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シリーズ討論

電気通信産業における制度改革について

慶応大学ビジネススクール助教授 國領二郎
国民会議ニュース1996年1月号所収
* ここにご紹介するのは、さる12月4日の懇談会での國領助教授の講演要旨である。電気通信事業の規制緩和、NTTの分割問題を考えるにあたり、技術の進歩を踏まえた改革論の提示の必要性を論じたものとして、是非ともご一読を勧めたい。


1 情報化とはなにか
 @ 集中処理から分散処理へ
 A 分散処理が対等な社会をつくる
 B オープン化の思想
 C オープン化が囲い込み社会をこわす
 【質疑】
2 電気通信産業の将来
 @ アナログ時代のAT&T分割
 A 垣根の撤廃が時代の潮流
 B 相互乗り入れの時代
 C グローバル化のもとでの戦略
 D 規制が規制を生む
 E 直ちに実現できる市内への競争導入
 F NTT分割について
おわりに



1 情報化とはなにか
@ 集中処理から分散処理へ
 現在の情報化のキイワードは、分散処理化とオープン化である。
 まず、分散処理化について説明したい。もともと、コンピューターというものは、真ん中に大型のコンピューターがドカンとあって、それをまわりでよってたかって使うというイメージであった。非常に高価なものであって、コンピューターをフルに活用する方が人間を活用するよりも難しい時代がついこの間まであった。私などが使おうとすると夜中の何時まで待てといわれた時代であった。
 こういう非常に高価なコンピューターが世の中にごくいくつか(会社のなかには1台)あって、初めはそこへ行かないと使えなかったものが、技術の進歩によって、それが線でつながっていろいろな場所で使えるようになった。会社の建物のなかだけでなく、支店でも使えるようになり、たとえば銀行のオンラインシステムのように、中央にセンターがあって、全国の支店のキャッシュ・ディスペンサーからデータが流れてくる。こういうやり方が集中処理のやり方である。
 これはコンピューター・ネットワークだけではなく、通信の世界にもあてはまる。まちに1個交換機があって、各家から電話局に線が引かれていて、電話局に非常に大型の交換機がおかれている。交換機というのは技術的にはコンピューターと同じようなものであり、非常に大きな装置が真ん中にドカンとあって、それをまわり中でよってたかって共同利用する。電子的な機械を使った情報システム、通信システムというものは、こういうようなものだった。
 ところが、昔だったら何億円、何十億円もしたものと同じ能力をもったコンピューターが、いまは個人の机の上にのっている。こういう時代になってくると、コンピューターをみんなで使って利用効率をあげるというのではなく、貴重資源は人間になってきた。私の場合も、複数台持っていて、1台の利用時間は1日3時間程度しかない。
 コンピューターの進歩によって、情報を処理する能力がそれぞれのひとびとの手元にくるようになった。普及によって可能になりつつあるのが、電子商取引である。つまりコンピューターを使って企業と企業との間でデータ交換を行って商売をする、受発注をすることができるようになったことである。小売店が売れた商品の補充をメーカーなどに頼む場合、昔は電話でやっていたのが、いまでは管理する項目が非常に多くかつ細かくなってとても人間がやっていられないのでコンピューターで流すという時代になった。
 この世界においても、従来は親玉になる大きな会社があって、そこのコンピューターをみんなで共同利用するという形であった。小売店には端末装置があって、中央の会社には大型演算装置がある。この中央の会社がなにをやっているかといえば、顧客の在庫管理などもやっている。SISと呼ばれている領域で古典的な例で、アメリカン・ホスピタル・サプライという医療の消耗品の卸をやっている会社が、顧客である病院に対して受発注用の端末を配り、ついでに顧客の在庫管理までサービスで行った。病院の側は在庫管理をやってくれるから便利だということになる。こうなるとどういう結果になるかというと、病院はこの会社に発注をやめてもいいのだが、やめると在庫管理まで失うことになるので、結局、やめられないということになる。 この現象を「囲い込み」と呼んでいるが、こういう仕組みに於いては上下関係ができてくる。これを階層型システムという。コンピューターシステムの作り方から考えて、どちらが上かははっきりしている。その結果、取引関係においても、どっちが上かがはっきりしてしまう。これが系列的な取引をやる場合には、大きな力を発揮する。80年代においてSISが大騒ぎになったのはこのタイプのものであって、閉ざされたグループをつくるうえでは非常に力を発揮するものである。

