのではなくて、お互いの持っている通貨構成の割合を近くする。あるいはアジア通貨同士の持ち合いの割合を非常に近くして、リスク負担を共通にしていくような仕組みを段階的に作っていく。貿易構成が異なるために全部は揃わないでしょうが、なるべく近いところへ持っていこうとする。日本が長い目でリダーシップをとるのであれば、特定の政権にコミットするのではなくて、共通の目的を特定して、使う方法もはっきりした基金というのを作っていくことが必要です。これが本来の通貨基金だと思います。
 それから自己資本比率規制というのは銀行の健全性を守るひとつの指標に過ぎないことを踏まえるべきです。コーポレートガバナンスが必要だといわれていますが、これは企業の経営者と株主との関係です。アメリカ的な経営では、これは透明でしょう。しかし、アメリカは従業員に対してほとんど情報など提供していません。一方、ドイツには経営協議会がありますから、従業員に対して透明です。このように、今の議論には、だれがプリンシパルでだれがエージェントかということが全く無視されているのです。
 自己資本比率規制というのはマネーゲームをやる銀行にとっては健全性の指標です。しかし、逆に日本やドイツのように、産業に貸し付けている銀行であったら、必要なのはむしろ信用リバレッジ規制です。つまり、土地や株に対して信用リバレッジを効かしている銀行ほど不健全であるという指標を設けたほうがいいのです。そうなると、アメリカは最低の銀行になってしまう。だから、今日グローバルスタンダードと言われているものも、その国の体質によって意味が全然違うということを踏まえることが必要です。これが第1です。つまり一言で言えば、自己資本比率規制というのは相対的なものに過ぎなということです。
 2番目は、自己資本比率規制というのはバブルをチェックする機能が全くないということです。信用収縮をチェックする機能もありません。むしろ、それを加速します。自己資本比率を8%に固定しておく理屈は全くないのです。公定歩合や預金準備率が弾力的に動くのと同じように、これも弾力的に動かすべきであると思います。19世紀半ばに金本位制をとった時に、ピール条例によって金準備に通貨発行量をリンクさせたのですが、不況期にたちまち信用収縮を加速させてしまった。これは歴史の教訓です。いま、それと同じことをやっているのです。自己資本比率規制ではなく、おそらく中長期的には信用リバレッジ規制が必要であると主張していく必要があります。自己資本規制については不況期には緩和する必要があることを強力に国際世論に訴えて行くべきだと思います。

A 国内不良債権問題
 国内不良債権問題についてですが、これは責任回避が行き過ぎて、遅れれば遅れるほど手術の危険性が高まっています。私はある時期までは強制注入を主張していました。銀行経営者の首を切れ、若い経営者に一新しろ、戦後改革と同じことをやれ、と。本来の手順は、公的資金を大胆に入れる。そうすると必ず連鎖倒産が起きる危険性があります。そこに今やっているような信用保証協会や中小3機関の追加的な融資をやる。これが本当の手順です。ところがいまは全く逆立ちしてしまっている。アメリカのバブル処理を真似していてもだめなのです。
 アメリカが、つい最近LTCMが破綻しか際に、14の金融機関から30数億ドルを集めました。日本と同じ奉賀帳方式を何故やったか。決済中枢システムにバブルが及ぶとどこの国もこうなるんです。政権交代しない時に自分の政権の中で責任を追及するということは本当に難しいことです。これはよほどのリーダーシップがないと難しい。80年代後半の場合、アメリカはS&Lとか州法銀行とか小さな土地専門の金融機関のような周辺から倒れていったんですが、中枢は何とかもったのです。ところが日本ではいきなり決済システムの中枢がいかれた。そして、アメリカと違って地方銀行の方が健全です。日債銀や長銀は決済システムの中枢にありませんが、もし中枢にある都市銀行が破綻すればその影響は図りしれないものがあります。
 では今のモラルハザードを今のままで許していいのか、つまり社会的責任をとらないで自己責任だけをやっている市場路線、これを許しておいていいのか。どこかできちんとペナルティーを課す必要があるだろうと思います。ただ時効などでもうどうにもならないところにきている。ただ、今の7兆5000億円では解決はできないだろうということだけは確かです。

