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シリーズ討論

地方分権と財政・社会保障

東京大学経済学部教授 宮島洋
国民会議ニュース1995年10月号所収
(以下はさる9月28日に開催された討論会の概要です。)


1 中央と地方の財政関係の推移
2 シャウプ改革挫折の教訓
3 連邦国家と単一国家の違い
4 伝統的分権論の弱点
5 地方への分権と市場への分権
6 世界の潮流
7 国と地方との役割分担
8 単独事業の乱用による交付税の特定財源化
9 社会保障と分権
10 選択的自発的地方行政制度の提案
◎ 質疑応答



 分権と財政の話をするにあたり、まず、長い目で見て中央政府と地方政府とはどういう関係にあったのか、その財政的な推移を申し上げたい。これは野口さんのいっておられる1940年体制にもかかわることでもあるし、銀行行政のいわゆる護送船団方式に象徴される公的規制のありかたにもかかわることである。
 第2は、戦後、シャウプ勧告という理想的な分権論が入ってきて、それが挫折する過程において、どういう教訓を国なり地方なりが得たか。
 第3は、世界的に見て日本の国と地方との関係の特色はどういう点にあるか。
 第4は、地方分権の混成合唱団と皮肉な言い方を私たちの間ではいっているが、分権分権といっているが、皆さんのそのよって立つところがそれぞれ違う。見ていて、非常に危なっかしい。かなり古典的な分権論とまったくそれとは違う分権論が出て来ている。危なっかしいというのは、財政規模を縮小するための分権論と住民の意思を吸上げるための分権論とが、うまくマッチすればいいのだが、いまのところ同床異夢の状態である。そこで、分権論の最近の新しい傾向についてお話をしたい。
 第5は、地方債と交付税という、いまの地方財政の状況についてお話し、最後に社会保障と分権との関係について述べてみたい。

1 中央と地方の財政関係の推移
 第2次世界大戦に入るまで、一般に地方の税収の占めるウエイトがどこの国でもまだ高かった。ところが第2次大戦を境にして、地方の占めるウエイトが急速に低下する。その原因は非常にはっきりしていて、戦争によって国の財政が急速に膨張していくためであるが、問題は、戦争が終ってもそれがもとに戻らないということである。
 戦争が終っても、なぜ国の財政規模がもとに戻らないかといえば、直接的には国債費がかさむとか軍人恩給の必要性が出てくるとか、国の業務が膨らむということもあるが、戦争というのは総動員であって、総動員された労働者や女性の参政権を認めることになると、財政に対する社会的な要求が政治プロセスを経て実現していく。完全雇用に加えて、教育とか住宅、福祉、農業といった分野での政策において、特に第2次世界大戦後各国とも中央政府の関与を強めていく。そうしたなかでは地方財政の比重は必ずしももとに戻らない、こういう状況が起こっている。
 もちろん、その背景にあるのは税制の問題である。所得税が累進税率をとり、法人税率が高く設定されたのは、大体、第2次世界大戦によってである。これが、戦後も基本的には維持されていく。ちなみに付加価値税は第1次大戦の産物であり、戦争というものは税制を非常に大きく変える、つまり税収力の高い、あるいは成長に対して弾力性の高い税制がビルトインされることによって、新たな財政需要を支えていく。こういう構図があるわけである。
 このように中央政府に支出・税源が集中されていくことを集中過程と呼んでいるわけであるが、これは連邦国家であろうと単一国家であろうと、共通に見られる現象である。したがって、長い目で見ると、財政の役割の中で中央政府のウェイトがだんだん高まり、地方政府のウェイトが低下してきている。これが現在までのところはっきりしている傾向である。
 地方分権論というのは、これを引っくり返すという意味であるとするならば、この長期的な傾向を逆転させることになるわけであり、それなりの論理と事実認識が必要となってくるわけである。ファッションで分権を語る程度ではとても、この長期の歴史を引っくり返すようなことにはならない。

2 シャウプ改革挫折の教訓
 この地方政府のウェイトが下がってくる傾向を逆転させようという試みはなんどもあった。日本の場合では、第2次大戦後のシャウプ勧告の考え方であった。この考え方は、地方自治というのは民主主義の学校であって、軍事国家あるいは集権国家の体質を直すためにはまず地方分権が必要である。しかも、都道府県のような国の代理機関ではなく、一番の基礎である市町村を育てることが日本の民主化にとって一番大事である、というものであった。たとえば、警察、教育という事務を市町村に配分し、そのために償却資産まで含めた固定資産税を市町村に与える。さらに平衡交付金によって、地方が財源不足に陥った場合には国が一般財源から全額補填するという仕組を取り入れた。
 ところが、昭和24〜25年に一応制度化されたこうした理念というものが、サンフランシスコ平和条約で日本が独立をとげたあと、28年〜29年にかけて、当時の言葉でいえば「逆コース」と呼ばれた時期にほぼ解体される。自治体警察は廃止され、都道府県に戻されていく。教育委員会などもそのようなコースをたどった。財源の面でも、都道府県にシャウプ勧告が振分けた付加価値税は実際には施行されず、そのまま今日の事業税の存続に代るという歴史を辿っている。
 この間、いかなる教訓を日本の政府や自治体が得たのかといえば、一般の想像に反して、たとえば平衡交付金を廃止するとか自治体警察を廃止することに対して、自治体は殆ど反対しなかった。むしろ、「しょうがない」あるいは「当然」と受け止めていた。国が一方的に押しつけてこうなったというよりは、地方自治体そのものが当時の行政事務なり財源配分を受け入れるだけの力量がなかったのだろう。戦後の税制や財政の歴史を見ていると、いわゆる40年体制などに回帰していくプロセスは、決して地方の反対を押切って行われたものではない。むしろ、そこで得た国の教訓というのは「地方はあてにならない」というものであり、事務配分をそれなりに行っても、それをこなすだけの能力がない。固定資産税という市町村にとってもっとも重要な税源についても、これが数年立つともうその評価がうまくいかない、そういう徴税努力もきちんとできない。こういう地方自治体にたいする不信感というものがここで再確認された。そういう不幸な歴史を辿ったような気がする。
 その後も国が常にパターナリスティックに地方を考える、丁度銀行行政とおなじように、もっとも弱い自治体でもなんとか標準的な行政ができるようにという護送船団的な地方財政制度をつくりあげていくプロセスをたどっている。
 なお、集中過程ということで、大戦後にも中央財政の規模が縮小しないといったが、国によってその態様はさまざまであり、アメリカのように軍事費が引き続き大きな比重を占めた国もあれば、日本のように、公共事業費、次いで社会保障費に代るケースもある。欧州諸国では主として産業政策(完全雇用政策)や社会保障政策ということで、こういう集中過程が固定されるケースもある。こうしてみると、社会保障は分権にとって一つの動機(モメント)になるかといえば、むしろ、なりにくい感じである。この点については、また、あとで触れる。

