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シリーズ討論

『行政関与の在り方に関する基準』について

東京大学教授 奧野正寛
国民会議ニュース1997年2月号所収
 ここにご紹介するのは、さる1月23日に開催されました懇談会における奥野教授の講演の内容です。昨年12月18日に行政改革委員会が発表し、25日に閣議決定されました「行政関与の在り方に関する基準」は、実際にはかなり大胆な内容を含んだものでありながら、公共経済学の術語を多用した内容ですので、一般には極めて抽象的でわかりにくいものとなっています。そこで、この基準のとりまとめの中心的な役割を果たされた奥野教授をお招きして、解説をお願いいたしました。


T 問題意識
U 基本原則
V 判断基準
 1.全般的な基準
 2.行政の関与の可否に関する基準
 3.行政関与の仕方に関する基準
W 判断基準の適用に当たって
【質疑応答】



T 問題意識
 昨年一年間、行政改革委員会の「官民分担の在り方に関する小委員会」の参与を務めさせていただき、昨年末に『行政関与の在り方に関する基準』という報告をまとめました。この報告書は4つの部分にわかれています。最初は行政関与の在り方に関する基準で、これが年末に最大尊重の閣議決定をいただいた部分です。二番目の部分は説明資料で、行政関与の在り方に関する考え方です。これは閣議決定はされていませんが、判断基準を使う際にできるだけ尊重して欲しいと、バックにある考え方を補足したものです。三番目は用語の解説で、専門的な用語の解説をできるだけ簡単にしました。最後は、全体をイメージ的にわかるように作成した三枚のペーパーと、行政改革委員会および小委員会座長のとりまとめにあたっての談話です。
 この行政関与の在り方に関する基準は、行政改革委員会から行政活動の在り方、とりわけ経済活動の官と民の役割を分担する上での物差しづくりをして欲しいという依頼に対する小委員会の答えです。
 まず最初に、この「基準」が大体どういうことを考えているのかをお話させていただきます。そのために、最後の絵が描いてある部分をご覧いただくと一番わかりやすいと思います。
 われわれの基本的な考え方というのは、国民が経済活動を行ううえで、ないしは社会全体の活動がよりよく動くためにどうしてもやらなくてはいけない活動がある。それが民間ではできないので、行政府つまり政府に負託している部分が行政活動であるということです。つまり行政活動というのは、いわば国民のために存在するのであって、国民の負託に応えてやるべきである。
 そういう意味で、われわれが第一の原則として考えているのは、行政活動というのは、当然、負託者である国民に対してどういう形で行政活動をしているのかということに関する説明責任を負っているということを明確にすべきだということです。いわば行政が行政活動を行う際には、(これが報告に明示的に書いてあるのは一カ所しかありませんが)われわれの考え方としては、挙証責任が政府の側にあるということです。広い意味では、それは政治の側にもあるということを本当は言いたかったのですが、行政改革委員会は行政府の問題を指摘する委員会ですので、政治や司法については極めて間接的な言い方しかできていません。したがって、そういう形で行政活動が、国民の目に公開されて明らかになるということを通じて、今度は国民の側が立法やその他の仕組みを通じて、行政活動をチェックできるようにしたいというのが第一点です。
 第二点は、挙証責任や説明責任を単に説明しなさいというだけでは、必ずしも物事が明確にならないということがあり、以下、われわれは二つのことを要求しているわけです。
 第1は、なぜ行政府がその行政活動を行っているのかという理由付けを行う際には、いくつかの基準があります。これは後で詳しくお話しますが、行政関与の可否に関する基準があり、こういう理由に基づく行政活動は認められる。しかし、その基準に基づかない行政活動は認めないということです。これも後で詳しくお話しますが、可否の基準の基本的な考え方は公共経済学に従って作っています。そこで、経済学をあまりに使いすぎるという批判もあるのですが、われわれが経済学を使ったのは、経済学でなくてはならないという理由ではなく、われわれとしては判断基準をつくった以上は、それが国際的にも説得力をもち、次の世代もなぜそれをつくったのかがわかるという、国際的にも時代を通じても普遍的な形で根拠を整理しておくということでした。そのためにも、ある種の学問的な用語を使ったほうがわかりやすいし、まぎれがないということで、どこかの学問分野の言葉を使わざるをえなかったわけです。普通、こういう話は公共経済学が一番すっきりいくので、そういう言葉を使ったということです。しかし、社会や経済を対象にしているので、他の学問の人や普通の人にも説明すればわかっていただけるはずです。
 可否の基準についてもう一つ申し上げますと、戦後の日本では行政活動の根拠付けという時に、国民にはアピールするけれども、よく考えてみると何を言っているのかさっぱりわからないということが、しばしば行われてきました。典型的な例では、国土の均衡ある発展というときにそもそも何が均衡ある発展か、誰もわかりません。こういうものを排除するということです。あるいは、社会的弱者のためだとよくいわれますが、社会的弱者は時代や地域によって変わってくるわけです。このようにすぐに理解や解釈が変わるものは困るので、できるだけ客観的な基準を出したということです。
 三番目には、判断基準の可否に関する判断基準で、単に根拠付けではなく、もう一つの大きなことを要求しました。それは、ここでの言葉で言うと、便益と費用の総合評価ということです。つまり、公共経済学で考えると、さまざまな社会の活動は民間に任せていてもある程度解決できる問題のはずです。しかし、さきほど申し上げましたように、いくつかの根拠がある場合には、民間に任せておくと国民にとって必ずしも望ましい解決が行われないというケースがあります。これを経済学では「市場の失敗」と呼んでいます。ですから、民間に任せておくとうまくいかない市場の失敗は、当然、国民としては行政府に介入してもらって、よりよい資源配分とか、よりよい経済活動をすすめてほしい、というのが今まで普通考えてきた行政活動の根拠づけでした。
 しかし、他方、そこで無視ないしは軽視されていたもう一つの問題点があります。それは民間活動、つまり市場が失敗するからといって、政府に任せておけば全てうまくいくのかということですが、全てがそうでもないわけです。政府も既得権益を持っていたり、民間のことはよくわからないという情報上の問題とかさまざまな問題があり、政府に任せても政府も失敗するわけです。
 そういう意味で、本来行政がどういう場合に介入すべきかを考えるのに重要なことは、市場に任せた場合に実現される状態と、政府が介入した場合に実現される状態のどちらが望ましいのかということをきちんと考えて、できれば数字として出す。その上で行政が入った方がいい場合だけ行政が入って、民間に任せておいた方がいい場合には行政が入らないという仕組みが重要なのです。それを考えようというのが、ここに挙げた便益と費用の総合評価ということです。
 これは民間に任せておいた時に比べて、行政が介入してくることによって、国民全体の利益、便益がどれだけ増えるのか、他方、国民が負担すべき費用がどのくらいなのかをきちんと計算して、行政介入の時には、そういう数値を原則として必ず出しなさいということが、ここで申し上げていることです。メリットがデメリットより大きければ、それは行政が関与してもいいということになり、他方、メリットがデメリットを下回るような場合は、行政は関与してはならないということです。
 こうした分析は今までの行政活動でも行われたケースもありますが、大体は、最初に費用便益分析を行ってメリットが大きいことを言った上で、事業を始めたらそれっきり忘れ去られるというのが、今までのやり方でした。われわれとしては、事前の総合評価だけではなく、行政活動が事前の評価通りに行われたかどうかを、事後的にチェックしなさいということを要求しております。その上で、メリットがデメリットが上回るような場合、行政が関与していいのかというと、必ずしもそこでは不充分であるというのがわれわれの考え方です。基本的にはメリットがデメリットを上回るものも、民間でできるものは原則として民間に委ねるということです。行政が関与するものは、行政がやって意味があり、民間にできないものにすべきだし、その上で仮に行政がやらないとだめだというものに関しても、さまざまな行政の関与の手段があるので、そういう手段の中でもできるだけ行政をスリム化する行政を行う。言葉が適当かはわかりませんが、行政の効率化につながるわけで、行政活動をより国民にとって望ましいものにしていきたいということです。
 図には、行政のスリム化、行政の効率化、国民本位の行政とありますが、ここで言っていることの一番の意味は、単に国民にとって負担が少ないとか、行政の効率化を図るということだけではなく、国民本位の行政、つまり国民が本当に望んでいるような質の高い行政を実現しつつ、費用を少なくする。そういうことを行う基準をつくりたいということです。この最も適切な手段・形態の選択という部分は、あとでお話する行政の関与の仕方の基準になります。その上で、そういう形でできるだけ行政活動を小さくする、他方で説明責任で国民がチェックしやすい仕組みをつくっていき、しかもそれを定期的な見直しで行政のスリム化および透明化を国民が長期的に確保するということを考えているわけです。
 そういう概略を話しただけでは分かっていただけないかもしれませんから、時間の関係上少しとばす部分が出てくるかもしれませんが、最初に立ち戻って、この判断基準がどういうものなのかをお話しようと思います。


