日本女子大学成瀬記念館発刊
『柳敬助・八重夫婦展』より抜粋
柳八重
(旧姓橋本)
明治16年(1883) 東京芝愛宕下に生まれる。
明治34年(1901) 日本女子大学校の1回生とし
て国文学部に入学。
明治37年(1904) 日本女子大学校を卒業。研究科生となり週刊誌「家庭週報」(桜楓会の機関紙)の創刊に携わる。
明治42年(1909) 「女子大講義」の発行に伴う付録雑誌「家庭」の編集も兼ねる。
明治44年(1911) 4月25日、柳敬助と結婚。
大正元年(1912) 長女禮子出産。(子供の名は3人とも新井奥邃の命名による)
大正 2年(1913) 長男文治郎出産。
大正 3年(1914) 羽仁夫婦の勧めで読売新聞社に入社。「読売新聞婦人欄」を担当する。
大正 5年(1916) 次女順子出産。体調優れず読売新聞を退社する。
大正 9年(1920) 5月、順子(よしこ)をジフテリアで亡くす。9月、創刊の雑誌「女性日本人」の編集に携わる。
大正12年(1923) 5月16日、夫敬助病死。9月、日本橋三越で遺作展を開催するが、関東大震災で作品を焼失。10月創刊の雑誌「我観」の編集に携わる。
昭和 2年(1927) この頃より、『日本家庭大百科事彙』の編集に携わる。
昭和 5年(1930) この年、
『日本家庭大百
科
事彙
』が完成する。日本放送協会本部嘱託となり、放送用語の調査に当たる。
昭和41年(1966) 3月18日、日本テレビ番組(木島則夫モーニングショー)に出演。
昭和47年(1972) 89歳の生涯を終え雑司ヶ谷に眠る。