3 連邦国家と単一国家の違い
 中央・地方あわせたもののうち、地方の支出と税収がどれだけのウェイトを占めているかをみてみると、カナダ、ドイツ、アメリカといった連邦国家とフランス、イギリス、イタリアという単一国家のあいだにかなりはっきりした違いがあることがわかる。日本は、そのなかで極めて独特な地位にある。
 勿論、この数字が高ければ分権が進んでいるかといえば、それはかならずしもそうとは云いきれない。日本では地方税のウェイトが全体の税収の中で4割近くを占めており、その点からするとフランスやイタリアよりも高い。しかし、日本では地方税は地方税法という国の法律で殆ど律せられているから、はるかに中央集権化された税制のなかで税源が配分されているというべきで、分権が進んでいることにはならない。
 しかし、一般的にはこういうことはいえる。つまり、アメリカ、カナダ、ドイツのような連邦国家では、行政事務の配分と税源の配分とはほぼ似たようなウェイトになっている。だいたいそれぞれ全体の半分程度の数字になっている。しかも、州とか邦といったところが強い自治権、課税権をもっており、意思決定の面でも分権化が進んでいる。ただ、アメリカ、カナダのように連邦政府と州政府とが個々に行政や税制を立案できる場合と、ドイツのように基本は邦にありその一部を連邦に分与するかたちで、連邦と邦が共同税という形で共同して使っているばあいもある。
 一方、フランス、イギリス、イタリアのような国々は単一集権型とよばれる国々で、ここは行政事務も税収も殆ど国に配分されている。むろん、意思決定権限も国に集中している。
 もう一つの類型は単一分権型国家といえる国々で、これは北欧諸国が該当する。単一国家ではあるが、地方に対しては権限でも税制でも非常に分権化が進んでいる。なぜ、北欧諸国がそうなったのかよくわからないが、単一集権型と単一分権型を分けているのは社会保険制度ではないか。単一集権型国家では社会保険制度を非常に重く使っている。フランスでは租税と社会保険料の比率が55対45位になっている。日本では7対3程度であり、社会保険を使うとどうしても中央政府中心型になってしまうのではないかと思われる。北欧では福祉関係は分権化してしまったが、同時に非常に高い租税負担率を甘受しているのであって、主として行政型の社会福祉を充実させてきた国々である。
 これに対して、日本の場合はどこにも属さない独特なタイプであり、税収面だけからいうと連邦型に近いウェイトをもっているが、ただし、課税に対する自主権は小さく、税率を上下させたり税目をみずから決定する自由度は非常に乏しいという意味では集権的なかたちとなっている。それに対して支出の面では日本は世界的に見て地方のウェイトが非常に高い。これも、しかし、機関委任事務のように国から委任されている事務が非常に多い。そして、その結果どういうことが起こっているかといえば、この収入と支出のギャップを埋めるために、補助金、地方交付税によるきわめて大規模な国による財源配分が行われている。
 なぜ、日本がこういう仕組になっているのかといえば、一つには日本は成長政策を戦後とってきた。公共事業あるいは教育といった基盤づくりを地方に執行させてきた。もうひとつは、成長プロセスのなかで地域間格差がひろがるので、これを均等化しなくてはならないというナショナル・ミニマム的発想から、こういう大きな財源再配分が生じているのであろうと思われる。