A 分散処理が対等な社会をつくる
 これに対して、分散処理型というものが出てきた。集中処理型の囲い込みというものは出来てしまえばつくった会社にとっては非常にいいものである。権力が集中し、お客さんも逃げていかない。しかし、これが少なくともシステムの作り方としては、いまでは意味がなくなってしまった。パソコンがあちこちにあるという時代において、在庫管理をわざわざ他所のコンピューターに通信料金かけて処理してもらって、しかも自分のところ用ではなく相手が用意したやりかたに従ってやるというのは殆ど意味がない。パソコン1台で相当大きな在庫管理が出来てしまう時代になった。
 こういう状況で、どういうやり方をするかといえば、各ロケーションにおいて、在庫といったデータは自分のところで管理する。管理するためのソフトウェアー、アプリケーションも自分のところで持つ。データの交換も行うけれども、交換は本当に必要なものだけということになる。これの特徴は、集中処理型のような上下関係がない。対等な関係のひとや会社が、対等な立場でどことでもつながる。
 おなじことが、いま、通信の世界でも起こっている。これが電気通信産業の問題とかかわってくるのであるが、通信のほうも、かつては中央にドカンとあった電話会社が、どのようなサービスを提供するかを決めていた。そして各家庭の電話機はそれに全く従属していた。電話会社の交換機の機能によって、出来ることがきまっていた。電話機自体が、その交換機につなぐための道具にすぎなかった。
 こういうと、皆さん方はそれが当たり前だとお思いになるとおもうが、それがいまではそうではなくなってきつつある。どういうことかといえば、だれでもが電話局になれる時代になった。いろいろな機能をつけるうえで、必ずしも電話局でないひとが、機能をつけたりすることが出来るようになってきている。インターネットというのが、これのおおきなものであって、真ん中に通信ネットワークだけあって、01信号だけが行き交っている。どういうメディアをつくるかはそれぞれの手元にあるコンピューターによって決ってしまう。
 たとえば、インターネットにつないで電話ができる。これはどこと契約するのではなくて、ソフトウェアーを買ってきて自分のコンピューターのなかに放り込めば、同じソフトをもっているよそのコンピューターと通信できるようになる。だれか真ん中でこういうサービスをやると決めるのではなくて、ソフトを開発するとそれが出来てしまう。
 会津泉さんは、進化するネットワークと呼んでいるが、この世界は日々変る。日進月歩どころではない。毎日毎日いろんなところから、こんな面白い機能を追加するソフトが出来たけれども使わないかといった情報が流れてくる。それを取入れれば、その日から自分のコンピューターに新しく機能が付け加わることになる。いままで文字しか出て来なかったものが絵が出てくるようになり、それがこんどは動画になって音がでてくるようになる。毎回5万円くらい払うところが、どうも業界の陰謀に引っかかっているような気もするが、いずれにせよ、どんどん手元のコンピューターの機能が向上されてくる時代になった。
 01信号がどこにも自由に流れるような環境は是非必要であり、これが情報ハイウェーなのであるが、これさえあれば、なにもNTTの研究開発を待たなくてもいい。小さなベンチャー企業のつくったソフトがどんどん付け加わって、通信ネットワークの機能が向上する時代となった。

B オープン化の思想
 いろいろなひとがいろいろな機能を付け加えられるようなネットワークをつくろうと思った時に重要になるのが、もう一つの概念であるオープン化である。このオープン化というのは、電気通信や情報処理の世界をはるかに越える、時代のキイワードであり、会社の作り方もこのオープン化という概念が時代の要請となっている。しかし、ここではとりあえず、情報の世界だけでご説明したい。
 従来の囲い込み型のシステムは、特定のグループだけがつながるシステムであった。技術的によそと違うシステムを使うと、そこ以外とはつながらない。この問題はなかなか奥の深い問題であって、電気信号の標準化、電気通信の様式が違うというレベルの問題だけでなく、言葉が共有化されていないと駄目である。たとえば、自動車業界で部品番号が会社ごとに何通りもあって、こうなるとその言葉を共有しているものだけで閉鎖空間をつくってしまう。商慣習も国によって異なっていて、コンピューターは接続されても商慣習があわないので取引できないということになる。
 こういうのをプロトコルというが、これはもともと外交用語であり、いろいろな交渉事をする場合のルールである。情報通信の世界でも、いろいろなレベルでプロトコルがそのグループのなかで閉ざされたものを使っていると、閉鎖空間をつくることになる。さきほどの囲い込みシステムというのは、こうした閉ざされたシステムをつくっているわけである。企業グループ位で独自のものをつかって、それ以外のところとは交信できないようなものをつくっている。系列化、囲い込みをおこなうために意図的に行っている。
 日本はこれを意図的に行い、いまだにそれを捨てられないでいるので、国際的につながらないシステムがいっぱい出来ている。日本の産業システムが企業グループ別に孤立化して、つながらないものがいっぱいできている。ところが世界的にみると、もっと社会的に標準というものを共有して、どことでもつながるようなシステムをつくろうとしている。プロトコールを社会的に標準化されたものにして、だれとでもつながるようにしようという考え方がオープン化の思想である。

