外箕輪揚水車跡

*写真出典:国土交通省・国土地理院「鹿野山測地観測所」大滝氏

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 拡大写真(原画の赤丸部分)    赤い円内に水車設置跡と留場が見える

<拡大写真>

<原写真>

昭和39年頃の久保南陂水車航空写真
(貞元・台・杢師付近)

投稿者:龍王犀人

 物事を観察するに、バックグランドを持つか持たないかで視点が大きく異なる。つまり、意識して見ると見ないとでは、見る世界が違ってくるということである。

 今回のテーマもその範疇に入るもので、別テーマで入手した航空写真から偶然にも過去に存在した遺物を発見した。

 航空写真提供者は「国交省国土地理院・鹿野山測地観測所」に在勤中であった大滝氏である。氏とは「小糸川洪水ハザードマップ作成」の資料収集をしていた頃に面識を持った。我々の活動に賛同し、いろんな資料や情報提供をしていただいた。

 なかでも、昭和45年災害前後の小糸川下流域の変化が見れる資料が欲しいことをお願いしたところ、約束は出来ないが可能な限り善処するという真摯な態度が記憶に新しい。

 1ヶ月ほど経過した頃、氏から連絡があった。筑波の本部に出向いたおり、希望した年度、地域の航空写真をコピーしてきてくれたのである。これは高価かつ、一般に入手不可能な貴重な資料で、小さな市民グループの活動に協力を惜しまなかった氏のご尽力に感激したものだ。

 さて、本題に入ろう。
 久保南陂水車は、明治28年1月13日、久保字南110番地に設置された。その後、2回の改造を経て昭和38年使命を終え解体されることとなる。その間、他揚水車は揚水方法をガス発動機からモーターへと大きく変貌を遂げていったが、当初の機能を維持し続けたのはこの揚水車だけであった。

 大滝氏に依頼した昭和45年災害前の航空写真年度は、昭和39年である。貞元・台・杢師の上空付近から写した1枚の中に、久保南陂水車跡地と留場(堰)の映像が確認できる。
 欲を言えばきりがないが、揚水車の歴史を知っていれば、もしかした設置されていた状態を航空写真で見ることが出来たかもしれない。という思いもある。

 地元の人たちは、この水車の容姿に郷愁を秘め「水車の会」を設立して復興に期待をかけていると伺う。齢を重ね、思いが薄れつつある中、希望が叶えられることを祈念したい。
 わずか1葉の写真、されど貴重な資料である。在りし日の思い出を偲ぶ縁にしていただければ幸甚である。

投稿者:龍王犀人

 「小糸川」という名称は、いつ頃の時代から使用されるようになったのだろうか。私がこの川にかかわるようになってからの素朴な疑問の一つであった。小糸川は「周准川」や「すえ川」、「人見川」あるいは「秋元川」といろんな名称で使われたようだ。私は、過去の歴史とともに歩んだであろう、この川の名称に思いを馳せ、推測の域でしか判断されない現状ではあるが”私の小糸川”にこだわる思いから、「名称ルーツ探し」にトライすることにした。

 1.「周准・周淮川」、「すへ・すえ川」について
    ー表記名称記述は、資料により文字表現が異なるため並列表記とした。


    古代、小糸川流域一体が「須恵国造」の支配下にあったこと。大
   化改新後、国・郡制度が確立され、当地方が「上総国周淮郡」に属
   したことから「周淮川」と呼ばれたようだ。
    また、万葉集には「上総の末の娘子を詠める一首」がある。作者
   である高橋虫麻呂と東国地方の関係から、8世紀前半の作品と考え
   られ「末」とは「周准」とも読み取れることからも推測される。


    室町時代中期の作と伝えられる「義経紀」に源頼朝が安房から上
   総に向かうときのことを記した条の中に『一千余騎「周准川という
   ところに馳せ来たって源氏に加わる』という文がある。
    「周准川」とは勿論、小糸川のことで、現在も常代には松川とい
   う字があり、この名もかっての「周准川」「すへ川」が「末川」と
   なり「松川」に転じたと、君津市史・通史では推論している。

    「すえ川」の名称を伝えるこの地方の伝説の一つに「松川橋」が
   ある。この橋は国道127号線。外箕輪から周南に行く途中の小糸
   川にかかる橋で、かっては「松川の渡し」と呼ばれた。
    この松川の松は「末」と表したと伝えられ「末川」と称したこと
   が知られている。松川橋の名称は後世になって「末」が「マツ」と
   音読できることから「松」の文字が引用され定着したようだ。
    (「千葉土地改良情報」 −昭和62年12月号〜63年5月号−)

  2.「秋元川」について

    坂井昭編「戦国時代の武将」のなかに、次のような記述がある。 
       清和天皇の貞観元年(859)十一月のご即位の
      大嘗会・・・から「秋元庄」の地名が起き、それは
      周淮全域を意味したようだ。
       それから約400年後(1200)の初頭から、
      約700年後(1500)には、「秋元」の地名は
      文書をはじめさまざまなものに見えてくる。

              この時代が、「秋元」の地名の起源だろう。 

    秋元氏は『吾妻鏡』暦仁元年(1238)2月17日の条に、鎌倉
   幕府の将軍頼経が権中納言に任命された際、京都に随行した「秋元左
   衛門治郎」がいて周東郡秋元郷(現清和市場から中島にかけての中流
   域)を本拠地とした小領主であったことが、君津市史・通史に記述さ
   れている。従って、中世には秋元の権勢が定着し、支配地も広範囲で
   あったことなどから、この時代には「秋元川」という名前で呼ばれて
   いたと推察される。