U 基本原則
 基本原則のところで、基本的な認識について説明が行われておりますが、これらは先ほどより申し上げておりますから、あまり繰り返しても仕方ないと思います。つまり市場や民間活動というのは、問題がないわけではないけれども、基本的には優れた仕組みであるというのがわれわれの共通認識です。但し、市場の失敗が発生する可能性があり、とりわけどういう種類の問題が起きるかというと、一つは資源配分上効率性が実現できない。つまり民間に任せておくと、本来必要な経済活動が実現できないというケース、あるいは、その経済活動が過小あるいは過大になってしまうケースもあります。そういう種類の問題は、資源配分の効率性が阻害されるといいます。もう一つの広い意味での市場の失敗は、経済活動が当然所得分配に影響を与えるわけですが、民間に任せておくと所得分配が不公平になる可能性があります。民間に任せておいた時の問題は、基本的には効率性の問題と公平性の問題が生まれるということです。これを是正するために行政が入ってきます、しかし政府の失敗もあるということが書いてあります。
 そういう基本的な考え方の上で、われわれは3ページに書いてある基本原則A、B、Cというものを書きました。一つは、今までは市場の失敗ばかりを強調してきたため政府が過大に介入しているのを、政府の失敗ということを表に出すことで是正したいわけですから、基本的な考え方としては、「民間でできるものは民間に委ねる」という方向で発想を変えるべきであるというのが基本原則Aです。 基本原則のBは、「国民本位の効率的な行政」ということですが、行政活動は、基本的に国民の負託に基づいて行われているというのが基本的な考え方です。これは、われわれの言葉では代理人関係というのですが、本来、国民が何かをしたい、でもそれを国民が自分でやるのは時間もないし能力もないし専門知識もないから、仕方なく行政府、公務員にお願いをして代理人として行政活動をやってもらっているとわれわれは考えています。そういう関係で有名な例として、理念の世界ですが、株式会社というのがあります。基本的に株式会社は資金を提供する株主が自分で経営するのが一番いいわけですが、これも専門知識や時間がないため、経営者に経営を依頼しているわけです。そういう意味で、株主と経営者の関係は国民と政府の役人の関係に等しいわけです。翻って考えてみますと、株主が望んでいる経営を日本の企業がしているかというと、実はしていません。つまり、代理人に物事を任せたときは、いろいろな問題が生まれてきて、業務を委託された人たちは、もちろん依頼人あるいは負託者のことも考える必要がありますが、それを考えないで自分のメリットを追究できればそれに越したことはないわけです。それを縛るために株主はさまざまな権限を持っており、他方では経営者は財務を公開したりという株主に対して義務を負うわけです。そういういわば権限と義務、あるいは責任という関係が株主と経営者の間にあることを考えると、当然、国民と行政府の間にもそういう関係があるわけです。つまり、できるだけ国民が行政府に与えるコントロールを厳しくすればするほど、行政府の方は国民が思っているように動いてくれる可能性はありますが、その代わり行政府は非常に動きにくくなるわけです。その結果、行政活動自体が硬直的になる可能性があります。だから他方ではもう少しフレキシブルにするというやり方があります。典型的な例が特殊法人です。行政府、中央官庁が直接やると硬直的になる仕事は、現場の仕事には向いていません。そこで行政府から外に出て、特殊法人というもう少し動きが取りやすい所にやらせる。すると弾力性は高まりますが、国民のコントロールは弱まってしまいます。そういう問題がありますから、誰にどういう形で行政をやってもらうかをもう少し基準化し、わりとフレキシブルにやった方がいいものに関してはできるだけフレキシブルに行う。しかし、そうである以上国民のコントロールが弱まりますから、コントロールを別の形で担保する。典型的に言いますと、後でお話するように、市場をもう少しうまく組み合わせる。他方、どうしてもコントロールが必要だという場合には、それはそのまま残すけれども、できるだけ少なくする必要だということです。
基本原則のCは、この負託に応えるために、事前・事後に説明責任を持ちなさいということです。これは、すでにご説明いたしました。


V 判断基準
 次に、行政の関与の在り方を判断する際の具体的な判断基準としては、3つの部分にわけて、「全般的な基準」、「可否に関する基準」、「関与の仕方のに関する基準」にわけてあります。

1.全般的な基準
 「全般的な基準」は、すでに大体お話してありますので、簡単にお話しますが、(1)が民間活動の優先、場合によっては非営利、非政府団体の活用も考えていきたい。それから(2)が行政活動の効率化ということで、できるだけ市場原理を活用する。国民のコントロールにも限界があるし、政府の失敗もあるわけですから、可能ならばなるべく市場原理を使いなさいということです。他方、競争がない場合にも効率化ができるようなインセンティブが働く手段を導入しなさい。今いったような権限と責任を明確にしなさい。それから政府の失敗についてもう少し考えなさいということです。
 (3)の行政による説明責任の遂行と透明性の確保のところでは、行政が説明責任を負っていることを明確に打ち出しました。特に国民のニーズに応えているとか、効率的に行われているということに関しても行政府が挙証責任を負っているということです。
 便益と費用の総合評価については、評価して積極的に公開するとともに、特に副次的効果を含めるとあります。これは例えば、農業政策です。農業に対して国がお金を支払っているもの、典型的には、農業農村整備などで補助金や公共投資という形で直接的にお金を出していますが、米価政策という形でも農業を保護しているわけです。これは米価が高くなるわけですから、当然お米を買っている国民からお米を売っている農家へお金が動くわけです。そういう意味では、米価政策という行政介入の結果、事実上国民が費用を負担していることになります。こうしたものを副次的効果と呼び、つまり費用という場合、それらを含めたものが費用であるというのがわれわれの趣旨です。
 評価に当たっては数量的評価の導入ということを掲げていますが、社会的便益や費用を数量的に分析して、副次的効果を含めるということと、事前の推計値だけではなく事後の実績値を出すこと。それからもう一つ重要なこととして、便益とか費用を推計しようとすると、当然、いろいろなやり方や仮定がおけるわけで、その結果出てくる数値はさまざまに変化しうるわけです。従ってそれをきちんと評価するためには、そもそも推計にあたってどういう方法を用いたか、どういうデータを使ったか、どういう仮定をおいたかということをオープンにしてもらい、それが妥当であるかどうかを国民としてチェックしていくことが必要だということです。
 それからもう一つ、こういう評価は個々の行政活動についてやるのも一つですが、他方では行政活動全体がどういう形で国民の各層にプラスであったりマイナスであったり、そういう影響を与えているのかを全体として考える必要があるだろうということで、ここでは政府活動の受益と負担の実状を、所得階層別、産業別、世代別、地域別、性別に経常的に明らかにして欲しいと述べています。そういうことによって、政府活動が例えば、一つの世代や一つの地域に過剰な便益を与えるのを避けるべきであるということです。
 それから最後に情報公開の一層の推進ですが、これは当たり前のことなので、行政改革委員会が別途に出しました情報公開法要綱案にのっとって情報の提供・開示をして欲しいということと、特に、会計関連、財務関連の情報に関しても民間の基準を参考にして、できるだけ整備・公開すべきであるということです。特に特殊法人なども含めた場合、連結決算を行って会計の情報公開をして欲しいと思います。
 (4)は、定期的な見直しということです。