C オープン化が囲い込み社会をこわす
 分散処理化してオープン化すると、これはどことでもつながる仕組みができあがる。ほとんどFAXを使うイメージでコンピューター同士が簡単につながって、よその会社と取引データが交換できるということが技術的にはできるようになった。これは標準をきちんと受入れるということが大事なのであるが、ここの部分が私がアメリカから日本に帰ってきて愕然としたところである。
 世界的な潮流として、このオープン化というのがほとんど当然となってきているのに、日本では全然使われていない。どうしてかを考えたわけであるが、日本の企業グループというものが、終身雇用制とかベンダーとかチャネルとか、いわゆる経営資源といわれるものを全て自分の企業グループのなかに囲い込んで、フルセットですべて自前主義で自己完結的な世界を企業グループのなかにつくることを志向している。標準的なシステムを使ってどことでもつながるというようなニーズが薄いというところにこの原因があるのだなと大体わかってきた。
 どっちがいいのかを冷静に分析すると、世の中でグローバル化というものが進んできている。情報ネットワークもどんどん進んできている。これは抗し難い流れであって、いままでのように国内でフルセットの機能を、しかも自社グループ内だけで完結的にもつということが、企業のありかたとして成り立たない時代になってきている。国際的に機動的に部品を調達して、国際的な水平分業を運営していくということをやっていかないと、もはや経営がもたないようになってきた。これを私はオープン型の戦略といっているわけであるが、企業経営のやり方として、従来は経営資源を囲い込むのが良かったのに対して、いまはよその会社の資源をどれだけ機動的に有効に活用できるかとういうことが、経済活動で非常に重要な要素になってきている。
 それを実行するうえでコンピューターネットワークというものが大変な威力を発揮する。いままでのコンピューターネットワークというものは、所詮、文字情報が流れるものでしかなかった。カルス、カルスといま大騒ぎして、本屋にいくとその本がいっぱい出ている。ちょっとバブル的な流行という面があって、カルスという言葉自体がそれほど長持ちしないのではないかという気がしているが、その背後にあるものは非常に重要である。
 その考え方というのは、ものの作り方を大きく変える。そのなかで決定的に大きな技術が3次元CADと呼ばれるものである。CADというのはコンピューター上で製品の設計デザインを行う技術のことで、いままでは2次元上のデザインだったものが、いまでは3次元になりつつある。この3次元CADデータが自由自在に世界のどことでも交換できるような技術的条件というものが揃いつつある。実際に実行しようとすると、生産体制の組み方という組織的な問題が発生し、すぐそれに転換できるような簡単な問題ではない。しかし、FAXを送るような非常に簡単な操作で3次元CADのデータを、技術的には送ることが出来るようになった。。
 そうなるとどうなるかといえば、最近の工作機械は非常に賢いから、3次元CADデータをそのまま地球の裏側にポンと送って、コンピューター制御の工作機械に放り込めばそのまま製品が出来るということになる。
 もう一つはシミュレーションができることである。飛行機の設計をする場合、むかしは風洞実験などを行っていたが、いまではコンピューターのなかで飛行機を飛ばすことになる。これも国際的な分業をやりながら、お互の3次元CADデータを共有して、共同作業をコンピューター上で行ってみて、それを飛ばしてみて、そのデータをもとにまた各部品を世界でまた散らばって開発しなおすというようなことを現実に始めている。
 こうなると、自分の足元に言うことを聞くベンダーをフルセットもって、そこにせっせと通ってもらってやっていくというのとはかなり違うやり方になる。旧来のやり方が全くなくなるとはいわないが、かなり違うものが一部に入ってくる可能性がある。
 こうなるといわゆる日本的経営のありかたというものを白紙に戻して考えなおさないといけなくなる。囲い込み型の経営というものは、もはや21世紀のモノのつくり方の主流でなくなってくる可能性が非常に高い。国際的な分業体制というものを機動的に組んでいきながら、世界で一番いいものをつくっていく。いままでは日本連合対よその国連合であったものが、多分、国際的連合同士の争いというものになってくる。
 分散処理化とオープン化によって、世界の何千万台のコンピューターがどのようなつながりかたも出来ようになる。また、どういうようなメディア、機能が実現するかは、だれかが決めるのではなく、皆がよってたかって決められる。ユーザーがつくるネットワーク、階層型ではなく水平型ネットワークというものが実現できるようになる。