4 伝統的分権論の弱点
 今日の分権論は、ひとつは、古典的といういいかたをしてはいけないのかもしれないが、かなり伝統的な地方分権的な考え方を主張しているものと、あとで紹介するが相当違った角度から主張しているものとの間に、考え方にかなり違いがあると思っている。
 まず、伝統的な思想についていうならば、地方主権という主張は民族自決にならって地域自決権とでもいうべきもので、この主張はその通りであると思っている。そういう観点からの地方分権論は、政治的に一番説得力をもつものであると思っている。
 しかし、財政学の立場からいうと、そうなってくれればいいけれども、実際には必ずしもそうはいかないということになる。
 国と地方との分担は、情報の非対称性つまり情報格差の問題だと思う。ある問題が起こったときにだれがいちばん知っているかという問題である。ある小さい地域で起こった問題は、当然、その地域を統轄する最も小さい行政府がもっとも多くの情報量をもっているだろう。そうであれば、そういう地方がみずから責任をもって行政にあたることが一番いい。たとえば、阪神大震災のときも、官邸の対応が問題になったが、国がこういう狭域な問題に対応できるかどうかといえば、自ずと限界がある。やはり地域が一番多く情報をもっている。
 ただ、そういう地域に生じている問題の情報量という面で、地方の優位性がどれほど主張できるかといえば、必ずしもそうは言い切れないところに問題がある。たとえば、地方財政ではスピルオーバーという概念を使うが、これは要するに地方行政が行政区域から漏れ出してしまうことである。
 たとえば、現在、多くのひとびとは居住する地域と職場の地域とが異なっている。これは日常的にあたりまえのことであるが、これを地方行政や地方財政の立場から言うと非常にやっかいな問題である。たとえば、横浜の人間が東京に出てきていろんな仕事をすると、仕事のためには道路もいるし水道もいる。しかし、住民税は居住地原則で調達しているから、このひとは横浜市にしか税金を払っていない。
 こういった問題は国際的には長い間議論のあるところで、たとえばアメリカの企業が日本で稼いだ所得に日米どちらが課税するかという問題である。結局、どちらにも課税権を認め、ただし外国税額控除という形で調整している。もし、日本が非常に分権が進んだ国になって、東京と神奈川が別個の行政権をもっていると、当然同じような問題が起こってくる。本来、地域を越えた経済活動に対してだれが一体行政サービスを行ない、また、財源を調達するかというのは大変やっかいな問題である。
 アメリカではユニタリータックスといって、行政圏をこえて企業が経済活動をしている場合には、売上とか収入を分割している。日本でも複数の地域にまたがる場合には、法人住民税と事業税を従業員数によって分割している。最近ではオートメーションによって工場の従業員数が減ってきたので、1.5倍にして調整しているが、ともかくそうやって調整している。
 しかし現在、日本で地域をこえる活動から生ずる問題点があまり強く意識されないのは、実は国が統括しているからである。本来ならば地方自治体間でいろいろ交渉をしなければならないことを、国がほとんど全部引受けている。国が一本の地方税法を定めて、必要な税目は全部規定し、標準税率を定めている。行政についても、標準的な行政はどこの地域であってもきちんと行なわれるよう、国がほとんど全部調整してしまう。したがって、われわれは殆ど地域を移動しているという感覚はなくて済む。日本に住んでいると、分権とはなにかということが感覚的に非常にわかりにくい。
 アメリカではたとえばニューヨークとニュージャージーとは州税制が違う。マサチューセッツとニューハンプシャーも州税制が違う。これが地方分権だと思っている。
 こういう感覚というものが日本にはない。どこへいっても同じだと思っているから、安心している。つまり、自己責任を問わない世界だといってもいい。そういう集権化された心地好さというものを味わっている側面が強い。そのへんのところをきちんと押えて、分権を議論していかないと上滑りになってしまうのではないかというのが、私の心配していることである。
 戦後の地方財政の動きを見てみると、結局これは護送船団方式の公的規制の一部として現在の地方制度は成立していると考えざるをえない。地域というのは国境がないからひとびとの移動は自由である。しかもこれまで非自発的人口移動、つまり転勤とか就職などのための人口移動が多い。その人たちにとっては好んで移動するわけではない。だからどこへいっても同じ様な行政サービスを受けられるようにして欲しいという要求が強い。
 それともうひとつは、高度成長過程における地域格差の拡大の問題があって、やはりそれを許容することが日本ではかなり難しい。ナショナルミニマムという言葉は、一般にはプラスイメージで語られることが多かった。全国共通の行政、全国標準的な税制ということがプラスイメージで語られてきた。しかし、これは集権的な発想であり、その結果、画一的な行政を行なうことになると機関委任事務あるいは補助事業というもので行政を標準化していくことになる。それには国が財源を調達して補助金を交付し、それでもなおかつ残っている格差は交付税で均等化していく、こういう仕組みがつくりあげられてきた。
 しかも、この場合、非常に極端ないいかたをすれば、500人程度しか住民のいない過疎村でも、画一的な地方税性の下で、標準的な行政が出来るように、ということを考えるので、非常にきめこまかい、しかも大規模な財政調整ということになっていく。丁度、危なっかしい金融機関でもなんとかくっていけるように金利を規制したり検査をしたりして維持してきたのと、全く同じことである。この仕組みは、その後の都市の充実・発展などは考えておらず、その意味では昭和20年代末ごろにたくさんの赤字団体が出て、破産状態となって、それを解決するために市町村合併を推進した、そういう時期の制度が今日でもなお続いているように思われる。
 そのうえに、財政状況が厳しくなると財政のコストということも問題となってきた。いわゆる規模の経済ということが、地方財政にもあてはまる。道路をつくるにしても過疎地と都会地とでは同じ面積の道路をつくっても、過疎地ではどうしても一人当たりのコストがかかってしまう。さらに徴税コストを考えると、小さい市町村がそれぞれ徴税することになると行政コストからすると極めて不経済になる。したがって、地方消費税の議論の時、地方に消費税課税権を移すことに経済界はほぼ一致して反対した。これは徴税コストが高すぎるという理由である。徴税は国がやって一定の基準で地方にまわす譲与税が一番いいという発想になるのは、このコストの観点からである。
 こうして最近聞いている議論からは、なかなか地方分権をサポートするようないい議論が出て来ない。すぐ、能力があるかとか、コストがかかるとか、地域格差がひろがるとかいう議論がワンパターンのように出て来る。従来のような、地域が独自性をもち、情報量が一番多い地域がその行政を行うのがふさわしい、という考え方はその通りであるが、残念ながら財政的な問題になるとそれは殆どサポートされないことになってしまう。
 行政学と財政学とでは考え方が随分違っており、権限の移譲と財源の移譲とはセットであるが、行政をやっているひとからはどうしても財源の移譲の問題がセットで出て来ない。行政は分権化しろ、財源は国が面倒をみろという話になってしまう。そうなるとなんのための分権なのかということがわからなくなってしまう。財政学者がいままでの分権論を見ていると、どうもいままでの考え方では対抗出来ないという考え方をもってしまう。
 もちろん、そのほかにもいろいろな分権の考え方がある。国という大きな存在に対して地方がバーゲニングパワーをもつという交渉力の立場で議論も出来る。しかし、これは分権というよりは広域行政の問題かもしれない。さらに最近はネットワーク型の行政が増えている。道路、下水道、通信などであるが、これらはネットワークであり、一つ一つの市町村が単独で行政するとかえって問題が生ずる。規格が違ったりしてはいけない。こういうことも地方分権のサポートを難しくしている。
 したがって、これからは地方主権という考え方を大事にしながら経済的、財政的な分権をどうすすめるのかということを後半で考えてみたい。