2.行政の関与の可否に関する基準
 次が行政関与の可否に関する基準と行政の関与の仕方に関する基準ですが、これからは経済学的な言葉が多く使ってありますので、言葉の説明を中心にお話します。
 行政関与の可否に関する基準とは、先にお話していることからもわかると思いますが、どういう場合に市場の失敗が起こるかを念頭において、そういう基準に合うものだけを行政活動を認めることにしたいと出したものです。
 市場の失敗には効率性に関わるものと公平性に関わるものがあります。(1)から(5)までが効率性に関する基準、(6)が公平性すなわち分配に関する基準です。
 まずその市場の失敗の一番目が(1)公共財的性格を持つ財・サービスです。典型的な例では道路や公園、港湾や空港などを一括して公共財と呼びます。もっと典型的な例でいうと、外交や国の安全保障が一番典型的な公共財です。
 実は二つの性格を持つ財を経済学では公共財と呼んでいます。市街地の道路が典型ですが、お金を払わなくても基本的に利用できるというのが一つ。ただお金を払わなくて利用できるかできないかは、どういう形で道路を提供するかに依存します。そういう意味では、厳密に言うと有料道路のように受益者にお金を払わせるというものに比べて、一般の市街地道路では受益者にお金を払わせようと思うと、あまりにも社会的コストがかかりすぎます。そういう財が、公共財というものの一つの性格です。
 もう一つは、多数の人が同時に消費できるということです。道路や公園、安全保障が典型です。そういう二つの性格を持っている財を、公共財的性格を持つ財・サービスとよびます。こういう財の場合、お金を徴収しようとすると、非常に大きなコストがかかるので、基本的には誰でも使えるようにするわけです。するとせっかく作っても費用が回収できないので、民間ではなかなか事業化できないため、普通こういう財は政府がやらなくてはいけないということになります。こういう財の供給は行政がやらなくては仕方がないというのが(1)の意味です。ただ道路の例からも明らかですが、料金徴収費用が高いので料金の徴収が合理的でないということを明らかにしない限りは、むしろ民間に任せなさい。逆に言うと、民間にできることは民間にやらせなさいということも当然のこととして書いてあります。
 次に、公共財の幾つかの典型例として、今後行政関与の非常に重要なケースとして出てくるであろうというものをいくつか挙げています。
 一つは、a.経済安全保障というものです。これは、私個人の考えとしては、農業政策が今後ここに大きく関わってくるだろうと思います。つまり、食料の自給をしていかないと日本の経済安全保障は保てないということで、今後、農林水産省が、この判断基準をもとにした場合、農業政策を立脚させる一番大きな要因になると思い、やや特掲したというニュアンスがあります。経済安全保障の場合には、当然ある種の公共財です。クラブ制にして、食料を民間の生協や株式会社が保管し、お金を払った人にだけ緊急の際に食料を与えるという仕組みをつくることも不可能ではありませんが、それをやると非常なコストがかかったり、少なくとも全員が参加できない。そういう意味で国民全員が受益者にならないといけないので、これは国がやる必要があるということです。こういうことをやる場合、リスク、とりわけ簡単に言えば、日本の安全保障を確保するために食料を確保するのか、それとも別の外交や軍事でその安全保障を確保するのかという選択もありますし、それから今後の世界の食糧自給がどうなるかという分析を行って、リスクがどれくらいなのかということをきちんと比較した上でやって欲しい。そして、真にリスク軽減に寄与する施策であることを説明すべきであるということを書いてあります。それから、大体、こういう問題が起きそうなときに常に書いてあるものですが、経済安全保障を理由として市場原理を歪める施策、あるいは所得再分配を経済安全保障に名を借りてやっている可能性が強そうだとか、業界保護を事実上やっているのではないかという問題があるものに関しては、できるだけ関与を必要最小限に留めるということです。
 b.市場の整備というのは、典型的に言えば、私の印象ではベンチャーキャピタルの整備が当たると思います。まだ民間が完全に産業や市場を完成させていない、ないしはまだぜんぜんできていない、従って民間活動がうまく機能するようにする過渡的な時期として政府が何かをしなくてはいけないというのが、市場の整備です。ここで特に重要なのが、こういう過渡的な政策ですから、タイムスケジュールをきちんと示しなさいということになります。そして期間が終わったら撤退しなさいということを明示的に書いてあります。それから市場整備といってもあまり行政が具体的に介入する、特に裁量的に介入するのではなく、市場のルールづくりを中心にしなさい。それから監視を必要とする場合にもできるだけ控えなさいということが書いてあります。
 c.情報の生産というのは、もう一つの公共財ですが、例えば科学技術や新しい発明で特許権が取れないと、新しい技術や新しい生産のやり方をつくっても、情報ですから真似られるわけです。真似られると、折角開発した人がその成果を享受できず過小生産になるという問題があるので、情報の生産に関しては、資源配分の問題から行政が関与することはやむを得ないと考えております。
 次のd.文化的価値は、実は小委員会で一番もめた部分の一つです。ここでは社会の伝統とか文化、文化財、農村の一部で伝統的に行われている慣習や祭りは一度なくなると、復活できないため、ある種固有の価値をもつということで考えてはどうかということです。但しこれに関しては、地域による施策を中心にすべきであるという形で歯止めをしたいということです。
 次の(2)外部性というのは、典型的には公害がこれにあたるのですが、排気ガスや騒音、場合によっては地球環境というようなものです。例えば、隣にカラオケバーがある人は騒音の被害を受けるわけですが、しかも市場で取引されるものではなく、相手がいれば自動的に被害を被るわけです。すると隣人の被害を考えないでカラオケバーを作ると、カラオケバーがむやみに住宅地にできてしまうわけです。それはやはり行政が抑えなくてはいけないということです。
 (3)市場の不完全性というのは、ある種の財に関しては、市場での取引、つまり対価を払ってサービスの売買ができないという話があります。これは、おそらく典型的には一部の特殊法人がやっている超長期の貸付、例えば開発銀行もそうですし、実をいうと特殊法人のかなりの部分がこういう活動をしていますが、財投自体が超長期の貸付のための仕組みですから、財投が入っている特殊法人は実はほとんどこれにあたります。つまり超長期の貸付はどういうことかというと、例えば、皆さん一年ものの定期預金を買うかもしれませんが、これは経済学でいうと一年後のお金を現在取り引きする市場です。その対価として利子率がつくわけです。例えば5年先や10年先の預金や借金は、そこそこ民間が対応できるのですが、20年以上となると民間の銀行ではこれは対応できない。すると20年以上のお金の貸借の市場は、現実の民間には存在しない。それを市場の不完全性と呼びます。そういう場合には、しかもそれが市場の失敗を生み出しているのならば、政府が入っても仕方がないということです。とりわけその時、市場がないというだけではだめで、市場がなくてしかもそのままでいくと市場が失敗し経済活動に支障をきたすということを証明して欲しいということです。今言った超長期の貸借で一番的確に当てはまるのが、このa.不確実性ということで、20年、25年先の資金市場がないために、短期の借換えでいくと将来の不確実性が生まれてしまう。そういう場合には、本来望ましい資源配分ができない場合には、行政が入ってよろしいということです。それに関して発生している問題をきちんと説明しなさいというのがここに書いた意味です。それをもっと明確に書いてあるのが、資本市場の不完全性です。ここでは、単にリスクがあるということだけではなく、大体そういう特殊法人は事業リスクがあるということだけを言いますが、採算性やリスクも検討を加えるし、民間の投資可能なものからは撤退することを明示してあります。
 b.情報の偏在というのは、典型的に言うと、買い手と売り手との間である種の情報を片方が持っていて片方は持っていないというケースです。具体的な形でいうと一番の問題は保険です。例えば年金保険や医療保険がここでは暗黙の内に考えていたものです。特にそういう情報の偏在が保険市場で起こると逆選択ということが起きる可能性があります。あまりいい例ではないかもしれませんが、自動車の強制保険、自賠責保険があります。こういう時に保険の購入者、すなわちドライバーは、自分はわりと無茶な運転をするとか飲酒運転をしがちだとか自分は知っているわけですが、保険会社の方は契約に来た人がどういう人かはわからないわけです。したがって保険会社は何をするかというと、去年の事故率を見て保険料を設定するわけです。ところがそれで何が起きるかというと、去年の事故率というのは、事故をわりと起こしやすい人も起こしにくい人も含めた数字ですから、自分は事故を起こさないだろうと安心している人にとってはわりと高い料率になるわけです。その結果、そういう人たちは保険を買いません。そうすると実際に買う人は結局運転の悪い人たちばかりですから、事後的には契約者の平均事故率は統計の事故率よりも高くなるわけです。そうなると今まで買っていた人でも、自分は安全だと思う人たちがやめていってしまうわけです。その結果、残された人たちはもっと事故の可能性が高い人たちになってきます。すると、どんどん事故率が上がって保険料が上がっていき、最終的には一番悪い人しか保険に入らず、ドライバーのほとんどが民間の保険から駆逐されてしまうことになります。これが悪貨が良貨を駆逐するということですが、そういう場合には、強制保険で全員入ることにした方が、実は保険というのは本来みんなにとっていいことですから、強制でなければ入りたくないという人も無理矢理入れた方が、かえって社会では望ましいことになるかもしれません。そういう問題が起こるためにこういう言葉をいれてある。もう少し別の言い方をすれば、単に保険だからということで政府がやるのではいけないということでもあります。そういう保険で、民間でもできるような保険に関しては、民間に任せなさいということでもあります。
 次の(4)独占力、これは申し上げるまでもなく、独占的な力をもつ企業に対してはできるだけ何らかの対応をする必要がある。典型的には独占禁止政策などですが、こういうことには行政が入ってもいいことでしょう。それから(5)自然独占ですが、今度は逆に技術的に独占的にならざるを得ない産業、典型的には電力とか鉄道とかいうある種の地域独占にならざるを得ないわけで、そういう場合には行政の介入を認めざるをえないでしょう。但し無条件ではなく、これこれの経済学的な理由を満たしていないとだめだということを明示的に書いたということです。
 それから(6)公平の確保ということが非常に重要な問題ですが、公平というのはおそらく三つぐらいの考え方があります。一つが、事前の公平対事後的な公平という考え方です。事前の公平とは機会の均等であり、それで全ての公平の問題が解決されるという立場も一方ではあります。他方では、リスクや不確実性があり、事後的に色々な問題が起きるので、事後的な公平を図らなくてはならないという考え方もあります。もう一つは、垂直的な公平と水平的な公平という考え方があります。垂直的な公平とは、これはおそらく皆さんが普通に思っている公平の概念で、つまり貧乏な人に対して富裕な人が所得とか資産を再分配し、その結果、より平等度の高い社会を実現する。これが垂直的な公平です。もう一つの聞き慣れない言葉として水平的な公平という言葉があります。これは所得とか資産は同じだが、それ以外の何か別のことが違う。典型的に言えば、例えば職業が違うとか、嗜好が違うとか、住んでいる場所が違うということを理由にして、何か行政が関与することはいけない。つまり、住んでいる場所や職業は本人が選んだのであって、しかもそれ自体大きな公平に関わる問題ではないのですから、行政は平等に取り扱わなくてはいけない。これが水平的公平という概念です。
 われわれがここでかなり強硬に主張したつもりなのは、まず第一に事前の公平、機会の均等ということをもっと積極的に考えなさいということです。第二に水平的公平を確保しなさいということです。典型的にいうと農業の従事者は社会的弱者だとか、ある地域に住む人は遅れている地域だから彼らは弱者だといって行政が補助を与えていると、市場の仕組みや経済活動にさまざまな歪みを持ち込んでしまう。しかも場合によっては、政治的な既得権益を発生させる。そういうことは、経済活動としても政治を通じたダイナミックな活動を考えてみてもマイナスしか生まないのだから、今後そういうことは一切慎みなさいというのがひとつの原則であります。
 もうひとつは、特定の者を対象として補助を与える施策、つまり水平的公平に反するような施策の場合には、一つはナショナルミニマムの確保に限定すべきであるということが第一点です。私の個人的な見解で言うと、例えば母子家庭とかそういう理由で行政関与し、それが公平の確保のために必要だというならば、それはナショナルミニマムの確保で抑えなさい。もちろん必要だからあげたらいい、しかしそれ以上のことは別の理由がないかぎり止めなさいということです。それからできるだけ、物ではなく金で与えなさいということです。他方、さまざまな施策の中で所得再分配効果が、同時に絡んでくるような施策もありますが、それはできるだけ減らしなさい。
 それから、特にいくつかの施策が公平に絡んで今まで行われていますので、これに関しては特掲をしました。一つはa.地域間の所得再分配で、まさに国土の均衡ある発展の問題ですが、こういうことを理由とした施策は原則撤退しなさい。撤退するためのタイムスケジュールも明確にしなさい。どうしてもそれがやりたいのならば、地方自治体からの一般的な財源調整、これは地方交付税という考え方もありますが、私個人の念頭にあるのは、国税の地方譲与ですが、いずれにしろ国全体としての一般的な財源調整で考えなさい。むしろ地方分権を考えて、そちらで対処すべきだということです。
 よく問題になるのはユニバーサル・サービスですが、これは典型的に言えば、今の郵便貯金や郵便配達などの郵務という全国一律同じ料金で同じサービスを提供する、それが必要だということで行われている業務があります。いわゆる「全国遍くサービス」と言われているものですが、これはある意味で地域所得再分配ということを暗黙の内に念頭に置いているわけです。つまり、都会であれば郵便局が郵便配達や郵便貯金のサービスをする必要はない。しかし民間は僻地ではやらない。それでは僻地の人が可哀想だから国が代わりにやりますという考え方なのですが、これも原則は民間がやるべきであり、どうしてもできない場合にはナショナルミニマムのためにどうしても必要であるということを説明して、しかもそのために必要な負担、国民がどれだけの負担をし、どれだけの便益があるかを明示し、できるだけ補助を外部化すると書いてあります。今の郵務サービスを一つの例とすると、大体これは常識として都会で儲けているわけです。都会では需要が非常に大きく、都会内部での配達業務が中心ですからコストはそんなにかからない。しかも需要が大きいため収入も多い。他方、地方というのは、需要も少ないですし、実際に配達するまでのコストも高いため、ここは損をしているわけです。そうだとすると、実は都会の住民が僻地の住民をいわばユニバーサルサービスを通じて補助している仕組みになっています。それ自体が悪いことだとは言いませんが、その過程でどれだけの補助が都会から僻地に行われているのか、つまり都会の住民にとってどれだけのコストがかかっているのかをきちんと見せる必要がある。そのために一番いいのは、補助を外部化するということです。例えば、東京は東京、北海道は北海道で、郵便局の支部が収支を明らかにする。すると当然、赤字のところと黒字のところが都道府県単位で出ますから、それで実際に東京から北海道へお金を渡す。これを外部化と言います。それができないというならば、少なくともそういう情報をきちんと明らかにしなさい。例えば、NTTも昔の電電公社もユニバーサル・サービス的なことをやっているわけですが、昔はこういう情報は明らかになっていませんでした。しかし、NTTになってから郵政省が強硬に主張し、地域別ではありませんが、事業別収支は明らかにすることになっています。もちろんできる話ですから、それをやりなさい。
 あとb.産業間の所得再分配ということで、産業政策は原則撤退。衰退産業に関しては、基本的に撤退して、どうしてもやらなくてはならない場合は、タイムスケジュールを明示しなさいということです。それから産業政策で特定産業の育成のうち、これはというものは、タイムスケジュールを明示した上でやっていい。三番目がc.世代間の所得再分配ですが、これで念頭にあるのは年金でして、みなさんご存知のように今の年金保険というのは、事実上今35歳以下の世代から60歳以上の世代に非常に大きな再分配が行われる仕組みです。こういうことは若い世代の勤労意欲を失わせるという問題もありますし、もっと下の20歳以下の世代というのは政治に対して発言権さえ持っていないわけですから、そういう人たちにとっては非常に不公平だということで、世代間の所得の再分配は原則認めないということにすべきではないかということです。