  3.「小糸川」について

    さて、本題に入ろう。資料や記録などを精査しているうちに、古絵
   図の中から予期せぬものを発見した。それは、『中富郷土史』に掲載
   されている「中富、貞元境界控絵図 延寶二年(1674)」の中に
   あった。絵図には、「小糸川」の三文字が小さく墨書きされている。
   驚きはこれだけにとどまらない。時代考証をしたところ、この時代は
   なんと大草平内の存命期だったのである。


    大草平内は寛永十七年(1640)上総国周淮郡で生まれ、地頭職
   を元禄四年(1691)に51歳で辞している。そして、この絵図が
   描かれた時、彼は34歳である。この年は川が氾濫して国境線を巡る
   騒動となり、その調停にあたって書き留められたのがこの控絵図であ
   ろう。彼も、この年頃には役人としての職を得ており、当時の人たち
   の苦悩や惨状を見ている筈だ。記録では、「川を直線にするための掘
   削工事を再三お上に嘆願した」とあり、このような現実が彼の人間性
   を動かしたことが想像に難くない。と考えると、大草平内の人間像ま
   でに空想が広がり癒された気持ちになるのだから不思議である。

    『想像は人間形成の力なり』(勝手論)
    一つの出会いから、思わぬ世界に巡り逢うことになった。彼の存命
   中に「小糸川」と呼ばれ親しまれたことを約300年の時空を経て確
   認できたことは、誠に感無量である。
    こうして、私が捜し求めた「小糸川名称探し」ルーツの旅・第1回
   は、延寶二年(1674)であることで終息した。
    このことは、『知る人ぞ知る』話かも。しかし、私にとってはまさ
   に新発見であった。これからは第2、第3の出会を願いながら、新た
   なルーツ探しに挑戦したい。
       
                              以上

<新たなルーツ発見 2010.1.31>
    前回の発見から遡ること12年前、寛文2年(1662)9月、中富村
   と貞元村の村境紛争に幕府の栽許が示された古文書「覚」に小糸川の
   文字が記述されていることを確認した。大草平内が22歳にあたる。

   *絵地図は著作権上の問題から掲載できないことをお詫びします。

久保南陂揚水車跡

昭和39年頃の航空写真
(貞元・台・杢師付近)

 平成17年度・小糸川倶楽部の活動テーマは「小糸川の揚水車の歴史」を調べることである。

 農民と水。まさに命を賭けた戦いがあった。特に、小糸川下流域では川の氾濫による地境紛争や7年間にも及ぶ大旱魃(寛政年間)で難儀したことなどが記録(古文書)に残っている。

 この地での用水車出現時期は、寛政四年(1792)で、場所は中野村字高井地先(現在の仮称:君津新橋架設地付近)であるが、『常に用水不足に悩まされた』と記述されていることから、殿程度の規模のものであったかが容易に推察できる。

 明治以降、小糸川下流域(三直〜馬込)で稼動した揚水車は、資料(君津市史、各地域史)などから10箇所あったことが解った。記録されている地番、字名から旧公図で調べた結果、設置場所が特定出来たのは、推定を含めて8箇所。記述はあるが記録がないのが外箕輪と大堀の2箇所である。

 久保南陂水車跡を航空写真で発見したとき、小躍りして喜んだ。宝物を探し当てた気分であった。
 その時、この写真の中で気掛かりな場所があった。以後、このことが私の脳裏に張り付いて離れない。『この構造物らしきものは一体なんだろうか。君津大橋はまだ出来ていないし・・・』


 疑問を持ちながら、小糸川ジョギングコースを、なにするわけでもなく「大道沢公園」方面まで足を伸ばしたときのことである。川を眺めながら歩いていると、柵を組み込んだ場所が目に入った。対岸(八幡)に取水口も見える。元来、ぼーっとして頭の回転も今一歩のほうだから、あまり気にも留めていなかった。

 記録集の作成が追い込みに入った今月初め、「三直揚水車」設置場所:上郷(通称:かみかづら)という地名に引かれ場所を尋ねてみることにした。このようなことがない限り、訪れることがないところである。川は両岸雑木や竹林に覆われ場所の特定は難しい状態となっている。

 あきらめて帰る途中、「外箕輪揚水車」のことも気掛かりで、川べりにこの方面を目指して進む。やがて、見覚えのある場所へ。前回見たとき、対岸は竹や雑木で見えなかったが、今日は綺麗に刈り取られ見通しが良い。土手の上に小さな小屋がある。『う〜〜ん、ひょっとしてポンプ小屋では?』。慌てて、地名確認。電柱のラベルに「外箕輪1丁目」と書かれている。「え〜〜〜!、やっぱりここは外箕輪なのだ!?」。

 家にすっ飛んで帰り、くだんの航空写真をしげしげと眺めた。間違いない「やっぱりそうなのだ!、ほんとにそうかな?」次第に夢が膨らみ気持的にはその気分。例え違っていたとしても、資料がなく特定することが困難な現在、資料的には好材料だと確信した。 

投稿者:龍王犀人

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