【質疑】
(恒松) 誰もが電話局になれるということだが、その場合、利用する料金はどうなるのか。バラバラになるのか。
(國領) 競争的に決っていくべきであり、そうなるようにしなければならないというのが、あとで申し上げようと思っていることである。やろうと思ってもやれないというところが問題なのである。アメリカではほとんどそういう状況なのに、日本がモタモタ遅れているというのが現状である。
(恒松) 情報化の進展によって、たとえば東京への一極集中はなくなるのか。
(國領) 本当に怖いのは、情報産業が日本から皆いなくなって、アメリカへ行ってしまう事態である。これは案外現実的な心配である。いまは、アメリカのコンピューター上で(仮想の)商店を開く方が日本でそれを開くよりもはるかに安い。しかも、ユーザーにとってはアメリカに通信するのも日本に通信するのも、コンピューターネットワーク上では料金は全く同じであるので、すでに日本だと高いからアメリカで開くという人が増えている。いまは世界中、どこでも開店できる。情報の流れと物流とはいまでは分離されている。商取引自体はアメリカで行われるが物流は日本で行われるということもおおいに起こりうる。物流には国境はあるが情報には国境はなくなってきたので、今後、どういう事態になるかはもう少し見ないとなんともいえない。
(安藤) 分散処理化していくとのことだが、製造業の場合のような規模の利益というものは、情報処理の世界にはないのか。
(國領) そこがいま議論が分れているところである。ありうると思う。だんだんそれが働き出しているのではないかと思う。
 ただ、それは規模の経済性というのではなく、ネットワークの経済性と呼ばれるものである。この両者は微妙だが大きな違いがある。規模の経済性というのは、固定費が大きい場合に大量生産すればするほどコストが下がる場合をいう。これに対して、ネットワークの経済性というのは、正確にはネットワークの外部性というべきであるが、使う人が増えれば増えるほど便益が高まっていくという現象をいう。ウィンドーズでも、それを使う人が増えれば増えるほど、その価値は高まっていく。
(安藤) NTTの場合、これからの国際競争を前にして分割反対を唱えているが、その論理は成り立つのか。

(國領) 問題は、通信のソフトウェアーである。これはネットワークの経済性が非常に強く働くものである。通信ソフトについては、グローバルな標準をとるか、あるいは全然なにもとれないか、どちらかである。したがって、10年後にNTTの交換機のソフトが存在しているかどうかといわれたら、私はない方に賭ける。国内だけで使う交換機ソフトというものは10年後に存在していないだろう。世界標準を取るか、世界標準に従うかどちらかで、もはや「98」のようなローカル標準というものはありえない。


2 電気通信産業の将来

 次いで電気通信事業の問題に移りたい。私の見方というのは非常に極端であって、アナーキストだとか過激派だとかいわれているが、徹底した規制緩和論者である。

@ アナログ時代のAT&T分割
 従来、アナログ電話(普通の電話)というものは、集中処理型であった。技術的には古い形のものである。いままでの電気通信産業論や規制の話は、大方、このアナログ電話を前提としていた。市内、市外、国際という分け方になっていて、むかしはこれが一体であった。ところが、デジタル化が進むと、音質が劣化しなくなって、それぞれの部分をどこがやってもいいようになってきた。つまり、アナログの場合は全部を一体で管理しないと品質保持ができなかったが、デジタル化すると、途中で劣化してもまた補正をかけてもとに戻すことが出来る。したがって、違う業者のサービスを組み合わせても、いいサービスが出来るようになってきた。分散処理化の動きとデジタル化によって、違う業者が入ってきても、それをつぎはぎしてトータルとしてサービス化してもいいようになった。
 まず入ってきたのは市外サービスである。市外の部分に競争が入って来ても構わないようになったのが、アメリカでは70年代のことである。市外や国際には競争が導入され、しかし、市内には独占が残るという状況が生れた。こうなると市内と市外とを両方やっている会社は、