5 地方への分権と市場への分権
 その前に、地方分権と規制緩和という新しい流れについて、ご紹介しておきたい。これは一言で、スローガン的にいうならば、国の分割・民営化ということになる。
 私はまえまえからどうして規制緩和と地方分権とが別々に議論されるのか理解できない。規制緩和というのは、国も地方も含めた行政と民間との関係である。地方分権というのは中央政府と地方政府との公的関係である。いずれも、これは規制の緩和ということで一括できる問題である。これを規制緩和というと政府対市場・民間企業で考え、地方分権というと国対地方とはっきりわけてしまい、それぞれ別個に委員会も出来て取扱っている。
 縦割り型の中央集権体制が肥大化していってそれをいかに制御するかということが、ひとつは民営化でありもうひとつは分権であり、これらは同じレベルで考えられなければならない。たとえば最近よく参照されるのは R.J.Bennett“Decentralization : Local Government and Market”であるが、このタイトルはまさに分権とは地方への分権であり、マーケットへの分権であることを如実に示している。
 この背景には、さきほど紹介したような集中過程によって中央政府のウェイトがどこの国でも高まってきている、単に財政規模や税収規模だけでなく、機能が大きくなって来ている。と同時に、国は行政サービスの独占者である。国際的にみれば競争はありえるが、国内的に見れば、国は行政サービス供給の独占者になっている。したがって、競争メカニズムが全く働かない。競争メカニズムを働かせるにはどうしたらいいか。多数の自治体に行政サービスを分権して競争させることが一つの方法である。もうひうとつはそれを民営化して市場にまかせる。これが、地方分権と市場への分権とを並列に考えていくことであると思う。
 つまり、地方分権というのは疑似市場であるということである。従来国が独占者として供給していた公共サービスを、多数の地方自治体にその供給を分権化することによって、多数の自治体が競争するメカニズムが分権化には含まれている。
 勿論、競争といっても民間の競争とはかなり性格が違う。ヤードスティック・コンペティションという言葉があるが、物差し(ヤードスティック)競争、標準競争とかいわれるが、たとえば日本の電力会社は地域独占である。地域独占であるからその地域では競争は起こらないが、ある別の地域の電力会社が非常にいい経営をして電力料金が下がれば、ここでもできるはずだというプレッシャーが働いてくる。こういう一つの物差をめぐって実質的には競争が行われることになる。
 自治体でも、分権化していくと、ある地域では非常にいいサービスが供給されしかも税負担がそれほど高くないということになると、ほかの自治体はどうしているんだという比較論が起こって、実質的な競争メカニズムが入ってくる。 もう一つは住民の移動である。私たちはこれを大変面白い現象だと思って観察しているが、住民がいい自治体を求めて移動するという、もともとアメリカなどから入ってきた考え方である。多数の自治体が存在していろいろなサービスを提供している場合、そのなかで一番好ましい自治体を選ぶという形で競争が行われ、駄目な自治体は住民がだれもいなくなってしまう。 しかし、住民の移動とはそう単純なものではなく、実際には日本では勤務地に縛られたり、住居を確保するのが難しかったりするが、ただ、最近、年金受給者が増えてくるとこれが高まる可能性がある。
 こうした競争が働くためには、自治体が行政権や課税自主権をきちんともっていなくてはならない。行政水準を自分で決め、あるいは税率や税目を自分で決める権限がなければならない。つまり、分権化を進めることが競争メカニズムを生み出していく。また、先程のヤードスティック競争も、ある程度分権化が進んでいないと工夫の余地がない。つまり、競争メカニズムを持込むことが分権化の非常に大きなメリットである。国が独占者としてあぐらをかいているのに比べると、地方に分権化されるとどうしても回りを見たり人の移動をみたりして工夫せざるを得なくなる。それが結果として、政府が大きくなることや租税負担率が高まることを抑えるメカニズムになっていく。おそらく、そういうことを高く評価して分権を唱えているひともいる。リヴァイアサンをいかに制御するかという角度からの分権論である。これは、地方主権という発想とは、同じところもあるがかなり違っているところもある。

6 世界の潮流
 日本では分権か集権かという議論が専ら行われているが、さきに触れたベネットの議論では、図のように「分権か集権か」と「市場か政府か」という二つの軸でベクトルが示されている。
 これでみると、たとえばアメリカでは連邦と州との関係では分権が進んでいる。これはレー
ガン政権の結果であろう。ところが、州と地方では州の方に権限が集中する形での集権化のベクトルと民営化のベクトルが同じように進んでいる。北欧諸国やオーストリアでは、従来大きく分権が進んでいたものをいまは民営化の方向で対応しようとしている。ドイツやオーストラリアもほぼ同じことがいえる。つまり、分権化がある程度進んでいる国は民営化で対応しようとしているわけである。
 それに対して、スペインやポルトガルのような、かつて独裁者がいた国々では、民営化よりも分権化を一生懸命進めている。集権的な単一国家であるフランスやイタリアは、分権化と民営化とを同時に進めている。イギリスは、集権化の方向と民営化とを同時に追求していることになっている。
 日本はこの図に書くとどうなるのか。スペイン、ポルトガル程でもないし、発展途上国的でもないだろう。それでも多分、下の方から右上に向って進もうとしているのだと考えられる。分権を行いながら規制の緩和を行い、中央政府の規模なり機能なりを競争を使いながら制御しようとしていると考えていいのかと思う。私は量的目標を定めて抑え込むというやりかたには賛成できないが、そうした強制的におさえるのではなく競争原理を働かせて効率化をはかり、それで抑えられればそれが一番結構という発想である。おそらく、これが日本でも中心になっていく考え方であろうと思う。
 しかも、競争メカニズムを使いながら分権化を図っていくことは、政治的にも非常に大きな意味をもっている。ひとつは補助金にただ乗りした地域利益誘導型の政治というものは根絶は出来ないもののかなり払拭できる。国が最後は補助金等で面倒をみるという仕組では、財政力の弱いところは頑張って経済を発展させる必要もないし、徴税努力を特に払う必要もない。こういうことが、分権化を進めることで、ある程度是正されるだろう。
 財源面も含めた分権化をすすめると、地方自治体は財政に自己責任を持つことになり、従来のように中央政府が検査したりチェックしたりするのではなくて、一挙にはいかないかもしれないがアメリカのように地方債の格付けによって評価されてくるようになる。豪華な庁舎を建設することもなくなっていくであろう。もちろん、それほど楽観できないかもしれないが。