3.行政関与の仕方に関する基準
 行政が関与するとしても、その行政関与の仕方が問題です。その判断基準についての基本的な考え方を簡単に言いますと、まず、(1)政策形態・手段に関する基準、これは一般的な基準で報告の15ページに別表がありますが、われわれの考え方では、行政との絡みで経済活動を考えると、関与の仕方として4つの仕方がある。1が純粋な民間活動で行政が全く関与しないで、民間活動ができる部分です。2は民間ですが、タクシーや電力のように行政側が規制をかけたり、助成措置つまり補助金を与えている。例えば医療に関する民間会社が典型的かもしれません。あるいは私立大学も入るかもしれませんが、そういう活動形態が2番目です。4が中央省庁がやっている部分で、3は、広い意味で行政府が行っている活動のうち中央省庁以外がやっている部分で、典型的には特殊法人などがここに入ってくるわけです。
 要するに1は純粋民間ですから、われわれの直接的な対象ではありませんが、全て民間で解決するわけではないので、それなりにチェックする必要はあります。2は、規制緩和をして公取がきちんとチェックをしている限り、行政の関与の程度が比較的低いという意味では、民間的な自由なやり方が効くし、市場原理のチェックができるという部分もかなり強いという部分です。3、4になってくるとかなり行政府直属になってくるので、市場規律があまり効きにくくなるということで、特に3あたりになると当事者能力が小さいというさまざまな大きな問題があります。但し4になると硬直的になりやすいということを考えた上で、一般的な考え方としては、今後は公的行政活動を行う際にはまず1でできないか、1でダメなら2でできないか。それでもダメなら最低3でできないかという形で考えたらどうかということです。本当はこの辺りをきちんとわけたかったのですが、学問的蓄積が十分ないので、われわれとしても思い切った提言がしにくかったということでもあります。
 その上で、あと簡単に言いますと、例えば今いった3のあたりはまだまだ非常に問題がある部分ですので、a.権限と責任の明確化と成果の評価のところで、権限と責任をきちんと明確化した方がいいとか、目標を設定してその達成度合いに応じて成果を評価するような仕組み、つまり何か目標があって、目標が実現できればその組織がメリットを受けるという形で、目標を実現するのにインセンティブを与えるような仕組みを導入してはどうですかということです。
 それからb.疑似市場原理の導入というのは、これは典型的には教育ですが、今の仕組みというのは、例えば民間の大学というのは文部省が大学にお金を払うわけですが、そうすると何の競争も民間の大学の中では働かなくなる可能性があります。むしろそのぐらいならば、大学でも高校でも小中学でも結構ですが、そういう所に入りたいという人、つまり大学に入学したいという人に国が直接に基本的にお金を払う仕組みにしてはどうか、一番典型的には切符を与えるということです。切符を持っていくと入学料免除という切符を与えてやる。これは基本的に、それがくれば国が払い戻してやるという形にする。ただ、今までの仕組みとどこが違うかというと、入学者はその切符を持っている限り、どこの大学でも使えるということです。すると当然、受験生はよりいい大学に行きたいというインセンティブを持っていますから、よりいい大学ほどその切符がたくさん集まり、切符がたくさん集まるとよりたくさん補助金を政府からもらえるという擬似的な競争を大学間に入れなさい。そういう形でもっと行政の関与ではありながらも、市場原理もうまく含めたような仕組みをつくることによって、より望ましい行政介入ができるのではないかということです。
 あとc.採算性の重視ですが、これも受益者を特定できる場合は、できるだけ受益者を使いなさいとか、先ほどの内部補助みたいなものを考え直しなさいとか、費用を最小化するような複数の手段がある場合には、その中で費用を最小化していることを明らかにしなさいとか、あるいはすでにやっていることですが、業務区分別、例えば有料道路を作った場合、建設の部分と維持管理の部分と料金徴収の部分とか色々あるわけですが、それぞれ業務区分別に民間でできないかということです。
 次に(2)行政による利害調整活動に関してですが、基本的には事前の裁量とか利害調整をやめて、事後の紛争解決と事後のチェックを中心にしなさいということです。例えば、証券業とか銀行業とか産業によっては協会という事業者団体が事実上そのルール作りをやっている、あるいはそれを政府から委託されているという行政代行に関しても基本的には排除して、事後的な紛争解決と事後のチェックにしなさいということです。どうしてもやらなくてはいけない場合には、行政代行ではなく直接やりなさいということです。
 最後は(3)サンセット制を導入しなさいということで、以上が大体の判断基準です。