市外だけやっている会社を差別的に取扱いたいというインセンティヴが強く働くことになった。だから、ここを切り離して、経営的に独立させることによって、市内の会社が全ての市外の会社を公平に扱うようにしようとした。これは、電気通信だけでなくほかの産業にもみられることで、妥当な考え方であると思う。
 いわゆるAT&Tの分割は1984年に実行されたが、これはこの思想である。地域分割が非常に脚光を浴びたが、むしろ重要なのは市内の経営と市外の経営とを分離させたことである。アナログの技術体系を前提とし、市内には競争が入れられないという前提条件をおいて、市内会社と市外会社を分けて、兼営を認めないという垣根を設けたのである。

A 垣根の撤廃が時代の潮流
 ところが、いまアメリカはそうした垣根をやめようとしている。その理由は、技術的に、市内に競争が入るようになってきたからである。さきにのべた分散化、オープン化というのが一つの要因で、昔は市内の交換機はまちに1個あれば足りた。まさに規模の経済性が働いて、そこに集中したのであるが、技術が進歩してまちの交換機から手元のコンピューターに移ってきた。多いのは職場のPBXとかルーターとか呼ばれているもので、昔だったならば全部交換機にはいっていたものが内線電話のように職場単位に分散している。インターネットというのもすごい仕掛けで、いまは電話で呼出すしかけのものが流行っているのでイメージがぼやけてきたが、大学などで使っている本来のインターネットはNTTの交換機を一切通らない。それで世界中につながる。市内とか市外とか国際という区別はインターネットには全くない。
 ケーブルテレビも、むかしは一方通行でテレビ番組を見られるだけであったが、いまでは双方向になり、電話もできる。また携帯電話など無線系のものもいろいろでてきた。このように、市内での競争がいろいろできるようになってきた。もし、FAXがインターネットで流れるようになると、国際通信の半分がFAXであるので大変なことになる。
 電話会社の立場からみると、アメリカの地域の電話会社は市外に出てはいけないことになっている。これまではコンピューターネットワークといったところで、文字が流れるだけであって、いうなれば電報が流れるようなものにすぎなかった。ところが、マルチメディアの時代になって、画像であろうがなんであろうが何でも流れるようになって、いよいよ声が流れるようになった。コンピューターネットワークの世界はさきに規制緩和が行われ、市内や市外の区別はない。これまでは電話とコンピューターネットワークの世界は別々のもので脅威ではなかったが、こうなると本来独占が認められている世界がどんどん蚕食され、一方、自分たちは外の世界に出るのが禁じられている。
 マーケットが限定されるというのは、企業経営にとっては致命的である。そこでどうなったかといえば、自分たちが独占的に持っている市内の通信網を開放して、だれでも使えるようにする。社内取引の価格と外と同じにするし、第3者機関が監査も受け、その制裁に従う。その代り、自分たちも地域外で営業することを認めてもらいたいと要求したのである。
 一方では市内のビジネスをやりたがっている企業がある。CATVの会社もコンピューターネットワークの会社も、音声サービスをやりたがっている。新たに開かれた市内の電話事業に参入したがっている。放っておいてもすきまをかいくぐってどんどん参入してくる。市内の会社はもはや独占ではないのだから、市内の会社も外へ出ていっても構わないようにする。ただし、一部分、とくに線路(電線)のようなものについては、参入障壁が残っているので、そこについてはきちんとルールをつくってよその企業を差別しないように第3者機関で監視するという流れになっているのが、アメリカの流れであるし、イギリスはもうこれをやってしまっている。
 こういう目でみると、84年のAT&Tの改革は、市内・市外の間に垣根を設けた。これは、市内が独占だという前提のもとでは良い政策といえる。ところが、市内も競争が入るとなってとたんに、市内会社の横暴をおさえるためにつくった垣根が、すべて参入障壁になってきた。これを全部撤廃しようという法案がいまアメリカの議会で上下両院を通過したのだけれども、政治的な争いにまきこまれて、どうなるのかみなハラハラしているところである。いずれにしても、これは時間の問題である。いまNTTがオープン化をやるといっているのは、こういうことである。

