君津風土記   民話篇より

青鬼城の人柱

  房州の里見義あきは、小田原の北条氏綱と、下総鴻の台で戦って破れた。北条は敗走する里見軍を追って浮戸川(小櫃川)まで進出した。緑の丘をへだてた小糸川沿岸の鎌滝には、里見の武将秋元兵部少輔義正の館(タチ)があった。義正も残兵と共に辛うじて鎌滝へ逃げ帰った。

 ある日、見るからに尊い姿の旅の僧が、義正の館をおとずれ、
「市場村の萱山に城を築けば難攻不落じゃ。城の大黒柱の下には十五歳の生娘を人柱に立てよ」と告げて立ち去った。萱山は鹿野山の山つづきで三方は断崖である。

 兵部少輔は家来を市場村へやって、「十五歳の生娘を人柱に出せ」と命じた。庄屋の熊切弥右衛門はあまりの難題にことばもなく、囲炉裏に柴を折ってはくべていた。家来は、「返事のないのは不承知か?」と詰めよった。弥右衛門は、いっそのこと使者を切ってしまおうかと思ったが、じっと我慢して柴を折ってはくべ、折ってはくべしていた。

 家来はたまりかねて刀の柄に手をかけ、「殿のおことばきけぬようなものは庄屋にさせておけぬ、さあ、心を決めて返答せよ」と気色ばんでつめよった。そのとき、次の間の襖があいて、この家の娘熊切げんが、白無垢姿で手に水晶の数珠をかけしずしずとあらわれた。

               「私はこの家の娘げんです。丁度十五
               の春を迎えました。父の難儀は私の難
               儀。私が人柱になりましょう」

                げんは輿にのせられて、大勢のたい
               まつに守られて萱山と送られた。げん
               を大黒柱の深い穴に吊りおろし、大勢
               で土を落としはじめると、穴の底から
               げんの声がきこえてきた。

 「ゆっくりゆっくり、土を入れて下さい。生きたいのです。ほんのわずかな間だけでも私は生きのびたいのです」その声の悲しさは後々までの語り草となった。

 この古城を土地の人は、青鬼城と呼んで今でも恐れている。人柱をすすめた旅僧は北条方の忍者風魔一族だったのである。