7 国と地方との役割分担
 地方と国との間の事務配分に基準があるかといえば、抽象的にはある。まず、景気調整機能と所得分配機能は地方は持つべきではない。
 景気調整は臨機応変にやるべきであるし、国全体にかかわることであるので、これを地方にやらせるのは酷である。所得分配に地方が係わるべきではないというのは、ナショナルミニマム的な発想によるのと同時に、これは個人レベルの問題であって、個人が老後の生活にどの程度資金が必要かといった問題を個々の自治体がやったのでは、財政力の格差があるから問題が生ずるからである。これは国にまかせた方が良い。もう一つの理由は、人口移動があるため個々の自治体が完結的にやることが非常に難しいからである。
 したがって、自治体が行う機能は資源配分機能、つまり行政サービスを提供することである。
行政サービスのなかで国と地方がどう分担するかといえば、国の存立にかかわるとか非常に広域にわたる大規模な公共事業は国がやり、そのほかは原則として地方がやるべきだという考え方になる。地方自治法の書き方もそうなっているし、行革審の答申でもそういう考え方である。
 ただ、地方で完結する事務とはなにかといいだすと、ここからが難しくなる。スピルオーバーということを考え出すと非常に厄介になる。たとえば、県立大学に他府県のひとを平等に入学させるべきであるか。つまり、そこの住民の税金を使って県立大学や市立大学をつくる。ところがそれを享受する他の地域の人間が卒業後大学の地元にのこってくれればまだしも、またもとの居住地に戻ってしまったならば、なんのためにやっているのか分からなくなる。定員の8割は地元から成績にかかわらずとかいうような措置をとらなくては、納税者に対して不平等になるのではないか。そうケチなことをいうくらいなら、学校などやめてしまえということになるから、結局、国に補助金を出してもらい、こうした教育効果が外に漏れ出ていってしまうことを補償してもらうということになる。補助金の発想とはこういうことである。
 こういう例は沢山ある。衛生行政、公害対策などは地域にとどまらない。公共事業、洪水の防止なども特定の市町村の事業にできない。人口移動によって教育や福祉(の一部)も効果が他の地域に逃げていってしまうことがある。道路を作っても、地元の車は通らずにほかの市町村の車ばかり通ることになるかもしれない。これもシャクの種だということになる。こう考えていくと、地方行政のなかで完全にその地方の中で完結するものを探すことの方が難しくなる。
 もちろん、完結性をもたせるためにいろいろ工夫がおこなわれてきたことも確かである。かつて武蔵野市がマンション建設で水道をとめようとしたり、最近では真鶴町がリゾートマンション建設を抑えるために上水道の提供をとめたりしたことがあった。つまり、住民の移動そのものは止められないからこういう経済的な手段を使ってある程度閉鎖的な地域を作らざるを得ない。しかし、こうした手段には、違法という見方もあるし、効果にも限界がある。このように、ある程度その地域にとどめるような行政事務を考えることが難しくなっている。
 したがって、分権を財政的に考えるのはなかなか難しいといっているわけである。もし、考えるとすれば、自然条件、地形条件等を反映する都市計画とか土地利用に関する意思決定、ある地域の風土などに左右される文化行政、それに地場産業のようなその地域の特産品的なものを中心とする商工行政、こうしたものはその地域で完結するものとして挙げられ、分権の対象と選んでもほとんど問題は起こらないだろう。ただ、社会保障はなかなかやっかいな問題があって、分権の対象とするのは難しいと思う。
 こういうと、殆ど分権はできないではないかといわれるが、問題はこのスピルオーバーということをいかに内部化するかということになる。そうなると、行政区域を広げるという発想になる。小さい地域ではどんどんスピルオーバーしていく行政効果を、行政区域を広げることによってこれを内部化していくことが考えられる。大規模な行政区域をつくることもあるだろうが、私はむしろ現実的だと思うことは、行政事務の種類によって市町村なり道府県が連合することである。いまの事務組合をもう少し制度として整備されたものとして広範に考えることができないかということである。
 もともと国の行政も地方の行政も、それぞれの行政の種類によってその便益が及ぶ範囲は違っている。固定的な行政の区域を設けることはいずれにしても経済的な実態にあわない。学校なら通学区のようなものがある。医療には医療圏がある。これらはいずれも行政区域とは一致していない。おそらく、それぞれの行政にはそれにふさわしい行政区域というものがあるはずである。なるべく大きな自治体をつくるという発想と、隣接する自治体が行政事務ごとに連携するというやりかたで、スピルオーバーを内部化していくことが考えられるのだろうと思っている。そうしないと、行政事務の分権も難しいのではないか。
 財源面からいうと、所得再分配などの機能を地方は重視する必要はないのであるから、税負担の公平の問題はあまり考えなくても良い。税収の安定性と地域的な普遍性が大事なので、法人税的なものは難しい。また、償却資産のようなものを地方税が含むのもあまり好ましいことではない。どちらかというと、住宅と土地のような資産が課税の対象となるべきであろうし、あとは消費と(個人)所得などが候補になり得る。なるべく安定していて地域的にも普遍的に存在してる財源を使うことになる。
 じつはこういう議論をやってきたのだが、バブルであれほど地価があがるとこれも危ないことになってきた。私は自治省が固定資産税を地価対策的に使おうとしたのは失敗だったと思う。地方税とは地方の行政サービスとの見合いで考えられるべきものであって、固定資産税の評価を公示価格の7割にあげてもいいのだが、それを税率を固定したままやったのは問題である。評価と税率を組み合わせてやるべきであった。どうしてああいうことになってしまったのか理解に苦しむ。面子の張合いのようなことがあったのかもしれない。
 主要先進国の地方税の中身をみると、さまざまである。日本では個人所得、法人所得、資産、消費のバランスが割合よくとれているといえるが、現在は法人所得が落込んできわめて不安定になっている。そういう意味では、消費税の位置付けを検討せざるをえない。
 私はもともと消費税導入論議を評価しなかったのであるが、なぜかといえば、消費税が所得税とのからみだけで議論されてきたことに納得できないからである。しかし、地方分権という観点から消費税を位置づけることは容易である。おそらく、これから消費課税のウエイトを高めていこうとするならば、地方分権論とセットでないかぎり国民は決して納得しないだろうと言っているところである。そう考えると、これから長期的には地方税の法人課税部分が消費課税に置き換わっていくのだろうと思うが、まだ、世の中はそういう発想にはなっていない。