B 相互乗り入れの時代
 コンピューターネットワーク時代の電気通信産業がどういう形になるか。これまでは伝送路サービス、ネットワークサービス、メディアサービスを一体として供給していた。伝送路サービスというのはいわゆるケーブル、ネットワークというのはまあ交換機のようなもの、メディアというのは01の電気信号を人間にわかるようにすることと理解してもらいえばよい。こういうワンセットで提供されていたものを、部分部分にわけてお互いに卸売として競争相手にも社内と同じ条件で売るという思想がオープン化の思想である。専門家になるとさらに細かくわけて論議するが、ここではとりあえずこの程度の粗っぽさにしておく。たとえばネットワークサービスと伝送サービスとを考えると、たとえばネットワークサービスで海外のキャリアーが出て来るのはかなり現実的なシナリオである。たとえばAT&Tが日本の主要都市に交換機を設置する。交換機を設置するのは簡単だがケーブルを張るのはそう簡単には出来ない。このケーブルをNTTからNTTの社内取引価格と同じ価格で借りて、顧客に対してはあたかも自分のサービスの様に販売する。これは再販売というコンセプトであるが、こういうことができる。こうなるとどういうことになるかといえば、自分の家に電話を引きたい時にATTに電話をする。するとATTは自分のサービスとして電話を引いてくれるが、実はこのケーブルの部分はNTTから借りてくるのだが、供給責任としてATTがやってくれる。もし、このサービスに不満があればDDIに切換えることも出来る。この時代になれば、DDIも市内サービスができるようになっている。こういうことができるようになる。
 いま何が一番腹がたつかといえば、NTTの営業が不愉快だと思っても、いまはNTT以外の選択の途がユーザーにはないことだ。ところが、馬鹿野郎と電話を切ってよその会社と契約を結ぶことができる時代がすぐそこまで来ている。コンピューターネットワークの世界はもう既にそうなっている。
 これから先は国際的な条約の世界だから、そう簡単ではないという説もあるが、ニューヨークの電話番号を東京でもらうことも不可能ではない。いまここにMCIカードというのをもってきたが、これで電話をかけるとアメリカにあるMCIの交換機につながってプーと発信音が鳴って、その瞬間に日本にある電話がアメリカの電話になってしまう。これをなぜ使うかといえば、通信販売などでトールフリーの電話が日本からはつながらない。もうひとつは、Aアドヴァンテージとかいてあるが、これを使うとアメリカン航空のマイレージプログラムに加算される。いまは規制がかかっているから料金はそんなに得ではないが、日本に電話をかける場合でもアメリカの交換機を通した方が安いということになる。電子メールの世界ではもうこれは常識になっている。
 日本からシンガポールに送る電子メールはほとんどアメリカ経由である。アジアの国に送るのは殆どアメリカ経由である。交換の世界では、もうこのくらいグローバル化された世界になりつつある。ただ、一気にそこまでいかないのは規制がかかっているからであって、この規制は風前の灯であると考えていただいて結構である。通信の自由化法案が通れば、即座にアメリカは世界中に対して同じような自由化をやって市場開放しろと要求するだろう。すでにもうその前哨戦は始まっている。
 そうなるとNTTの電話線を使わせろ、いまは置いてはいけないMCIの交換機も日本におかせろということになる。最初は東京に置くことになるだろうが、いずれその他の都市にも置いて、まずたとえば丸の内の法人の顧客からとっていく。そういうところからとられていくと日本の電気通信事業者の収益構造は悪くなっていく。そうなるとそのシワ寄せは住宅用に来ると思う。