W 判断基準の適用に当たって
 判断基準の適用に当たってですが、監視の問題があります。一応、閣議の最大尊重をとりつけましたが、これが本当に守られるのかが一番の問題なので、ここは皆さまにもご協力を願って監視をお願いしたいということです。あと立法、司法、地方色々問題がありますので、よろしければ後で読んでおいてください。民間についても同じことです。

 一言だけ付け加えさせていただきたいのは、橋本総理大臣は六大改革ということを言っていて、今非常に大きな改革の可能性が出てきているわけです。こうした判断基準を使うことも、当然ある種のシステムの激変を生み出します。一つの問題はシステムが変わることによって、実はさまざまな問題が生じるわけです。典型的に言えば、政府がスリム化すれば、公務員が随分解雇されるという問題が生じます。これをどうすべきかということで、これは閣議決定の部分ではなくわれわれの考え方ですが、当然セーフティーネットは必要でしょうということが、われわれの一番言いたいことの一つではありますが、他方ではセーフティーネットを安易にやると問題が後戻りしてしまう可能性があります。
 われわれが強調したことの一つは、むしろ改革をするのならきちんと目標を定めて、しかもタイムスケジュールを明示しなさい。そのタイムスケジュールを明示することで、実は組織がどういう形で変わり、人数がどれだけ減るかが明示される。そうすると、その時間的余裕を使って組織とか個人が対応ができるわけです。そういうことを考えることが、ある種の激変緩和措置だと考えるべきで、もちろんセーフティーネットをしてはいけないとは言いませんが、安易にセーフティーネットを作るよりも、目標をはっきりさせスケジュールを明確化させることこそが、改革の時には重要ではないかということを強調しております。
 あと審議会の在り方などにも触れておりますが、お暇があれば是非残りの部分もお読みいただければと思います。


