蛇足ながら、荻原碌山の憧れの女性であり、最後の作品『女』のイメージモデルとされる新宿中村屋の女主人相馬黒光が、安曇野の相馬家に嫁いだときの嫁入り道具の中に「西川オルガン」があり、いまも安曇野にある井口喜源治記念館に現存しています。
輸入オルガンよりずっと安い西川オルガンの売れ行きがよく、明治20年には工場を拡張しなければ生産が間に合わず、横浜の日出町に写真のような大きな工場を建設しました。
この頃(明治20年前後)、ヤマハピアノの創始者山葉虎楠がオルガンを作り始めたものの、西川にはとても及ばず、「西川に追いつけ、追い越せ」をモットーに研鑽をはじめたとのことです。明治23年の博覧会では、ともに風琴の部で、二等賞をもらっています(一等なし)。
明治初期、横浜も神戸も同じように外国人居留地があり、元町という地名もまた、両方にあった。外国文化がいち早く伝わるところであったから、神戸という記述に誤りがあるとは一概には言えないが、横浜元町の聞き誤りではなかっただろうか。
西川虎吉は三味線より洋楽器の方に将来性があると考え、明治10年から英国人クレン氏に就き風琴製造業を始めましたが、修繕のみに終始する有様だったようです。明治15年から三味線業を廃止し、洋琴(ピアノ)・風琴(オルガン)の試作を始め、日本では高いピアノより安いオルガンのほうがふさわしい(資本も少なくて済む)と考え、明治17年、元町に「西川風琴製作所」を設立し、製造販売を始めました。
松本新吉を語る前に、彼がピアノ製作を始めるきっかけとなった西川オルガン製造所の工場長であった西川虎吉について触れておかなければならい。 |
西川虎吉は江戸時代の嘉永2年(1849)7月、君津郡周南村(常代)の農業、伊藤徳右衛門の三男として生まれた。
15歳で奉公に出て、21歳の時、横浜に行き三味線製造に従事した。
−京濱実業家名鑑・京濱実業新報社刊−より抜粋
まだ、戸籍簿のない時代で虎吉の生誕地の確認は明確ではありませんが、木更津第一小学校沿革誌に次のような記述があり、符合することから推察すると、里伝のとおり常代生まれと考えられる。
−木更津第一小学校『百年のあゆみ』− より当時の沿革誌抜粋 明治二十一年五月七日、西川虎吉ヨリ風琴壱台君津尋常小学校備品トシテ寄附セラレタリ。是レ当地風琴備付ノ始ナリ。 「西川虎吉ハ周淮郡常代村ノ人ニシテ、幼児当初新田町藤井ノ雇人タリ。夙ニ楽器の調整ニ志シシガ遂ニ神戸ニ赴キ、浄人ニツキ風琴ニ製ヲ研究シ、横浜ニ至リテ日出町ニ風琴製造所ヲ建設シ、風琴ノ製造ニ従事セシガソノ製品精巧ナリシカバ、大ニ世ノ賞賛スル所トナリ、其工業益々繁栄ニ赴キ、宮内省各官公立学校ノ用達ヲナスニ至リ、全国中風琴ノ製造ニテハ、遠江山葉製ノモノト相隻ビテ称セラレル。殊ニ其精巧ナルコト右ニ出ツルモノナシ。 (中略) 当時千葉師範学校ニハ風琴ノ備品アリシモ其他地方ノ小学校ニハ未ダコノ設備ナシ。コレ風琴備付ノ嚆矢ナリ。 |
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