C グローバル化のもとでの戦略
 農業や金融と同じなのだが、自由化は早くしなければならないと思う。待てば待つほど国内に虚弱体質が残って、いざ開けた時に一挙にもっていかれることになる。いま開けると海外から入って来るが、アナログ電話が主体のうちは部分部分に分けにくいから、現実には入りにくい。ところがコンピューターネットワークやデジタル通信は非常に入りやすい。アナログ電話があって自然の障壁があるうちに制度的には完全自由化して体力をつけておかないとあとになってむりやりこじあけられたときには大変なことになる。
 こういう観点で各国の電気通信産業改革の方向を垣根のあるなし、オープン化政策のあるなしの組合せで見てみると、よくアメリカとイギリスが両極端だというひとが多いが、たしかに10年前を考えるとその通りである。イギリスは垣根を設けなかったがアメリカは設けた。ところが、イギリスは92年にオープン化政策を採用し、アメリカも垣根を撤廃するようになった。そうなると、同じところにいきつくことになる。
 これに対して日本では、一番危ないのがNCCだと思う。市内、市外、国際と分けて、その2つしか出来ないという会社は世界にはある。ところが、1つしかやってはいけないという会社は日本だけである。そんなところに押込められたら、経営戦略としては最悪のポジションである。なぜ、いま安住していられるかといえば、垣根政策のおかげで独占利潤があちこちにあるからである。NTTも長距離系もいい決算を出しているが、これは本当に許し難い。NTTが市内の基本料金を値上げした分を談合によってNTTとNCC間で分配し合っている。
 こうして安住していても、グローバルにみると非常に危ないところにいる。戦略的に考えると、NCCはどこかグローバルなキャリアーの傘下に入らざるをえないと思う。いまグローバルに3グループに分れつつあるといわれている。AT&Tを中心とするグループとBT(ブリティッシュ・テレコム)を中心とするグループとその他のグループになりつつある。多分、日本のNCCはそのどこかに属さないとやっていけないことになると思う。
 その観点からNTTの分割を考えると、わたしは闇雲に反対するつもりはない。きちんと規制緩和をして相互参入を認めてくれて、垣根をきちんとなくすのであれば、企業規模が大きすぎてシェアーが高いから分割するというのであれば、やってもいいかなと思う。コストに見合うかどうかがわからないので積極的に賛成する気にはなれないし、逆に阻止する気にもならない。ただ、絶対やってはいけないことは垣根を設けることである。いままさにアメリカが放棄しようとしていることを、なぜ、いまさら日本がやるのかわからない。資本主義を経由しなければ社会主義にならないという議論と同じで、分割しなければ自由化にならないなどといっていたら、大幅に世界から遅れをとってしまう。

D 規制が規制を生む
 この観点からいうと現状は極めて不透明なルールと裁量にもとづいた管理競争が行われているといわざるをえない。垣根は現実に存在する。役所のひとは規制は存在しないというのだが、長距離系のNCCは地域をやらせてもらえない。一時市内競争が始りかかった時に、むりやり長距離に特化させられたことがある。公式見解は、民間がやるといっていないだけで制度的にはやれるというのだが、事業者の多くはそう思っていない。実質的な参入規制が行われている。
 ただし、それを非難するつもりもない。アナログ電話の時代には、それが公平性を保つ手段だったのかもしれない。ただ、これがすこぶる日本的なところだが、現在なにが正しいかは役所の裁量で役所が決めている。法律に書かれていないような規制が行われている極めて不透明な状況である。
 そして、その規制のやり方というのが、市場を非常に細かく分けて、認可している。これも好意的にとれば、市内が独占であったならばそういうやり方が正しいのだということになるが、好意的に見ないのであったら、市場を細分化して参入障壁をつくることが権力の源泉になっているともいえる。実際、権力になっていると思う。
 そして護送船団方式をやっている。日本は業者の数だけ数えると大変な数になる。どうなっているかといえば、市場を非常に細かく分けて、その細かく分けた市場に2〜3社づつ入れて、掛け算をすると沢山あると威張っている。ところが、垣根を跨がった競争はやらせてもらえない。護送船団方式をとっていて、それぞれのマーケットは寡占になっている。東京の携帯電話だけはかなり数が多いが、あとの地域は2〜3社しか認めてもらえない。そういった寡占構造だと、どうしても認可料金にならざるをえない。細分化して参入規制をかけることが認可料金制度を不可欠のものとしている。規制が規制を生む典形的な例である。

