御祀神 | 上社<男神>:建御名方命 |
下社<女神>:八坂刀売命 | |
*建御名方命(たてみなかたのみこと) 系譜:大国主神の子 国譲りにおいて、父の大国主命が高天原の最高指令神(天照 大神)から「地上の国の統治権を禅譲しなさい」と迫られた とき、これに最後まで抵抗したのが建御名方命でした。結局 は敗れて故郷の出雲を追われ、信濃の国に逃れて諏訪湖のほ とりに隠棲したというのが神話の物語です。 *八坂刀売命(やさかとめのみこと) 建御名方命の妃神 |
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諏訪神社の由緒 | 『秋元城狐糸説』23集 |
― 戦国時代の武将 ― 坂井昭編より抜粋 上総の国周准郡秋元庄小糸作市場村諏方明神由来を委く訪ね 奉るに人皇五十四代仁明天皇の御宇領主左衛門尉政常の孫左 衛門二郎政業信濃国小笠原出生の人なり故に嘉祥元辰年(8 48)信濃国諏訪明神を爰(ここに)移し奉り郷民の為在山 ゝ猪鹿会獣を狩鹿を神前え備へ奉る其苗禽秋元小二郎藤原朝 臣直家人皇百三代後花園院嘉吉二年諏方の社を再建す・・。 信濃なる諏方の郡の秋の宮を あきもとの庄に移しぬるかな この神のふかき恵みそ信濃なる 諏方のうみすら限りしられす 建御名方神の命のミめくミの ふかさハ諏方のうみとこそしれ この神の恵みのほとハ諏訪の海の 千尋のそこのふかきなりけり 建御名方神の尊きをいやまいて このさと人のまつりけるかな 榛澤宗峻 |
榛澤平内(通称:宗峻)については、地元君津市でも紹介されたことはない。享和三年(1803)君津市平田字法木に生まれ、明治八年(1875)に没している。彼は利発な人で少年のころから学問をよくし、漢籍や日本の古典をよく読み、歌を詠み、文学や歴史を愛したらしい。二十一歳くらいに当たる文政七年(1824)にはすでに数々の歌を残し、宗峻を名乗っている。彼は寺子屋の「手習い師匠を務めていた』と言われ、そこから僧侶のような雅号を用いたかと思われる。
宗峻は若い頃から郷土史にも関心が深く、『秋元城狐糸説』のほかにも文政八年に『房総志拾遺(ぼうそうししゅうい)』を書いている。二十二歳ころに彼が住むあたりの地誌や伝承をまとめたもので、この直筆本が東京都台東区上野公園の東京国立博物館資料館に収蔵されている。
*資料
『戦国武将の時代』
―中世の上総国の秋元氏について―
坂井昭編
印刷所 ときわ印刷有限会社
君津市久保1-6-12
坂井昭氏の著書より、榛澤宗峻の人物像を紹介する
榛澤宗峻(はんざわそうしゅん)
『秋元城狐糸説』編纂者