B 雇用対策
 雇用政策についてはさきほど申し上げた通りです。一点付け加えるとすれば、環境と高齢化社会にあったニーズに、雇用創出の打開論を求めるべきであろうと思います。これは主流経済学の間違いにもとづいています。つまり主流経済学ではアメリカ的なモデルができていますから、現役世代に貯蓄して退職世代に使い切るモデルなんです。したがって、高齢化すると皆貯金を使い始めて貯蓄が減って投資が減って経済が衰退するというシナリオになる。ところが日本で起きていることは、高齢化すればするほど、貯蓄率が高くなります。経済学のモデルとは逆なんです。年金を民営化すると高齢化して益々貯蓄率が高まって消費マインドが長期的には落ちていく。つまり、貯蓄が減って投資が減るというのが衰退のシナリオに結びつくのは、若い経済についてです。投資意欲が高くて産業を更新する力が強いところ、そういうケースは貯蓄率が低下するとマイナスになる。
 ところが、投資は成熟経済で横這いになりながら消費に依存する度合いが高まっていく場合には、高齢化して貯蓄率が高まってしまうことは危険なんです。むしろ我々は、サプライサイド経済学とは逆に、社会保障を充実する政策が必要であって、しかもそれは高齢者のニーズに従ったものでなければならないと主張しているのです。2000年4月から始まる介護保険はほとんど失敗することは確実です。そういう状況の中で消費マインドは益々冷え込んでいく。今のゼネコンにカネが流れていくような仕組みではなくて、そういうニーズがあるところに人、カネ、物が流れていく、そのために必要な規制を緩和していくような政策がどうしても必要になってきます。そういう意味では分権のために税源移譲が必要ですし、今の介護保険法は早急に見直さなければならないだろうと思います。

C 年金改革と地方への税源移譲
 年金についても特異な提案をしておりまして、私の提案は経済成長スライド方式の所得比例年金というものです。要するに、消費税で基礎年金を賄う案も、厚生省の給付の引下げと保険料の引上げ案もおそらく年金制度を安定化させることは出来ない。公共事業のために財政投融資を赤字にするのではなく、財投原資になっている基金を長期的に取り崩し、また、所得比例部分も含めて税方式にしたうえで、しかも、年金給付を現役世代が支払う原資と完全にリンクさせる。つまり、一人当たりの所得の伸びに年金給付の水準が完全にリンクしてしまう方式を提唱しております。今言われているような、基礎年金を消費税に切り替えて、しかも企業負担分を全部消費税に上乗せさせる案というのはほとんど実現可能性がない。もしやったとしたら、消費を落として激しいデフレになる。また、我々の提案では、企業の拠出負担金は賃金支払総額に比例した賃金税に切り替えますから、法定積み立て率を満たすために絶えず超過負担を負うということはなくなります。だから正常な年金制度に戻ってくるわけです。その意味ではこれは極端な路線ではありません。
 実は世界中で400兆円もため込んで、その利子で年金の給付をしようとする国は、世界中で日本だけです。この基金が足りなくなってやむを得ざる選択になった時、初めて消費税率の引き上げというのが問題になるんです。つまり消費税を上げて高齢者の年金給付を維持するか、それとも現役世代の税負担を回避するかを選択するわけです。そのようなぎりぎりの選択でもって15%とか16%というような税率になるのです。
 ところが、今の日本にそんな必要があるのでしょうか。しかもこのような不況の時に。我々は一方では財政で返せない借金を繰り返しながら、一方で貯金を400兆円も貯め込もうとしている状況です。バランスを考えれば、借金をしてゼネコンを救済するのではなく、むしろ業界の再編統合を進めた方が良い。銀行でも統合が進んでいるのに、ゼネコンはほとんど統合がありません。世界中でみて既に異常な規模にふくらみ過ぎている。もちろん、いきなり首を切ったら失業率が高まりますからソフトランディングが必要ですが、積極的に再編統合を進めながら、公共投資はゼロにはしないが段段減らしていかざるを得ないと思います。そういう意味での規制緩和はしていかなければいけないと思います。
 さらに、我々は地方への税源移譲についても所得税の基礎税率部分を全部住民税に移し、その分補助金をカットするという大胆な提案をしています。しかも我々はマジシャンのようにちょっと制度をひねれば、全部が変わってしまうという奇襲戦法をかけています。ちょっと奇妙な提案に思えるかもしれませんが、詳しい説明は時間がなくなりましたので、又、別の機会に譲ります。