E 直ちに実現できる市内への競争導入
 繰り返しになるが、アナログ電話で市内が独占でしかありえない時代には次善の策であったかもしれないが、もはや市内にも競争が入れられるということになったならば、極力、垣根を撤廃して競争を導入するのが政策の基本であるべきである。
 そのためには規制緩和が必要である。だれが考えても、市内に参入できる最有力候補は長距離系電話会社である。いまはこれが禁止されているのを撤廃して、交換機は交換機であるから、そのまま市内から市内につなげばいい。なぜ、これをやらせないか。
 いまは長距離系のアクセスポイント、つまり交換機を置く場所は、都道府県に1個となっている。しかし、東京のように人口密度の高いところは、同一地域内にいくつも交換機をおいていいはずである。技術的にはさらに高度の用意をしないと出来ない競争もあるが、いまのようなことはすぐに出来ることである。いまの規制の体系は、いまでもすぐ出来ることを禁止している。
 このほかにも、すぐに出来るひとたちがいる。これがデータ通信事業者たちで、コンピューターネットワーク事業者は全国にnodeを張りめぐらせているが、このひとたちは電話をやってはいけない。海外のキャリアーもすぐにでも出来る技術力と資金力と拠点をもっている。データ通信の領域ではかなり彼らもやっている。この人たちにやらせればいい。ただ、不公平にとりあつかったときに問題となる箇所がいくつか部分的に残っているから、そこはきちんと監視すればいい。
 NTTを自由にしなくてもいいから、少なくともKDDが国内に入ってきたり長距離事業者が市内に入って来たりできるようにするだけで、大変な違いが生れる。それを認めるとNTTが不公平だと騒ぎ出すだろうが、そうなればみんなを自由にすればいい。そのなかで誰が勝つか、大きいのが勝つか小さいのが勝つかはよくわからない。大きい会社が勝つとすれば、それは日本国内で大きい会社が勝つのではなく、多分グローバルで大きい会社が勝つのだと思う。あんまり大きい会社が勝ちすぎて問題になるようであったならば、これは独禁法の問題として処理すれば良い。確率は非常に低いが、かりにNTTが一人勝ちするようであれば、これまた独禁法の問題とすればよい。
 今、市内に競争が入れられる技術的要件がこれほど揃ってきているのであるから、また、NTT法を撤廃しないでしばらく残しておいて、とりあえず市外の会社に市内をやらせるだけでいいから、市内に競争をとりいれる政策をとるべきであるというのが提案である。

F NTT分割について
 最後に、かならず踏み絵を踏まされる問題として、NTTの分割についての是非について触れておきたい。
 まず、その議論の前に、繰り返しになるが、オープン化と規制緩和が最優先課題である。これをやることによって、市内に競争を導入する。NTTがいやならばよその会社に連絡すると電話が引ける状態がそこまできている。実は、家庭よりも職場の方が早いだろう。会社単位で、あんな官僚的なNTTとつきあうのはいやだと思ったならば、たとえばDDIに連絡するということが、よその国では出来るようになっている。これが最優先課題である。
 次にグローバル化してくると、相互主義というのが適用されるだろう。オープン化と規制緩和をして市場開放をしないと、国際展開が出来ない時代になる。今後の競争においては、グローバル展開が出来ないと競争には勝てない。そのためには日本の市場を十分開放しておかないといけない。
 ところが、いま考えられているといわれているAT&T型の分割は、垣根をつくって固定化しようというというのであるから、全く逆行した考え方である。寡占をつくれば認可料金制は永続する。料金競争ができなくなる。
 どうしても分割したいなら、垣根と料金規制をあわせて撤廃しないと、日本の電気通信産業(NTTのではない!)の国際競争力は大幅に低下する。分割後のすべての会社に対して、全ての市場に再参入することを許すやり方でなければいけない。
 大事なことは、既存の新電電とかKDDに国際、市外、市内、地域すべての市場への参入をみとめる、また、第1種電気通信事業者と第2種についての垣根も外すことである。NTTが国際業務に出ていくのを2〜3年遅らせてもいいから、それ以外の事業者に市内参入を認め、NTTのきちんと市内の電話線の開放をさせて、無差別取扱いを実現する。これをまずやってみることが肝心である。これさえやってくれれば、NTTの分割をやってもかまわない。
 ただ、危険なのは、分割というのは垣根を導入する場合が多い。商法的分割をやると、営業権を譲渡すると、そこへは再参入はできない。商法学者でないから、こまかいことは分からないが、この国では分割をやろうとすると、普通垣根をつくる方向にいくので、もし、分割が垣根をつくるのであれば断じて認めるべきではない。これが結論である。

おわりに

 冒頭に説明したように、競争的にいろいろな人がその創意工夫でいろいろなネットワークをつくってみる。通信事業者はいろいろなネットワークをつくり、それを使う方もそれにいろいろな機能を付加していく。そうしてお互に新しいビジネスを生み出していく。そのなかから、この閉塞的な状況からぬけだす新しい企業経営のありかたが生れてくる。内部自己完結的ではなく、よその経営資源を機動的に組み合わせていくような経営、既存のビジネスがかたむいていっても新しいビジネスがそれに取って代っていくような活気のある経済にしていかなければならない。管理から開放された活気のある情報化社会というものをつくらなければいけないと考えている。