【質疑応答】
(質問)基礎的な所ですが、情報の生産について簡単にご説明下さい。

(奧野)例えば、科学研究の振興や新エネルギーの開発という、いわば新しい技術や知識を民間に任せておくと供給が過小になるというケースがありまして、場合によっては過大になるケースもあるのですが、行政が何らかの形で関与することで、プラスが生まれるということです。

(質問)それ自身が公共財としての意味をもつということですか。

(奧野)問題は、生まれてくるものは情報や知識なわけです。情報や知識は、新聞に出してあの産業が儲かるとか、こういう新しい物が作れるということが明らかになった段階で、他の人も始めるわけです。すると折角思いついた人が自分の利益に結びつけられない。すると最初からそんなことやってもムダだとなることが典型的な問題でして、結果として情報が過小生産になるということです。だから特許があって、権利を保護しないと誰も発明をしなくなるということです。

(質問)まず官を民へという方向性は、私も大賛成ですが、どういう議論が背景にあったかをおうかがいします。官を民へという場合、本当に民が競争的になるかどうかが大きな問題だと思います。そういう意味で、民営化と競争の導入は、おそらくセットではないかと思います。ヨーロッパの議論を見ると、官を民へ移して、公的独占が私的独占になるとかえって悪いのではないかという議論もあります。この辺りをどう議論なさったかを、一つおうかがいしたい。
 それからユニバーサルサービスについてです。非常に大胆にユニバーサルサービスは民間でもできるという結論でしたが、例えば電力事業の場合、民間でユニバーサルサービスができていると言っても、それは非常に厳しい法律と規制のもとでやっているだけの気がします。そうであれば、あえてこういう所で官から民へという議論をしても、非常にパブリックの色彩の強い民だと思います。では逆に、非常に限られた競争の所でユニバーサルサービスが本当に民間が担えるのか、例えば電気通信事業でいうとNTTはNTT法の中で担保されているわけですから、そこの所をお聞かせ下さい。

(奧野)正確に言えば、官を民にすれば全て解決するとわれわれが考えていたわけではありません。民は民で非常に大きな問題があることは議論しましたし、14ページに民間に求められる課題も随分書いてあります。但し松原先生も言われたように、官の独占を民に任せた場合、民の独占になるのではないかという議論は特にはしていないと思います。みんなが暗黙のうちに思っていたのは、独占ということ自体が必ずしも悪いとは思いません。技術とか色々な理由で独占にならざるをえないこともありますから、問題は独占力を背景にしてさまざまな問題が生まれるかどうかということです。これは独占力の項で書いてあるように、相手が官であれ民であれ、公取をはじめとした機関が監視をして、場合によっては規制を行うということが大事なので、むしろそこは民か官かという議論ではないと私は理解しています。
 ユニバーサルサービスで、言われたような問題は確かにあるのですが、これもかなり私の個人の理解になるかもしれませんが、ユニバーサルサービスという形の必要なサービスが本当にあるかが率直に言って疑問です。もちろん、郵便や場合によっては電話もそうですが、それが全国で他の地域では廉価でできるのに、ある地域は非常に高額になることが起きるとそれは問題です。しかしそれはナショナルミニマムや場合によっては垂直的公平に絡むのかもしれませんが、東京などの都会まで同じユニバーサルサービスでカバーすることに関しては疑問があります。私が申し上げたいのは、まず第一に、ユニバーサルサービスは私だったらまず一度切ってしまう。その上で最低限必要だという地域ごとに疑似市場原理を入れてできるだけ効率的にやったらどうかというのが私の意見です。ただ小委員会の議論で言えば、議論されたのはまさに対郵政の問題であって、郵貯は当然として郵便に関しても黒ネコなどがどこでもできますと言っていて、ちょっと検討した限りでは、できないという結論には必ずしもならないということです。まず原則民営でいっていいのではなかろうか、例外が一応書いてあるしというのが印象です。

(質問)7ページの外部性で、公害の話をされましたが、「A所得再分配効果が強い場合、当該施策・業務から原則撤退する」とあります。これは例えば、公害健康被害補償制度を念頭に置かれているのでしょうか。

(奧野)私が念頭に持っておりましたのは、教育ですが、原則撤退では教育ではありませんね。

(事務局)ここでは正の外部性ということです。

(質問)同じく7ページの外部性で、「B受益者負担の徹底を図る」とありますが、これは教育ですか。

(奧野)これは教育だと思います。

(質問)それでは、例えば公害などは汚染者負担の原則徹底を図るということではないのですか。

(奧野)ここでいう正の外部性の受益者負担というのは、多分負の外部性の汚染者の責任に大体対応すると思います。

(事務局)Aではどういうケースがあるかというよりも、外部性の効果がある中で別のやり方を探して下さい、再分配の効果があるやり方よりも別のやり方を探して下さいということがいいたかったことです。

(質問)ただ外部性というからには、意図してやっているのではなく、結果として便益が出たというケースではないのでしょうか。道路を拡幅して地価が上がるのは外部性では論議しないと思います。

(奧野)皆さんの誤解がないように一言だけ付け加えさせていただきますと、一つの行政活動を取り上げた場合、ここにあげた行政の関与の可否の関する基準のどれか一つだけに対応することはまずありません。確実に複数に対応してくるわけです。そういう意味で、言い逃れをされると困るので、一応全部を抑えておくということで対応している部分もありますので、これは一種予備的な文章だと言えます。厳密に言うと、例えば医療の問題や道路拡幅などで外部性を行政府側が言ってきてやる可能性もゼロではありません。その場合、産業や地域の所得再分配効果が強いということを根拠に拒否ができるというのが、ここに入れた最大の理由だと思います。

(質問)理念や考え方は非常によくわかりましたが、現在問題とされるのはその実行性だという観点だと思います。この基準が閣議決定で最大尊重されることが決まったということですが、その期限は今年いっぱいというなかで、こういう理念を最大限尊重してやるとなると大変です。この理念だと北海道開発庁や財投はおかしいという話になります。そうした時に、これを一気に具体論に進めていくときに、あまりに理論と現実との間に格差があると思います。そこで、これが認められ、次は具体策だという時に、どういう形でプライオリティをつけていくのでしょうか。
 一年でこの存在が終わってしまうのか、あるいは何年間か続くならば、プライオリティの置き方もかなり変わってくると思うのですが、そうなるとこのプライオリティの置き方は、小委員会にとして非常に重要で、国民にとって一番大きくはねかえってくる問題だと感じるのですが、そういう議論はどうなされているのでしょうか。

(奧野)この小委員会の経緯からいうと、まず物差しをつくれということを行政改革委員会が言い出して、その上で小委員会ができたため、昨年はまずそれをやらざるを得なかったわけです。そこでもう少し、物差しを具体的な形で書いたり、実行することをやるのかと思っていたら、それはさまざまなことがありまして、小委員会の全員が納得したわけではありませんが、ややこういう抽象的な基準をつくるということで、昨年は終わったわけです。逆に言いますと、ものすごく個別具体的な話をするためには、まさに総理大臣がやっているような行政改革会議のような政治がやるべき話で、政治的実行機関がやらざるを得ないわけです。この行政改革委員会自体が時限の今年度限りの委員会ですし、しかも総理府の一つの委員会で、政治的実行力もありませんので、できることは先ほどお話しているような内閣の最大尊重をしますという閣議決定をとるというようなことしかありません。よってやや抽象的かもしれませんが、大きく縛りをかけるという基準をつくるということは、それなりにメリットがあるだろうということを、少なくとも昨年の段階でわれわれは考えました。
 昨年12月に決まったばかりですから、これが具体的にどう使われていくのかは、形式的な話の筋道として、各官庁が自分たちの行政活動を見直したり、新たに行政活動をする時にはこの基準にしたがって考えていくはずだというのが、そもそもの形式論です。その上で、きちんと監視をするというのが、一応形式的な筋道になると思われます。それで現実問題として、例えば予算や事業活動について省庁によっては、この基準をかなり真剣に考え始めていて、それで対応を始めているという官庁があると聞いておりますし、われわれとしてもとりわけ大蔵省に対しては、予算を作成する際にこうした基準を適用するようきちんと申し上げていきたいと思います。
 他方、北海道開発庁についてですが、昨年のどこかの段階で基準を作り、今年になればそういう話をするのかと思っておりましたが、年末に行政改革会議ができまして、しかも中央省庁再編を検討するということだったので、逆にわれわれはそうした話はできないというのが状況です。財投は、われわれの基準を前提にしても、財投全てがいらないという話にはならないと私は思います。もちろん、財投や特殊法人について徹底的な見直しをすべきだと思いますが、われわれはむしろこれは国際的にも通用して今後長期にわたって行政活動に関する指針として機能するような基準をつくるということを重視しました。ですから、私は僻地だから地方だからという理由でお金をつけないということではなく、意味があって便益が費用を上回るものに関しては地方であれ、都会であれ、お金はつけるけれども、そこの評価基準を客観的で目に見えるものにしようということです。