8 単独事業の乱用による交付税の特定財源化
 ここで、地方債と地方交付税についても、触れておきたい。
 かつては地方の公共事業は補助事業が多かったのであるが、最近は市町村では7割、都道府県ではもともと補助事業が多いのであるが、それでも5割くらいに達している。これだけ見ると、地方も随分豊かになったものだとおもわれるが、ところがこういう状況になったのは国の財政の都合によるところが大きい。国が財政再建のために財源がなく、そのために地方単独事業に景気対策の役目を担わせることをやってきた。そのこと自体、つまり地方に景気政策を担わせること自体に問題があると考えるのであるが、もうひとつ、その結果として交付税が殆ど特定財源に近い形になってきたのではないかと思っている。
 つまり、もともと単独事業とは地方独自の事業で、補助金がつかないものであるが、最近、これについての地方債の充当率を引上げ、さらに残りの半分は交付税で面倒をみる。しかも、その地方債の元利償還についても相当程度交付税で面倒を見るということになっている。本来、地方債は特定財源で使途が決っているのに対し、交付税は算定にあたってはあれこれあるが実際の使途は自由である。ところが、いまのような単独事業のやりかたでは、とりあえず地方債で立替えを行って、あと一般財源である交付税でこの特定財源の分割払いを行っていることになり、交付税が特定財源に変質しているといえる。
 同じことが福祉についてもいえる。地域の福祉のための、あるいはそのためのマンパワー育成のための施設を建設する場合には、75%を地方債で財源調達し、残りの25%のうち15%は交付税で措置し、実際の持出しは10%分だけである。しかも75%の地方債の半分くらいの元利償還は交付税で面倒を見てくれるから、事業費の6割程度が国から事実上補填されることになっている。こういうやりかたが完全に定着してしまった。
 それだけではない。最近、どうも単独事業そのものの財源についての考え方が変ったようである。つまり、従来の考え方は、単独事業の財源は留保財源をあてるというものであった。つまり、交付税算定の際の基準財政収入算定の時に、税収すべてをカウントするのではなく、都道府県では2割、市町村では25%を単独事業の財源用に控除していたのであるが、自治省の説明によれば、これだけでは弱小の市町村ではとても単独事業の財源としては不足するから、単独事業財源を基準財政需要に織込んだほうがいいという考え方に変ってきた。これは、まさに護送船団方式の考え方であり、どんな小さな市町村でも単独事業が出来るようにという考え方である。
 景気対策あるいは福祉計画を市町村に実行させることになって、交付税がそのための戦略的手段として多用され、交付税本来の性格が大きく変って来ているわけである。地方民生費の財源を見ると、1980年ころまでは補助金と一般財源とが半々であったのが、最近では1対2以上まで一般財源が増えている。しかし、この一般財源の中身はいま述べたように交付税が中心であろう。

9 社会保障と分権
 最後に社会保障と地方分権について簡単に述べておくと、まず、年金の分権はほとんど不可能である。むしろ、これは先に述べた民営化の可能性の方がはるかに高い。
 イギリスでは、報酬比例年金(日本でいえば老齢厚生年金、老齢共済年金の部分であるが)を、企業年金・個人年金との選択にまかせていて、われわれがもし企業年金なり個人年金なりを選択した場合には、日本でいうところの公的年金の報酬比例にあたる部分から脱退できる、適用除外されるという考え方をしている。
 日本の厚生年金基金もイギリスのこの制度を見習ったものであって、厚生年金の本体からは適用除外されている。ただし、日本の場合は厚生年金基金の厚生年金の代行部分は国が責任をもっているというややこしい制度になっていて、純粋に厚生年金基金の中で企業年金といえるのは付加部分だけで、イギリスとはかなり異なっている。
 いずれにせよ、年金は民営化の対象とはなるが、分権はむりである。かりに分権するとなったらその保険料の徴収が大変である。
 医療保険も同様に考えている。いまの国保は自営業や農業の人も少なくなって、無職のひと、年金生活者が多くなっており、保険料収入が上がらなくなっている。一番高いところと低いところと保険料と給付水準に非常に大きな格差がある。それを埋めるために国が国保の財源安定資金などを投入している。国保を国に返上したいという意見が真面目に出されているゆえんである。また、たとえば沖縄と北海道では医療費が大きく違い、残念ながらそれをきちんとコントロールするだけの市町村の能力は難しい状況にある。国保はこのまま市町村を保険者にしておくのは、相当ムダになりかねない。
 老人保健制度も実質的に同じである。ただし、これは市町村が実施主体ではあるが、医療事業については国が2割、地方が1割(都道府県と市町村が折半)、残り7割は職域保険が拠出しているわけであり、実質的には市町村が独自に実施主体という意味はない。
 国保も国によって支えられているのであるから、市町村が実施していくことは難しくなってきている。とくに高齢化が進めばさらに難しくなる。
 問題は社会福祉である。一般にはこれは地方分権の契機になると考えられてきた。とくにスウェーデン、デンマーク・モデルで考えられることが多く、こういう北欧諸国では福祉を地方の行政の中心にすえて、そこでかなり分権化がすすんできたという経緯がある。ところで、それはさきほどふれたように極めて高い税負担を伴ったことも事実である。高い負担それ自体は、もしそれを許容する国民性であるならばいいと思っている。ところが、日本はそれを許容する国民性とはとても思えないことを考えると、福祉の分権化も難しい。
 一つの理由は、福祉というのは所得分配にかかわるものであり、とくに高齢者を中心にいいサービスをする自治体に移り住む可能性もこれから生ずると思うから、財政的にこれを維持するのは難しい。簡単にいえば、担税力のないひとばかりが転入して来て、地方財政が破綻してしまう可能性をはらんでいる。住民移動をストップさせることができればいいがそれはなかなか難しい。
 もうひとつは、公費を使った社会福祉はもう限界だというのが私の基本的な認識である。税調に出ていると、税収をどう使うかということに対しての厳しさは大変なものであって、公費を使うことになればどうしてもミーンズ・テスト(資力調査)をやることになるのは間違いない。つまり、今の社会福祉と同じように資力調査、資格審査をすることになる。需要を行政が管理をして、そして措置費にあわせて供給をコントロールする。そういう仕組にならざるをえない。 そういう仕組になると、一番被害を受けるのはサラリーマン層である。それはいまの授業料免除や奨学金と同じであって、所得調査をやるともらえるのは農家の出身や自営業の出身者ばかりになって、サラリーマンというのは比較的安定して現金収入があるものだから、もらえない。税金を払っていながら福祉サービスを受けられないのはサラリーマンということになる。
 農家や自営業の場合は、主婦も共同で働いているから家族介護も難しいとう理屈も立つが、サラリーマンの場合は専業主婦が多いから、それも資格審査で家族介護が出来る、とはねられることになりかねない。
 だから、これは社会保険化してしまったほうがいいし、しかも市町村が実施主体となるのは難しい。これは医療保険と同じである。
 したがって、社会保障全体は分権ということにはならないと考えている。

