(君津市立久留里城址資料館・「獅子神楽への願い」より抜粋)

獅子頭を被った「前かぶり」と「後かぶり」の二人が基本ですが、俵田区・三田区は演目Cで「後かぶり」に3人が付きます。また演目@〜Bでは「後かぶり」役は獅子の着物(布)を束ね、後ろで持って舞うことから「着物持ち」「布持ち」とも呼んでいます。

舞い手

神楽とは

神楽豆事典
神楽宮
神楽宮

(締太鼓)

(張太鼓)

棟木(むねぎ)
棟木(むねぎ)

(神楽)

棟木(むねぎ)

(きばな)

棟木(むねぎ)

(ときょう)

棟木(むねぎ)

(ごへい)

(へいくし)

棟木(むねぎ)
棟木(むねぎ)
棟木(むねぎ)
棟木(むねぎ)

(けぎょ)

棟木(むねぎ)

(おにいた)

棟木(むねぎ)
棟木(むねぎ)
(むねぎ)

(はふいた)

棟木(むねぎ)
 君津市の各地域には、過去から脈々と継承されてきた貴重な伝統
芸能が、地域の人たちの尽力により保存されています。
 「さとの民俗芸能」として親しまれてきた「神楽」について紹介
します。

 君津市立久留里城址資料館「平成13年度企画展」2001年現
在の記録によると、獅子神楽が現存する地区は12ケ所(蔵玉・滝
原・坂畑・笹・柳城・大戸見・大坂・平山・俵田・正木・清和市場
・馬登)。過去にあった地区は43ケ所です。このことから、いか
に伝統芸能を維持管理していくことが困難であるかを窺い知る事が
出来ます。

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神楽とは

寛文年間(1661〜73)頃、伊勢から江戸へ移住する神楽師が増加します。房州でも長狭郡磯村(鴨川市磯村)に伊勢から館(たち)三太夫が定住し、村々で獅子神楽を舞いました。その後、村によっては神楽師から神楽舞を習得し、村の鎮守などで天下泰平・五穀豊穣を願い独自に神楽が奉納されるようになります。市内の神楽の記録としては、元禄3年(1690)8月の練木村「神楽奏楽」の許可願いが古い方です。また、寛政11年(1799)6月の柳城村の記録によると、50年前(1749年頃)から獅子神楽を祭礼で奉納するようになり、それ以前は「棒踊(ぼうおどり)」(棒を使って、悪魔払いをする)を行っていたとあります。(君津市史資料編U)

神楽獅子舞の普及

「神事にともなう舞楽」のことで、その語源は来臨した神様が座る場所「神座(かむくら)」が転訛したものです。

市内では二人立ちの獅子神楽を普通「カグラ」と呼び、演目は、各地区ともほぼ共通したものが見られます。
 @マエカガリ:神様を招くための準備。
  (「ヤマ」「幕の舞」など地区により名称が異なる)
  
*平山の演目は「やま」。
 A御幣の舞:神様を招く。
  (この時、悪魔を払い泰平楽を願う「神楽歌」が挿入さ
  れる)
 B鈴の舞:御幣と鈴を両手に持って舞う。
  (鈴の音で神様が降臨する)
 Cクルイ:虫を探す獅子は、虫がいないことがわかると、
  耳を立て激しく怒り狂う。

演目

日照りや大雨などの天候不順は、人々にとって、不作・凶作にかかわる切実な問題でした。
記録によると寛政年間(1789〜1801)、久留里黒田家4代藩主・直温(なおあつ)公の頃、干ばつがあり、本丸の剣之峰に座す丹生(たんしょう)明神で祈祷をしたところ雨が降りだしたと言います。これ以来、明神で雨乞い神事が行われる際には、領内村々の神楽が集まり、神前で奉納されたと伝えられます。

雨乞い