(行革委事務局)多少、補足させていただきますと、お手元の閣議決定の文章がありますが、この3番目の2の3に冒頭にご指摘がありましたように、この行政関与の在り方に関する基準ということで、各省庁が行政活動を見直す場合、また新規に活動を行う場合には、これを最大限尊重しなければならないということを閣議で約束しているわけです。内容は確かに抽象的な内容になっているわけですけれども、こういう形で公的部門の役割を閣議という政府レベルで決めたのは初めてのことで、このこと自体、意義を大きく持っていることだと思います。実行性についてのお話ですが、こういうことで政府として約束したわけですから、少なくとも行政活動を見直したり、新規に活動を行う場合には必ず参考にしなければなりませんということで、どういう形でこの基準を考えているかは聞けるはずですし、守るという約束ですから、そこは何らかの回答をすることになっております。さらに言えば、大蔵省の話も出ておりましたが、大蔵省や総務庁のような横断的に物事をみる制度官庁にも、当然基準を使うべきですので、きちんとお願いもしています。さらに言いますと、行政改革会議のお話もありましたが、報告書の14ページの一番下に「行政改革会議を創設し〜当委員会がここに示す判断基準は、まさにその実現にも大いに資するものと考える」とありますが、行政改革会議は、直接省庁再編をする実施機関として位置づけられておりますが、ここでも判断基準を理念として中央省庁再編にも使うということになっておりますので、少なくともこの考え方はそれにも活かされていくと思います。行革委員会の時限は今年いっぱいですが、今後何らかの監視機関の在り方が行革委員会の中で議論されてくると思います。

(質問)今、奧野さんの報告を聞いて驚きました。今日本で出せる一番極端な方針ではないかと思いますが、なぜこうした方針が出せたかということが一点。もしこれを尊重して実行するとなれば、省庁の再編どころか省庁の解体にまで結びつくのではないかと思います。さらに各省庁が行っているサービスのほとんどが各省庁の手を放れるのではと想像するのですが、その辺りの状況をご存知ならば、失礼な聞き方かもしれませんが、こういうことが本当に実現できるということで、この文書を作られたのか。また普通ならば各省庁の抵抗にあってつぶされるようなものに対する各省庁の反応はどうだったのでしょうか。さらに市場テストとかエージェンシー化とか書かれているものは、イギリスの事例を参考にされているのかもしれませんが、仮にそうならばイギリスは今ものすごい省庁の解体や行政改革を行っていますから、その辺が日本でも実行される気がします。それにしても、以前の橋本総理の発言内容からもかけ離れているので、不思議ですので、そのあたりのお話をお聞かせ下さい。

(奧野)まず一つ誤解がないように申しあげますが、エージェンシー化というのはバックグラウンド・ペーパー「在り方に関する考え方」に書かれているもので、最大尊重がはずれています。
 私の印象では、本当にこの基準が守ろうとすれば、日本の行政府にとって革命的だと思いますが、本当に守ろうとしてもかなりの省庁が解体するかというと疑問があります。二つか三つの省庁はなくなる可能性があって、かなりの省庁は小さくなるとは思います。ただ本気で実現しようとすれば革命的だということは、私も思います。逆に言うと、高い理想でやっていこうというのが、われわれの考え方でもありました。
 どうしてこれが認められたかということですが、大体この基準に関する新聞の評価は抽象的でわからないということです。事務局のストラテジーは、まさにそこでして、全部を縛って抽象的な基準を作ってしまえということで、各省庁に事前に調整をして了解を取り付ける際に、総論としてはいいでしょう、各論の時に考えさせていただきますという対応がきております。ですから、ある意味では各省庁も自民党もわけのわからないまま認めてしまったわけで、認めてしまった以上はこちらのものですから、逆にこれをいかにうまく使うかがわれわれの問題だと思います。

(行革委事務局)橋本総理はこの判断基準を行革の際の発射台に使いたいと言われておりまして、ある意味で非常に意義を認めていただいていると思います。ただ今お話ありましたように、内容はかなり思い切ったことが書いてあるわけですが、やはり一般論、原則論でありますので、各省庁の業務をこの中のどこにあてはめるのかということが、これからの具体的な問題として出てくると思います。おそらく今までの基準が、一カ所だけではなく複数箇所にわたって当てはまる場合が出てきた時に、全体を見て総合的に判断することになると思います。今後、この判断基準がどの程度行政改革会議で尊重されるかは、議論の余地があると思われますが、いずれにしても個別の当てはめは、今後の問題として残っております。そこに関する各省庁との話し合いは大変なものになると思われます。まずは一般論であったので、各省庁も了解したということですが、この基準が作られたことは意義があると思います。

(質問)この公平の部分で、地域間、世代間、産業間の公平がありますが、一番考え方として革新的なのは世代間の所得再分配だと思います。今の社会保障システムは、世代間の補助・扶養を前提として成立していると思いますが、この基準を全部あちこちから集めて新しい社会保障システムを作る場合、どのようなイメージになるのでしょうか。かなり厳しい社会になるのでしょうか。

(奧野)誤解があるといけませんので、はっきり言いますが、ここで言う世代間の所得再分配というのは、60歳以上の人に、60歳以下の人がお金をあげるのがいけないと言っているのではありません。例えば1930年代生まれの人と1950年代の人との間で所得再分配をしてはいけないということを言っているわけです。つまり、今の日本の仕組みは基本的に賦課方式になっておりまして、人口が変化すると、しかももらえるお金がその人の給料にスライドしますから、そうすると人口が少なくなると、人口が多い世代の補助をしなくてはならないとなると、非常に負担が大きくなるわけです。それが今まさに起こっていて、そういうことがいけないと言っているのです。一番わかりやすい例では、基本的には賦課方式をやめて積み立て方式にしなさいということです。ただし、これはやや技術的な話で、積み立て方式にしなくてはいけないかというと、必ずしもそうではなくて、年金にも色々なやり方がありますから、基本的には積み立て方式で、半分は賦課方式も使うというやり方もあります。よって賦課方式にすぐ変わると考えてもらっては困りますが、考え方としてはそういうことです。

(質問)例えば、この基準で見直すとなると、今議論が始まっている公的介護保険は、保険の性質、あるいは公的という部分で再度レビューした場合、今のやり方が是か否か、厚生省とはそういう議論をあえてしなかったのか、どういうことになるのでしょうか。今までの議論としては、福祉は特定の人だけでなく広く一般的にというのが、これまでの福祉政策の流れでした。むしろ措置政策を止めるとかいう流れと、この基準で作られる社会像と少し方向転換があるのではと思うのですが、いかがでしょうか。