10 選択的自発的地方行政制度の提案
 最後に、提言的なものとまとめておきたい。まず第1に、3000を越える日本の自治体を一律にコントロールするのは極めて困難になっている。一方には財政力の小さな市町村があり、他方で行政能力を充実させてきた都市を中心にしてきた発展があるなかで、これらを護送船団方式で一律の行政のもとにおくことはムダを招くだけのことである。かといって、都市に絞って一律の行政をやればいいかというと、これでは過疎の市町村の切捨てになってしまう。
 となると、地方制度そのもののありかたを弾力的にしていくしかない。私は選択的自発的な地方行政制度と言っているのであるが、そういうものが考えられないか。たとえば、はじめから分権する対象を決めないで、分権を選びたい都道府県や市町村は選んでよろしいとする。ここで分権というのは、機関委任事務を返上できる、起債も自由、行政権や税目・税率の選択も自由、そのかわり責任はその自治体が持つ。その資格は国が検査をして判断するのではなく、地方債の格付けのところで最終的に判断される、という仕組である。
 これでは自信がないというところは従来通りの護送船団のなかに収まっていてよろしい。そのかわり国の機関の代行という役割に甘んずることになる。こういったメニューを作っておいて、自治体の選択に委ねたらどうか。単独では自信がないところはいくつかの自治体で共同で選択をするということもあってもいい。
 こういう選択的で自主性が発揮できるような制度を作り上げれば、意欲をはかる物差にもなるという点で好ましいのではないか。ただ、いまのパイロット自治体制度のような極めて限定的なものでは、メリットは少ない。もっと、根本的な分権型のモデルとどちらかといえば弱者救済的なモデルを分けておいて選択することができないか。
 その際、地方はあまり欲張って行政権を求めないほうがいいと思う。所得分配に係わる行政権まで求めないで、地方がやることは行政サービスを的確に安定的に向上的に供給することであって、それもそのサービスの種類によっては地方が担うにはスピルオーバーが大すぎるものもあるから、なんでもかんでも分権化するというのではなくて、戦略的にその中身を選ぶということも必要だろうと思う。
 もちろん、そのうえでそういう都道府県なり都市には税制も起債も自由化する。そういう自らの行政責任と課税権のもとで生じた結果については、その財政責任を持つという形で将来の分権が構想できないかと考えている。

◎ 質疑応答

【朝倉・読売新聞論説委員】 配られたレジメには「市町村重視から都道府県重視に」とあるが、これについて少し説明を願いたい。
【宮島】 シャウプ勧告の時には、基礎自治体である市町村を一番重視して、財源配分、税源配分をするという考え方であった。ところが、20年代末に市町村財政が疲弊したこともあって、自治体警察や教育委員会などが道府県に移管され、国が義務教育国庫負担金という大量の補助金を出すことによってそれを維持することになった。そのなかで、草の根民主主義の一番基礎にある市町村は残念ながら地方行政の担い手として期待できないという考え方から、道府県に行政が変ってきた。市町村にしかなかった住民税の一部を道府県にいれて財源を充実させ、また、従来市町村に分配されていた事務を道府県に移していくことをやってきた。これも、戦時体制への回帰であるといえなくもない。行革審の答申でも、現状では道府県を中心とする分権が現実的であると述べているのは、3000をこえる市町村は、よくいえば個性的、悪く言えば財政力に格差があって、、分権の担い手としては当面期待できないという発想があったのだと思う。
 この道府県を中心とする分権の考え方が、連邦制に近い考え方であればいいのであるが、ドイツにせよアメリカにせよ邦や州がまずあってそれが国家を形成していったのと日本の道府県制とはおのずと異なるものである。

【原沢・日本アプライドリサーチ研究所】 道州制についての見解を伺いたい。また、自治体としての規模の経済についての判断基準、さらには特別区の存在についてどう考えたらいいのか。
【宮島】 道州とは単一の行政体として位置付けるのか、あるいは都市などの連合体と考えるのかによってイメージが違う。わたしは都市連合体のような発想でとらえるのがいいのではないかと考えている。あまり大げさな仕掛けではなく、それぞれの都市を越えた広域的な行政事務を処理するとか、国との交渉権、バーゲニング・パワーを確保するための連合体として存在すればいいのではないか。
 もう一つ重要なことは、ここが主体となって財政調整を行うのがいいのではないか。国が全部吸上げるのではなく、東京都が一部やっているが、自治体間の財政調整をこういうところが行うようにしたらどうか。地方消費税でいえば、ここに一種の精算勘定を設けて地域間の調整を行うのがいいのではないか。そういう機能を果すものとして、道州制は意味があると思う。
 規模の経済を考える時は、人口や面積というよりは人口密度を考えるべきだと思う。
 特別区というのは首都の問題と不可分であり、国家的意思を働かせ安い発想なのかもしれない。
【恒松・前獨協大学学長】 東京は首都であるから複雑な制度になっているが、環状線の中を東京市にして、あとの区はそれぞれ独立させて市にすればすっきりするのではないか。

【阿島・金属労協事務局長】 介護保険について、意見を伺いたい。国保のように保険料を払わない人が出てくるのではないか。また、地方にそれだけにパワーがあるのか。パワーがなければ、サービス提供の方は民営化出来ないか。さらには、消費税など税を充当すべきではないか、等々いろいろ議論しているところである。 ドイツでも導入されたが、ドイツは日本と違って地方がしっかりしているから出来たのか。
【宮島】 介護保険の問題は、費用をどうするかとサービスをどうするかと2つの問題がある。 いま議論されているのは、費用は社会保険としてサービスは民営化しようというものである。社会保険の主体に市町村が出来るかというのは、主として、保険料の徴収ができるかということである。これについては、国民年金でも国保でも同じように、市町村が担うのは難しいのではないかと考えている。したがって、サービスは民営化するとして、費用は相当程度職域保険を使わざるをえないと思う。ドイツも職域保険を主体としたもので、あまり地方は使っていない。
 社会保険でやるとすれば国が中心(つまり職域保険)になるのはやむをえない。そうなるとサラリーマンがまた割を食うことになるが、こういうものが入ってくればくるほど、いかにして職域に入っていない人からいかに保険料を徴収するかが大問題になる。

