これらのことは、すでに倶楽部で学習し記録集にしてありますが、『万葉集から見た君津』編で詳しく解説します。「貞元親王」は不明ですが、貞元の地名の由来といわれ、この地域ではレンゲソウを親王草と呼びます。貞元親王墓(ていげんしんのうはか)は、貞元農協前バス停近くの道路沿いにあります。
大君の命畏(みことかしこ)み出でくれば我(わ)に取り付きて言ひし子なはも 周淮郡上庁(かみつよぼろ) 物部龍の歌
金門(かなと)にし 人の来立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてそあひける (高橋虫麻呂歌集出所)
反歌(1738)
しなが鳥安房に継ぎたる 梓弓末の珠名は 胸別(むなわけ)の広き吾妹(わぎも) 腰細のすがる娘子(おとめ) その姿(かほ)の端整(きらきらし)さに 花の如笑(ごとえ)みて立てれば 玉鉾(たまほこ)の道行き人は 己(おの)が行く道は行かずて 呼ばなくに門(かど)に至りぬ さし並ぶ隣の君は あらかじめ己妻離(おのずまか)れて 乞わなくに鍵さえ奉る 人皆のかく迷へれば 打ちしない寄りてそ妹(いも)は たわれてありける
皆さんは「君津は田舎で大したことないだろう」とお考えでしょうが、とても魅力的な人物が大勢いました。小糸川流域に足跡を残した人々について、時代を追って紹介しましょう。
奈良時代以前、この地方を支配していたのが須恵国造でした。支配地域は小糸川流域と湊川流域(現在の富津市にまたがる地域)といわれています。富津市の二間塚にある内裏塚古墳は、横須賀から走水の海を渡って房総半島に来る人達が一番先に目に付く場所に、須恵国造が五世紀の半ば自分の勢力の偉大さを誇示するために築いたのだそうです。しかし、周淮郡(すえのこおり)の役所など中心は八重原の近くにあったと思われます。また、八重原の九十九坊も須恵国造一族が造営した大規模な寺院だといわれています。「須恵の珠名」とは大層な美人で男達を大変に惑わした事や、「物部龍(たつ)」は758年頃防人として九州に行ったときの歌などが『万葉集』に載っています。
上総(かみつふさ)の末(すえ)の珠名娘(たまなおとめ)を詠む
(巻9-1737)