説明 | 新吉は、これからはピアノの時代だと考え、明治33年(1900年)に私費でただ一人アメリカに渡り、ニューヨークのスイート・トーンの音色と言われたブラッドベリー社というピアノ工場のスミス社長から修行の後押しを受け、わずか1月半でピアノ作りの全工程を会得しました。 帰国後、新吉は東京築地に工場を構え、本格的にピアノの生産に着手しました。 新吉が目指したピアノは、安くて、丈夫で、(スィート・トーン)の美しい音色でした。音色がよい松本ピアノはたちまち有名になり、明治40年代に入ると西川ピアノ・ヤマハピアノと並んで日本の3大ピアノメーカーと称されるようになりました。 明治39年に築地の工場を火事で焼失すると、新吉は月島に大工場を建て、生産を拡大しましたが、大正3年の暮、月島の大工場が全焼してしまいました。 さらに、大正12年の関東大震災で、またもや、工場や店舗を焼失してしまいました。 大正13年には規模をさらに縮小して工場を再建すると、これは長男広に任せ、60歳の新吉は故郷の君津に帰り、再起を図りました。 大正13年(1923年)、君津市の外箕輪にピアノ工場を設立しました。当時このあたりは、君津郡八重原村でしたから、松本ピアノ八重原工場と呼ばれました。 これ以降、東京で製作されたピアノは「エチ・マツモト」、八重原で作られたピアノはその音色から「エス・マツモト」と区別して呼ばれました。 昭和3年(1927年)、八重原工場待望の新吉の六男、新治作第一号のピアノが完成しました。君津の三島小学校の講堂落成記念に購入されたピアノです。 八重原工場は、順調に業績を伸ばしていきました。新治はグランド・ピアノも作り、職工たちも増えて、君津の工場から全国に出荷されていきました。 昭和16年には、新吉が77歳で永眠。工場は海軍第二航空廠の軍需工場の一部となりました。 昭和20年、終戦。東京の月島工場は焼けて再起できず、八重原工場のみとなりました。 頼みの綱の新治はこの年、40歳の若さで亡くなってしまいました。 昭和27年には有限会社「松本ピアノ工場」を組織し、和子夫人が社長となりました。 昭和29年には新吉の孫、すなわち三代目松本新一も加わり、生産体制が整いました。 当時の帳簿から月3,4台生産していたことがわかります。 しかし、昭和40年代に入ると、ピアノも大量生産の時代になりました。新吉の心を受け継ぎ、手作りを続ける松本ピアノは苦しくなっていきます。 昭和51年の雑誌『音楽の友』の中で音楽評論家泉清氏は、奥さんに似て、目の覚めるような美しい音色と伝え聞いている」また、「一家そろって70年以上もピアノを作り続けているのは、本邦では松本ピアノだけである」と当時の松本ピアノを評しています。 その松本ピアノも時代の変化の中、平成3年(2000年)君津市民文化ホール落成記念の寄贈ピアノを最後に、約100年のピアノ作りの幕を下ろし、平成19年には解体されました。 |