【司会】 社会保険も払う立場からすれば税と同じであるし、保険であってもその給付についてはあれこれ制約がつけられるだろう。税か社会保険かという議論は、所詮、厚生省の特定財源か一般財源かという議論にすぎないのではないか。
【宮島】 社会保険という形と公費を使った政府の行政事務として行った場合とを分けて考えている。非常に単純化した言い方をすれば、租税を財源とした行政サービスの供給については分権化の方向が重要な意味をもつであろう。社会保険の場合には、民営化の方向が現実的にありうる。年金についてはその議論が行われているし、医療保険、介護保険も民間が政府の仕組に上乗せするかたちで乗り出して来ているし、出てくるだろう。
 保険と税との違いは、保険料を払ったら保険証をもらえるかどうか、つまり受給権がみとめられえるかどうかと、違った勘定に入れられるかどうかである。アメリカでは保険料という言葉がなく、Pay-roll tax(雇用税)というのが保険料のことで、明確な区分はない。オランダでは所得税の税率を2段階にして、最初の部分は所得税と称して国の一般財源に入れ、残りの部分は社会保険料と称して社会保険勘定に入れている。このように実質的な区別はなくなっている。
 実施面では、たとえば老健法などは市町村の負担割合は5%に過ぎず、ただ末端事務だけをやっているにすぎない。これではとても実施主体とはいえない。これを保険料の徴収までもやるとなると大変なことになる。
 国の管理でないサービス供給を望むのであれば、分権ではなく民営化の方向を探るべきだと考える。
 実は昨日、厚生省の担当に宿題を出したばかりである。どんな宿題かといえば、政府が社会保険を組織して強制的に被保険者から拠出を求める場合と、政府が国民にかならずどこかの保険に加入することを義務付けて(保険会社は加入を断ってはいけない)、保険料を払えない人に対しては国が補助金を保険会社に払う場合と、基本的に違いはあるかどうかというものである。
 今、民間保険でなにが問題かといえば、民間だと加入を断ることが出来る。だから民間ではだめだというのがいまの考え方であるが、もし、断らずにそれは国が補助するとしたら、社会保険と民間保険との違いはなくなることになる。 いまの社会保険は強制加入でありながら、職域に頼らなければ徴収できないところに基本的なネックがあり、分権は難しいと思う。

【山口・会社員】 行政の分権だけでなく、司法の分権は考えなくてもいいのか。
【村山・いわき市民】 選択的地方行政体制というのは、過渡的に考えているのか。あるいはこれが完成された姿なのか。
【宮島】 司法をバラバラにすれば、法の下での平等をどう確保するかという問題になる。司法についてはきちんと考えていない。
 選択的な体制というのは、かなり理想的なものとして話したつもりである。自治には上からつくる自治と下からつくる自治とふたつある。いままでは、みんな上からつくって来た。これからは、上からつくるとしてもそれは選択肢を提示することにして、選ぶのは各自治体ないし住民ということに出来ないだろうか、と考えている。
 事務局からの事前の質問に、公費制度を使いながら普遍的な社会保障制度ができないかというものがあった。答は、「できる。しかし、それはスウェーデンやデンマーク型を考えるならばできる。国民所得の6割くらいを甘受するならば、それは出来るだろう」ということになる。ただし、限られた財源のなかでサラリーマンなどが損を出来るだけしないようなことを考えるならば、社会保険的なものを考えざるを得ない。それでもなお、役人が所管することを忌避するならば、民営化の方向が現実的であるということになる。
 問題は公費による社会保障の場合にはミーンズ・テストをいれることになり、普遍化した場合にはある程度の無駄が出て来てしまうことである。

【司会】 それぞれの制度の枠内で考え出すとにっちもさっちもいかなくなるが、地域総ぐるみでそれぞれの財政需要を独自に決めていき、高福祉・高負担の地域や低福祉・低負担のところなど、さまざまな選択を行えるようにはできないのか
【宮島】 問題は、人口移動である。そうした考えが成り立つにはある程度閉じた空間を考えざるを得ない。地域格差や所得格差があまりないことが前提条件として必要になり、もし格差が存在すれば、それを埋めるように人が動いてしまう。そうなると、それを補填する全国的な仕組が必要になる。
 格差があっても地方自治とはそういうものだと割り切れればいいが、それは難しい。人が動くということは、結局、ナショナルミニマムを求めて動くのである。いま、人口移動が生じていないのは、集権化されていてどこにいても同じだからであって、地域ごとに違いがはっきりしてくれば動き出す。

【司会】 高齢者の移動がそれほど多く、システムを破壊するほどにまでなるだろうか。また、完全に分権化された社会を前提とした議論ならば、高齢者問題だけでなく、逆に若いひとを誘致する産業政策も地域としてはとれるので、一つの予定調和にならないだろうか。
【宮島】 言いたいことはわかる。ただ、現実は、健康で文化的な生活をどこが保障するのか、という議論になってしまう。中央政府、地方政府、民間の相互連携システムの議論が素直にできるかどうか。

【五辻・首都圏コープ】 消費税を地方税とすることについては、なるほどと感じた。
 福祉サービスの民営化については、どうも釈然としない。民間保険がそこまでできるのか、あまり信用できない。基本は分権化された消費税でベーシックな福祉を賄うのがいいのではないか。
【宮島】 いまは福祉は公共部門・準公共部門の供給となっているが、費用は社会保険化して供給は民間でということである。
 私がこだわるのは、租税を財源としてベーシックな福祉を分権化した形でつくれるかどうか。これは分権云々よりも租税とベーシックとの関係の問題になる。いまの公費を使った「措置制度」を壊さないかぎり、ベーシックもへったくれもない。消費税も十分財源としてあるならば、その議論もなりたつが、これは租税負担率をどこまで許容するかという議論になる。

【司会】 先生の発想の原点には、いまの「措置制度」に対する強い批判があって、それは全く同感である。しつこくなんどもお尋ねしているのは、社会保険でも国費は投入される。国費が一滴でも入れば、いまの補助金行政のように直ちにそれが全体を支配して、たしかに「措置」ではないかもしれないが、実質的には措置制度とおなじような「疑似措置制度」になってしまうのではないかと心配しているからである。
 この点については、これからさらに議論を続けていきたい。