(奧野)ある程度の方向転換はあると思います。おそらく方向としては小さな政府に向いている報告だと思います。ただわれわれは福祉を決して無視しているつもりはなく、例えば公平の問題、特に垂直的な公平の確保とナショナルミニマムの問題、あるいは情報の偏在ということで、ある種の保険については民間に任せられないということは重々承知しています。さきほどから問題になっている外部性があって、ひょっとしたら医療がそこに入って解釈できる可能性もあります。そういう部分では、いわゆる福祉と呼ばれているものに関して、それが必要だということは暗黙の大前提だと思います。ただ、ここで何が今までの福祉の考え方と一番違うかというと、福祉であっても民間でできるもの、民間がやった方がいいものがたくさんあるということ。もう一つは暗黙の内に、社会的弱者だということで、あまり考えずにやっていたということがあり、こうした二つの部分に関しては、もう少しきちんと説明をして、本当にそれが正しいかどうかを国民レベルで考えてみましょうということをやりたい。
 ついでですが、この基準を自民党などに説明に行くと、全く逆の対応になるわけです。彼らが言う一つの大きな批判は、便益と費用の数値化というが、本当にそれができるのかということです。正直言って、われわれとしてもできる限りやって欲しいというのが本音でして、場合によってはとても数値化できないもの、数値化できても誤差が大きくはっきりとはわからないというものがたくさんあります。逆に言えば、最終的に言えば、メリットよりデメリットが大きくても、政治の責任でやってしまうということも当然起こると思います。われわれが一番言いたいことは、むしろとりあえず数字でやってみる作業が必要だという前提を置くことです。それで少なくとも政策に関して、国民も議論ができるし、評価がしやすい、国民のチェックがしやすいという仕組みをつくることが大事だと思っています。そういう意味では、従来型の福祉をやるべきだというのが、国民の意見であれば、それが正直言いますと便益の所で評価させるような仕組みをつくることも可能ですし、絶対にそれがいけないということではありません。本当にわれわれが一番言いたいことは、きちんと数値で客観的な、科学的な議論ができるような仕組み、もっと透明な仕組みにしたいということです。

(意見)色々とお話をうかがううちに、かなりいい方向にきているということと、知らない内に大変な網をかけてくれたという話だと思います。そうすると先ほどの話がだんだんと具体的になるにつれ、実行性が最大の問題だと思いますが、この基準はある意味でいうと理念という所から押していくわけですから、一つの官庁だけでなく横断的な部分に関わるという面で、しかも実行力があるというと多分15ページ別表の1から4の分類の多分3の部分だと思うのですが、そういった部分の、具体的にしかもあまり個別にしないでわりあいと抽象的だけどすごくイメージがとれる。となると財投というシステムはおかしいというランク付けをしていただいて、一年の間で解決の方法をきちんと明示していただくことが一番力になるのではないかと思います。それからもしそれをやろうとすると、実は官民の役割分担の効率性の比較とか数値的な部分で、民だって全然やっていないではないかという議論が出てくると思います。そうした時に、効率性を比べなければなりませんが、最大のネックになるのは、官の方の数字が出てこないということです。これがディスクロージャーという話になると思いますが、これがなぜ出てこないかというと、公会計というものがおかしいのです。これに対して罰則規定がないため、ぜひそういう部分に関して説明責任を果たせない時は、罰則規定で即つぶすという考えを最終的な提言に盛り込んでいただきたいと思います。

(奧野)ありがとうございます。おっしゃる通りだと思います。ひょっとするとまだまだ他にもあるかもしれませんが、本来はそういう部分をやるべきだともわかります。ついでに言うと、3だけでなく4も本当は大問題で、そこを考えて何かをやるべきだと思います。ただ行政改革機関が乱立しておりまして、どこが何をやるのかという種分けをトップの総理大臣が何もしていない状況で、ちょっと困っているのが現状ですが、多分今から一月の間に何か考えると思います。ついでに財投については、実は総理府の資金運用審議会が懇談会をつくって、そこが財投の見直しをする声をあげておりますが、本当に何ができるかわかりませんし、できるだけ考えたいと思います。公会計とか経常的な監視機関、これを実現する仕組みをどう作るかも重要な問題ですから、われわれが提言するなり、提言されるように監視をする方向で考えていきたいと思います。

(質問)この報告書を見ますと、随分たくさんのヒヤリングをおやりになってらっしゃるわけですけど、そのヒヤリングの途中で具体的にどこがどこにあてはまるというような議論の詳細はあるのでしょうか。

(行革委事務局)審議概要という形で、記録は全て公開しています。

(奧野)できるだけ情報公開したいと考えていますが、今年度に関しては各省庁との現実的な生臭い話もありまして、例えば、委員会自体は公開しないとか、記録も概要に留めるという当面の縛りをするようになっています。

(質問)事務局におたずねしますが、最後に今後に向けてということで、行革会議で活用するということは書いてありますが、これが出た後で財政再建会議なり財政構造改革会議なりで、本当は社会保障の話も公共事業の話も教育も、もともと守備範囲論が財政の問題から出てきたように、財政の問題だと思うのですが、これは総理経験者が集まるあの会議には活用されるのでしょうか。また、この行政改革委員会は、政府の対応を監視する機関ですから、あそこでこれを使っていないとなると、するどい勧告を総理大臣に出されるのでしょうか。

(行革委事務局)まだ財政構造改革会議が、どういうことをやっていくかまだ見えないので、今この報告書を出す段階では行政改革会議が中央省庁再編を行うことで、まさにその判断基準の適用がそちらに直接関係する話です。ただその後色々な会議や委員会ができて、まだ動きはじめたばかりで、そこは状況を見なければよくわからないという現状だと思います。ただ、いずれにしても注目をしていかなければならないと思います。

(意見)昨日、建設大臣が住都公団の分譲住宅については全面的撤退ということを議会ではっきり言っていますから、やはりだんだん進んでいることは事実だと思います。ただ今具体的に問題になっている所だけではなく、色々な行政分野に進めていってもらえればと思います。今朝の新聞を見てちょっと目を疑ったのですが、分譲住宅の全面撤退のほか、賃貸住宅についても新しく建てる部分に関してはかなりやめるという方針を出していますが、住都公団だけで他の部分に出てこないのが不思議ですが、私は非常に大きな進展だと思っています。

(質問)国民がチェックする仕組みができるということなんですが、この場合、行政から民間にできるものは民間に任せるということになると、その民間の企業や大きな団体はどこがチェックするのでしょうか。やはり国民がチェックする必要があると思いますがいかがでしょうか。特に福祉サービスなどはひどい所がたくさんあります。それらは余程のことがない限りチェックできないわけで、いくら廻りで騒いでも、大きな所はどんどん大きくなって、良心的な所がだめになっていくという現実を見ているので、民間に委ねるのは結構だが、それを国民がチェックしていかないとまずいと思うのですがどうでしょうか。

(奧野)やや抽象的なレベルでお話をすると、要するにそういう問題が起きるのは、民間活動に任せておいた時に、国民に望ましい経済活動が行われないということですから、これは市場の失敗という部分です。これを本来、国民がチェックすべきですが、時間とか能力とかの制約で国民がチェックできないので、そのためにむしろ政府をつくったというのがわれわれの理解です。ですからある意味で、そういう時にこそ行政が出て行くべきであって、それを行政が出ていかないのであれば、それを国民がチェックすればいいというのが私の考え方です。行政がうまく機能しさえすればいいわけですが、実際は理想通どおり動きませんから、そこは非常に悩ましいのですが、それが筋ですから、筋をあまり大きく変えるような対応をするより、筋の本来動くべきところをもっと機能的に動くように仕組みを変えていくことが一番重要ではないかというのが、本来の行政改革の意味だと思います。
以上